(前回からの続き)
1834年のドイツ関税同盟発足以来、プロイセン主導のもとに進められていたドイツ統一は、1870年7月19日に始まった普仏戦争でフランスを破り、南ドイツ諸邦をプロイセンの影響下に収めようやく完成することとなった。
フランスのナポレオン3世は9月2日に早々と降伏し、プロイセンのパリ入城に先立つ1871年1月18日、ヴェルサイユ宮殿鏡の間で、プロイセン国王ヴィルヘルム1世のドイツ皇帝即位式が行われ、ここにドイツ帝国が成立した。プロイセン首相ビスマルクも同時にドイツ帝国宰相に就任し、以後、ドイツの内政外交において辣腕ぶりを発揮した。
特に外交政策では普仏戦争後も敵対するフランスを孤立化させ、フランスとロシアを同時に敵に回す二正面戦争を回避するためロシアとの友好関係を築き、併せて、バルカン半島で利害対立するロシアとオーストリアの仲介役を果たすなど、巧みにヨーロッパにおけるドイツの安全保障の確立に努めた。
(ビスマルクの安全保障外交の動き)
1873年 独墺露三帝協約(君主制維持で一致)
(三帝は、ドイツ・ヴィルヘルム1世、オーストリア・フランツ=ヨーゼフ1世、
ロシア・アレクサンドル2世)
1881年 独墺露三帝条約(3国のいずれかが3国以外の国と開戦した場合、他の
2国は好意的中立を守る秘密条約、有効期間は3年)
1882年 独墺伊三国同盟(フランス包囲網)
1884年 独墺露三帝条約更新
1887年 独露再保険条約(オーストリアとロシアが対立し、三帝条約が継続が不
可能になった際の保険)
また、領土的野心のないビスマルクであったが、ドイツ国内での世論に押され、やはりここでも列強との対立を避けながら巧みに海外植民地を獲得していった。ヨーロッパ列強のアフリカ分割に際しては、1881年 ドイツ領東アフリカ(現在のタンザニア)、1884年、南西アフリカ(現在のナミビア)、トーゴ、カメルーンを保護下に置き、南太平洋でも、同じく1884年にはニューギニア北東部(現在のパプアニューギニアの北半分)を保護領にして「カイザー=ヴィルヘルム=ラント」と命名し、その北の島嶼部(現在はパプアニューギニア領)を保護領としビスマルク諸島とした。
(参考)外務省ホームページのパプアニューギニア紹介ページ
↓
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/png/index.html
しかし、1888年にヴィルヘルム1世が没してからドイツの外交政策は一変する。跡を継いだヴィルヘルム1世の長子フリードリッヒ3世が在位99日で病没し、フリードリッヒ3世の長子ヴィルヘルム2世がわずか29歳でドイツ皇帝の座についた。
野心家のヴィルヘルム2世にとってビスマルクはうっとおしい存在であり、皇帝と衝突したビスマルクは1890年辞任してしまった。ビスマルク外交の主眼はドイツの安全保障の確立であったのに対して、ヴィルヘルム2世の外交は、軍拡を進め、積極的に海外進出を図る「世界政策」であった。しかし、それは敵を増やし、ドイツを窮地に追いやることとなったと同時に、日本との対立の構図も浮かび上がらすこととなった。
まずは1890年。ドイツはロシア側の求めに対し独露再保険条約の更新を拒否した。その後、ロシアはフランスに接近し、1892年、露仏軍事協約が締結された。恐れていた二正面戦争の危機が迫ってきたのだ。
続いて1893年には積極的な植民地政策により対英関係も悪化した。
すると今度は東アジア政策でロシアと同一歩調をとるようになった。1895年には、ロシア、フランスとともに、日清戦争で日本が獲得した遼東半島の領有に干渉し、清に返還させるという事件がおこった(「三国干渉」)。←ようやく「日独交流」が出てきた
ヴィルヘルム2世は日本の軍事力の伸長を恐れていた。彼は「黄禍論」をとなえ、日清戦争に圧倒的勝利を収めた日本が中心となって黄色人種が政治的に結束する脅威を強調し、これに対抗すべき、と説いた。三国干渉は「黄禍論」に基づいた行動であった。
遼東半島を清に返還した見返りとしてドイツは、1897年、山東半島の膠州湾を租借した。その前年には宣教師殺害事件を口実に、膠州湾の入り口にある青島(チンタオ)を占領している。
