2011年12月25日日曜日

旧東ドイツ紀行(1)

11月12日から20日までドイツに行ってきました。
ベルリンに3泊、ドレスデンに4泊、全体で7泊9日の旅でした。
今回の旅行の最大の目的は、ドイツ統一から20年以上経過して旧東ドイツ地域がどれだけ変わったかじっくり観察してくること。併せて東ドイツ民主化やドイツ統一の動きにゆかりのある場所を訪れること。
また、ベルリンでは第3帝国の夢の跡を訪れることと博物館めぐりも大きな目的の一つでした。ドレスデン滞在中には、以前から興味のあった、ドイツ国内の少数民族ソルブ人の住むバウツェンにもぜひ行きたいと思っていました。
旧東ベルリンとドレスデンを訪れてから22年、統一後のドレスデンに行ってから20年。DDRやドイツ統一をテーマにドイツ語の勉強を続けていたにもかかわらず、長い間、現地に行っていなかっただけに、ようやく訪れたチャンスに心を弾ませながら旅立ちました。
途中、過去の旅行のことを回想したり、ヨーロッパ情勢にふれたりして、大きくわき道にそれることもありますが、「私の旧東ドイツ紀行」に最後までおつきあいください。

11月12日(土)成田空港-フランクフルト空港
午前9時。成田空港。
 家を出たのが早く、朝食をとっていなかったので、おなかがすいてきた。ルフトハンザのカウンターでチェックイン手続きをしたあと、何か食べようと思いあたりを見渡したら、「サブゥエイ」の看板が目に入った。
肉や魚は食べないわけではないが、最近では野菜中心の食事をしているので、
「ちょうどいいや。ここで野菜だけをはさんでもらおう」と思い、女性の店員に
「野菜を全部はさんで」と注文した。
「これだとハム入りの『今日のサンド』と同じ290円になりますけど」
店員さんが気を利かして言ったが、
「野菜だけが食べたいのでこれでいいです」
と私。
新鮮な野菜とコーヒー。これで頭も気分もすっきり。
外の飛行機を眺めながら、気持ちよく朝食をとっていたが、このときはドイツでも「サブウェイ」が頼もしい存在になるとは夢にも思わなかった。

次の写真は今回もっていったザック。
 私の理想の旅のスタイルはあまり大きくないザックを背負って気軽に飛行機に乗り込むこと。もちろんスーツケースはもっていかない。
下着類は洗濯をするので最小限の数だけ持ち、それも古着なので帰るときにホテルに置いていく。そして空いたスペースに、これも最小限のお土産を詰めて帰る。
でも今回は大きめのザックなのにパンパンになってしまった。
9日間にわたる旅行なので、セーター、Yシャツ、冬ズボンの替えを詰めたら、これが結構かさばった。理想の旅にはまだまだ近づけないでいる。

午前10時25分、ルフトハンザLH711便は予定どおり成田空港を飛び立ち、ドイツ・フランクフルト空港に向かった。
予定所要時間は11時間50分。最近では海外に行くこともなく、長くても羽田-沖縄間の3時間なので、我慢しきれるかどうか不安だった。しかし、そこはさすがルフトハンザ、アミューズメントの充実ぶりに退屈することもなく時間が過ぎていった。
私の好きなハードロックや60年代ポップスの音楽プログラムもある。いろんなジャンルのCDが何十枚もまるごとインストールされているなんてすごすぎる(他の航空会社も同じようなサービスをしているのだろうか)。
イヤホンからスコット・マッケンジーの「サンフランシスコ」が流れてきた。坂の上から眺めるサンフランシスコのきれいな街並みが目の前に浮かんでくる。8月なのに、寒くてこごえながらベイサイドで夕食を食べたことも思い出した。
サンフランシスコは今回の旅行の候補の一つとして考えたが、アメリカはヨーロッパより近く、もっと短い休暇でも行けるので次の機会にとっておくことにしたが、次回はサンフランシスコに行こうと心に誓った。と言いつつもプラハ-ウィーンにも惹かれものがあるが。

