2018年10月3日水曜日

静嘉堂文庫美術館「~生誕200年記念~幕末の北方探検家 松浦武四郎展」ブロガー内覧会

「幕末の北方探検家」松浦武四郎の生誕200年を記念して、静嘉堂文庫美術館では「松浦武四郎展」が開催されています。


松浦武四郎が蝦夷地を「北海道」と命名したことは知っていましたが、実際に蝦夷地のどこに行ったのか、どういった記録を残したのかまでは知りませんでした。

そして、探検家であっただけでなく、古物の大コレクターで、膨大な数の古物のコレクションを持っていたことも知りませんでした。

この「松浦武四郎展」は、探検家として、そして大コレクターとしての松浦武四郎ワールドをまさにに「探検」できる、とても楽しい展覧会です。

それでは、先日開催されたブロガー内覧会に参加したときの様子をお伝えしながら、展覧会の魅力を紹介したいと思います。
※掲載した写真は美術館より特別の許可をいただいて撮影したものです。

はじめに楽しいトークショーがありました。
メンバーは、静嘉堂文庫美術館 河野元昭館長、静嘉堂文庫主任司書 成澤麻子さん、そしてナビゲーターは、アートブログの草分け「青い日記帳」主宰のTakさん。

Takさん 「松浦武四郎展」は5年前に開催されてから2回目になりますが、今回の展覧会
 の見どころを紹介していただけますでしょうか。
成澤さん はじめにご紹介したいことがあります。明治2(1869)年に「北海道」と命名さ
 れてから150年になることを記念して、松浦武四郎の物語がNHKでドラマ化されます。
 松浦武四郎の役は嵐の松本潤(ここで会場から「えーっ」と驚きの声)、ヒロイン役は深
 田恭子で、現在、北海道の各地でロケに入っていると聞いています。
(NHKのホームページによると、タイトルは「北海道150年記念ドラマ 永遠のニㇱパ~北海道と名付けた男 松浦武四郎」。放送予定は2019年春とのことです。)

成澤さん 150年前に蝦夷地の命名を明治政府に命じられたとき、松浦武四郎は「北加伊
 道」と提案しました。
  「加伊(=カイ)」とはアイヌ語で「人々」という意味で、武四郎は「北に住むアイヌ
 の人々の土地」との意味を込めたのです。
  武四郎は幕末に6回、北方を探検して、蝦夷地のすべてを踏破して、アイヌの人たちの
 協力を得ながら詳細な蝦夷地の地図を作成しました。当時、蝦夷地を内陸部まで探検し
 たのは武四郎だけでした。
Takさん 生まれはどちらだったのでしょうか。
成澤さん 伊勢の松坂市出身です。市内には松浦武四郎記念館がありまして、松浦家から
 松阪市に寄贈された資料が展示されていて、その多くが重要文化財に指定されていま
 す。
Takさん それで今回の展覧会の関連イベントで松阪牛の試食会があるのですね。
成澤さん 松浦武四郎記念館の方と事前の打合せをする中、「牛がないと松阪でなない」
 とのお話しがあったもので(笑)。
Takさん それをOKする静嘉堂文庫美術館も懐が広いですね(笑)。
(松阪牛試食会は11月10日(土)午前11時から先着100名。試食券(500円)は当日受付にて販売します。先着100名ですのでお早めに!)

河野館長 今回の展覧会では、武四郎と同じ伊勢の陶芸家・川喜田半泥子の陶器を展示し
 ています。
  半泥子は伊勢の百五銀行の頭取まで務めた経済人で、趣味で始めた陶芸でしたが、
 『東の魯山人、西の半泥子』と言われたくらい有名でした。今では魯山人の方が知名度
 が高いのですが、作品のクオリティは甲乙つけがたいです。
Takさん 今回の展示では半泥子の作品がお出迎えしてくれますよね。
(半泥子の陶芸作品はロビーに展示されています。このコーナーは撮影可ですのでぜひ記念撮影を!)


