2013年1月21日月曜日

ドイツ・ゲーテ紀行(4)

9月5日(水)続き

城博物館を出てからはマルクト広場を通らず、少し遠回りをしてゲーテ・ハウスに向かった。

1749年8月28日にフランクフルト市で生まれたゲーテ(1749-1832)は、1775年にワイマール公国の当主カール・アウグスト公に招かれワイマールに赴いた。
このゲーテハウスは、ゲーテが1782年にカール・アウグスト公から贈与され、亡くなるまでの50年間住んでいたところ。
外観だけでなく、それぞれの部屋も当時のまま保存されている。


かつては馬車用の出入口だった左側の大きな入口から入ると、左手にガラスの扉があり、そこから先は隣の建物で、内装は現代風のオフィスに改装されていて入場券売り場やミュージアムショップになっている。
入場券売り場の隣でオーディオガイドを借りた。ここではパスポートと交換するシステムになっている。
ドイツ語バージョンと英語バージョンがあったので、「ドイツ語で」とドイツ語で言ったのに、聴いてみたら英語だった。やはり外国人=英語と思ってしまうのだろうか。英語ではよくわからないのでその場ですぐにドイツ語に換えてもらった。
解説はわかりやすく、一つひとつの部屋をじっくり楽しみながら見ることができた。

これは内側から見た写真。右のガラスの扉が入口。


上の写真の左手に進むと中庭になっていて、泉がある。

そして階段で2階に上がっていくとゲーテが『ファウスト第2部』や『詩と真実』を書き、友人たちを招き夕食をとり、そしてエッカーマンとの対話を楽しんだ数々の部屋が見えてくる。


入口にはラテン語で「ようこそ」。

これは「黄色の間」または「大広間」。ここは食事の間でもある。

 
 これは「青色の間」または「ユーノーの間」。左手がジュピターの配偶女神ユーノーの頭部模型。


これは書斎。晩年のゲーテは、主に午前中この部屋で創作活動をしていた。 エッカーマンと二人きりだとここでも食事をしていたようだ。

これは書斎の隣の書庫。書棚にはおびただしい量の蔵書が収まっている。

これはゲーテが最期の時を迎えた寝室。

寝室となりの従僕の部屋からみた裏庭。

 ドイツから帰ってエッカーマンの『ゲーテとの対話』の続きを読んでいると、ゲーテハウスのそれぞれの部屋のことが頭に浮かんできて、「ああ、あの部屋に知人を招いて食事をしながら文学や芸術について議論をしているのだな」など想像しては楽しんでいる。

『ゲーテとの対話』を読んで楽しみがもう一つ増えた。
私はもともとビール党だが、ワイン党のゲーテがワインを飲みながら会話をする場面がよく出てくるので、それにつられて料理を食べながらワインを飲むのが楽しみになってきた。
ついこの前はファミリーレストランでにんにくたっぷりのグリルチキンをつまみに1杯90円の赤ワインを2杯飲んでいい気分になったし、先週末は家の近くのサンクスにあった酸化防止剤無添加のワインを買い、手始めに赤ワインを「蒸し鶏のパスタサラダ」をつまみに飲んだら、これがけっこう口当たりがいいので、ついつい飲みすぎてしまった。
白ワインの方は冷蔵庫に入れて冷やしてある。つまみは歯ごたえシャキシャキのコールスローサラダがいいかな。
(次回に続く)

2013年1月10日木曜日

ドイツ・ゲーテ紀行(3)

あけましておめでとうございます。
ブログの更新が大変遅くなりましたが、今年もよろしくお願いいたします。
さっそくですが、前回からの続きを進めていきます。

平成24年9月5日(水)続き

ホテルの従業員の女性たちはとても親切だ。
ホテルを出ようとしたら、呼び止められて日本語を含め6か国語で表記された市内観光用の冊子を渡してくれた。全部で16ページある立派なもの。
これはワイマールの歴史を紹介しているページ。右下に日本語の説明が見える。


 