 そんなことを考えているうちに、飛行機は水平飛行に移り、しばらくして昼食。
写真は、事前にリクエストしていたベジタリアン食。ベジタリアン食は乳製品あり、なしを選べるがこれは乳製品ありの方。どの航空会社のも味はいいし、おなかの空かない機内では量も少なくちょうどいいので、ベジタリアン食をリクエストすることにしている。でも、隣の席の食事がちらっと見えたが、デザートのケーキがおいしそうだった。
昼食が終わって時計を見るとドイツの現地時間では午前4時。
 飛行機に乗ったら現地時間の生活リズムに合わせることが、時差ボケ対策のコツなので、この昼食を「夕食」に見立て、あと3時間は寝ることにした。

起きてからは『地球の歩き方』でお勉強。
到着2時間前に朝食。これもベジタリアン食。パスタにかかっている具で肉みたいに見えるのは生揚げ。納豆をはじめ大豆製品は好きなので大歓迎。



朝食を終えればもうスカンジナビア半島の上空。飛行機はベルリン上空を飛び、フランクフルト国際空港へ。
写真はここまで運んでくれたエアバスA380-800。
国内便乗り継ぎのためターミナルAに移動したが、何しろフランクフルト国際空港は広い。いつまでたってもAまでたどり着かない。

 ようやくA19を見つけたところで、やれやれとあたりを見回したら無料のドリンクサービスコーナーがあったので、コーヒーをいただいた。これもさすがはルフトハンザ、太っ腹だ。新聞もどさっとおいてあるので一部いただいた。

ドリンクサービスコーナーでは、イタリア人のおじさんが「ホットチョコはあまりおいしくないよ」と話しかけてきた。私が「日本から来た」と言うと、「地震や津波は大変だったな。それに政府の対応も遅いんだろ」と言う。政府の対応の遅さがヨーロッパまで伝わっているのかと驚いたが、財政危機のゴタゴタで首相が交代した国の人には言われたくないなあ。



ドイツに来たら食べたかったものがブレッツェル。ワゴンに吊るされて売っている。

ベルリン行きの飛行機を待つ間、ベルリンの地図を広げてベルリン・テーゲル空港と市の中心の位置関係を確認していたら、少し迂回すればボルンホルマー通りを通れることに気がついた。タクシーなら、そこで止まってもらい写真を撮ることもできるだろう。
ボルンホルマー通り、1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊した場所。3日遅いが、その日と同じく寒い夜、当時の検問所の緊張感、市民の喜びを少しでも感じとることはできるだろう。
(ベルリンの壁崩壊の過程などについては、過去のブログをご参照ください)









(次回に続く)

ベルリン・テーゲル空港とホテルのあるベルリン市中央区(Mitte)までの位置関係はこちらをご参照ください。空港(A)から上から2番目の数字109をめざして西に向かい、96a(シェーンハウザー通り Schönhauser Allee)と交わるところで南下すると宿泊するホテル「Radisson Blu」(B)がある。ボルンホルマー通り検問所は、96aの手前のグレーの縦の線(鉄道 S-Bahn)と交差するところ。
わかりにくくてすみませんが、拡大して見てください。 

http://www.worldtaximeter.com/berlin/Berlin+Tegel+Airport/Radisson+Blu+Hotel+Berlin

それから、12月28日から4日間、また沖縄に行ってきます。次回の更新は来年になります。ご了承ください。今年の6月から始めたこのブログ、ご愛読いただきありがとうございました。来年もよろしくお願いします。それではみなさん、よいお年を。

2011年12月18日日曜日

ベルリンの壁崩壊(10)

(前回からの続き)
ベルリンの壁が崩壊してから、東ドイツ独裁体制は音を立てて崩れ始めていった。

11月13日、すでに引退が発表されていたミールケ国家保安相が人民議会で演説を行った。
一貫して国家保安省の中でキャリアを積み、1957年から32年もの間、秘密警察の長として君臨し続けたミールケ。そのミールケの最初で最後の人民議会での演説はテレビでも放映されたが、彼の最後のことばに、多くの国民は冷ややかに笑いを浮かべ、頭を横に振るだけであった。

「私はみなさんのことをいとおしく思っています。今でもそう思っています。今でもみなさんのために全力を尽くすつもりです」

国民はミールケを頂点とするシュタージにどれだけ苦しめられていたことか。
シュタージ(Stasi)とは、国家保安省(Ministerium für Staatssicherheit)の略称。あるいは頭文字をとってMfS(エム・エフ・エス)とも言うが、こちらはどちらかというと公式的な呼称。
監視カメラ、手紙の開封、盗聴、尾行、逮捕、取調べ、あらゆる手を使って国民を監視し続けたシュタージ。