さらに1898年には米西戦争に敗れたスペインからマリアナ、カロリン、パラオ諸島を買い取り、サモア諸島をアメリカと分割するに及び、ドイツは太平洋と東アジアに大きく勢力を伸ばしていった。
(次回に続く)
ベルリンの壁崩壊から20年以上が経過した2011年、ドイツでのできごとを東側の視点から紹介したいと思って始めたブログです。最近では美術展の紹介記事も多く書いています。これからも楽しい記事を載せたいと考えていますので、今後ともお付き合いください。
2011年7月22日金曜日
2011年7月15日金曜日
日独交流150周年(2)
(前回からの続き)
江戸幕府がプロイセンと日普修好通商条約を締結したのは、年の暮れも押しせまった万延元年12月14日。西暦では1861年1月24日、今年はそれから150年目にあたる。
この条約は、安政年間に締結された米、蘭、露、英、仏との「安政五か国条約」と同様、日本に不利な不平等条約であった。
幕末には悪いことがあるとすぐ改元してわかりづらいので、ここで西暦と元号の関係を整理する。なお、できごとは主に条約関連のものを記載した。日付は旧暦で表示した。
1858年 安政5年 6月19日 日米修好通商条約締結
7月10日 日蘭修好通商条約締結、その後7月中に、ロシア、イギリス、
フランスと立て続けに修好条約を締結(以上、安政の五か国条約)
1859年 安政6年 6月2日 神奈川(のち横浜に変更)、長崎、箱館で米、蘭、露、英、仏
と自由貿易を開始
(西暦では7月1日だが、私の住む横浜では毎年6月2日を開港記念日
として祝っている。この日は横浜市立の小中学校は休みなので、子
どものときはうれしかった)
1860年 安政7年 3月3日 桜田門外の変。大老 井伊直弼斬殺される。
(開港によりその後の繁栄の基礎を築いた井伊直弼は横浜の恩人。
今ではみなとみらい地区を見下ろす丘にある公園に、港の方向を
眺める井伊直弼像が立ち、その公園は井伊掃部守(かもんのかみ)
にちなみ掃部山公園と呼ばれている)
万延元年 3月18日 江戸城本丸炎上により万延に改元
1861年 12月14日 日普修好通商条約締結
万延2年
文久元年 2月19日 辛酉革命説により文久に改元(この年の干支は辛酉)
1862年 文久2年 8月21日 生麦事件
1863年 文久3年
1864年 文久4年
元治元年 2月20日 甲子革命説により元治に改元(この年の干支は甲子)
1865年 元治2年
慶応元年 4月7日 前年に勃発した禁門の変と京都大火により慶応に改元
1866年 慶応2年
1867年 慶応3年 10月14日 大政奉還
日普修好通商条約が締結されたのが、万延元年。プロイセン公使館を探す手がかりとした地図は文久二・三年の横浜地図なので、条約締結から1~2年。最初は他にあったものが(場所は不明)、この地に移ってきた。海側がプロイセン、その後ろがオランダとなっている。
しかし、横浜開港資料館で見た慶応年間の横浜地図によると同じ場所はフランス領事館とオランダ領事館が並列している。その地図にはプロイセン領事館の位置はどこにも示されていないが、2~3年でまた他の場所に移ったのだろうか。
1871年の普仏戦争でフランスを破りドイツ統一を成し遂げたプロイセンが、その4~5年前、逆にフランスに追い出された(?)形になっている。
(横浜開港資料館の公式サイト)
↓
さて、横浜に繁栄をもたらした列強との条約、開港であったが、不平等条約であったため、明治政府に外交上の大きな問題を残すことととなった。
それでも明治政府の懸命の交渉、日清・日露戦争の勝利による国際社会での地位の向上などにより、長い年月がたってようやく欧米列強との不平等条約は改善された。日独間の治外法権が廃止されたのは条約締結35年後の1896年(明治29年)、関税自主権が回復したのは、なんと50年後の1911年(明治44年)であった。
しかし、日独関係はこのあたりから対立の構図が際立ってくることになる。
(次回に続く)
2011年7月12日火曜日
日独交流150周年(1)
2011年は日独交流150周年。
今日、横浜の日本新聞博物館で開催中の日独交流150周年記念写真展「歴史と未来を紡いで」を見に行ってきた。そこで、前回のブログでアナウンスした「ベルリンの壁崩壊の過程」は次のシリーズにして、これから何回かに分けて日独交流150周年について、思いついたことを書いてみたい。