 
こちらはワイマール市街の地図。これはドイツ語だけ。


ホテルはマルクト広場に面していて、正面から出て左手には市庁舎が見え、広場にはその名のとおり、毎朝、市(いち)が立つ。


ホテルから外に出ると雨は上がっていた。
気温は13℃なので、セーターとジャケットを着てちょうどいいくらいの涼しさ。
雨上がりの石畳はしっとりしていて、いかにも古都らしい落ち着いた雰囲気を出している。

上の写真だとわかりにくいが、市庁舎の左手前にある黄色と茶色の物体はソーセージスタンドの看板がわりの大きなソーセージ。
これは横から見た写真。


さらにアップで見ると・・・(これは2日後に撮った写真なので晴れ間が少し見えている)


チューリンゲン風はパンが小さくてソーセージがパンの両端からはみ出ているのが特徴。
自分では食べなかったが、人が食べているのを見ていると、パンの部分を手に持ち、はみ出たソーセージの長さのバランスをとるように、両端にかわるがわるかぶりついていた。

市庁舎とは反対側の角から路地に入ると、すぐに領主の居城の塔が見えてくる。





塔の右側の建物をくぐると居城の正面に出る。
これは少し離れて撮った写真。
 

さらに居城の正面から入っていくと中庭に出る。
これがかつての領主の居城。今ではその一部が美術館になっていて、その名もずばり「城美術館(Schlossmuseum)」。

入口の上には特別展示を表すペナントが3枚かかっている。一番左にはルーカス・クラーナハ(1472-1553)の名前もある。
クラーナハはワイマールにもゆかりのある画家で、この美術館でもクラーナハの作品を多く収蔵している。彼の作品を見るのを楽しみにしていたが、特別展まで開催しているとは思わなかった。おかげでルターの若き日から晩年の肖像画や、テナントにあるザクセン選帝侯ヨハン・フリードリッヒⅠ世の妃「花嫁姿のジビュレ・フォン・クレーフェ(Sibylle von Cleve)」ほかの作品をじっくり鑑賞することができた。
ところで次の日に気がついたのだが、ホテル・エレファントを出てすぐ右のマルクト広場に面した建物はクラーナハが1552年から亡くなった1553年まで住んでいたところだ。


新教国ザクセンの領主であった夫ヨハン・フリードリッヒⅠ世とともに、新教を抑圧しようとした神聖ローマ帝国皇帝 カール5世に闘いを挑み敗れたジビュレ・フォン・クレーフェ(1512-1554)も1554年にワイマールで波乱の人生を終えている。
この絵はジビュレが結婚した14歳のときに描かれたものであるが、すでにこの時から気丈な性格が表情によく表れている。
今年のNHK大河ドラマの主人公・八重は「幕末のジャンヌ・ダルク」と言われたようだが、こちらは敗れこそしたものの「ヨーロッパの北条政子」と言ってもいい風格である。
これは博物館のパンフレットに載っている写真。

城美術館にはチューリンゲン地方で活躍した地元の画家の作品も多く展示していて、その多くはチューリンゲンの自然を描いているものだ。
ちょうど地元の画家のコーナーを歩いていたとき、係の中年男性と目が合ったのであいさつをしたら、
「ぜひ見てもらいたい絵がある。こちらへどうぞ」
と案内されたので、あとをついて行くと、森の景色を描いた一枚の絵の前に立ち止まった。
「これはワイマール郊外、イルム川沿いの公園の秋の景色を描いたものです」
確かに木の葉が色づき、太陽の光に輝いている。
「秋のワイマールはこんなにきれなのです。ぜひ秋にもワイマールに来てください」
秋はドイツ語ではHerbst、つまり収穫の時期である10月が「秋」。
以前このブログで紹介した新しいワインも飲みたいし、いずれぜひ来てみたいと思っていたので、
「ええ必ず来ます」と答えた。
(次回に続く)

2012年12月27日木曜日

ドイツ・ゲーテ紀行(2)