  その活動の一端は2006年に公開された映画「善き人のためのソナタ(Das Leben der Andere)」でうかがい知ることができる。
主人公のヴィースラー大尉は、国家に忠誠を誓う有能なシュタージの捜査官だが、反体制的なグループを監視するうちに国家体制に疑問を抱きはじめ、彼らが逮捕されないよう手助けをするというストーリー。
正直言って、こんなに簡単に反体制派に共感するかな、という疑問を感じたのがこの映画の第一印象。本当は怖いはずのヴィースラー大尉が最後には「いい人」に写ってしまう。最後まで冷徹であった方がシュタージの凄さ、怖さが伝わったような気がする。
ただ、ぜいたくは言ってられない。シュタージのことを正面から扱った映画ができたこと自体、奇跡に近い。

ここでこの映画の中で紹介されたアネクドーテをひとつ。

朝、太陽が東から上がった。
太陽はホーネッカーにあいさつした。
「おはよう、エーリッヒ」
(以前にもふれたが、エーリッヒとはホーネッカーのファーストネーム)
昼になった。
太陽はあいさつした。
「こんにちは、エーリッヒ」
そして夕方になった。太陽は西に沈みかけているが、何も言わない。
なぜか?
西(=西ドイツ)に逃げれば、もうホーネッカーなんて関係ないからさ。
シュタージは、東ドイツ末期には9万人もの職員を抱え、全国に監視網を張りめぐらせていたが、それだけでなく、18万人とも20万人とも言われた協力者(Inoffizieller Mitarbeiter 略してIM)の存在がそれを補っていた。
IMとは、普段は普通に生活している一般市民だが、周囲の人たちの言動を逐一シュタージに報告する人たちのこと。密告者と言った方がしっくりくるかもしれない。
まさに東ドイツ監視社会の象徴とも言える。家族ぐるみで食事会を開いたり、友人どうしでお酒を飲んで騒いでいても、うかつに体制の悪口は言えない。誰がシュタージの協力者だかわからないからだ。
西側の人間と親しげに話すことも禁物だ。誰が見ているかわからない。
そこで出てくるのが「東ドイツ式外国人歓迎法」。(6月20日のブログをご参照ください) 
余計なことにはかかわらない方がいい、ということになる。

ベルリンの壁が崩壊してもSEDが君臨している限り、民主化は進まない。
11月20日のライプツィヒの月曜デモには25万人の市民が参加した。
今までは「私たちは国民だ(Wir sind das Volk)」と言って、民主化を主張していたが、この日は違った。
市民たちは「私たちはひとつの国民だ(Wir sind ein Volk)」と主張し始めた。
その日の横断幕には、「再統一のための国民投票を」「ドイツ、一つの祖国」といったものもあった。市民の目標は、明らかに東ドイツの民主化からドイツ統一に移っていた。

国民受けの良かったモドロウはすでに11月8日に首相(※)に任命されていたが、いかに改革派政治家モドロウであっても、大きなうねりとなったドイツ統一の動きを食い止めることはできなかった。

12月6日にはクレンツが国家評議会議長を辞任し、翌年3月18日に行われた人民議会の選挙は、初めての自由選挙になったが、東ドイツ版「キリスト教民主同盟」が第一党となり、当時「民主社会党」と名称を変更していたSEDは大敗し、独裁体制は終わりを告げた。
そして、10月3日にドイツ統一が実現し、「ドイツ民主共和国(DDR)」そのものが消滅していった。

ドイツ民主共和国憲法第6条第2項にこう書かれている。

「ドイツ民主共和国は、ソ連邦と恒久的に、かつ、取り消すことのできない同盟を取り結ぶ。ソ連邦との緊密かつ兄弟的な同盟は、ドイツ民主共和国人民に、社会主義および平和の道にそった一層の邁進を保証する」

ソビエト解体に先んじること1年、東ドイツはソ連邦との恒久的な同盟に基づき、歴史から姿を消した。どこまでも律儀な国であった。

(※)東ドイツには意思決定機関として国家評議会があり、その議長が国家元首。他に執行機関として閣僚会議があり、その議長は首相で、約10人の副首相、約30人の大臣から成る。国家評議会、閣僚会議ともその構成員は人民議会から選ばれる。

