2011年12月10日土曜日

ベルリンの壁崩壊(9)

(前回からの続き)
 さて、いよいよ運命の11月9日。
 SED政治局報道官のシャボウスキーは、いかにも気が乗らないといった顔で記者会見会場に姿を現した。記者席の間の通路を通って報道官席に向かったが、途中テレビカメラが行く手をふさいでいたので、不機嫌そうに大げさに避けるしぐさを見せた。

午後7時、記者会見は静かに始まった。
シャボウスキーは、旅行法の改正案を読み上げた。
 改正案は、11月6日に新聞やテレビのニュースですでに報道されいたが、永久出国は認められるものの、通常の海外旅行は年間わずか30日、外貨の持ち出しも制限されるので、国民には不評であった。
 そこでSEDはさらに譲歩し、ハンガリーやチェコスロバキア経由でなく、東ドイツ国境から直接、出国できるように変更した。シャボウスキーは、影響の大きさに不安をこぼしながらも、この変更点を強調した。

そこまでは良かったが、シャボウスキーは、あろうことか本来は翌日に公表するはずの個人の外国旅行に関する通達を読み上げた。
 「個人の外国旅行は、理由を提示することなく申請できます。申請を出せばすぐに許可されます」
 今までは、親戚を訪問するなど理由の提示が必要だったし、申請しても許可はなかなか出ず、当局から好ましくない人物とみなされれば許可されないこともあった。だからこそこの通達は東ドイツ国民にとって大きな前進であった。

会見が終わろうとしたとき、一人のイタリア人記者が質問した。
 「ところでその通達はいつ施行されるのですか」
 想定していなかった質問にシャボウスキーは「あれ、いつだったかな」という感じで書類をぱらぱらめくった。文章のなかに「すぐに(sofort)」という単語を見つけた。
 シャボウスキーは「私の知るかぎり『すぐに』施行される」と答えた。

このやりとりは、それこそ「すぐに」世界中のテレビで報道され、東ドイツ国内だけでなく全世界に衝撃が走った。

国境警備兵も突然のニュースに驚いた。
ボルンホルマー通りの検問所副所長、ハラルド・イェーガー中尉は、信じられないという表情で首を横に振った。
「すぐに?とんでもない!」

東西ベルリンの間には8つの検問所があった。そのうちの一番北にあるのがボルンホルマー通り(Bornholmer Straße)。下には鉄道が走り、その上を鉄橋がまたいでいる。その鉄橋の東側のたもとに検問所があった。

そうこうしているうちに、多くの市民たちが押し寄せてきた。歩いてきた人もいたし、トラバントで来た家族もいた。


国境警備兵たちはマイクで市民たちに呼びかけた。
「今国境を越えることはできません。ただちに家に帰ってください」
もちろん家に帰る人などいない。国外に出るのに理由が必要なくなったのだ。

「門を開けろ!門を開けろ!」
市民の合唱が響きわたった。

イェーガーは国家保安省にいる自分の上司に指示を仰いだが、明確な回答が返ってこない。
(国民の監視だけでなく、国境警備も国家保安省の重要な仕事の一つ。国家保安省については次回ふれます)
市民のいらいらは募り、周囲は険悪な雰囲気に包まれた。
 集まってきた市民の数は時間とともに増えてきた。
 イェーガーは上司に報告した。
 「もう持ちこたえられません」

門は開放された。
 歓声を上げて肩を組んで国境を越える若者たち、感動のあまり泣きながら鉄橋を渡る中年夫婦。クラクションを鳴らしながら通り過ぎるトラバント。

ベルリンの壁が崩壊した瞬間である。夜中の12時過ぎにはすべての検問所が開放された。壁そのものが撤去されるまではさらに時間がかかったが、東ベルリンの市民が自由に西側に行くことができるようになったので、もはや壁は意味をなさなくなった。

シャボウスキーの記者会見や、ボルンホルマー通りの様子の映像は「シュピーゲル」のテキストで紹介されている。かなり省略されいてるが、会見の雰囲気やボルンホルマー通りの混乱ぶりがよくわかる。

http://einestages.spiegel.de/static/authoralbumbackground/717/die_frage_der_fragen.html


なぜこんなことになったのか。

ドイツ統一後、シャボウスキーはメディアのインタビューでこう言い訳をしている。
 「私は、他の予定があったので、旅行法改正を議論する場には最後までいませんでした。記者発表資料は会見場に向かう車の中で渡されたので、詳しい説明は何も聞いていないのです」

クレンツは別のインタビューでシャボウスキーをこう非難している。
「彼はSED政治局員という重要なポストにいたんです。そんな言い訳が通用すると思っているのか」

クレンツ政権は、市民の不満をそらすため、改革する姿勢を市民に印象づけようと焦っていた。東ドイツ市民が大量に流れ込んでくるチェコスロバキアやハンガリーの政府から「どうにかしてくれ」というクレームもあったから、なおさらプレッシャーは感じていた。

しかし、その焦りがあったからこそ、政権内部の連携ミスを生み、シャボウスキーの勘違いを招き、「平和な革命」が成功した。

ドイツ国営放送ZDFのドキュメンタリー番組は、ユーモアを込めてこう言っている。
「歴史上もっとも素晴らしい勘違い(Das schöneste Fehler der Geschichte)」

  ドイツ統一後も言い訳を続けるシャボウスキー。しかし、本人は望んでいなかったかもしれないが、紛れもなく彼は東ドイツ民主化の動きが武力による鎮圧という最悪の事態にならず、「平和な革命」が成功することとなった功労者の一人に違いない。
(次回に続く)