2018年1月14日日曜日

山種美術館 企画展「生誕150年記念 横山大観 -東京画壇の精鋭ー」 

山種美術館では企画展「生誕150年記念 横山大観 -東京画壇の精鋭ー」が開催されています。

横山大観と言えば「富士山」というイメージが定着していますが、2013年に公開された映画「天心」を見てからは、ついつい映画に出てくる人間味あふれる大観を想像しながら作品を見るようになりました。
映画では大観を演じる中村獅童がいい味を出していました。
大観が描いている作品の横をずかずか通って菱田春草に作品を注文する画商をムッとした顔でにらみつけたり、第1回文展の祝賀会であたりを見渡して誰も見ていないことを確かめてから大きな徳利を手に取ってそのままお酒をおいしそうに飲んだり、こういった姿が思い浮かんでくるので、今回の展覧会も楽しく拝見できるのではと心待ちにしていました。

会期は2月25日(日)までです。横山大観《楚水の巻》と《燕山の巻》は1月30日より場面替えがあります。
※展覧会の様子や関連イベント情報は公式サイトをご覧ください。

  http://www.yamatane-museum.jp/


それでは先日参加した特別内覧会に沿って展覧会の様子を紹介したいと思います。

※掲載した写真は山種美術館の特別の許可を得て撮影したものです。また、本展覧会の作品はすべて山種美術館蔵です。

はじめに山種美術館の山﨑妙子館長から新年のご挨拶がありました。
「昨年は川合玉堂展や上村松園展、それに川端龍子展のような珍しい展覧会も開催し、おかげさまでどれも盛況でした。新しい山種ファンも増えたのでは。」と山﨑館長。

続いて広報担当の髙橋さんから展覧会の概要について説明がありました。

○ 今回の展覧会では初公開作品を含む当館所蔵の大観作品全41点を公開しています。

第1会場入口では横山大観《霊峰不二》(1937(昭和12)年)がお出迎え。


○ 当館創立者・山﨑種二氏と交流があった小林古径、安田靫彦、前田青邨、東山魁夷は
 じめ東京画壇を代表する画家たちの作品も同時に展示しています。
○ 今回撮影可の作品は《作右衛門の家》(作品番号06)です。(←記念写真をぜひ撮りまし
 ょう!)
○ 「Cafe椿」では横山大観の作品にちなんだ和菓子を提供しています。

中央が《雲の海》、右上から時計回りに《不二の山》《冬の花》《花のいろ》《葉かげ》
どれも美味です。


○ ショップでは、本展覧会の小冊子やオリジナルグッズを販売しています。


○ 次回の展覧会は3月10日(土)から始まる企画展「桜 さくら SAKURA 2018」。
  関連イベントとして、日本画家 千住博氏の講演会を4月1日(日)に開催します。タイ
 トルは「美術は語る」です。ご参加お待ちしています。

次に、明治学院大学教授で山種美術館顧問の山下裕二さんから展覧会の見どころをスライドでご紹介いただきました。

山下さんの大観との出会いは、1967(昭和42)年、国際観光年に発行された記念切手「霊峰飛鶴」。当時は大変な切手ブームで山下さんも「切手少年」だったとのこと。
「少年時代から、大観といえば富士、と頭の中に刷り込まれていました。」と山下さん。

第1章 日本画の開拓者として

~第1章には明治大正期の大観の作品が展示されています。~

「今回の展覧会の大きな目玉は、1910(明治43)年の作品《楚水の巻》と《燕山の巻》。これは大観の中国旅行の体験をもとに描いた作品です。」
「雪舟の《山水長巻》を意識して、これを超えるサイズの巻物に描いていますが、雪舟との違いは、かなり極端な遠近法をとっていることです。西洋美術の影響がうかがえます。」

横山大観《燕山の巻》(1910(明治43)年)(部分)
ポスターやチラシに掲載されている場面です。

「《陶淵明》は狩野派でよく描かれていた画題ですが、人物を大きく象徴的に描いています。」

横山大観《陶淵明》(1913(大正2)年頃)

次は今回の展覧会で撮影可な作品《作右衛門の家》。
「ここに描かれた作右衛門なる人物は、大観も何も書き残していないので誰だかわからない、謎の画題です。」

横山大観《作右衛門の家》(1916(大正5)年)




1919(大正8)年の作品《喜撰山》。
「大正時代に入ると大観はグリーンを基調とした作品を多く描きました。南画、文人画的なリズム感が感じられます。」

横山大観《喜撰山》(1919(大正8)年)
第2章 大観芸術の精華

~第2章には昭和期の大観の作品が展示されています。~

1927(昭和2)年の作品《叭呵鳥》。
「叭呵鳥は中国原産で日本には生息していませんが、水墨画の画題として描かれていました。」
同じ黒い鳥でもカラスとの違いは頭の前の方にふさふさと生えている毛。

