2011年11月28日月曜日

ベルリンの壁崩壊(7)

(ドイツ旅行から帰ってきました。ベルリン、ドレスデン、ライプツィヒ、ソルブ人の街バウツェンと回ってきました。写真もたくさん撮ってきたので、このブログで順次紹介していきたいと思います。本来であれば、すぐにでも旅行記の連載を始めたいところですが、今回の旅行のテーマの一つが「ベルリンの壁崩壊」なので、まずは壁の崩壊に至るまでの経緯をたどりたいと思います。そうした方が旅行記も説明がしやすくなるので、しばらくこのシリーズにおつきあいください)

(前回からの続き)
 東ドイツ建国40周年記念式典が行われる前日の10月6日、ゴルバチョフ書記長は東ベルリンのシェーネフェルト空港に降り立ち、黒塗りのリムジンに乗ってウンター・デン・リンデンにあるソビエト大使館に向かった。沿道は東ドイツとソ連の国旗を振った市民で埋め尽くされ、ゴルバチョフは車の窓から手を振って市民の歓迎に応えた。東ドイツの改革を求めていた市民たちは、ペレストロイカ(改革)とグラスノスト(情報公開)を進めているゴルバチョフに大きな期待を寄せた。

車を降りたゴルバチョフはメディアの前で東ドイツ政府の反動的な態度を批判した。

「困難をおそれずに改革を進めなくてはならない」

そのあと、ゴルバチョフはホーネッカーとともに市内を歩いた
周囲にを取り囲んでいた市民たちからは、「ゴルビー、ゴルビー」の合唱が巻き起こった。
ホーネッカーはゴルバチョフと腕を組んで歩いていたが、ゴルバチョフはその手をふりほどき、市民たちの求めに応じ、握手をして回った。ホーネッカーはその光景をただ渋い顔をして見ていることしかできなかった。

「ゴルビー、助けて!、ゴルビー、助けて!(Gorbi,hilf uns!Gorbi,hilf uns)」
 ベルリン市内をデモ行進している市民たちの声は街じゅうに響いた。
 市民たちの改革への期待も大きかったが、当時の東ドイツで中国式解決法(「chinesische Lösung」は「中国的」より「中国式」の方がしっくりくるので以後は「中国式」と訳します)が避けられたのは、市民の側にも流血の惨事を避けようという努力がある一方で、ゴルバチョフに武力介入の考えがなかったことも大きな要因であった。実際に東ドイツ市民はゴルバチョフに助けられたのだ。
 第二次世界大戦後、東側ブロックに組み込まれた国での民主化の動きはことごとくソ連の戦車によってつぶされてきた。
1953年6月17日の東ドイツの労働者による民主化要求デモ
1956年10月のハンガリー動乱
1968年8月の「プラハの春」事件。


しかし今回は違っていた。ソ連には軍事介入するだけの力はもう残っていなかったのはもちろんであるが、国内経済は破綻し、それを知っていたからこそペレストロイカ、グラスノストを進めたゴルバチョフにとって、ソ連とは反対に民主化を進めないホーネッカーにはかえって苛立ちを感じていた。

ここで、当時はやったアネクドーテを一つ。

ブレジネフは止まっている電車を前後にゆすって、電車が前に進んでいるよう国民に見せかけた。しかし、ゴルバチョフは「もう電車は動かないからみんな逃げろ!」と大きな声で言った。

ゴルバチョフは、ホーネッカーに「もうソ連は頼れないぞ」と言いたかったのだ。
組んでいた腕をふりほどいたのが、そのことを象徴しているようだった。

翌7日の午前10時ちょうど、東ベルリンの赤の市庁舎の鐘の音を合図に、軍事パレードが始まった。
ベルリン市内には多くの市民がデモを行い、治安部隊との衝突はあったが、市の中心部は治安部隊によって固められていたので、戦車やミサイルを繰り出した軍事パレードは支障なく行われた。
昼の軍事パレードの成功に気をよくしたホーネッカーは、妻のマルゴットとともに満足した表情で夜のレセプション会場「共和国宮殿(Palast der Republik)」に入っていった。

レセプションではホーネッカーが得意げに乾杯のあいさつをした。
「ドイツ民主共和国40周年にあたり、平和と国民の幸福のためにさらなる連帯と協力を」
これがホーネッカーの最後の晴れ舞台となった。

シュプレー川をはさんだ対岸には、現政権に抗議する多くの市民が押し寄せていた。
最初、治安部隊は人間の鎖で食い止めていたが、レセプションの途中でゴルバチョフが退席すると、事態は一変した。

「さあ、これでヒューマニズムはおしまいだ」

国家保安省(シュタージ)のミールケ大臣は治安部隊にこう命令した。
治安部隊は市民に襲いかかり、その日は何百人もの市民が拘束された。

それでも市民の民主化の動きは止まらなかった。ライプツィヒの月曜デモの参加者が10月9日には7万人、10月16日には12万人に達し、10月18日にホーネッカーが辞任したのは前回のブログのとおり。

後任の国家評議会議長に選ばれたエゴン・クレンツは、ホーネッカーに服従するだけがとりえで、決して有能な政治家ではなかった。市民から見れば、ホーネッカー路線の継承者であり、9月には中国を訪問していることも、市民の印象を悪くした。天安門事件からわずか3か月後に中国を訪問したことで、天安門事件を容認した政治家とみなされたからであった。
(次回に続く)