成澤さん 半泥子の祖父・川喜田石水(せきすい)と松浦武四郎が藩の私塾で知り合った幼
 なじみで、生涯交流が続きました。
河野館長 松浦武四郎のコレクションが静嘉堂に収蔵された経緯は不明ですが、岩崎彌之
 助の深川別邸を手がけた大工頭で美術品収集家の柏木貨一郎が武四郎と交友関係にあっ
 たことが影響しているのでは、と考えられます。
(人間模様についてはロビーのパネルが参考になります。上の写真の左のパネルです。)

Takさん 今回の展示は大きく分けると、①蝦夷地を知る、②武四郎コレクション、の二つ
 ですね。
成澤さん 松浦武四郎のキーワードは、①北方探検家、②日本中を回り、富士山には3回も
 登った「旅の巨人」、③古物のコレクター。今展覧会では①と③を展示しています。
  ①北方探検家についてですが、幕末の13年間に6回蝦夷地をくまなく歩き、幕府に報
 告書を提出しています。武四郎はそれだけでなく、一般の人向けにイラスト入りでわか
 りやすい紀行文も出しました。その紀行文によって一般の人たちもはじめて蝦夷地のこ
 とを知ることができたのです。
  6回の蝦夷地探検の結果、最終的には蝦夷地の詳しい地図を作成しました。それまで海
 岸線を調査したものはあったのですが、武四郎はアイヌ語ができ、アイヌの人たちと一
 緒に内陸部まで調査した地図を作成しました。
  地図は広げると大きすぎて展示できないので、パネルに印刷したものを床の上に展示
 しています。タイルの上は歩いても大丈夫なので、ぜひ内陸部まで歩いてみてください
 (笑)。」
(これがパネルに印刷した蝦夷地の地図です。内陸部の山や川まで描かれていて、地名もカタカナで細かく書かれてます。驚くほど精密です。)



成澤さん 次に③古物のコレクターについてです。
  明治維新後、武四郎は明治政府から蝦夷地担当の高官に指名されましたが、明治政府
 の政策がアイヌ人を和人に同化させるやり方だったので、それに反発して役職を1年で退
 職しました。その後、コレクターとして古物を収集するのです。
  武四郎の号は「馬角(ばかく)」でしたが、その下に「斎」をつけて「ばかくさい」と
 自らを称していました。松浦武四郎記念館の学芸員の山本さんによると、「武四郎は明
 治政府のやり方を皮肉り、それを阻止できなかった自分を皮肉ったのでは」とお話され
 ていました。
  退職後、武四郎は蝦夷地にはふれない生活を送りました。 
Takさん 武四郎は蝦夷地に行くための旅費はどう工面したのでしょうか。
成澤さん 最初の2回は私人として行きました。1回目は商人の手代に扮して、2回目は松
 前藩の医師の助手に扮して蝦夷地に渡りました。当時、蝦夷地は松前藩の取り締まりが
 厳しくて簡単には入れなかったのです。     
  3回目からは幕府のお雇いとして行きました。
  武四郎は「旅の巨人」とお話しましたが、蝦夷地に入るまでは日本中を旅していまし
 た。16歳で家を飛び出したときは江戸で見つかって伊勢に戻されたのですが、翌年また
 家を飛び出して10年間放浪しました。
  武四郎は篆刻が得意だったので、旅先で有力者に頼まれて篆刻をつくったり、農家の
 手伝いをして旅を続けていたのです。
Takさん どうして武四郎は旅を続けたのでしょうか。
成澤さん きっと好奇心が強かったのでしょう。そのうえ行動力もありました。
  武四郎が長崎にいたとき、ロシアが蝦夷地に進出しているという情報を得ました。日
 本の危機を感じとった武四郎は自分の目で見てみようと思ったのです。
河野館長 武四郎はまず第一に好奇心、行動力があり、そしてアイヌの目線でアイヌのこ
 と、蝦夷地のことを考えるという独自の思想性ももっていました。
Takさん もう一つの展示の柱の古物コレクションの特徴は。
成澤さん コレクションというと焼き物とか自分の好きなものを集める人が多いのです
 が、武四郎は分野を限らず、ありとあらゆる分野のものを集めました。
  そして集めたものを分類して、整理して、それぞれふさわしい箱に入れて保存して後
 世に残しました。
河野館長 武四郎は生前、河鍋暁斎に自分の涅槃図を描かせています。現在、松浦武四郎
 記念館が所蔵しているのですが、今回はその複製を展示して、その涅槃図に描かれたコ
 レクションの現物を展示しています。
成澤さん 武四郎は好奇心のかたまり。武四郎の好奇心を楽しんでいただければと思いま
 す。(拍手)