週末からクリスマスにかけて沖縄に行ってきました。
冬になると曇りがちの天気が続く沖縄ですが、イブとおとといは太陽も顔を出して、日差しも強く、外を歩いていると汗ばんでくるぐらいの陽気でした。
おかげで、今年の冬も暖かい空気の中、すっかりゆるんできました。
それにこの時期に来るのは初めてだったので、南国のクリスマスの雰囲気も味わうことができました。
これは牧志公設市場のクリスマス・イルミネーション。


横浜に帰ってきてあまりの寒さに震えているところですが、とてもうれしいクリスマスプレゼントが家に届いていました。
DNP(大日本印刷)が有料でフォトブック作成のサービスを行っているのですが、先日、五反田にある「ルーブル-DNPミュージアムラボ」にゴヤの「青い服の子供」を見に行ったときに無料クーポン券をいただき、これを利用してドイツ・ゲーテ紀行の写真にキャプションをつけてDNPにデータを送ったところ、完成したフォトブックが届いていたのです(「ルーブル-DNPミュージアムラボ」は完全事前予約制になっていて、本物のルーブル美術館所蔵の美術品が一点展示されています)。
文庫本サイズなので手のひらに乗るほどの小さなものですが、「自分だけの本」と思うと愛着が湧いてきます。





これ以上紹介すると今後のブログのネタがばれてしまうのでこれくらいにしておいて、フォトブックの編集作業や沖縄旅行でブログの更新の間隔があいてしまいましたが、さっそく前回からの続きにもどりたいと思います。

9月5日(水)続き
10時11分、定刻になるとライプツィヒ行き特急IC2157は音もなくホームをすべり出した。

今回の旅行は、まずワイマールまで行き、そこで3泊して市内観光とエアフルト日帰り旅行、フランクフルトに戻って2泊して市内観光という行程で考えていた。
アイゼナハに行ってワルトブルク城を見に行きたい気もしたが、時間的に厳しいかなと思い、今回は行かないつもりでいた。

ワイマール到着まで2時間45分。
さて、今日の午後はどうしようかと、新潮社とんぼの本『ゲーテ街道を行く』をぱらぱらとめくり始めた。

予報によるとワイマールは雨。
では、今日はまず、現在では美術館になっている「領主の居城」、ゲーテが最期の時まで50年間住んでいた「ゲーテ・ハウス」といった建物の中を中心にまわろうか、そして明日はエアフルト、あさってはワイマール市内散策、最終日は見残したところを回ろうかな、などと頭の中で考えてみた。

しかし、アイゼナハ駅に近づき、後ろの山の上にそびえ立つワルトブルク城を見て考えが変わった。
「やっぱりアイゼナハにも行きたい!」
右の写真は翌日、アイゼナハ駅前で乗ったバスの車窓から撮ったものだが、列車の中からも同じようにワルトブルク城が見えた。


 そうなると明日はワイマールから特急で1時間かかるアイゼナハに行き、あさっては各停でも17分で着くエアフルトに午前中行って、午後はワイマール市内散策にあてよう、とさっそく予定変更。

ワイマールには予定通り12時56分に到着。
少し遅めの昼食を駅ナカのカフェで食べたあと、時刻表を調べ、駅の窓口で翌日のアイゼナハ行の特急券を予約した。やはりここも窓口は中年の女性で、てきぱきと対応してくれた。


これは昼食。左はポテトサラダ、パンの後ろは大好物のサクランボタルト。全部食べきれなかったので、右のパンは食べずに持ち帰ったが、これが次の日役に立った。

駅を出ると小雨が降っていた。
ホテルまでは歩いて約10分。駅からまっすぐ延びる道をしばらく歩いていくと、街の中心に入っていく。





これが宿泊したホテル・エレファント。
ワイマール一番の高級ホテルだ。













ほんとうはもっと部屋代の安いホテルにしたかったのだが満室だったので、街の中心にあってどこへ行くにも便利だし、と思い切ってここにしたのだ。
おかげで相当な金持ちと思われたのか、フロントの女性従業員に、ホテルの中の高級レストランをやたらと勧められた。

