2011年8月1日月曜日

日独交流150周年(6)

(前回からの続き)
 第一次世界大戦後のドイツには強い反日感情がくすぶっていた。ヴィルヘルム2世の黄禍論で人種的偏見が広まり、さらにはドイツ領だった山東半島や南洋諸島を日本が横取りしてしまったからだ。 
 ところが、1933年にヒトラーが政権をとってから情勢は変わる。同じ年に日本、ドイツが国際連盟を脱退し、国際的に孤立してから両国の接近が始まった。それが形になったのが、ちょうど日独交流75年目の1936年に締結された日独防共協定である(翌年イタリアが加入し日独伊防共協定となった)。
 防共協定はドイツ語ではAnti-Komintern Pakt。直訳すると反コミンテルン条約。1935年にファシズムに対抗するため人民戦線戦術を採用したコミンテルン(及びその後ろ盾であるソ連)に対抗するものだった。 
 防共協定を軍事同盟にまでもっていきたかった日本はドイツとの交渉を進めていたが、1939年8月、ドイツはこともあろうに敵対しているはずのソ連と独ソ不可侵条約を締結してしまう。防共協定は全く有名無実のものになり、日独の交渉も一時中断する。当時の平沼麒一郎内閣は交渉行き詰まりの責任をとり、「欧州情勢は複雑怪奇なり」との迷セリフを残して総辞職してしまった。
だが、独ソ接近の兆候はあった。在ドイツ日本大使館も日本政府も気がつかなかった欧州情勢の変化を、当時、ヨーロッパに滞在していた笹本駿二氏は著書『第二次世界大戦前夜』(岩波新書 1969年)で指摘している。
 笹本氏は、1938年5月に日本からヨーロッパに派遣された新聞社の特派員。彼は著書の中で、最初の滞在地がスイスだったのは何といっても幸運だった、日本では間違ったヒトラー像を押しつけられていたが、中立国のスイスでは公平な立場での報道に接することができた、としみじみ振り返っている。
 詳細は著書に譲るとして、この『第二次世界大戦前夜』と続編である『第二次世界大戦下のヨーロッパ』(岩波新書 1970年)は名著である。
簡潔な文体に引き付けられて、ズデーデン問題とそれに続くミュンヘン会談、ドイツ軍のチェコスロバキア占領、英仏ソの軍事会談、ヒトラーとスターリンの交渉など次から次へと続くできごとに引き込まれ、大きな戦争を予感させる緊張感に包まれたヨーロッパに、あたかも自分がいるような感覚にとらわれてしまう。
 この2冊を読み返して、高校時代に初めて読んだとき、海外特派員になって世界の大きなできごとを日本に伝えるんだ、と心に決めたことを思い出した。もちろん、その夢はかなっていないが、こうやってドイツのことを調べたり、ブログで公開しているのは、そのころの思いがわずかではあるが心の片隅に残っているからなのかな、と思う。
(次回に続く)