横山大観《叭呵鳥》(1927(昭和2)年)


1932(昭和7)年に描かれた《華厳瀑》と《飛瀑華厳》。
ほとんど同じ絵柄ですが、「筆に迷いがある《飛瀑華厳》が試しに描いたもので、《華厳瀑》が完成品では。」というのが山下さんの意見。

横山大観《華厳瀑》(左)、《飛瀑華厳》(右)(いずれも1932(昭和7)年)

ガラスケースの中には小品が並んでいます。
手前はおなじみの富士山。大観は生涯、富士山を2000点!も描いたそうです。
横山大観《不二霊峯》(手前)(1947(昭和22)年頃、
《波に叭呵鳥》(奥)(20世紀(昭和時代))
叭呵鳥が小さくてよく見えないので、アップで。頭の上に毛が三本!

横山大観《波に叭呵鳥》(20世紀(昭和時代))
「中国絵画の龍のスタイルを取り入れた《龍》です。」

横山大観《龍》(1937(昭和12)年)

「《春の水・秋の色》は、一見すると川合玉堂では、という作品。玉堂にも感化されたのでしょう。」

横山大観《春の水・秋の色》(1938(昭和13)年頃)


《春朝》《蓬莱山》《寿》とおめでたい画題の作品が並びます。
「《寿》の下絵は金泥です。」

横山大観《春朝》(1939(昭和14)年頃)


横山大観《蓬莱山》(1939(昭和14)年頃)

横山大観《寿》(20世紀(昭和時代))

第3章 東京画壇の精鋭たち

~第3章には山﨑種二氏と交流があった小林古径、安田靫彦、前田青邨、東山魁夷を
 はじめ東京画壇を代表する画家たちの作品が展示されています。~

小林古径《牛》(1943(昭和18)年)(左)、
川合玉堂《松竹朝陽》(1956(昭和31)年頃)(右)



山下さんが最後に紹介されたのが、京都・大徳寺の牧谿《観音猿鶴図》を大観が模写した《観音猿鶴図(模写)》(東京国立博物館蔵)。
私も2年前の正月、申年にちなんで東京国立博物館で展示されていたのを見ましたが、大徳寺の《観音猿鶴図》が何でトーハクにあるんだ、と一瞬驚いたほど、ものすごくいい出来でした。

師であった橋本雅邦から狩野派の影響を受け、水墨画や文人画などの表現を取り入れ、昭和期には美術界にゆるぎない地位を築いた大観。
こういった大観があるのも「(古画を模写する努力をしていた)基礎があったからこそでしょう。」(拍手)

続いて、会場で山種美術館学芸員・三戸さんのギャラリー・トークをおうかがいしました。

「横山大観というと誰でも知っている有名な画家。”ミスターベースボール”長嶋茂雄氏になぞらえて『ミスター日本画』と言った方がいますが、大観はとても運の強い人、もっているものがある人です。」と三戸さん。

「第1のポイントは、近代の1ページ目である明治元年に生まれ、近代とともに生きたこと。第2のポイントは、岡倉天心が校長を務めていた東京美術学校(現:東京藝術大学)の記念すべき第一期生として入学したこと(1879(明治22)年)。」

その後、天心は東京美術学校助教授の地位を得ますが、1888(明治31)年、岡倉天心の東京美術学校追放に伴い、大観も同校を辞職し、日本美術院創立にかかわります。
日本美術院時代は作品を描いても売れない苦しい時期が続き、1906(明治39)年には日本美術院が経営難に陥り、大観は下村観山、菱田春草、木村武山とともに岡倉天心に従って北茨城・五浦(いづら)に移住します。

今回の展覧会には大観とともに五浦で制作に励んだ3人の作品も仲良く並んで展示されています。

左から、下村観山《朧月》(1914(大正3)年頃)、
菱田春草《釣帰》(1901(明治34)年、木村武山《秋色》(20世紀(大正時代))
彼ら五浦組が天心から課せられた命題は「輪郭線を使わずに光や大気を表すこと」。
しかしながらこの実験的な試みは「朦朧体」と揶揄され、評判はよくありませんでした。

不遇の時代が続いた大観でしたが、次の「もっているポイント」がやってきました。
「第3のポイントは、寺崎広業と中国旅行をしたあと、1910(明治43)年の第4回文展に《楚水の巻》を出品してその個性を評価されたことです。」

横山大観《楚水の巻》(1910(明治43)年)(部分)