続いて成澤さんのギャラリートークです。

会場入り口でお出迎えしてくれるのは、松浦武四郎その人。身長わずか150cmの小柄な体のどこにおそるべきパワーが秘められていたのでしょうか。


そしてケースに展示されているのは写真の武四郎が身につけている大首飾り。
「縄文時代から近代までの碧玉や水晶などで作られていて、対馬国住吉神社の神宝を参考にしてつくったのではとの指摘があります。」と成澤さん。

会場入ってすぐ右は武四郎が一般人向にイラスト入りでわかりやすく作成した紀行文。
「イラストはプロの浮世絵師が描いていますが、武四郎のスケッチをもとに描いています。武四郎はスケッチが上手だったのです。」


イラストがとてもリアル。これなら一般の人たちの好奇心を誘います。


続いて間宮林蔵はじめ武四郎の先人たちの足跡。


その向かいが武四郎集大成の蝦夷の地図(木版)。そしてその隣には武四郎の探検に協力したアイヌの人たちを地域別に記載した名簿も展示されています。




続いてコレクターとしての武四郎のコーナー。



「武四郎は自分が集めたものの図録を作成して、出版しました。」


「図録の絵を複写したものを壁のパネルで展示しています。」


「下は武四郎が収集したものとそれを収蔵してた箱です。武四郎は収集したものを入れると指が入らないくらいぴったりとした小箱を作りました。そして右の大きな箱にそれらの小箱を収めていたのです。」
下の写真の右の箱の前には「馬角」と書かれています。


こちらは硯をはじめとした文房具。


青銅器も。


「考古学的なものだけでなく、仏教的なものも収集していました。」



「おそらく今回の展示品の中で一番高価なのでは。(笑)」と成澤さんがお話されたのはヒスイの首飾り。「純度は100%に近いヒスイですので、下から見るとよく分かりますが輝いて見えます。」


奥がトークショーで河野館長からお話のあった河鍋暁斎筆《武四郎涅槃図》の複製。
「武四郎が絵の制作にいろいろ注文をつけたので、暁斎もまいってしったそうで、完成に5年かかりました。」と成澤さん。

そして《武四郎涅槃図》に描かれた赤い台の上の20点のコレクションの実物。



武四郎が最晩年に住んだ書斎・一畳敷は茶室ともに今では国際基督教大学の敷地内に移設されて保存されています。大学の秋の文化祭のときに公開されるとのこと。
一畳敷を建てる際、全国の知人に頼んで古材を送ってもらったのですが、そのやり取りの葉書を集めたのが「木片勧進(複製)」(下の写真右)。
「武四郎はこういったものまで出版してしまうのです。」(笑)と成澤さん。


最後はロビーの半泥子の茶碗。
「銘が面白いです。こちらは大きな茶碗で、お茶を飲むと顔が隠れるから『閑く恋慕(かくれんぼ)』です。」(笑)






さて、松浦武四郎展はいかがだったでしょうか。

イベントも盛りだくさん。松阪牛試食会だけではありません。講演会や河野館長のトーク、列品解説やコンサートもあります。
詳細はこちらでご確認ください。→ 静嘉堂文庫美術館

