2012年2月19日日曜日

旧東ドイツ紀行(9)

11月14日(月)  ベルリン 
ベルリン大聖堂が窓越しに見える「指定席」で、昨日と同じく朝食をおなかいっぱい食べ、ホテルを出た。この日も晴れているが、気温はかなり低い。それでも、めげずにベルリンの壁の跡を追いかけることにした。
話に入る前に、どのあたりを歩いたか、説明だけではわからないので、自分でベルリン中心部の地図を書いてみた。拙い絵であるが、クリックすると大きくなるので拡大して見ていただきたい。

街の構造は比較的単純だ。
左側真ん中にブランデンブルク門があり、東に向かってウンター・デン・リンデンが伸びている。途中、フリードリッヒ通りと交差し、さらに進むとシュプレー川中州の「博物館島」を越え、テレビ塔を過ぎると右手にアレクサンダー広場が見えてくる。
ベルリン滞在中はほとんどこのエリア内をうろうろしていた。
この日も、宿泊したホテル「ラディソン・ブルー」から、ブランデンブルク門に向かった。前の日も往復したので、もうおなじみの道だ。
ブランデンブルク門横の道の一本手前の通りを左にまがり、かつて外務省など政府の省庁がならんでいたあたりを歩いていりると高級そうなアパート群が出てきた。総統官邸跡はこのあたりかな、と周囲を見渡してみると、中華料理屋が目に入った。
ここだ、観光案内所のお兄さんがそっけなく言っていた店だ。

 看板には「Peking Ente」とある。「Ente」とはドイツ語で「アヒル」、つまり北京ダックを出す店。ただしビールは青島ビールでなく、ベルリーナー・ピルスナー。






歩道には案内看板も立っている。
一番上の写真は当時の総統官邸。ヒトラーはこの中庭に地下壕を作り、戦争末期はここにこもっていた。以前このブログで紹介した「ヒトラー~最期の12日間~(Der Unergang)」の舞台となったところだ。


ここが中庭のあったところ。
ヒトラーとエバ・ブラウンの遺体が焼かれ、その炎に照らされたゲッベルスがナチ式の敬礼で別れを告げたのがこのあたりだ。
今では託児施設になっている。右手前の建物の窓にペタペタと貼ってある花柄模様の色画用紙が、いかにもそれらしく、平和そのもの。

この地区には旧東ドイツの特権階級の人たちが住んでいた、との説明が案内看板にあった。どうりで高級そうな感じがするはずだ。
ベルリンの壁もすぐ近くにあるが、時の権力者から優遇されているなら西側に逃げ出さないだろうという目算があったのだろうか。

今はどういう人たちが住んでいるか分からないが、東西冷戦の呪縛から解き放たれ、ようやく安心した生活ができるのだろう。

総統官邸跡からさらに南に向かうと、ポツダム広場が見えてくる。

これはポツダム広場を見下ろすように立っている旧西ベルリン側の高層ビル群。






ベルリンの壁も、統一後の再開発でほとんどが取り壊されたが、分断の悲劇を忘れないため、路面に煉瓦を埋めて壁の位置を表している。









ここには「ベルリンの壁 1961-1989」と書かれた碑銘が埋め込まれている。






  また、壁はところどころ記念碑のように残されているが、たいていはユニークなイラスト入りである。




壁の下のラインはかつてここに壁が立っていたことを示している。
ベルリンの壁といっても、壁が一枚立っているだけでなく、その後ろにはバリケードがあり、見張り塔もあったので、ドイツ統一により広大な土地が大都市のど真ん中に出現したことになる。
かつてのベルリンの壁の様子は、ベルリン市のホームページに詳しい。

http://www.berlin.de/mauer/zahlen_fakten/index.de.html


見張り塔も市内にいくつか残されているが、私が見たのは劣化が進んでいるせいか足場が組まれ覆いが被されていた。
今では住宅街の中にある見張り塔。もう用はなさないので、いつかは取り壊されてしまうのだろう。



1961年から1989年までの28年間に東西の国境を越えようとして犠牲になった人の数は600人以上。そのうち少なくとも136人がベルリンの壁を越えようとして命を落としている。
しかし、今はその心配はない。恋人たちも、ザックを背負った若者も、ここで悲劇があったことを気にとめることもなく通り過ぎていく。

(次回に続く)