フロントでの会話。
「こんにちわ、部屋を予約している〇〇です」
「あっ、〇〇さんお待ちしていました」
とさわやかな笑顔。
ホテルのフロントは、駅の窓口とは違いどこも若い女性ばかりだ。
ワイマールは旧東ドイツ側にある。観光はドイツ統一後に盛んになったので、この分野への女性の進出は遅れたということだろうか。

チェックインの手続きが終わった後、
「あなたのために今晩の夕食の席を用意しています」
「予約はしていませんが」
「いえ、今からでも大丈夫です」
「それはどこですか」
「ホテル内のレストランです」
念のため料金を確認したいのと、朝食会場にもなっているとのことなので、案内してもらうことにした。
そのレストランは中庭に面したところにあった。
「メインを2品注文して40ユーロ、3品注文すれば60ユーロです」
日本円にして4~6,000円だ。高い。
そこで、「アンナ・アマーリア」という名のレストランがイタリア料理だったのをいいことに、
「できれば郷土料理を食べたいので他にします」
と言うと、
「ホテルの地下に『エレファント・ケラー』というレストランがありますよ。よければ予約を入れておきますが」
「メニューを見て考えます。予約するときはお願いします」
「わかりました」

チェックインにはまだ早かったので、必要なものだけを小さいザックに移し、持ってきたザックはその女性従業員に預けた。
「ではお預かりします。行ってらっしゃい」
と笑顔。
紹介したレストランを断ったからといって機嫌を損ねたふうではなかった。
それもそのはず、レストラン攻勢はその後も続いた。
(次回に続く)

2012年12月10日月曜日

ドイツ・ゲーテ紀行(1)

9月4日(火)深夜
全日空が羽田発のフランクフルト直行便を出してくれたおかげで、ドイツがほんとうに近くなった。
仕事を終えて家に帰りシャワーを浴びて、ザックを背負って羽田空港に向かっても受付時間の11時には余裕で間に合う。
日付が変わって午前1時に出発するNH203便は、その日の朝6時10分にはフランクフルトに到着するのだから、初日から丸1日観光に使える。
帰りも昼の11時55分にフランクフルトを出発して、翌朝6時20分には羽田に到着するので、無理をすればそのまま会社に行って仕事をすることもできる。
週末をからめれば何日も休暇をとらなくてもドイツに行けるようになったのだ。
費用対効果を考えれば、せっかくお金をかけるのだから長く現地にとどまりたいと思うのが人情だが、行きたいけど時間がとれないという人でもふらりとドイツに行けるのだから、この気軽さがなんともいえない。

ドイツだけでなく、アジアやヨーロッパ、北米に行く便も多い。
週末を利用して東南アジアやアメリカにも行けると思うと、嬉しくなってくる。私は眠気をこらえながら、しばし出発便の案内ボードを眺めていた。
そのあとは眠気覚ましに、夜中でも一つだけ開いていたカフェでコーヒーを飲みながら、駐機場に停まっている飛行機を眺めていた。



9月5日(水)
フランクフルト空港にはほぼ定刻どおり到着した。
ワイマールに向かう特急が出発するまでまだ時間があったので、まずは朝食。
さすがに空港の中だけあって、朝早くてもコーヒーショップはしっかり開いている。
そこで食べたのがこれ。
大好物のブレッツェル、それにモッツァレラチーズとトマトのサンドとコーヒー。

食後は、構内のベンチで一休み。
下の写真は今回の荷物。
昨年の11月にドイツに行った時は寒さ対策で服がかさばったが、今回は一回り小さいザックに荷物を収めることができた。
とは言っても、ワイマールはかなり涼しいという予報だったので、セーターとジャケットを持って行ったが、その分は外付けになってしまった。左の黄色い袋に入っているのがセーター。
海外に行く時も荷物はザック一つ。古着は途中でホテルに置いて、空いたスペースにお土産のお菓子を入れて帰ってくる、という私のポリシーからすると、少しズルをしたことなるが、ワイマールではセーターとジャケットを着て歩いたし、帰りはお土産といっしょにセーターから何から全部ザックに押し込むことができたので、まあ合格点だろうか。

