2012年1月2日月曜日

旧東ドイツ紀行(2)

あけましておめでとうございます。読者のみなさん、今年もこのブログにおつきあいのほどよろしくお願い申し上げます。
年末に行ってきた沖縄ではすっかり緩(ゆる)んできました。。 那覇の最高気温は20℃。那覇空港に着いた瞬間、横浜では寒さで固まっていた体がじわ~とほぐれてくる感じがしました。
それでも街中では地元の人たちが「寒い、寒い」と言ってジャケットを着て歩いていました。ふわふわ毛のフードのついた厚手のコートを着ていかにも寒そうに歩いている女の人たちもよく見かけました。
やはり人間はそれぞれの土地の気候風土に慣れるものなのでしょうか。長い夏に慣れた人たちは少し涼しくなると「寒い」と感じるのでしょう。
私もそれとは逆ですが、同じような体験をしました。
 最高気温4℃~5℃、最低気温は氷点下という11月のドイツから帰ってきて、12月に入ってから例年より早く寒さが厳しくなっても、さほど寒いと感じませんでした。
このまま寒さに強い体になったのかなと思いましたが、沖縄に行ってふたたび暖かさが恋しい体に戻ってしまったようです。これからさらに寒さが厳しくなる中、耐えられるかどうか心配です。
ここで沖縄の写真を一枚。今年の干支にちなんで、那覇市内の福州園近くの歩道にあった愛嬌のある顔の龍です。


さて、舞台はふたたびドイツへ。

11月12日(土) フランクフルト-ベルリン

無料のコーヒーを飲み終え、もう一杯飲みたいと思ったが少し気が引けた。でも、機内サービスの延長だから遠慮しなくていやと勝手な解釈をしておかわりをした。
2杯目のコーヒーを飲み終えるとすぐにアナウンスがあり機内へ。
座席についてシートベルトを締めると、新聞に目を通し始めた。主にチェックしたのはユーロ危機関連の記事。

ところで、フランクフルト国際空港に着いたときからずっと感じていたが、ドイツは本当に久しぶりなのに、はるばる海外にやって来たという感じがしない。
ドイツの政治や経済の動きは、毎日ネットでチェックしているし、ドイツ語の授業でもドイツ情勢について議論しているので、いつもドイツを身近に感じているからだろうか。ユーロ危機についても毎日かなりの量の情報を入手している。
それに何よりことばが通じる。
ベルリンに向かう機内でも、ドイツ語の新聞を読んでいたので、客室乗務員の女性は「飲み物何にしますか」とドイツ語で聞いてくる。こちらも自然に「炭酸なしのミネラルウォーター(stilles Mineralwasser)」とドイツ語が出てくる。
(日本でミネラルウォーターといえば炭酸なしが普通だが、ヨーロッパでは炭酸ありと、なしの両方とも一般に出回っているので、「ミネラルウォーター」とだけ言うと、必ず炭酸入りかどうか聞かれる。)
時間とお金をかけてせっかく来たのに、海外まで来たという感じがしないのはもったいない、と思われるかもしれないが、「第2のふるさと」と言うのはおおげさでも、「なじみの街」が増えたような気がして、これはこれで心地いい。

フランクフルトからベルリンまでは1時間10分のフライトなので、飛行機は飛び立ってしばらくするとすぐに降下体制に入る。
ベルリン・テーゲル空港に着いたのは夕方の5時半。あたりはすでに暗く、気温はかなり下がっていた。
TAXIの表示をたよりにタクシー乗り場に向かう。フランクフルト国際空港よりは狭いのでタクシー乗り場はすぐに見つかった。
一番前のタクシーに乗り込み、ザックを後部座席に置いて助手席に座った。そう、ドイツでは一人の場合、助手席に座り、道中ドライバーと世間話をするのが常だ。

「ラディソン・ブルーに行きたいのですが、途中、ボルンホルマー通りに寄ってもらえますか」
「ボルンホルマー通り?」
「1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊したとき、市民が押し寄せてきて、検問所の門が開いたところです」
「ああ、あそこね」 

タクシーは走り出した。
ドライバーのおじさんはトルコから来たという。
「どこから来た?ベトナムか、インドネシアか?」
自分でも祖先は南方から流れ着いたのではと思っているくらい東南アジアの人たちに親近感をもっているので、当たらずとも遠からずといったところだ。
「日本から」 と答えると、
「そうか、どっちにしても俺たちは同じアジア人だな。ハハハ」
と大きな声で笑った。気さくなドライバーだ。

