2023年12月13日水曜日

大倉集古館 企画展「大倉組商会150周年 偉人たちの邂逅 近現代の書と言葉」

東京・虎ノ門の大倉集古館では、企画展「大倉組商会150周年 偉人たちの邂逅 近現代の書と言葉」が開催されています。

大倉集古館外観

大倉組商会が設立されて150年を迎えた今年(2023年)の最後を飾る今回の企画展は、大倉組商会創設者・大倉喜八郎氏(1837-1928)の流麗な書、漢詩を好んだ嗣子・喜七郎氏(1882-1963)による端整な書、さらには両氏と交流があり、私たちが歴史の教科書でしか知らなかった日中の偉人たちによる書を中心に約70件の作品が見られる展覧会。
展示室内には両氏が活躍した激動の明治・大正・昭和の時代にタイムスリップしたような不思議な空間が広がり、わくわくした気分になってきますので、さっそく展覧会の様子をご紹介したいと思います。

展覧会開催概要


会 期  2023年11月15日(水)~2024年1月14日(日)
 ※一部作品の巻替えや展示替えがあります。
 ※1/1-1/14は、お正月にふさわしい大倉集古館所蔵の絵画や工芸品も特別展示されます。
開館時間 10:00-17:00(入館は16:30まで)
休館日  毎週月曜日(祝休日の場合は翌平日、但し1/1、1/2は開館)、12/29-12/31
 ※年始は1/1から開館。
入館料  一般 1,000円、大学生・高校生 800円、中学生以下無料
 ※展覧会の詳細、各種割引料金等は同館公式サイトをご覧ください⇒大倉集古館
 ※展示室内は撮影禁止です。掲載した写真は主催者より広報用にお借りしたものです。
 ※掲載した作品はすべて大倉集古館蔵です。 

展示構成
 第1章 大陸とのつながり
 第2章 大倉喜八郎の光悦流、そして狂歌の流れ
 第3章 近代日本をつくった偉人の書
 第4章 大倉喜七郎と松本芳翠、そして漢詩の友


第1章 大陸とのつながり


第1章には、大倉財閥の中国での事業を通じて知り合った現地での有力者たちの書をはじめとした作品が展示されています。

最初にご紹介するのは、昭和3年(1928)4月22日に亡くなった大倉喜八郎氏の告別式で掲げられた弔旗。寄贈したのは、喜八郎氏と親しかったと言われた、北洋軍閥の巨頭・張作霖。

張作霖寄贈《弔旗「靍馭興悲」》
民国17年(1928) 

右の「大倉鶴彦先生千古」のうち、「鶴彦」は喜八郎氏の号、「千古」とは「永遠に」という意味で、中央の「靍馭興悲」は「靍(=喜八郎氏)が逝き悲しみがおこった」という意味で、張作霖の悲しみの深さがひしひしと伝わってくる作品です。
(作品のキャプションには書かれている文字の意味の解説があるので、内容を理解するのに役立ちます。)

さて、「張作霖」と聞いて、最初は「満州某重大事件」と言われ、のちに関東軍の仕業とわかった「張作霖爆殺事件」を思い浮かべる方もいらっしゃるのではないでしょうか。

当時、「満蒙は日本の生命線」と言われ、満蒙(中国東北部と内モンゴル東部)の権益に執着した日本の支援により張作霖は満州を統一。その後、張作霖は北京に進出しましたが、蒋介石の北伐軍に圧倒されて北京から汽車で奉天(現 瀋陽)に引き上げる途中、張作霖を見限った関東軍によって奉天郊外で汽車もろとも爆殺されてしまったのです。
時に昭和3年(1928)6月4日、大倉喜八郎氏が亡くなってわずか43日後のことでした。

展示室では、張作霖の《弔旗「靍馭興悲」》と並んで、その張作霖と対峙した蒋介石の《弔旗「普天同吊」》、そして張作霖の長男で、父の爆死後、蒋介石の国民政府に合流して抗日運動に努めた張学良が喜八郎氏の一周忌法要にあわせて揮毫した《挽聯 (篆書長聯)》が並んで展示されています。
この展示を見て、喜八郎氏の敵味方の枠を超えた交流の広さにあらためて驚かされました。

第2章 大倉喜八郎の光悦流、そして狂歌の流れ


大倉喜八郎氏は本阿弥光悦(1558-1637)の書を好み、《源氏物語絵巻》《平家納経》など多くの古画、古筆を復元模写した日本美術研究家・田中親美やその弟子に本阿弥光悦の書の料紙をイメージしたものを依頼して、光悦流の優美な書を残しています。
(田中親美は三組の《平家納経》の模本を制作しましたが、そのうちの一組が喜八郎氏が依頼した大倉本(大倉集古館所蔵)です。)

こちらはメインビジュアルになっている大倉喜八郎氏の書《感涙会の歌》です。

大倉喜八郎筆《感涙会の歌》大正11年(1922)