列車は8時11分に出発する。
私は少し早めに空港地下の長距離列車用のホームに降りて行った。
そして、電光掲示板で時間と到着ホームをもう一度確認してからベンチに座り列車の到着を待っていた。
しかし、出発時間が近づいても、ホームに列車が入ってこない。
遅れているのかなと思いもう一度電光掲示板を見たら、いつの間にか「運休」というテロップが流れていた。
運休のアナウンスは何もなく、テロップには運休の理由も書かれていなかった。
しかたなくもう一度上の階に上がり、駅の窓口で次の列車に座席の予約を変更することにした。
時刻表を見たところ、1時間後にICE(ドイツの新幹線)がある。

「(運休になった特急の券を見せながら)ワイマールに行きたいので、9時1分発のICEに変更したいのですが」
「(手元のコンピューターで調べて)この列車は満席です。10時11分発のIC(特急)なら席はありますが」
「そうですか。ではそれでお願いします」
「料金は・・・、あっ、もう支払済みですね。ではチケットをどうぞ」
「はい、ありがとうございます」


たまたまかもしれないが、駅の窓口で私の対応をしてくれるのは、なぜか決まって中年の女性だ。
応対は丁寧すぎるということはなく、気さくで、そして堂々と自信をもっててきぱきとさばいてくれるので安心できる。

ということで、結局フランクフルト空港駅で2時間待たされることになったが、その間、ゲーテの自伝『詩と真実』の中のヨーゼフⅡ世の戴冠式の祝宴に若き日のゲーテがもぐりこんだ箇所を読み返したり、地球の歩き方のワイマールのページを見たりしながら、これからの行程の予習をすることができた。

これが私が乗った特急。

(次回に続く)

2012年11月25日日曜日

ギュンター・グラスの見たドイツ統一(8)

いよいよ悲劇は最終局面を迎える。

それでも国の外では大富豪の親族の取り巻き連中が、
黄金色に輝いたものすべてを君の金庫に貯めこんでいる。

ギリシャの大富豪たちが税を免れ海外の銀行に巨額の貯金を蓄えていることは、ギリシャ国民にとっても許しがたいことだ。
ただし、貯めこんでいるのはドイツの金庫でなく、スイスの銀行だ。

さあ飲め、さあ!周りで騒いでいる委員たちはこう叫ぶ。
しかしソクラテスはいっぱいになった杯(さかずき)を怒って君に返す。

委員たちとは、EUの内閣にあたる欧州委員会の委員たちのこと。
彼らはギリシャ人に向かって緊縮財政策を飲みこませようとするが、死刑宣告を受け、みずから毒杯をあおった古代ギリシャのソクラテスと異なり、現代のソクラテスたちは毒杯を容易には口にしようとしない。
11月8日には、EUやIMFなどから315億ユーロ(約3兆3000億円)の融資を受ける条件となる緊縮財政法案がギリシャ国会で可決されたが、賛成153票、反対128票というきわどい結果だった。それに、国会周辺では法案に反対する8万人もの市民が激しい抗議行動を行った。


君にとって何がおかしいのか、神々は声をそろえてののしるだろう。
オリンポスの山は君の意思のごとく財産の没収を欲している。

ギリシャ政府は空っぽになった国の金庫にお金を補充するため、国有財産の売却に着手した。国営企業の民営化や関連施設の売却で2015年までに総額190億ユーロ(約2兆円)を確保しようという計画だ。しかし、ことは思うように進まず、年内に売却できそうなのは宝くじ公社と、アテネオリンピックの会場跡地にある複合施設だけという始末。
その責任をとってか、国有財産の売却を目的に設立された「資産開発基金」のミトロプロス最高経営責任者は7月に辞任してしまった。後任者はすぐに指名されたが、こんなドタバタがあったのではギリシャ政府のもくろみもうまく行きそうにない。