ショップではミニブック(税込350円)、5年前の松浦武四郎展のときに出版された図録(税込2,800円)も販売されています。


みなさん、ぜひ松浦武四郎ワールドをお楽しみください!
12月9日(日)までです。



2018年9月26日水曜日

山種美術館[企画展]日本美術院創立120年記念「日本画の挑戦者たちー大観・春草・古径・御舟-」特別内覧会

今年は明治150年、横山大観の生誕150年、そして日本美術院が設立されて120年。

東京広尾の山種美術館では、近代日本画にとって記念すべき節目の年にふさわしい展覧会が開催されています。

タイトルは[企画展]日本美術院創立120年記念「日本画の挑戦者たち-大観・春草・古径・御舟ー」。



今回の展覧会では、日本美術院設立当初から中心となって活躍した横山大観、菱田春草、そして大観らの次の世代の小林古径、速水御舟の作品から現代作家まで、院展で活躍した作家たちの作品を年代を追って楽しむことができます。

とても素晴らしい展覧会なので、さっそく9月18日(火)に開催された特別内覧会の様子をご紹介したいと思います。
※掲載した写真は美術館の特別の許可を得て撮影したものです。
(今回展示の作品はすべて山種美術館蔵です。)

展覧会の詳細はこちらをご覧ください→山種美術館ホームページ

1 山種美術館・高橋学芸部長ごあいさつ

〇 9月15日(土)から始まった[企画展]日本美術院創立120年記念「日本画の挑戦者たち-
 大観・春草・古径・御舟ー」では、日本美術院創設120年にちなんで、横山大観、菱田
 春草、小林古径、速水御舟の4人の代表作品を中心に、現代でも活躍している作家まで当
 館コレクションで日本美術院の軌跡をたどる展覧会です。
〇 今回撮影可の作品は、前期(9/15-10/14)が速水御舟《昆虫二題 葉蔭魔手・粧蛾舞
 戯》、後期(10/16-11/11)が速水御舟《名樹散椿》(重要文化財)。
  《名樹散椿》は、葉室麟『散り椿』の本の表紙を飾った作品で、映画「散り椿」の公
 開(9月28日全国公開)に合わせて展示するものです。

速水御舟《昆虫二題 葉蔭魔手・粧蛾舞戯》


〇 今回もCafe椿では展示作品にちなんだ和菓子をご用意しています。

どれも見た目もきれいで美味です!
中央が「敦盛」(安田靫彦《出陣の舞》)、右上から時計まわりに
「秋のおとずれ」(富取風堂《もみぢづくし》)、「まさり草」(速水御舟《和蘭陀菊図》)
「風の色」(木村武山《秋色》)、小夜(小林古径《清姫》のうち「寝所」)
カッコ内はちなんだ作品名です。

〇 ミュージアムショップでも、《名樹散椿》をデザインした大判ハンカチはじめ展示作
 品にちなんだ絵はがきやクリアファイルなどを取り揃えています。また、来年のカレン
 ダーも発売してます。

左が山種コレクション名品選のカレンダー


次回[特別展]「皇室ゆかりの美術-宮殿を彩った日本画家-」(11月17日(土)~2019年1月20日(日))の関連イベントのご案内もありました。詳細は山種美術館ホームページ(上記)をご覧ください。

また、若手日本画家の発掘と育成を目指す公募展「Seed 山種美術館日本画アワード 2019」のご案内もありました。
応募期間は2019年2月20日(水)から4月8日(月)まで。
入選作品の展示会は2019年8月10日(土)から8月23日(金)まで開催されるので、私も新しい作品を見るのを楽しみにしています。応募の詳細は山種美術館ホームページ(上記)をご覧ください。

2 山下裕二氏(山種美術館顧問、明治学院大学教授)の見どころ解説

前日(9月18日)にヨーロッパの旅から帰国されたばかりの山下さんは、スイス・チューリッヒで長澤蘆雪の講演を行い、パリでは伊藤若冲展を見てこられたとのこと。

(「長澤蘆雪-18世紀日本のアバンギャルド」展はチューリッヒ州リートベルク美術館で9月6日から11月4日まで、「若冲-〈動植綵絵〉を中心に」展はパリ市立プティ・パレ美術館で9月15日から10月14日まで開催されています。)

「現地の人たちが日本絵画をどう見るのか見てみたかった。」と山下さん。
「今展覧会の後期に展示される速水御舟《名樹散椿》は昭和5年(1930年)のローマ日本美術展で展示された作品。山種美術館所蔵作品も、今後、欧米でどう評価されるか興味深いところです。」

