2011年12月3日土曜日

ベルリンの壁崩壊(8)

(前回からの続き)
 クレンツが国家評議会議長に選ばれた時の選挙はさえなかった。
 独裁国家ではありえないことであるが、人民議会での投票は、堂々と反対の手を上げる議員いた。
 500人いる議員のほとんどは賛成の挙手をしたが、反対に26人、棄権に26人の議員が手を上げた。満場一致でものごとが決まらなかったのは人民議会史上初めてのことであった。

言うまでもなく東ドイツの国家体制は社会主義統一党(SED  Sozialistische Einheitspartei Deutschlands)の独裁体制だ。
 国家評議会(Staatsrat)は内閣、その議長は内閣総理大臣に相当し、人民議会(Volkskammer)はその名のとおり議会に相当し、国家評議会議長は人民議会により選ばれる。人民議会の議席は、SED及びその傘下にある政党、団体に割り当てられ、候補者は各政党、団体の意に沿った人が選ばれるので、選挙は実質的には信任投票であった。
 このような仕組みがSEDの独裁を長年支えてきたが、SED独裁体制には明らかにほころびが見え始めてきた。
(国家評議会は議決機関であるが、実質的にはSED政治局が決定した法案を承認するだけであった。国家評議会議長は対外的には国家元首であるが、SED党首が同時に国家評議会議長に就任するので、国内のメディアではクレンツは「新SED党首」と紹介されることが多い。)

クレンツ新党首はテレビで国民に訴えた。
「私たちは国民のみなさんとの対話を大切にします。私たちのともにこの困難な時期を乗り越えましょう」
言っていることは素晴らしい。しかし、クレンツは下を向いたまま原稿を棒読みしただけであった。

国民はクレンツ政権の成立に敢然と「Nein」をつきつけた。
 10月23日のライプツィヒの月曜デモの参加者は30万人にも及んだ。
クレンツは11月3日、テレビで旧体制派の5人の政治家の引退を発表した。その中にはミールケ国家保安相の名もあった。国民を監視するシュタージのボスを解任して、改革をアピールする意図があった。




しかし。国民の不満はおさまらなかった。
翌11月4日の東ベルリンのデモには50万人もの市民が参加した(100万人近くとも言われている)。これは今までで最大規模のデモであった。市民は共和国宮殿に押し寄せ、アレキサンダー広場は多くの市民で埋め尽くされた。
人々は対話と言論の自由、旅行の自由を求めた。それも今すぐに。

当時SED政治局の報道官だったギュンター・シャボウスキーが多くの市民の前で対話を訴えかけた。しかし返ってきたのは「ひっこめ」というヤジとあざけりの口笛だった。
11月6日のライプツィヒの月曜デモの参加者も50万人に及んだ。

クレンツは焦った。国民の関心を得ようと、旅行の自由を認めるための旅行法の改正を急いだ。そしてこの焦りが、ベルリンの壁崩壊のきっかけをつくり世界中に衝撃を与えた11月9日のシャボウスキーの記者会見につながることになった。
(次回に続く)