オリンポスの山は、ギリシャ神話のゼウス神を中心とした12神が住む聖地。
神々は「ヨーロッパのルーツはどこだと思っているのか。なぜもっと敬意を払わない」とドイツやEU諸国に不平を言う。
しかし、神々は聖なるオリンポスの山まで売却しないとギリシャの財政は持ちこたえないのでないかと思っている。
ただし、売却するのは今のところオリンポスの山でなく、オリンピックが開催された「オリンポスの丘」だけで済みそうだ。

この国なしには君は愚かにもやせ衰えてしまうだろう。
その国の精神は君を、そしてヨーロッパを創造したのだから。

神々の訴えの効き目があったのだろうか。
今月8日になって、来年の5月以降に発行される新ユーロ紙幣には「ヨーロッパ」の由来となったギリシャ神話の王女「エウロペ」の顔が透かし部分に印刷される、と欧州中央銀行が発表した。
古代ギリシャに対する憧憬や敬意だけは忘れていないようだ。
しかし、だからといって現代のギリシャ財政に対する要求がおさまることはないだろう。


ギュンター・グラスの詩「ヨーロッパの恥」の私なりの解説及び解釈は以上です。
もちろんグラスが何を考えているのか、すべてを把握したわけではないので、十分でないところもあろうかと思いますが、この詩をより深く理解するための一助になれば幸いです。
グラスがこの詩を発表することになったきっかけは、「やっぱり怖れていたことが起こった」と思ったからでしょう。性急なドイツ統一に反対した理由の一つとしてグラスは、ヨーロッパの中に強すぎる大国ができてしまうことを挙げていたからです。
以前のブログで予告させていただいたとおり、次はグラスが1990年に行った演説を集めた小冊子"Ein Schnäppchen namens DDR"をもとに、なぜ彼が統一に反対したか探っていきたいと思いましたが、やはり同じ時に予告させていただいたとおり、演説集は後回しにして、今年9月にドイツに行った時の旅行記を先に連載したいと考えています。それは、今回の旅行でドイツ国内の東と西の「格差」が縮まっただけでなく、両者の差が「良さ」や「特徴」ではないかと感じたからで、まずはじめにそのことをお伝えしたいと思うようになったからです。
では、次回から「ドイツ・ゲーテ紀行」の連載を始めます。ご期待ください。

2012年11月16日金曜日

ギュンター・グラスの見たドイツ統一(7)

次に第7段落と第8段落。

独裁政権は崩壊したがギリシャの悲劇はさらに続く。

権限を持たない国を、いつも自分が正しいと思う人が意のままにし、
ベルトをギュッときつく締めつける。

 君に反抗してアンティゴネーは喪服をまとい、人々は国じゅうで喪に服している。
君は彼らのお客さんだったのに。

「ベルトをギュッと締めつける(den Gürtel enger  und enger schnallt)」は「生活を切り詰める」という意味でも使われる。この場合はもちろん後者の方だが、ドイツをはじめとしたユーロ各国が「年金や公務員給与をカットしろ、さもなくば追加融資はしないぞ」とギリシャ人のたるんだおなかをベルトでギュッと締めつける光景が浮かんでくるようなので、前者の方を採用した。

アンティゴネーはギリシャ神話に出てくる気高い王女。
父は古代ギリシャ・テーバイの王オディプス。
オディプスの死後、彼の二人の息子(エテオクレスとポリュネイケス、アンティゴネーの兄にあたる)は1年交代で王位につくことにしたが、約束を守らなかったエテオクレスに国を追い出されたポリュネイケスはアルゴス王の女婿となりテーバイに攻め入った。
相まみえることになった二人の兄弟は、互いに相手を討ち戦死する。
そこで王位についたのがオディプスの妃の兄弟クレオン(つまりアンティゴネーの叔父)。
新王クレオンは、テーバイを守ったエテオクレスの遺体は丁重に埋葬したが、テーバイに刃(やいば)を向けたポリュネイケスについては、葬ってはいけない、嘆き悲しんでもいけない、死体は放置しておけ、といったお布令(ふれ)を出した。
しかし兄思いのアンティゴネーは堂々とそのお布令に背きポリュネイケスの亡骸の上に乾いた土砂をふりかけて体を覆い隠し、弔いの儀式を行った。
そのことを聞きつけた新王クレオンは激怒し、アンティゴネーを人里離れた岩屋の洞穴にわずかばかりの食料を与えて幽閉した。けなげなアンティゴネーは自分の運命を受け入れ、その洞穴の中で自ら命を絶った。