日本新聞博物館企画展のサイト
↓
http://newspark.jp/newspark/floor/info.html
写真展に出展されている作品は約130点。「産業・科学」「政治・外交」「スポーツ」などのジャンルに分かれていて、見やすくなっている。
「産業・科学」のコーナーでは、東ドイツの国民車「トラバント」が3台、白い煙を排気筒から勢いよく吐き出しながら街の中を疾走している写真があった。排ガス規制のなかった東ドイツでは、有害物資は出し放題。街中を歩いているときの鼻にツンとくる臭いと胸が息苦しくなる感触を思い出した。
日独両国は第1次世界大戦では戦火を交え、150年のちょうど真ん中にあたる75年目の1936年には日独防共協定が締結され、第2次世界大戦では枢軸国として連合国と戦った。写真展にも「第1次世界大戦」「ドイツ兵捕虜収容所」「政治・外交/戦前」というコーナーがあったので、それらの写真にも触れながらが話を進めてみる。
(次回に続く)
![]()
写真は、上が日本新聞博物館。
ついでに、文久二・三年の横浜地図を手がかりにプロイセン公使館の場所を確認しようとしたが、結局わからなかった。おそらくここではと思ったのが、旧生糸検査所、現在は、法務局や労働局など国の出先機関が入っている横浜第2合同庁舎。写真下は生糸検査所の趣を再現した入口。
場所はここです。
↓
http://publicmap.jp/print/20614404
今日、横浜の日本新聞博物館で開催中の日独交流150周年記念写真展「歴史と未来を紡いで」を見に行ってきた。そこで、前回のブログでアナウンスした「ベルリンの壁崩壊の過程」は次のシリーズにして、これから何回かに分けて日独交流150周年について、思いついたことを書いてみたい。
日本新聞博物館企画展のサイト
↓
http://newspark.jp/newspark/floor/info.html
写真展に出展されている作品は約130点。「産業・科学」「政治・外交」「スポーツ」などのジャンルに分かれていて、見やすくなっている。
「産業・科学」のコーナーでは、東ドイツの国民車「トラバント」が3台、白い煙を排気筒から勢いよく吐き出しながら街の中を疾走している写真があった。排ガス規制のなかった東ドイツでは、有害物資は出し放題。街中を歩いているときの鼻にツンとくる臭いと胸が息苦しくなる感触を思い出した。
撮影年月日を見ると、1989年11月24日とある。国境が開放され、ベルリンの壁が事実上崩壊したのが11月9日。すでに自由に通れるようになった検問所に向かっているところなのだろうか。気のせいか明るさと勢いを感じる。
「ベルリンの壁」というコーナーもちゃんとある。東ベルリンの壁の向こうから見えるソ連の戦車2台が砲塔をこちらに向けて構えているのが不気味。ドイツ統一の日、ブランデンブルグ門に市民が集まり祝っている光景は映像でも何度も見た。 日独交流150周年と言いつつ、興味の対象はやはりドイツ統一、東西ドイツに向いてしまう。
しかし、今回のシリーズでは、特に「世界大戦」をキーワードに日独交流史を見ていきたい。日独両国は第1次世界大戦では戦火を交え、150年のちょうど真ん中にあたる75年目の1936年には日独防共協定が締結され、第2次世界大戦では枢軸国として連合国と戦った。写真展にも「第1次世界大戦」「ドイツ兵捕虜収容所」「政治・外交/戦前」というコーナーがあったので、それらの写真にも触れながらが話を進めてみる。
(次回に続く)
写真は、上が日本新聞博物館。
ついでに、文久二・三年の横浜地図を手がかりにプロイセン公使館の場所を確認しようとしたが、結局わからなかった。おそらくここではと思ったのが、旧生糸検査所、現在は、法務局や労働局など国の出先機関が入っている横浜第2合同庁舎。写真下は生糸検査所の趣を再現した入口。
場所はここです。
↓
http://publicmap.jp/print/20614404
2011年7月11日月曜日
二度と行けない国「東ドイツ」(7)
(前回からの続き)
今まで訪れた海外の街の中で一番好きな街は、と聞かれると、「プラハとブハラ」と答えることにしている。もちろん他にも好きな街はたくさんあり、それぞれの良さがあるので、どれが一番かと言われると困ってしまうが、語呂の良さと思い入れの強さからか、あるとき人から聞かれて自然と口から出てしまったので、あながちはずれてはないだろう。
