2011年9月11日日曜日

ベルリンの壁崩壊(1)

  ベルリンの壁の建設開始から先月の13日でちょうど50年。
 1949年の建国から1961年までにおよそ270万人が西ドイツへ逃亡したのに業を煮やした東ドイツのウルブリヒト国家評議会議長(国家元首)は、「西ドイツ側からの敵対的行動を防ぐため」に西ベルリンとの国境を有刺鉄線で封鎖したのが1961年8月13日。
その翌日からは徐々にコンクリートとブロックによる本格的な壁の建設が始まった。ベルリンだけでなく、今まで何もなかった東西ドイツの間にも1,300㎞以上に及ぶ国境線が設けられた。ベルリンの壁や国境線には国境警備兵(Grenzsoldaten)が配置され、西側に逃亡しようとする者は容赦なく射殺された。
 1961年からベルリンの壁が崩壊した1989年までの28年間に10万人以上の東ドイツ国民が西ドイツへの逃亡を試み、600人以上の人が射殺されるか、国境沿いの川を渡ろうとして溺れ死んだりしている。ベルリンの壁だけでも少なくとも136人が命を落としている。
 ベルリンの壁の最後の犠牲者、クリス・ゲフロイ(当時20歳)のケースはさらなる悲劇を生んだ。
ゲフロイは、ベルリンの壁が崩壊するわずか9か月前の1989年2月の寒い夜、ベルリン南部のトレップトウ(Treptow)から西側への脱出を試みたが国境警備兵に射殺された。
警備していたのはゲフロイと同年代の4人の若者。彼らは逃亡を食い止めた功績でボーナスと特別休暇をもらったが、ドイツ統一後は反対に、(脱出者を射殺せよという)人権を侵害する命令を拒まなかったという理由で、被告人としてドイツ連邦共和国の法廷に立たされた。
被告人の一人、ペーター・シュメット(24歳)は言った。
「国境警備兵は誰だって人を撃ちたいと思っていない。何事もなく任期を終えたいと思っているんだ」
裁判中、ずっと泣き続けていたアンドレアス・キューンパスト(24歳)は絞り出すように訴えた。
「僕は社会主義だけが正しいと教えらてきた国に生まれ育ってきたんだ。西側の人たちと同じように考えろと言われても・・・」
あとの2人はマイク・シュミット(24歳)、インゴ・ハインリッヒ(23歳)。
誰も同年代の若者を撃ちたいとは思っていなかった。でもそれが許されなかった。

1991年の「シュピーゲル」の記事に4人の被告人の写真が掲載されている。誰もが悲しげにうつむいている。彼らもベルリンの壁の犠牲者。

http://wissen.spiegel.de/wissen/image/show.html?did=13491313&aref=image036/2006/05/12/cq-sp199103700720076.pdf&thumb=false

クリス・ゲフロイの母カリン・ゲフロイは、ベルリンの壁崩壊後、息子が撃たれた場所を訪れた。あたりは統一前から家庭菜園が広がっていて、ベルリン市内とはいえ緑が多い。
カリンは悲しみをこらえながら言う。
「ベルリンの壁の犠牲者のことは決して忘れてはいけないと思います。もちろん息子クリスのことだけでなく」
現場にはベルリンの壁最後の犠牲者クリス・ゲフロイの記念碑が建てられている。
 28年間も東西ドイツを分断していたベルリンの壁は、統一後の再開発などでかなりの部分がとり壊されていて、どこに壁があったのかわからなくなっている所も多い。
壁のあった位置についてはベルリン州(ベルリンは都市州)のホームページに詳しく出ている。スマートフォンでベルリンの壁があった場所を案内するサービスもあるようだ。
今ではベルリンの壁や壁のあった場所は観光名所の一つになっている。
分断の悲劇を忘れないためにも、たとえ観光であっても多くの人たちに見てもらうのも大切なことなのかもしれない。
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