グラスは、クレオン王をドイツに、アンティゴネーをギリシャに見立てている。
しかし、ギリシャ人たちは喪に服しておとなしくはしていない。
10月9日にアテネを訪問したドイツのメルケル首相(まさにクレオン王)を出迎えたのは「メルケルは出て行け」といったプラカードをもった数万人のデモ隊だ。

さて、第8段落では「君」と呼びかける相手方が入れ替わっている。
今までは、ギリシャ人に対して「君」と呼びかけていたが、第8段落以降はドイツに向かって「君」と呼びかけている。つまり、ここからはグラスによるドイツへのメッセージなのだ。

最後の一行の意味はもちろん、ドイツ製品を買ってくれるギリシャ人はドイツにとっていいお客さんだということを指している。

(次回に続く)

2012年10月29日月曜日

ギュンター・グラスの見たドイツ統一(6)

次は第6段落。

これほど我慢させられた国はなかっただろう。
その国の大佐たちはかつては同盟国として君によってじっと耐え忍ばれていたのだ。


 枢軸国によって占領されたギリシャでは、ドイツ軍によるソ連侵攻の補給基地として食料や物資の過酷な調達が行われ、特に1941年から42年にかけての大飢饉の時には多数の餓死者が出るといった悲惨な状況であった。
 こうした中、共産党主導の「民族解放戦線(EAM)」を中心として大衆による抵抗活動が行われ、1942年2月には「民族人民解放軍(ELAS)」が創設されて武装抵抗を行うようになった。
 
 1944年9月にELASがギリシャ全土で一斉蜂起を行い、続く10月にはイギリス軍がギリシャに上陸して枢軸国を追い出したが、12月には共産主義勢力の拡大を怖れたイギリス軍がELASを攻撃し、これをきっかけにギリシャ全土でイギリスが支援する右派とELASを中心とする左派勢力との間での内戦が始まった。
 第二次世界大戦は1945年に終結したが、内戦はその後も続き、左派勢力が国内から一掃され内戦が終結したのは1949年になってからであった。

 1951年にはNATO(北大西洋条約機構)に正式加盟し、西側諸国の一員としてギリシャにもようやく平穏な日々が訪れたかのように見えた。復活した王政のもと、軍部に支えられた右派勢力による専制的な政治体制ではあったが、経済的にはめざましい発展を遂げていった。
 しかし国民の民主化要求の動きが高まり、1963年に中道政権が樹立すると、右派勢力によるあからさまな選挙妨害が行われ、国中にきな臭い空気が漂ってきた。
 そして次期総選挙で中道勢力の勝利が確実な状況になった1967年、ゲオルギオス・パパドプロス大佐ら中堅将校のクーデターにより軍事独裁政権が樹立され、ギリシャは再び暗黒の時代に突入した。 

 アメリカの支援によって軍事独裁政権は7年間続いた。
 その間、政権に協力しない政治家たちは逮捕され、軍部内でも粛清が行われるといった恐怖政治が横行し、国民の民主化運動は抑圧された。
 国民はNATO同盟国の国民として、パパドプロス大佐らによる支配をじっと耐え忍ばなくてはならなかったのだ。
 
 こうした苦難の道を経てギリシャに民主的な政権が成立したのは、オイルショックによる経済の悪化などで軍事独裁政権が崩壊した1974年になってからであった。イタリアの侵攻から数えて33年、第二次世界大戦終了から数えて29年の長きにわたる道のりであった。
(次回に続く)