プラハはそれほどまでに好きな街。プラハについて語っているといつまでたっても終わらないので、別の機会に登場いただくとして、ここは先を急ぐ。
そう、今回のテーマは「東ドイツ式外国人歓迎法」だ。なぜ東ドイツの人は外国人観光客に冷たいのか。それはモスクワからの帰りの飛行機で偶然判明した。
モスクワ発成田行きのアエロフロートはヨーロッパ各地から多くの日本人を乗せて飛んでくる。私が乗ったのは東ドイツから来た便で、隣には東ベルリンに1年間住んでいるという日本人女性が座っていた。
私は、東ドイツでの体験を話した。するとその女性は、
「そうなんです。東ドイツの人は外国人に冷たいんです。私にもこんな経験がありました。朝、アパートの窓を開けて、たまたま向かいのアパートの東ドイツ人の女性が窓を開けていていました。目が合ったので挨拶しようとしたら、その女性はあわてて窓をバタンと閉めてしまいました」
「なんでそんな対応をするのですか」
「悲しいことですが、東ドイツは強い相互監視の社会なのです。西側と認識されている私たち日本人と何か話をしていたというだけで密告され、社会的地位を失ったりするんです。だから、西側の人間とは関わりをもちたくないのです。シェーネフェルト空港であなたに声をかけた中年の女性は、困っている外国人観光客を助けてあげたいという気持ちがよっぽど強かったのでしょう。それでも、『道を教えてあげているだけですよ』と周囲に強調したかったので、ドイツ語でなく外国人でもわかる英語で話しかけてきたのです」
「相互監視の社会、ですか」
やっぱり二度と行きたくない、私はあらためてそう感じた。
国家保安省(Ministerium für Staatssicherheit)、略して「シュタージ(Stasi)」という諜報組織があることを知り、詳しく調べるようになったのは、それから数年後のことであった。
ドレスデン中央駅の食堂で会った革ジャン君たちの話はしなかった。でも、なぜ彼らが外国人と親しく話をしたのか察しはつく。彼らは、社会主義体制の枠外にいるので自由に振る舞えるのだ。
それにしても、こんな国にみんなよく我慢していられるな、と思ったが、実は、ハンガリーがオーストリアとの国境の鉄条網を撤去した5月から8月中旬までに、ハンガリー経由で約7000人の東ドイツ市民が西側に脱出して大きなニュースになっていた。日本に帰ってから初めて知ったが、すでに私の東ドイツ滞在中からベルリンの壁崩壊の過程は始まっていたのだ。
(「二度と行けない国『東ドイツ』」の項は終わりです)
(追記)
「次の機会に」と先送りした宿題が次から次へと増えてしまった。ドレスデン中央駅を包む緊張、プラハ、シュタージ、ベルリンの壁崩壊の過程。関連する部分もあるが、少しづつ触れていくことにしたい。
それから、冒頭の「ブハラ」は中央アジアのウズベキスタンにある中世の趣を残している街。プラハも、幸いにして二つの大戦で大きな被害を受けず、中世の面影がそのまま残っている。
今まで訪れた海外の街の中で一番好きな街は、と聞かれると、「プラハとブハラ」と答えることにしている。もちろん他にも好きな街はたくさんあり、それぞれの良さがあるので、どれが一番かと言われると困ってしまうが、語呂の良さと思い入れの強さからか、あるとき人から聞かれて自然と口から出てしまったので、あながちはずれてはないだろう。
プラハはそれほどまでに好きな街。プラハについて語っているといつまでたっても終わらないので、別の機会に登場いただくとして、ここは先を急ぐ。
そう、今回のテーマは「東ドイツ式外国人歓迎法」だ。なぜ東ドイツの人は外国人観光客に冷たいのか。それはモスクワからの帰りの飛行機で偶然判明した。
モスクワ発成田行きのアエロフロートはヨーロッパ各地から多くの日本人を乗せて飛んでくる。私が乗ったのは東ドイツから来た便で、隣には東ベルリンに1年間住んでいるという日本人女性が座っていた。
私は、東ドイツでの体験を話した。するとその女性は、
「そうなんです。東ドイツの人は外国人に冷たいんです。私にもこんな経験がありました。朝、アパートの窓を開けて、たまたま向かいのアパートの東ドイツ人の女性が窓を開けていていました。目が合ったので挨拶しようとしたら、その女性はあわてて窓をバタンと閉めてしまいました」