(「ベルリンの壁崩壊」終わり)

次回から先月行ってきた旧東ドイツ旅行記を少しずつ掲載します。ご期待ください。

2011年12月10日土曜日

ベルリンの壁崩壊(9)

(前回からの続き)
 さて、いよいよ運命の11月9日。
 SED政治局報道官のシャボウスキーは、いかにも気が乗らないといった顔で記者会見会場に姿を現した。記者席の間の通路を通って報道官席に向かったが、途中テレビカメラが行く手をふさいでいたので、不機嫌そうに大げさに避けるしぐさを見せた。

午後7時、記者会見は静かに始まった。
シャボウスキーは、旅行法の改正案を読み上げた。
 改正案は、11月6日に新聞やテレビのニュースですでに報道されいたが、永久出国は認められるものの、通常の海外旅行は年間わずか30日、外貨の持ち出しも制限されるので、国民には不評であった。
 そこでSEDはさらに譲歩し、ハンガリーやチェコスロバキア経由でなく、東ドイツ国境から直接、出国できるように変更した。シャボウスキーは、影響の大きさに不安をこぼしながらも、この変更点を強調した。

そこまでは良かったが、シャボウスキーは、あろうことか本来は翌日に公表するはずの個人の外国旅行に関する通達を読み上げた。

 「個人の外国旅行は、理由を提示することなく申請できます。申請を出せばすぐに許可されます」

 今までは、親戚を訪問するなど理由の提示が必要だったし、申請しても許可はなかなか出ず、当局から好ましくない人物とみなされれば許可されないこともあった。だからこそこの通達は東ドイツ国民にとって大きな前進であった。

会見が終わろうとしたとき、一人のイタリア人記者が質問した。

 「ところでその通達はいつ施行されるのですか」


 想定していなかった質問にシャボウスキーは「あれ、いつだったかな」という感じで書類をぱらぱらめくった。文章のなかに「すぐに、遅滞なく(sofort,unverzüglich)」という単語を見つけた。

 シャボウスキーは「私の知るかぎり『すぐに、遅滞なく』施行される」と答えた。

このやりとりは、それこそ「すぐに、遅滞なく」世界中のテレビで報道され、東ドイツ国内だけでなく全世界に衝撃が走った。

国境警備兵も突然のニュースに驚いた。
ボルンホルマー通りの検問所副所長、ハラルド・イェーガー中尉は信じられないという表情で首を横に振った。

「すぐに?遅滞なく?とんでもない!」

東西ベルリンの間には8つの検問所があった。そのうちの一番北にあるのがボルンホルマー通り(Bornholmer Straße)。下には鉄道が走り、その上を鉄橋がまたいでいる。その鉄橋の東側のたもとに検問所があった。

ボルンホルマー検問所があった場所


そうこうしているうちに、多くの市民たちが押し寄せてきた。歩いてきた人もいたし、トラバントで来た家族もいた。


国境警備兵たちはマイクで市民たちに呼びかけた。
「今国境を越えることはできません。ただちに家に帰ってください」
もちろん家に帰る人などいない。国外に出るのに理由が必要なくなったのだ。

「門を開けろ!門を開けろ!」
市民の合唱が響きわたった。

イェーガーは国家保安省(シュタージ)にいる自分の上司に指示を仰いだが、明確な回答が返ってこない。
(国民の監視だけでなく、国境警備も国家保安省の重要な仕事の一つ。国家保安省については次回参照。)


市民のいらいらは募り、周囲は険悪な雰囲気に包まれた。
 集まってきた市民の数は時間とともに増えてきた。
 イェーガーは上司に報告した。
 「もう持ちこたえられません」

門は開放された。
 歓声を上げて肩を組んで国境を越える若者たち、感動のあまり泣きながら鉄橋を渡る中年夫婦。クラクションを鳴らしながら通り過ぎるトラバント。

東ドイツの大衆車「トラバント」



ベルリンの壁が崩壊した瞬間である。夜中の12時過ぎにはすべての検問所が開放された。壁そのものが撤去されるまではさらに時間がかかったが、東ベルリンの市民が自由に西側に行くことができるようになったので、もはや壁は意味をなさなくなった。