「運転手さん、ベルリンは長いんですか」
「ああ、もう20年以上だ」
「じゃあ、ドイツ統一前からいたんですね」

その後、日本についていろいろ聞かれたが難しい質問ばかりで返答に困った。
サラリーマンの平均月収は?平均家賃は?日本にトルコ人はどのくらいいるか?・・・などなど。

例えばこういう感じ。
「日本のサラリーマンの平均月収は?」
日本の場合、まだ年功序列が残っているし、ボーナスもあるし、大企業と中小企業でも差があるしで、一口に平均といっても難しいな、と思いながら、30代から40代のサラリーマンの年収を12か月で割るとこのくらいになるかなという数字を言った。
「3,000~4,000ユーロくらい(1ユーロ100円として30万円から40万円)」 
「そんなに高いのか!家賃はどのくらいか?」
これだって都心部か郊外か、駅に近いか遠いかで違うと思ったが、自宅近くの相場はこのくらいかなといった数字を言った。
「3LDKで1,200~1,500ユーロくらい」と言うと、またまた
「それは高い!」と驚く。
そんなに驚くほど的外れではないと思うが。
このように、世間話といっても頭をフル回転させなくてはならないので、かなり疲れる。特に数字の換算は面倒だ。もちろんドイツ語のいいトレーニングになるが。

話をしているうちに通り過ぎてしまわないかと気が気でなかったが、ドライバーはちゃんと気にしていてくれて、
「次の信号の先がボルンホルマー通りだ」
と丁寧に教えてくれた。
 私は東側から写真が撮りたかったので、
「橋を渡ったあたりで車を止めてもらえませんか」とドライバーにお願いした。

私は車を降り、小走りで橋のたもとに向かった。
「これがあのベルリンの壁崩壊の舞台になったボルンホルマー通りだ」

 22年前、シャボウスキーの記者会見の模様を聞いた市民が集まってきて、国境警備兵と押し問答をしたのがここにあった検問所だ。そして、検問所の門が開き、喜びに震えながら市民たちが通り抜けたのがこの橋だ。
検問所はあとかたもないが、重厚な鉄橋の欄干は当時のままだ。あの日も今日と同じくらい寒かったろう。でも、今では写真のように、人も、車も自由に通ることができる。
私は夢中になってシャッターを押した。

車に戻り 「いい写真が撮れました」と言うと、
「それはよかった」とドライバーも笑顔。


 シェーンハウザー通りを右に曲がり、南下したが、このあたりは地下鉄が道路の上を通っていて、まるで首都高が上を通っている渋谷から南青山、六本木にいたる六本木通りのよう。
通りの両側も飲食店や商店が多く、店のネオンがキラキラ輝いている。街全体が明るい。

テレビ塔が遠くに見えてきた。沿道はさらににぎやかさを増していく。(車内からテレビ塔の写真を撮ったが、残念ながらぶれてしまった)
テレビ塔を過ぎて1ブロック先が、私の宿泊するホテル。
ホテルの前で車を止め、ドライバーは、
「26ユーロ30セント」と料金を示した。
私は、チップが1割として約29ユーロ、途中で車を止めたりしてくれたからプラス1ユーロと頭の中で計算して、
「30ユーロ」と言って20ユーロ札1枚と10ユーロ札1枚を渡した。

「フーフン」
と、ドイツ人が「了解した」という意味で使う表現が返ってきた。この表現は聞く側にとってはあまり乗り気でない、といった感じに聞こえてしまうが、最後に、 「元気でな」と笑顔で言って別れたので、チップに不満はなかったであろう。 

ドイツに限らず、海外で頭を悩ませるのがチップだ。
チップの目安は料金の1割で端数は切りあげる。
タクシーだとだいたい上記のようなやりとりになる。
また、細かい紙幣がなくても心配することはない。今回の場合でも、20ユーロ札2枚出せば10ユーロのおつりが返ってくる。
ドライバーは客が言った金額しか受け取らない。

参考までに前回のブログに添付したベルリン市内のタクシーのホームページを見ると、チップを含まないで30ユーロ22セントだった。ルートは南回り。北回りをして渋滞しなかった分安く上がったのだろうか。
また、ヨーロッパの他の国ではメーターが動かなくて(あるいは意図的に動かなくして?)高い料金をふっかけられるという話を聞くが、ドイツではそんなことはない。メーターはきちんと動く。ドイツだから大丈夫。
なぜドイツだから大丈夫か?
ドイツ語で「大丈夫」は"Alles in Ordnung"。直訳すると「すべては秩序どおり」だから。
(次回に続く)