「なんでそんな対応をするのですか」
「悲しいことですが、東ドイツは強い相互監視の社会なのです。西側と認識されている私たち日本人と何か話をしていたというだけで密告され、社会的地位を失ったりするんです。だから、西側の人間とは関わりをもちたくないのです。シェーネフェルト空港であなたに声をかけた中年の女性は、困っている外国人観光客を助けてあげたいという気持ちがよっぽど強かったのでしょう。それでも、『道を教えてあげているだけですよ』と周囲に強調したかったので、ドイツ語でなく外国人でもわかる英語で話しかけてきたのです」
「相互監視の社会、ですか」
やっぱり二度と行きたくない、私はあらためてそう感じた。
国家保安省(Ministerium für Staatssicherheit)、略して「シュタージ(Stasi)」という諜報組織があることを知り、詳しく調べるようになったのは、それから数年後のことであった。
ドレスデン中央駅の食堂で会った革ジャン君たちの話はしなかった。でも、なぜ彼らが外国人と親しく話をしたのか察しはつく。彼らは、社会主義体制の枠外にいるので自由に振る舞えるのだ。
それにしても、こんな国にみんなよく我慢していられるな、と思ったが、実は、ハンガリーがオーストリアとの国境の鉄条網を撤去した5月から8月中旬までに、ハンガリー経由で約7000人の東ドイツ市民が西側に脱出して大きなニュースになっていた。日本に帰ってから初めて知ったが、すでに私の東ドイツ滞在中からベルリンの壁崩壊の過程は始まっていたのだ。
(「二度と行けない国『東ドイツ』」の項は終わりです)
(追記)
「次の機会に」と先送りした宿題が次から次へと増えてしまった。ドレスデン中央駅を包む緊張、プラハ、シュタージ、ベルリンの壁崩壊の過程。関連する部分もあるが、少しづつ触れていくことにしたい。
それから、冒頭の「ブハラ」は中央アジアのウズベキスタンにある中世の趣を残している街。プラハも、幸いにして二つの大戦で大きな被害を受けず、中世の面影がそのまま残っている。
2011年7月9日土曜日
二度と行けない国「東ドイツ」(6)
(前回からの続き)
入国審査のあとは検札。赤ら顔で小太りの車掌がコンパートメントに顔を出した。まずチェコ人のおばさんの切符に目を通し、黙って返す。続いて私。財布から切符を出して車掌に渡す。すぐ返すのかと思ったら、なんと
「この切符ではプラハに行けない」と言い出す。
「そんなことはない。日本でちゃんとプラハまで注文したんだ」と言い返す。
すると車掌、
「この切符ではひとつ前の駅までしか行けない」
「プラハって書いてあるじゃないか」
「いや、これでは途中で降りてもらうしかない」
しばらく押し問答がつづいたあと、車掌はあごをしゃくって、
「ちょっと来い」と言う。
仕方なくついて行く。2両ほど歩いただろうか、車両の連結部で車掌が立ち止りこちらを振り向いた。
「おい、お前、西ドイツの50マルク札をもっているだろ」
しまった、切符を出すとき、財布の中を見られたのだ。
「あれをよこせば許してやる」
なんだ、この車掌はワイロがほしかったのか。
50マルクといったら大金だ。当時のレートは1マルク80円ぐらいだったろうか。約4,000円だ。
ワイロを要求されることがわかっていたら、少額紙幣を用意していたのに、と思ったがもう遅い。持っている外貨はこれだけで、あとは日本円だ。
あれこれ考えたが、いい知恵も浮かばず、この窮地から脱却するには50マルク札を渡すしかなかった。
50マルクを受け取った車掌は、もういい、といったしぐさを見せて、私たちのコンパートメントとは反対の方向に歩いていった。
コンパートメントにもどり、向かいに座っているおばさんに一部始終を話すと、おばさんは右手で自分の前を払うようなしぐさを見せ、「50マルク!」と言って天を仰いだ。
プラハにはどうにかたどり着くことができた。夕暮れの迫るホームを歩いていたら、人ごみの前の方に、ワイロ車掌が歩いているのが見えた。
私たちは、
「ああやって小遣い稼ぎしているんだろうな」とか、
「今日は家族においしいものを買って帰るんだろうな」とか言って、うさを晴らすしかなかった。