ベルリン・ブランデンブルク門
かつては門の向こう側にも壁があった


なぜこのようなことになったのか。

ドイツ統一後、シャボウスキーはメディアのインタビューでこう言い訳をしている。

 「私は、他の予定があったので、旅行法改正を議論する場には最後までいませんでした。記者発表資料は会見場に向かう車の中で渡されたので、詳しい説明は何も聞いていないのです」

クレンツは別のインタビューでシャボウスキーをこう非難している。

「彼はSED政治局員という重要なポストにいたんです。そんな言い訳が通用すると思っているのか」

クレンツ政権は、市民の不満をそらすため、改革する姿勢を市民に印象づけようと焦っていた。東ドイツ市民が大量に流れ込んでくるチェコスロバキアやハンガリーの政府から「どうにかしてくれ」というクレームもあったから、なおさらプレッシャーは感じていた。

しかし、その焦りがあったからこそ、政権内部の連携ミスを生み、シャボウスキーの勘違いを招き、のちに「平和な革命」につながったのである。

ドイツ国営放送ZDFのドキュメンタリー番組は、ユーモアを込めてこう言っている。
「歴史上もっとも素晴らしい勘違い(Das schöneste Fehler der Geschichte)」


ベルリンの壁はドイツ統一後、その多くが撤去されている。下の写真は壁があったことを示すブロック。
今ではもちろん自由に通行することができる。






(次回に続く)

2011年12月3日土曜日

ベルリンの壁崩壊(8)

(前回からの続き)
 クレンツが国家評議会議長に選ばれた時の選挙はさえなかった。
 独裁国家ではありえないことであるが、人民議会での投票は、堂々と反対の手を上げる議員いた。
 500人いる議員のほとんどは賛成の挙手をしたが、反対に26人、棄権に26人の議員が手を上げた。満場一致でものごとが決まらなかったのは人民議会史上初めてのことであった。

言うまでもなく東ドイツの国家体制は社会主義統一党(SED  Sozialistische Einheitspartei Deutschlands)の独裁体制だ。
 国家評議会(Staatsrat)は内閣、その議長は内閣総理大臣に相当し、人民議会(Volkskammer)はその名のとおり議会に相当し、国家評議会議長は人民議会により選ばれる。人民議会の議席は、SED及びその傘下にある政党、団体に割り当てられ、候補者は各政党、団体の意に沿った人が選ばれるので、選挙は実質的には信任投票であった。
 このような仕組みがSEDの独裁を長年支えてきたが、SED独裁体制には明らかにほころびが見え始めてきた。
(国家評議会は議決機関であるが、実質的にはSED政治局が決定した法案を承認するだけであった。国家評議会議長は対外的には国家元首であるが、SED党首が同時に国家評議会議長に就任するので、国内のメディアではクレンツは「新SED党首」と紹介されることが多い。)

クレンツ新党首はテレビで国民に訴えた。
「私たちは国民のみなさんとの対話を大切にします。私たちとともにこの困難な時期を乗り越えましょう」
言っていることは素晴らしい。しかし、クレンツは下を向いたまま原稿を棒読みしただけであった。

国民はクレンツ政権の成立に敢然と「Nein」をつきつけた。
 10月23日のライプツィヒの月曜デモの参加者は30万人にも及んだ。
クレンツは11月3日、テレビで旧体制派の5人の政治家の引退を発表した。その中にはミールケ国家保安相の名もあった。国民を監視するシュタージのボスを解任して、改革をアピールする意図があった。




しかし。国民の不満はおさまらなかった。
翌11月4日の東ベルリンのデモには50万人もの市民が参加した(100万人近くとも言われている)。これは今までで最大規模のデモであった。市民は共和国宮殿に押し寄せ、アレキサンダー広場は多くの市民で埋め尽くされた。
人々は対話と言論の自由、旅行の自由を求めた。それも今すぐに。

当時SED政治局の報道官だったギュンター・シャボウスキーが多くの市民の前で対話を訴えかけた。しかし返ってきたのは「ひっこめ」というヤジとあざけりの口笛だった。
11月6日のライプツィヒの月曜デモの参加者も50万人に及んだ。

クレンツは焦った。国民の関心を得ようと、旅行の自由を認めるための旅行法の改正を急いだ。そしてこの焦りが、ベルリンの壁崩壊のきっかけをつくり世界中に衝撃を与えた11月9日のシャボウスキーの記者会見につながることになった。
(次回に続く)