2011年6月20日月曜日

二度と行けない国「東ドイツ」(1)

(東ドイツには一度だけ行ったことがあります。ツアーでなく、日本で宿や列車のチケットをなどを手配して東ドイツ、プラハ、モスクワと当時の社会主義の国を友人と2人で周ったのですが、東ドイツの人たちの外国人に対するあまりに冷たい対応に「こんなひどい国二度と来るもんか」と思いました。その後、ドイツ統一により東ドイツは消滅し、実際に二度と行くことができなくなってしまいました。もちろん旧東ドイツのエリアには今でも行くことはできますが、そこではもう社会主義のもとで生活していた東ドイツの人々の人間模様に接することはできません。そういった意味では貴重な私の東ドイツ珍道中紀行にしばらくお付合いください・・・)

私が初めて訪れたドイツの都市は、ベルリンとドレスデン。まだ東ドイツ時代の1989年8月のことだった。東京からモスクワ経由で東ベルリンのシェーネフェルト空港に降り立った時、夜はだいぶ更けていた。予約してあるホテルまでの行き方がわからず、近くを通りかかる人たちに声をかけても誰も振り向いてくれない。もちろん私はドイツ語で話しかけたので、彼らが理解しなかったわけではない。ようやく中年の女性が親切に笑顔で説明してくれたが、なんと英語。
なぜ、声をかけても無視にするのか、なぜ女性はドイツ語でなく英語で答えたのか、不思議な思いを感じながらとりあえずホテルにたどり着き、眠りについた。
空港での不思議な体験が「東ドイツ式外国人歓迎法」のほんの序曲にすぎないことは後になって思い知らされた。翌朝、ベルリンからドレスデンに行く列車のチケットを受け取るため宿泊先のホテル(ホテル名は忘れたが、たしか部屋の窓から博物館島(※)の建物が見えたように思う)のフロントで受け取とろうとしたところ、「ここにはない。旅行代理店に行け」と若い女性。ホテルから10分ほど歩き、政府旅行代理店に行ったら、「ここにはない。ホテルにあるはずだ」とそっけない。仕方なくホテルに戻ったが同じ答え。もう一度言う政府旅行代理店に行っても同じ。途方に暮れながらくたびれた足どりでもう一度ホテルに戻ると、フロントではさきほどの若い女性が、私に遠くから気が付き、笑いながら封筒みたいなものを右手に高くあげてひらひらさせている。「やっぱりここにあったわ」っていう感じ。もちろんお詫びのことばはひとつもない。社会主義の国が非効率で、およそサービス精神というものがないことは予備知識で知っていたので、私も何事もなかったかのように受け取った。
 (※)ベルリン市内を流れるシュプレー川の中州。ペルガモン博物館など4つの博物館が集中している
  ことからこう呼ばれている。

 余計な時間をとってしまったが、気を取り直して午前中はブランデンブルク門や博物館島のあたりを散策した。一番上の写真はブランデンブルク門。円柱の付け根の白いついたてのようなものはベルリンの壁。もちろん今は取り壊されている。真ん中の写真は博物館島にあるペルガモン博物館。古代バビロニア、ギリシャ、ローマの遺跡など内容は充実しているのは知っていたが、残念ながら列車チケット騒動のおかげで時間がなくなり、中には入れなかった。
(ペルガモンと思って撮った建物は旧ナショナルギャラリーで、ペルガモンはこの建物の後に位置します。失礼しました)
午後はポツダムに行って帰りが遅くなることがわかっていたので、午前中に帰りの航空券を受け取ろうと思い、ウンター・デン・リンデンにあるアエロフロートの事務所に向かった。12時前には到着しなくては、と少し小走りで向かい、10分前に到着したが、何と「昼休み」の貼り紙。こんなことではくじけてはいけないと思い、近くのワゴンで売っていたソーセージをはさんだパンをほおばり、再開の時間まで待った。
無事に航空券を受け取り、ポツダムに向かった。一番下の写真は、1945年7月17日から8月12日まで行われたポツダム会談の舞台となったツェツィーリエンホーフ宮殿。宮殿前の庭園は緑が豊かで、宮殿の後ろに広がる湖は日の光が反射してきらきら輝き、幻想的な景色が広がっていた。あわただしかった午前中とは反対に広々とした庭園でゆったりとした時間を楽しむことができた。
しかし、旅の楽しさにひたっていたのもつかの間。ベルリンに戻って夕食をとろうとした段になってまたひと悶着あった。(続きは次回)