東ドイツの暗い街からきたせいか、プラハの街はオレンジ色の街灯があちこちに輝いて、明るく感じられた。レストランにも何の問題もなく入ることができ、夕食をとった。
メニューは直径20㎝以上ある骨付き豚肉のかたまり。ナイフとフォークで格闘しながら食べた。もちろんチェコビールを飲みながら。
実は、今回の旅行では8ミリビデオをもっていった。このブログを書くため押入れから久しぶりに出したが、故障して動かない。この料理も撮ったのだが、残念ながら見ることができない。ビデオで撮っていたので、写真は撮らなかった。
その晩、豚肉の食べすぎか、床についた時、ものすごい胸焼けに襲われたが、おいしい料理をたらふく食べ、おいしいビールをたっぷり飲むことができた喜びにひたりながら眠りにつくことができた。
(次回に続く)
入国審査のあとは検札。赤ら顔で小太りの車掌がコンパートメントに顔を出した。まずチェコ人のおばさんの切符に目を通し、黙って返す。続いて私。財布から切符を出して車掌に渡す。すぐ返すのかと思ったら、なんと
「この切符ではプラハに行けない」と言い出す。
「そんなことはない。日本でちゃんとプラハまで注文したんだ」と言い返す。
すると車掌、
「この切符ではひとつ前の駅までしか行けない」
「プラハって書いてあるじゃないか」
「いや、これでは途中で降りてもらうしかない」
しばらく押し問答がつづいたあと、車掌はあごをしゃくって、
「ちょっと来い」と言う。
仕方なくついて行く。2両ほど歩いただろうか、車両の連結部で車掌が立ち止りこちらを振り向いた。
「おい、お前、西ドイツの50マルク札をもっているだろ」
しまった、切符を出すとき、財布の中を見られたのだ。
「あれをよこせば許してやる」
なんだ、この車掌はワイロがほしかったのか。
50マルクといったら大金だ。当時のレートは1マルク80円ぐらいだったろうか。約4,000円だ。
ワイロを要求されることがわかっていたら、少額紙幣を用意していたのに、と思ったがもう遅い。持っている外貨はこれだけで、あとは日本円だ。
あれこれ考えたが、いい知恵も浮かばず、この窮地から脱却するには50マルク札を渡すしかなかった。
50マルクを受け取った車掌は、もういい、といったしぐさを見せて、私たちのコンパートメントとは反対の方向に歩いていった。
コンパートメントにもどり、向かいに座っているおばさんに一部始終を話すと、おばさんは右手で自分の前を払うようなしぐさを見せ、「50マルク!」と言って天を仰いだ。
プラハにはどうにかたどり着くことができた。夕暮れの迫るホームを歩いていたら、人ごみの前の方に、ワイロ車掌が歩いているのが見えた。
私たちは、
「ああやって小遣い稼ぎしているんだろうな」とか、
「今日は家族においしいものを買って帰るんだろうな」とか言って、うさを晴らすしかなかった。
東ドイツの暗い街からきたせいか、プラハの街はオレンジ色の街灯があちこちに輝いて、明るく感じられた。レストランにも何の問題もなく入ることができ、夕食をとった。
メニューは直径20㎝以上ある骨付き豚肉のかたまり。ナイフとフォークで格闘しながら食べた。もちろんチェコビールを飲みながら。
実は、今回の旅行では8ミリビデオをもっていった。このブログを書くため押入れから久しぶりに出したが、故障して動かない。この料理も撮ったのだが、残念ながら見ることができない。ビデオで撮っていたので、写真は撮らなかった。
その晩、豚肉の食べすぎか、床についた時、ものすごい胸焼けに襲われたが、おいしい料理をたらふく食べ、おいしいビールをたっぷり飲むことができた喜びにひたりながら眠りにつくことができた。
(次回に続く)
2011年7月6日水曜日
二度と行けない国「東ドイツ」(5)
(前回からの続き)
実は、「二度と行けない国『東ドイツ』」は、1983年に出版された『行ってみたい東ドイツ~DDRの魅力』(サイマル出版会)へのアンサーソングだ。行ってみたいけど、もう二度と行けない。その本の裏表紙には、
「歴史的な首都ベルリン、バロック芸術の街ドレスデン、静寂が身を包むチューリンゲンの森、石畳にバッハが流れる商業の街ライプツィヒ。ポツダム、ワイマール、そして中世の繁栄を伝える港町ロストックなど・・・DDRにはさまざまな顔がある」
と高らかにうたわれている。東ドイツは見どころが多い。これはまぎれもない事実だ。
