2011年8月15日月曜日

日独交流150周年(8)

(前回からの続き、というより前々回からの続き)
 はたして欧州情勢は複雑怪奇だったのか。もちろんお互いに相容れないナチズムとコミュニズムが手を結んだのだから、世界中が驚いたことは事実である。
 しかし、当時のドイツの置かれた立場を見ると、必ずしも不思議なことではなかった。
 ドイツは、ダンツィヒとポーランド回廊(下図参照)の返還に応じなかったポーランドに侵攻し、返す刀でフランスを陥れ、一気にイギリスを攻める考えでいた。その間、背後からソ連に攻められることだけは避けたかった。二正面戦争を避けることはビスマルク以来、ドイツにとっての至上命題だ。
 独ソ不可侵条約に安堵したヒトラーは、条約締結からわずか1週間後の1939年(昭和14年)91日、ポーランドに侵攻、イギリス、フランスがポーランドとの同盟に基づきドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が始まった。
 ドイツ軍は航空部隊による先制攻撃と機甲部隊の集中投入による電撃戦(Blitzkrieg)で、旧式装備しか持たないポーランド軍をわずか1ヶ月で撃破した。このときソ連軍もポーランド領内に侵攻し、しっかり領土をせしめている。独ソ不可侵条約はポーランド分割の取り決めでもあったのだ。
  ドイツ軍の攻撃のすさまじさはギュンター・グラス原作の映画「ブリキの太鼓(die Blechtrommel)」を見るとよくわかる。
 「ブリキの太鼓」は、大人たちが酔っぱらって大騒ぎするのを見て、3歳のときに「大人にはならない」と心に決め地下室の階段から飛び降りて成長が止まった少年オスカルが主人公の物語。舞台は第一次世界大戦が終わりドイツ領から国際連盟管理下の自由市となったダンツィヒ。
 いつもブリキの太鼓を手放さないオスカルは、成長が止まったかわりに奇声でガラスを破壊する能力を身につけ、学校や近所でトラブルを引き起こす。一方、母親アグネスはドイツ人の夫アルフレートがいながら、従兄のヤン・ブロンスキーと奇妙な関係をもち続けていた。
 母親アグネスは(おそらく)ヤンの子どもを身ごもったことに気がつく。ところがストレスからか、毎日魚を猛烈に食べ続け、命を落としてしまう。
 ドイツ軍が攻めてきたとき、ヤンはオスカルに引き付けられるように勤め先のポーランド郵便局に入り、仲間たちと銃をとって籠城するはめになってしまった。
 このあたりの戦闘シーンは怖くなるくらいすごい迫力。
 ドイツ軍が攻めてくるまで建物の中で銃を構え息をひそめるポーランド人たちの緊張感。攻撃が始まると、砲撃や機関銃の銃弾で天井は落ち、部屋の中は破壊しつくされ、「ポーランド郵便局」の看板がかかる正面入り口も、正門も崩れ落ち、仲間たちは次々倒れていく。抵抗むなしく、夜明けには生き残った仲間とともにヤンは投降した。オスカルがヤンの姿を見たのはこのときが最後。オスカルは子供の姿だったのでドイツ兵に抱きかかえるように連れ出され無事だったが、捕虜になったポーランド人はみな銃殺されたことをあとで聞かされる。
 
 

 ワルシャワに入城したヒトラーは、二重の喜びだっただろう、と笹本氏は『第二次世界大戦下のヨーロッパ』で指摘している。
英仏はドイツに攻め込んでこない、と読んだヒトラーは、英仏の攻撃に備えて西部戦線にも主力部隊を残すべきと主張した軍首脳の反対を押し切り、ポーランド攻略に全力を注いだ。ワルシャワに入ったヒトラーは「歴史に前例のない輝かしい勝利」と有頂天だったが、「将軍たちにも勝った」という意味も含んでいたのでは、と笹本氏は言う。

 ヒトラーの読みは、西部戦線でも冴えわたった。当初、軍首脳は平坦なオランダ-ベルギー戦線に主力を投入する考えでいたが、ヒトラーは攻撃直前に軍参謀から提案のあったベルギー南部の丘陵地帯、アルデンヌの森に主力をもってくる作戦に独断で切り替えた。(位置関係は下図参照)
 1940年(昭和15年)5月10日、ドイツ軍はオランダ、アルデンヌの森、アルザス-スイス国境の3方面から侵入した。アルデンヌの森から攻撃した主力部隊は、フランスの不意を突き、一気にパリ迫っていった。フランス政府は6月11日に無防備都市宣言を行ってパリを放棄したので、パリの市街地は破壊を免れたが、6月22日にはフランス政府が降伏し、ドイツに協力するヴィシー政権が成立した。     
 以後、1944年8月25日に連合軍によって解放されるまで、パリはスワスティカ(Swastika)の旗のもと、ナチの軍靴に踏みにじられた。
  
 
 
 ドイツの快進撃は、独ソ不可侵条約以来、日本政府がもっていたドイツに対する不信感を吹き飛ばすのに十分であった。陸軍を中心に日本中が「バスに乗り遅れるな」とばかりにドイツとの軍事同盟の締結を急いだ。
 (次回に続く)

(追記)
 さて、「ブリキの太鼓」の続き。
 
 オスカルは、以前、両親に連れて行かれたときに知り合ったサーカスの道化師べブラと偶然、街中で出会う。10歳で成長を止めたべブラは、久しぶりの再会を喜び、オスカルをパリに連れて行く。そのときべブラはナチの前線慰問団の団長になっていて、軍服に身を固めていた。 
 オスカルはパリで「ガラス割りのオスカル」としてデビュー。同じ慰問団で、やはり成長が止まったロスヴィータ嬢との恋も芽生える。
 その後、べブラ一行はノルマンディーを巡業するが、時は1944年6月、押し寄せる連合軍の前に、オスカルたちは慌てふためいて軍用トラック車で逃げることになったが、ロスヴィータ嬢はコーヒー一杯を飲んでいる間に連合軍の艦砲射撃に吹き飛ばされてしまう。
 オスカルはダンツィヒの実家に戻り父親アルフレートと再会するが、今度は東から攻めてきたソ連軍の兵士に家に踏み込まれアルフレートは射殺されてしまう。
 原作は、戦後、オスカルが旧西ドイツに行った後も続くが、映画の方は、オスカルの乗った列車が西へ向かうところで終わる。

 
 
 まさに戦争に翻弄された一家の物語。
 ところが、それを悲しくもおかしくさせてしまうところがギュンター・グラス。映画の中でときおり入る「ボョョョョ~ン」という調子はずれな効果音がすべてを物語っているような気がする。