ローマ日本美術展はホテルオークラの創始者・大倉喜七郎男爵が企画・実行した展覧会で、横山大観《夜桜》(大倉集古館)はじめ当時の近代日本画家の代表作が展示され大成功をおさめました。

《名樹散椿》は後期(10/16-11/11)に展示されます。お楽しみに。

第1章 日本美術院のはじまり

はじめに木挽町狩野派の流れを汲む狩野芳崖の《芙蓉白鷺》と橋本雅邦《不老門・長生殿》。

左が狩野芳崖《芙蓉白鷺》、右の二幅が橋本雅邦《不老門・長生殿》

「《芙蓉白鷺》が描かれたのは明治5年頃。岩の描写など見るからに狩野派的スタイルを踏襲した作品。一方の《不老門・長生殿》が描かれたのは明治40年(1907年)。古典的狩野派をベースに遠近法などをとり入れた作品です。」

芳崖も雅邦も、フェノロサや岡倉天心とともに、大観や春草が学んだ東京美術学校(現 東京藝術大学)の設立に尽力しました(設立は明治20年(1887年)10月、開校は明治22年(1889年)2月)。
雅邦は東京美術学校で大観、春草、下村観山らを指導しましたが、芳崖は開校前年に名作《悲母観音》(東京藝術大学)を残し、惜しくも亡くなりました。

続いて明治31年(1898年)、岡倉天心の日本美術院設立に参加した大観、観山、春草の作品が並びます。


横山大観《燕山の巻》(部分)
(会期中巻替あり)

左から下村観山《不動明王》《朧月》

左から菱田春草《初夏(牧童)》《森の夕》《雨後》《月下牧童》


「大観は《燕山の巻》では、建物が描かれた場面で意識的に遠近法をとり入れています。」

「観山の不動明王は、信貴山縁起絵巻の『剣の護法童子』を意識しているのですが、この不動明王のマッチョぶりはまるでギリシャ彫刻のよう(笑)。観山はヨーロッパに行って西洋絵画の影響を受けたのでしょうか。落款も金泥で「Kanzan」とローマ字で書いています。」

「春草《雨後》は、岡倉天心の『日本画で空気と光を表現する』という命題を受けて描いた朦朧体の作品。大観や春草の作品は日本では不評でしたが、アメリカでは好評で、よく売れました。」

明治37年(1904年)天心は大観、春草らを伴って渡米、ニューヨークで開催された「大観・春草展」などで朦朧体作品はよく売れましたが、日本美術院の経営は行き詰まり、天心は明治39年(1906年)、研究所を北茨城・五浦に移転しました。
大観、春草、観山、そして次章で出てくる木村武山は、岡倉天心と行動をともにした「五浦組」です。

第2章 再興された日本美術院

大正2年(1913年)の天心の逝去を機に、大観らは翌大正3年(1914年)に日本美術院を再興しました。
第2章では、大観、武山、さらに彼らの次の世代の今村紫紅、小林古径、速水御舟、安田靫彦らの作品が展示されています。

右から横山大観《喜撰山》《蓬莱山》
右から木村武山《秋色》、今村紫紅《大原の奥》《早春》、安田靫彦《観世音菩薩像》
今村紫紅は、大正期には「新南画」と呼ばれたる作品を多く描きました。上の写真の《早春》もそのひとつ。
近代日本画は今のままでは行き詰ってしまうという危機感から、紫紅を兄のように慕っていた速水御舟に「私が日本画を破壊するから君たちが建築してくれ。」と言った今村紫紅の新境地の作品です。

そして今回の展覧会の一押しのひとつが小林古径《清姫》8点の一挙公開。

小林古径《清姫》
右から(旅立)(寝所)(熊野)(清姫)(川岸)

小林古径《清姫》
右から(日高川)(鐘巻)(入相桜)

「古径は『清姫伝説』の象徴的な場面をポップに描いています。」と山下さん。

《清姫》は、長らく古径の手元にありましたが、「(山種美術館初代館長・山﨑種二氏が)美術館をつくられるならば」ということで古径が購入を認めた記念すべき作品。もともと巻物を想定して描かれましたが、最終的には額装のかたちで残されたとのことです。