本文でも、それぞれの街や森が紹介されていて、写真もふんだんに使われれているので、読んでいるだけで楽しい。旅のガイドブックとしては今でも十分に通用すると思う。
DDRを訪問した日本の著名人の短い旅行記も掲載されている。もちろん、彼らは私たちのような「招かれざる個人旅行者」ではなく、東ドイツ政府に「招かれた来賓」として歓待されたので、レストランで食事ができなかったという体験はない。
産業や文化についても良いことばかり書かれ、工業については「世界で最も工業化の進んだ国の一つ」と称えられている。実態があまりにひどかったのは、当時の西ドイツでさえ見抜けなかったことは第1回目のブログでも触れた。 「外国人観光客の場合は、そのほとんどがインターホテルに宿泊している。日本人観光客が宿泊するホテルでは、日本人向けのサービスとして、浴用スリッパ、浴衣などが用意されている」とある。
しかし、浴衣はなかったように記憶している。まあ、バロック芸術の街で浴衣もないと思うが。
また、インターホテル・チェーンは、DDR国内に31のホテルをもつとのこと。やっぱり統一後は、チェーンごと西側の資本に買収されたのだろう。
右の写真は『行ってみたい東ドイツ』の表紙。出版社も廃業して、本も絶版になっているが、図書館にはあると思うので、興味のある方はご一読を。
さて、次の目的地はプラハ。親しく話をした若者にも出会えたが、東ドイツの人たちの冷たい対応にはほとほと疲れ、「もう二度と来たくないな」と思いつつ、私はドレスデンからプラハに向かう列車に乗った。
繰り返しになるが、旧DDRには見どころが多い。列車は途中、「ザクセンのスイス(Sächsische Schweiz)」と呼ばれる渓谷地帯を縫うように通っていく。奇岩がそそり立つ山肌や、澄み切った川面を見ながら、同じコンパートメントで向かいに座ったチェコ人のおばさんと話をしているうちに沈んでいた気持ちも少しづつ和らいできた。(ザクセンのスイスについてはザクセン州のホームページをご参照ください)
↓
http://www.regionen.sachsen.de/1601.htm
チェコ人のおばさんは東ドイツの知り合いのつてをたよって買い出しに行ってきたとのこと。座席の横には大きな包みがある。
列車が走っているうちに出入国管理官がコンパートメントに回ってきて、入国手続きを行う。私たちは無事、チェコスロバキアに入国できた。黄金のプラハ、我が愛すべきフランツ・カフカの生まれ育ったプラハはあと少しだ。
ところが、プラハに着く前にまた思いもかけぬトラブルに見舞われることになる。
(次回に続く)
(写真の説明)
上は東ドイツのビザ。都市および農村の勤労者を表す穂の輪に囲まれた鎚とコンパスのエンブレムのスタンプが誇らしげに押されている。
下は東ドイツの紙幣と硬貨。20マルク札の肖像はゲーテ。ゲーテの下には1マルク硬貨を表裏にして置いた。ここにも東ドイツのエンブレムが。それにしても1マルクは軽い。アルミニウムでできていてまるで1円玉のよう。軽いのは重さだけでなく、価値も軽かった。ドイツ統一にさきがけ1990年7月の東西ドイツの通貨同盟では公称の交換レートは1:1だったが、実際には1:5またはそれ以下だったと言われている。
2011年7月2日土曜日
二度と行けない国「東ドイツ」(4)
(前回からの続き)
私たちはドレスデンの旧市街を中心に散歩していた。ちょうどブリュールのテラスあたりを歩いていたとき、若い女性の先生に連れられた幼稚園ぐらいの子どもたちの一群と出くわした。子どもだったら冷たい反応はしないだろうと思い、私は手を振ってみた。
すると、十人ぐらいいた男の子や女の子は、全くの無表情でじーっとこちらを見つめている。
「ああ、子どもたちまでも」
私はいたたまれなくなり、その場を離れた。
さて、夕食。ドレスデン中央駅の中の食堂なら旅行者も相手にしているので入れるだろうと思い、中央駅に向かった。中央駅といっても、前回お見せした写真のように、旅行者の乗降はあるが、至って静かなたたずまい。それでも食堂はある。
中に入ると、空いている席にどうぞ、という感じ。とりあえずは一安心。しかし、店の中を見渡すと、でかい図体で、長髪に革ジャン、髭はぼうぼうという若い連中が5~6人、飲み食いしながら大声で騒いでいる。