横山大観《楚水の巻》(1910(明治43)年)(部分)
そのときの評は、「(テクニシャンで絵が上手な)広業君のよりは面白い。うまいのかへたなのかわからない、とぼけたところが面白い。家屋にしても、上から見たのか下から見たのかわからない。パースペクティブ(遠近法)がないに等しい。」といった趣旨のもの。
ほめているのか、けなしているのかわかりませんが、「何か魅力がある。」と個性を評価されたことは間違いないようです。

横山大観《楚水の巻》(1910(明治43)年)(部分)
「パースペクティブ(遠近法)がない」と評された場面

「その大観の個性が大画面に表現されたのが《作右衛門の家》と《陶淵明》です。」

手前から 横山大観《作右衛門の家》《陶淵明》《叭呵鳥》
《芍薬》(1929(昭和4)年頃)

「《作右衛門の家》は緑青を多用し、大和絵、琳派の影響が見られます。《陶淵明》の右隻には『帰去来辞』の、陶淵明が官職を辞して帰郷後、近くを散歩しているとき松を撫でて立ち去り難い気持ちを表した場面が描かれ、左隻には大画面に遠山が描かれ、画面を『きゅっ』と引き締めるように小さい鳥が描かれています。遠山のたらしこみに琳派の影響が見られます。このような構成の大胆さが大観の魅力でしょう。」

左方からみた横山大観《陶淵明》
「大観は、松の木を松の葉が下に下がっていく独特の描き方をしています。」
「大観は『五浦の海岸で松の木をたくさん見た。』と言っていたそうですが、五浦で見た松の木のイメージが強く残っていたのでしょうか。」

横山大観《松》(1940(昭和15)年頃)、《夏の海》(1952(昭和27)年頃)、
《天長地久》(1943(昭和18)年頃)


「《燕山の巻》は先ほどの《楚水の巻》とは空気の表現が違います。《楚水の巻》は江南地方の湿潤な空気を表現していますが、《燕山の巻》は北京の景色なので乾いた空気を表現しています。」

横山大観《燕山の巻』(部分)

横山大観《燕山の巻》(部分)

「中国旅行中、大観はロバに乗って旅行をしたのですが、ロバが大変気に入り日本に連れて帰ってきました。《燕山の巻》の後半にはロバが描かれています。」
(《燕山の巻》と《楚水の巻》の後半は場面替えする1月30日から見ることができます。ロバに注目です。)

「さて、大観が日本に連れて帰ってきたロバは、その後どうなったか。それは本展覧会の小冊子に掲載されているのでご覧になってください。」


「『もっている』大観のもう一つのポイントは、着想の斬新さです。」

「《竹》は白い紙に水墨で描いていますが、紙が少し黄色く見えないでしょうか。これは裏箔といって、裏に金箔をはっているからです。これで竹林にほんわかと光が差すイメージを表現しています。」

横山大観《竹》(1918(大正7)年)

「《喜撰山》は紙に金箔を貼っています。よく見ると縦横の線が見えます。この作品は宇治の山を描いていますが、京都の赤土特有の色を出すため紙に金箔を貼ったのです。こういった革新的な着想が大観にはあります。」

横山大観《喜撰山》1919(大正8)年(再掲)


「主題設定も大観の魅力の一つです。大観といえば「富士山」がトレードマークですが、もう一つのトレードマークは「山桜」です。大観は桜を描いても山桜しか描きませんでした。これは本居宣長の和歌『敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花』に日本の精神を見たからなのでしょう。」


横山大観《山桜》(1934(昭和9)年)


大観展ですので、やはり富士山コーナーはあります。
下の写真中央の《心神》は、山種美術館設立に際し、大観から「美術館をつくるなら」という条件で購入を許されたという作品。

大観には戦前も戦後も富士山を描いてほしいとの依頼があり、それぞれ表情の違う富士山を描き続けました。
「大観は富士山に日本の精神、そして自分の精神を見たのでしょう。」

左から 横山大観《富士》(1935(昭和10)年頃、《心神》(1952(昭和27年)、
《富士山》(1933(昭和8)年)

「大観は戦中戦後の時期に、熱海にある山﨑種二氏の別荘に滞在していました。この別荘を大観は『嶽心荘』と名付け、大観が揮毫した書を木彫りしたのがこの銘板です。」

銘板 嶽心荘(書:横山大観 刻:中村蘭台[2代])


「今回の展覧会は、当館所蔵の大観作品全41点を公開する初めての試みです。大観も、東京画壇の画家たちの作品も楽しめる展覧会ですので、ぜひ多くの方にお越しいただきたいです。」(拍手)

ひょうひょうとしていて、何となくゆるそうで、それでもしっかり人の心をつかむツボを心得ている、そういった大観作品の良さをあらためて実感できる展覧会でした。
この冬おすすめの展覧会です。