古径の作品は第一会場入ってすぐにも展示されています。

小林古径《猫》

「猫の直立不動の姿勢は、古代エジプトの彫刻の猫の姿勢に影響を受けています。」

続いて速水御舟のコーナーに移ります。

10月14日まで撮影可の作品が《昆虫二題》。
(10月16日以降も展示されますが、撮影はできなくなります。)

「《昆虫二題》は、御舟の代表作《炎舞》(重要文化財 山種美術館)の直後に描かれた作品です。」

速水御舟《昆虫二題 葉蔭魔手・粧蛾舞戯》

右から速水御舟《山科秋》《柿》《春昼》
《牡丹花(墨牡丹)》《和蘭陀菊図》
このうち《山科秋》と《春昼》は前期(10/14まで)の展示です。

はじめに《柿》から。
「御舟は大正10年前後には、徹底的な細密描写にこだわりました。そこには、日本画でも質感のある描写ができるのだ、という油絵に対する対抗意識があったのです。」
「また、中国絵画の小画面の作品の影響も受けていました。落款の表現は北宋の徽宗皇帝を意識しています。」
速水御舟《柿》

続いて《春昼》。
「その後、御舟はリアルな質感描写から幻想的な風景描写に移っていきます。家の中の暗闇に見えるはしごは何を暗示しているのでしょうか。」

写真ではよくわかりませんが、その場で絵をご覧になっていただくと家の中にはしごが立てかけられているのがわかります。

速水御舟《春昼》

さらに《牡丹花(墨牡丹)》
「花を墨、葉を彩色で描くという実験的な作品です。」

速水御舟《牡丹花(墨牡丹)》
そして後期展示(10/16-11/11)の《名樹散椿》。
「構図は京都・養源院の俵屋宗達《金地着色松図》(重要文化財)の影響がうかがえますが、鈴木其一《椿図屏風》(フリーア美術館)の影響も見られます。背景は金箔でなく、金砂子を敷き詰める撒きつぶしです。」


こちらは《名樹散椿》をデザインした大判ハンカチ(1,500円+税)です。


第3章 戦後の日本美術院

戦後から現代までの作家の作品が展示されている第3章。

左から安田靫彦《出陣の舞》《平泉の義経》、
奥村土牛《城》酒井三良《夜漁》


ディテールや人物画にまでたらしこみを使っている「たらしこみマニア(笑)」(山下さん)の前田青邨《大物浦》《腑分》も展示されています。

「第二会場には水墨を基調とした画面を追求した田渕俊夫《輪中の村》が展示されています。」

田渕俊夫《輪中の村》

「日本美術院の軌跡をふりかえりながら、近代日本画の歴史をたどる展覧会です。どうぞお楽しみください。」(拍手)

3 山種美術館特別研究員 三戸さんのギャラリートーク

「大正3年(1914年)に日本美術院が再興されて、途中戦争による中断がありましたが、今年は再興第103回院展が開催されています。院展の歴史は近代日本画の歴史をたどるのに等しいといえます。」と三戸さん。

最初にご案内いただいたのは小林古径《猫》。


第1会場展示風景(左が小林古径《猫》)

「この作品には近代日本画の特徴がいくつか表されています。」
「一つには色づかい。猫の黄色に対して花は紫。効果的な反対色を使っています。こういった色相学の考え方は明治以前にはなかったものです。」
「もう一つは、以前は絹地に描かれるのが一般的でしたが、この作品は紙に描かれていることです。」
「そしてもう一つが掛軸でなく額装になっていること。これは戦後の生活様式の変化で、住宅に洋間が増えてきたことが影響しています。」

「一方で古い伝統も残されています。」
「一つは猫が線描でかたちづくられていること。そして猫のそばには花。愛玩動物と花の組合せは中国・宋代の院体画の伝統です。」
「古径は、古典に根ざしながら新しいフォーマットで描きました。これはまさに院展スタイルといってもよいでしょう。」