一瞬、「これはまずいところに入ったな」と思ったが、だからといって出るわけにもいかず、ビールと料理を注文した。
そのうちに、革ジャン軍団の一人が私たちの存在に気がつき話しかけてきた。目は座っていて、ろれつもまわらず、そうとう酔っぱらっているようだ。
ところが、「どこから来たんだ。そうか、日本か」とか、「日本のどこに住んでいるんだ」とか親しげに話しかけてくる。
私はうれしくなり、しばし会話を続けた。![]()
そのうちにビールと料理も出てきて、話しかけてきた革ジャン君も軍団にもどり、自分たちだけで盛り上がっていたので、静かに料理にありつくことができた。
帰り際に、「帰るね」と革ジャン君に声をかけると、笑顔で「また来いよ」という声が返ってきた。わずかの間の会話であったが、こんな親しげに話をしたのは東ドイツでは初めだ。
宿は駅から歩いてすぐの「インターホテル」。ホテルまでの短い距離を歩きながら、何だか救われたような気になった。
(次回に続く)
(前回の補足)
現在の聖母教会の写真は、ドレスデン市の観光案内の聖母教会のページで見ることができます。
↓
http://www.dresden.de/dtg/de/sightseeing/sehenswuerdigkeiten/historische_altstadt/frauenkirche.php
前回紹介したドレスデン市観光のトップページでは、一番左のドーム型の屋根をもった新しい建物が聖母教会です。
私たちはドレスデンの旧市街を中心に散歩していた。ちょうどブリュールのテラスあたりを歩いていたとき、若い女性の先生に連れられた幼稚園ぐらいの子どもたちの一群と出くわした。子どもだったら冷たい反応はしないだろうと思い、私は手を振ってみた。
すると、十人ぐらいいた男の子や女の子は、全くの無表情でじーっとこちらを見つめている。
「ああ、子どもたちまでも」
私はいたたまれなくなり、その場を離れた。
さて、夕食。ドレスデン中央駅の中の食堂なら旅行者も相手にしているので入れるだろうと思い、中央駅に向かった。中央駅といっても、前回お見せした写真のように、旅行者の乗降はあるが、至って静かなたたずまい。それでも食堂はある。
中に入ると、空いている席にどうぞ、という感じ。とりあえずは一安心。しかし、店の中を見渡すと、でかい図体で、長髪に革ジャン、髭はぼうぼうという若い連中が5~6人、飲み食いしながら大声で騒いでいる。
一瞬、「これはまずいところに入ったな」と思ったが、だからといって出るわけにもいかず、ビールと料理を注文した。
そのうちに、革ジャン軍団の一人が私たちの存在に気がつき話しかけてきた。目は座っていて、ろれつもまわらず、そうとう酔っぱらっているようだ。
ところが、「どこから来たんだ。そうか、日本か」とか、「日本のどこに住んでいるんだ」とか親しげに話しかけてくる。
私はうれしくなり、しばし会話を続けた。
そのうちにビールと料理も出てきて、話しかけてきた革ジャン君も軍団にもどり、自分たちだけで盛り上がっていたので、静かに料理にありつくことができた。
帰り際に、「帰るね」と革ジャン君に声をかけると、笑顔で「また来いよ」という声が返ってきた。わずかの間の会話であったが、こんな親しげに話をしたのは東ドイツでは初めだ。
宿は駅から歩いてすぐの「インターホテル」。ホテルまでの短い距離を歩きながら、何だか救われたような気になった。
(写真は、上がホテルから見たドレスデン中央駅の全景。約40日後の10月5日、ここは東ドイツ崩壊の動きの中で大きな緊張に包まれることになる。この話はまたあらためて。そして、下が駅前広場から続く通りとインターホテル。ドイツの新しい観光ガイドブックを見たら「インターホテル」の名前は見当たらなかった。西の資本に買収されたのだろうか。)
(前回の補足)
現在の聖母教会の写真は、ドレスデン市の観光案内の聖母教会のページで見ることができます。
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前回紹介したドレスデン市観光のトップページでは、一番左のドーム型の屋根をもった新しい建物が聖母教会です。
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