2011年10月17日月曜日

ベルリンの壁崩壊(4)

(前回からの続き)
 10月3日にプラハに到着するはずだった特別列車は何かの手違いで遅れていた。おかげで西ドイツ大使館の前庭に野宿していた東ドイツ市民たちはもう一晩寒い夜に凍えなくてはならなかった。
 彼らの一人が言った。
 「エーリッヒ、あなたはまだ私たちを苦しめるのか」
 エーリッヒとはホーネッカーのファーストネーム。
 それでも翌日、特別列車がプラハに到着すると、東ドイツ市民は元気を取り戻して列車の中に消えていった。
 「これでようやく自由になれるわ」
 一人の中年女性は晴れ晴れとした顔でこう言って列車に飛び乗っていった。

一方、ドレスデンでは緊張が高まっていた。国営放送で特別列車がドレスデンを通ることを知った市民たちが、自分たちもそれに乗ろうとドレスデン中央駅に集まってきた。
 このブログの「二度と行けない国『東ドイツ』(4)」で紹介したドレスデン中央駅は写真のとおり閑散としていたが、その日は何千人もの市民が駅前広場に集まり「私たちは外に出たいんだ(Wir wollen raus)」「私たちに自由を(Wir wollen Freiheit)}と叫んでいた。

ドレスデンの治安を預かるハンス・モドロウは苦境に立たされていた。
 彼は改革派の政治家として名が通っていた。だからこそ保守的なホーネッカーに批判的であり、うとんじられたため長い間ベルリンから遠ざけられていた。ホーネッカーが前任者のウルブリヒトを追い出して政権を握ってから2年後の1973年からなんと16年にわたりドレスデン県の責任者の地位に甘んじていたのだ。
 改革派だったからこそ、モドロウは市民に銃を向けたくなかっただろう。
 同じ年の6月には、中国で民主化を要求した学生や市民を人民解放軍が武力で排除した天安門事件が起こったばかりである。

モドロウは後日、メディアのインタビューに当時の苦悩を独特のしわがれ声でこう話している。
 「駅は、列車の通行が妨げられないようにしなくてはならなかった。そうすることが私に与えられた任務だった。そのためには(警官による)人間の鎖だけで何千人もの市民の駅への侵入を食い止めなくてはならなかった。できる限り武力を使わずに」

夜の7時前にプラハを出発した特別列車は、真夜中過ぎにドレスデンを通ることになっていた。真夜中が近づくにつれて駅前の状態はエスカレートしてきた。ベルリンはモドロウに武力を使う許可を与えた。同時にケスラー国防相は戦車部隊と歩兵部隊の出撃準備を命じた。当時、東ドイツ市民の間でささやかれていた、武力による民衆の鎮圧「中国的解決法(chinesische Lösung)」の危機が迫っていた。
 
 しかし、モドロウが命じた警官隊による人間の鎖は持ちこたえた。特別列車は何事もなかったかのように通り過ぎていった。暴徒化した市民は駅舎の窓や扉、切符の自動販売機などあらゆるものを破壊したが、駅構内に入ることはできなかった。警官隊は放水車や催涙ガスで市民を蹴散らしはしたが、血の海(Blutbad)は避けられた。
 モドロウは、立場上守らなくてはならなかった任務と暴徒化する市民との板挟みになりながら、ぎりぎりのところで改革派政治家としての誇りを保つことができた。
 ところで、同じく「二度と行けない国『東ドイツ』(4)」で紹介した革ジャン君たちは、その時どうしていたのだろうか。駅前広場で他の市民といっしょになって騒いでいたのかな。でも、最悪の事態は避けられてよかった。
 さて、当時の東ドイツには西へ行きたい市民の動きだけでなく、東ドイツを改革しようという動きもあった。次回からは、のちに「英雄の町(Heldemstadt)」と称えらえたライプツィヒでの民主化の動きについてふれていく。

(次回に続く)