2011年7月22日金曜日

日独交流150周年(3)

(前回からの続き)
 1834年のドイツ関税同盟発足以来、プロイセン主導のもとに進められていたドイツ統一は、1870年7月19日に始まった普仏戦争でフランスを破り、南ドイツ諸邦をプロイセンの影響下に収めようやく完成することとなった。
 フランスのナポレオン3世は9月2日に早々と降伏し、プロイセンのパリ入城に先立つ1871年1月18日、ヴェルサイユ宮殿鏡の間で、プロイセン国王ヴィルヘルム1世のドイツ皇帝即位式が行われ、ここにドイツ帝国が成立した。プロイセン首相ビスマルクも同時にドイツ帝国宰相に就任し、以後、ドイツの内政外交において辣腕ぶりを発揮した。
 特に外交政策では普仏戦争後も敵対するフランスを孤立化させ、フランスとロシアを同時に敵に回す二正面戦争を回避するためロシアとの友好関係を築き、併せて、バルカン半島で利害対立するロシアとオーストリアの仲介役を果たすなど、巧みにヨーロッパにおけるドイツの安全保障の確立に努めた。
 (ビスマルクの安全保障外交の動き)
  1873年 独墺露三帝協約(君主制維持で一致)
      (三帝は、ドイツ・ヴィルヘルム1世、オーストリア・フランツ=ヨーゼフ1世、
       ロシア・アレクサンドル2世)
  1881年 独墺露三帝条約(3国のいずれかが3国以外の国と開戦した場合、他の
      2国は好意的中立を守る秘密条約、有効期間は3年)
  1882年 独墺伊三国同盟(フランス包囲網)
  1884年 独墺露三帝条約更新
  1887年 独露再保険条約(オーストリアとロシアが対立し、三帝条約が継続が不
       可能になった際の保険)
  
  また、領土的野心のないビスマルクであったが、ドイツ国内での世論に押され、やはりここでも列強との対立を避けながら巧みに海外植民地を獲得していった。ヨーロッパ列強のアフリカ分割に際しては、1881年 ドイツ領東アフリカ(現在のタンザニア)、1884年、南西アフリカ(現在のナミビア)、トーゴ、カメルーンを保護下に置き、南太平洋でも、同じく1884年にはニューギニア北東部(現在のパプアニューギニアの北半分)を保護領にして「カイザー=ヴィルヘルム=ラント」と命名し、その北の島嶼部(現在はパプアニューギニア領)を保護領としビスマルク諸島とした。
 (参考)外務省ホームページのパプアニューギニア紹介ページ
    ↓
  http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/png/index.html

 しかし、1888年にヴィルヘルム1世が没してからドイツの外交政策は一変する。跡を継いだヴィルヘルム1世の長子フリードリッヒ3世が在位99日で病没し、フリードリッヒ3世の長子ヴィルヘルム2世がわずか29歳でドイツ皇帝の座についた。
 野心家のヴィルヘルム2世にとってビスマルクはうっとおしい存在であり、皇帝と衝突したビスマルクは1890年辞任してしまった。ビスマルク外交の主眼はドイツの安全保障の確立であったのに対して、ヴィルヘルム2世の外交は、軍拡を進め、積極的に海外進出を図る「世界政策」であった。しかし、それは敵を増やし、ドイツを窮地に追いやることとなったと同時に、日本との対立の構図も浮かび上がらすこととなった。
 まずは1890年。ドイツはロシア側の求めに対し独露再保険条約の更新を拒否した。その後、ロシアはフランスに接近し、1892年、露仏軍事協約が締結された。恐れていた二正面戦争の危機が迫ってきたのだ。
 続いて1893年には積極的な植民地政策により対英関係も悪化した。
 すると今度は東アジア政策でロシアと同一歩調をとるようになった。1895年には、ロシア、フランスとともに、日清戦争で日本が獲得した遼東半島の領有に干渉し、清に返還させるという事件がおこった(「三国干渉」)。←ようやく「日独交流」が出てきた
 ヴィルヘルム2世は日本の軍事力の伸長を恐れていた。彼は「黄禍論」をとなえ、日清戦争に圧倒的勝利を収めた日本が中心となって黄色人種が政治的に結束する脅威を強調し、これに対抗すべき、と説いた。三国干渉は「黄禍論」に基づいた行動であった。
 遼東半島を清に返還した見返りとしてドイツは、1897年、山東半島の膠州湾を租借した。その前年には宣教師殺害事件を口実に、膠州湾の入り口にある青島(チンタオ)を占領している。
 さらに1898年には米西戦争に敗れたスペインからマリアナ、カロリン、パラオ諸島を買い取り、サモア諸島をアメリカと分割するに及び、ドイツは太平洋と東アジアに大きく勢力を伸ばしていった。
(次回に続く)