続いて明治維新後に没落した狩野派の中でも中心的存在だった木挽町狩野派の二人。

「狩野芳崖《芙蓉白鷺》は紙に描かれていますが、これは雪舟以来の室町水墨画をイメージしています。」
「橋本雅邦《不老門・長生殿》は、中国の楼閣山水図がベースですが、ここにはフェノロサの影響が見られ、明暗と色の濃淡で空間や光を表現しています。楼閣も、人間が実際に見たままのように自然な形で描かれています。」
「ここにも『古典的だけれども新しい』という特徴が見られます。」


左が狩野芳崖《芙蓉白鷺》、右の二幅が橋本雅邦《不老門・長生殿》
「同じく明暗と色の濃淡で空間や光を表現した菱田春草の《雨後》。」
『朦朧体』と揶揄された表現は、南宋の院体画にさかのぼることができるとの指摘もあるとのことです。

菱田春草《雨後》
「五浦時代の大観らは文展(明治40年(1907年)創設の文部省美術展覧会)に作品を出展していました。」
「雪舟の《山水長巻》を思わせる横山大観《燕山の巻》は、古典的な水墨山水に挑戦しながらも、自分が実際に見たままに描いています。」

横山大観《燕山の巻》
「横山大観《喜撰山》は、よく見ると縦横の線が見えませんでしょうか。」と三戸さん。
これは金箔を紙の裏から貼ったつなぎめの「箔足」です。
「大観はこの作品で、絹でなく紙に金箔を貼りました。喜撰山は京都の宇治にある山。大観は京都特有の赤土を表現するために金箔を使ったのです。」
「金色の輝きでなく、色を出すために金箔を使った大観。ここに明治から大正にかけた時期の大観の革新的な面が見られます。」

横山大観《喜撰山》
次に大観の次の世代の今村紫紅と小林古径。

「俵屋宗達が好きだった今村紫紅は、当初、歴史画を描いていましたが、大正期に入ると印象派や後期印象派の影響を受け、『新南画』とよばれた風景画を描くようになりました。」

今村紫紅《早春》
歴史画、人物画で知られた小林古径はセザンヌが好きで、一時は西洋画に傾倒しましたが、大正10年(1921年)に前田青邨とヨーロッパに行ったとき、大英博物館で顧愷之《女史箴図》を見て、「やっぱり東洋はすごい」と思い日本画に回帰したとのエピソードもご紹介いただきました。
「《清姫》は古径の人物画の代表作。いくつもある清姫伝説から自分のイメージで描いたもの。日高川は室町時代の絵巻にあった場面、また、最後には能や歌舞伎で知られた入相桜を描いています。」

小林古径《清姫》のうち(日高川)
小林古径《清姫》のうち(入相桜)

第3章では、戦前から戦後も引き続き活躍した大観、古径の作品も展示されています。

右から横山大観《不二霊峯》、小林古径《菖蒲》

そして大観逝去後、昭和33年(1958年)に日本美術院が財団法人してからの歴代理事長(初代 安田靫彦、第二代 奥村土牛、第三代 小倉遊亀、第四代 平山郁夫、第五代 松尾敏男、第六代 田渕俊夫(現理事長)の作品も一堂に会しています。

「ぜひこの機会に日本美術院の名品の数々をお楽しみください。」(拍手)。

さて、「[企画展]日本美術院創立120年記念 日本画の挑戦者たち-大観・春草・古径・御舟-」はいかがだったでしょうか。
明治から現代まで日本画の歴史をたどることができる、とても素晴らしい展覧会です。
ギャラリートークも開催されます。日程の合う方はぜひご参加いただければと思います。ギャラリートークの日程は山種美術館ホームページでご確認ください。
会期は11月11日(日)までですが、前期は10月14日(日)までなのでお見逃しなく!


(追記)
「いまトピ~すごい好奇心のサイト」でyamasanのペンネームで近代日本画のコラム書いています。ぜひこちらもご参照いただだければと思います。

近代日本画三部作

近代日本画の世界へようこそ

日本美術の聖地・五浦へ

初夏のヨコハマ、おススメ散策&美術展ガイド~近代日本画の足跡を訪ねて五浦から横浜へ~