本阿弥光悦は、江戸時代初期の能書家で「寛永の三筆」のひとりですが、「琳派の祖」俵屋宗達とのコラボ作品を制作したことでもよく知られています。

《詩書巻》は、木蓮の下絵の上に光悦が漢詩12篇を書したもので、情緒豊かな木蓮の下絵は宗達が関わった可能性が高いとされています。


本阿弥光悦筆《詩書巻》(部分) 
江戸時代・17世紀


大倉集古館では、宗達が金銀泥で池に咲く蓮を描き、光悦が「小倉百人一首」を書した《蓮下絵百人一首和歌巻》が所蔵されていましたが、惜しくも関東大震災で焼失してしまいました。今回の企画展では複製が展示されているので、宗達と光悦のコラボ作品の優雅さをぜひ感じ取っていただきたいです。

喜八郎氏(号 鶴彦)が主に使用したとされる木印や石印も展示されています。中には号の鶴彦の鶴が文字でなく、鶴の絵と彦の文字が刻まれたとても可愛らしい印もありました(下の写真左手前)。

喜八郎氏のお気に入りは、中国清末の画家で、詩・書・画・篆刻で独自の境地を拓き「四絶」と称された呉昌硯(1844-1927)の印章で、本人に依頼した印も残されているのです。

岡部香塢ほか刻《大倉喜八郎所用印》
大正~昭和初期・20世紀



第3章 近代日本をつくった偉人の書


この章では、大倉家との交流を通じて大倉集古館に収蔵されることになった明治~大正時代の日本を担った偉人たちの書が展示されています。

中でも特に気になったのが伊藤博文の書《於日露交渉所感詩》。


伊藤博文筆《於日露交渉所感詩》明治37-42年(1904-09)

これは、明治37年(1904)、ロシアとの開戦が決定され、当時枢密院議長であった伊藤博文が多年の対露交渉が空しくなってしまったことへの無念を詩に託したもので、文中の「友人某」は、アメリカに早期休戦の便宜を図るため伊藤が渡米を要請した枢密院顧問官の金子堅太郎のことです。
(原本はくずし字で読みにくいのですが、各作品のキャプションには書かれている文章が掲載されているので助かります。)

日露戦争開戦前は、伊藤博文、井上馨らが提唱した「日露協商論」と、山形有朋、桂太郎、小村寿太郎らが提唱した「日英同盟論」が対立し、結果的には明治35年(1902)に締結された日英同盟を後ろ盾にして日露戦争が始まったという経緯がありました。

日本は日本海海戦で勝利したものの、軍資金が枯渇し、ロシアも第1次ロシア革命が勃発してどちらも戦争継続が困難になりアメリカの仲裁でポーツマス条約が締結され、日本は遼東半島南部の租借権や樺太の南部などを獲得しましたが、賠償金要求は放棄せざるを得ませんでした。
窮状に陥った日本がようやく戦争を終結できたことなど知らされていなかった国民は賠償金が取れなかったことに怒り、東京の日比谷公園で開催された講和反対国民大会が暴動化した日比谷焼打ち事件はよく知られています。

伊藤博文の書の隣には、大倉喜七郎氏がこの書を入手したのち、金子堅太郎に揮毫を依頼した書《春畝公所感詩に対する和韻詩》が並んで展示されています。
この書には、日露戦争のさなかの緊迫した状況で平和を願う金子の心情が露呈されているのです。
悲しいことに現在でも地球上では各地で戦争が続いている中であるからこそ、伊藤と金子の書からは平和へのメッセージが強く感じられました。

ほかにも大倉喜八郎氏と親交の深かった近代日本資本主義の父・渋沢栄一の書、日本海海戦時の連合艦隊司令長官・東郷平八郎の書、代々和歌と書道に通じた有栖川宮家の書をはじめとした著名人の書が展示されています。

渋沢栄一筆《大倉定七墓碑銘並びに識語》
大正14年(1925)


第4章 大倉喜七郎と松本芳翠、そして漢詩の友


大倉喜八郎氏の光悦流の流麗な書も魅力的ですが、漢詩の復興に努めた喜七郎氏の端整な書にも心を惹かれます。
こちらは年始に宮中で行われる「歌御会始」において、大正15年に出された宸題「河水清」を喜七郎氏が漢詩で日向の五瀬川の景観を天孫の時代の美しい面影と重ね合わせて詠んだ書です。

大倉喜七郎筆《宸題「河水清」》
大正15年(1926)


ほかにも喜七郎氏の書の師で「楷書の芳翠」と呼ばれた松本芳翠(1893-1971)や、交流のあった漢詩人たちの書が展示されています。

松本芳翠筆《録沈石田安居歌》昭和4年(1929)

大倉集古館の建物裏手に設置されている喜七郎氏の業績を記した《大倉聴松翁頌徳碑》は芳翠の筆によるものなので、次の機会にはぜひ拝見したいです。


書をたしなむ方も、歴史ファンも、漢詩ファンも、琳派のファンも、みなさんが楽しめる展覧会です。
ぜひご覧ください!