2012年3月4日日曜日

旧東ドイツ紀行(11)

11月14日(月)続き  ベルリン
ホテルの部屋に戻り、暖かい日本茶で一息ついてから、お昼を食べるところを探しに表に出ることにした。
この日もやはり野菜に飢えていた。ドイツにはイートインできるベーカリーショップが街のいたるところにある。そこで野菜をはさんだパンを食べるか、と考えながら、ホテルの横のアーケードを通って裏手に行ったら、なんと懐かしの「Subway」の看板。
 日本では数えるほどしか入ったことがなく、行きの成田空港で久しぶりに入った「Subway」だが、ベルリンではこの看板がどれだけ心強く感じたことか。
迷わず中に入り、セサミパンにありったけの野菜をはさんでもらい、デザート代わりのチョコナッツクッキーを注文した。
さて、ここで困ったのがコーヒー。料金を払ってカップをもらい、レジの横にあるコーヒーメーカーに置いて、好きなもののボタンを押すのだが、ブラックコーヒーらしきものがなかったので、「エスプレッソ」を押したら、カップの底の方にちょぼちょぼしか出てこなかった。
店員のおねえさんに「ブラックコーヒーが飲みたくてエスプレッソを押したらこんな少ししか出てこなかったのですけど」
と言ったら、「ブラックはこれです」と言って、「Café Créme」のボタンを指さした。そして、悲しげにカップの底の方を見ていた私を憐れに思ったのだろうか、「もう一回押してもいいですよ」と笑顔で言ってくれた。
私はお礼を言って、カップなみなみになったコーヒーを持って席につき食事を始めた。

それにしても不可解だ。カプチーノのボタンはあったし、「Café Créme」を押したらミルクコーヒーが出てくるものとばかり思っていたが、どうやら最近のドイツでは「Café Créme」とはブラックコーヒーのことをさすようだ。翌日入ったアレキサンダー広場駅のベーカリーショップもそうだった。

Café Crémeは少し薄めだが、野菜サンドにかけた少し辛めのドレッシングでひりひりした口にはちょうどよく、すっきりした味わい。
野菜サンドを食べ終え、クッキーに移ったときには、底の方に残っていたエスプレッソの濃い味が出てきてクッキーの甘みとよく合う。
野菜もたくさん食べたし、親切な店員のおねえさんのおかげで二種類のコーヒーも味わえたしで、満足してSubwayを出た。

ホテルの横のアーケードにはスーベニアショップもある。トラバントのミニカーもずらりと並んでいた。
これは前から探していた白いトラバント。やっぱりトラバントは白が私のイメージにぴったりくる。




 さらに、箱に入った小さめのもあったので、全色買ってしまった。






「トラバントは排ガス規制の関係でもう道路は走れないんですか。なにしろ有毒ガスをそのまま出しててますからね」とレジで店員のおねえさんに聞いてみた。
おねえさんは少し考えながら、
「んー、それもあるけど、メンテが大変なんで台数が少なくなったんだと思います。今では貴重な存在ですよ」
良くも悪くもDDRの象徴「トラバント」、やはり博物館に保存しないと私たちの目の前から消え失せてしまうのだろう。私もせめてミニカーでDDRの記憶を残していきたい。

 さて、ここで少し話題を変えて、最近、日本で問題になっている自転車の走行について。
まず、ドイツでは自転車は原則、車道のはしを走ることになっていて、交差点にさしかかると自転車用のレーンが示される。歩道を通る区間もあるが、自転車の通行帯がはっきり分かるようになっている。
日本でもこういったハード面では整備が進んでいる地域もあるが、日本と決定的に違うのは、ドイツ人は交通ルールを守る、ということ。
赤信号で止まる、歩道では徐行する、横断歩道を歩いている人を見たら止まる。携帯で通話しながら走っている人なんていない。
 当たり前のことばかりだが、これらがすべてきちんと守られている。
自転車無法地帯の日本から来て、どうしてこんなに違うんだろうと、考えながら、新鮮な思いで自転車に乗っている人たちを眺めていた。
おそらく、ドイツはヨーロッパの国の中では例外的に交通マナーのいい国だろう。
具体的な国名は言わないが、特に大都市でのドライバーのマナーの悪さはひどい。横断歩道を人が渡っていても平気で猛スピードで横を通り抜けていく、前が詰まっていても交差点に進入して、案の定、交差点内で止まってしまう、クラクションを鳴らすのは当たり前、こういった国をいくつも見てきた。

歩行者も同じだ。横断歩道にさしかかるとまず左右を見て、車が来なければ渡る。信号なんか見ない。第一、どんなに交通量が多くても信号すらない交差点もある。
しかし、ドイツ人は信号を見て、それに従う

自転車の話題をもう一つ。
ドイツ人は自転車好きだ。アルプスに近い南部を除いて、ヨーロッパ大平原に属する中北部ドイツはほとんどが平らな土地なので、どんなに遠くへも自転車で行くことを厭わない。国境を越えて隣の国へも行ってしまう。
私も21年前、ドイツに住んでいたとき、宿泊先のドイツ人一家に勧められて、一人で自転車に乗ってライン川を越えて隣のフランスまで行ったことがある。
以前にもお話したが、私がいたのはラインラント・プファルツ州で、南の方に住んでいたので、西へ行けばフランスのアルザス州、東に行けばすぐにバーデン・ヴュルテンベルク州という位置関係だった。

初秋のおだやかに晴れた午後。その日は最初のドイツ統一記念日。仕事も休みだったので、ゆっくり起きてシャワーを浴びてから出発した。気温は18℃。サイクリングにはもってこいの陽気。 
住宅街を出ると、同じくサイクリングしている二人組に出会った。「フランスに行く」というと、「こっちの方だ」と親切に行先を教えてくれた。
国境の街ブルク(Burg)までは、畑と小高い木が生い茂った林ばかりで何の障害物もない自転車専用道路をひたすら走る。気温もさらに上がり少し汗ばんできたが、木陰は涼しく、何ともいえない爽快な気分。
家を出てから30分ほどでドイツとフランスの国境にたどり着いた。国境といっても、検問所の建物があるだけで、中には誰もいない。誰でもフリーパスで通ることができる。
しかし、フランス領内で警官に呼び止められたとき、身分を証明するものがないと厄介なことになる、と注意されていたので、パスポートは首からぶら下げていた。
国境を越えるとすぐに「Coop」というスーパーがあり、そこでビールの小瓶、パン、菓子、ワインを買った。レジで恐るおそる「ドイツ語で話してもいいですか」と聞くと、レジのお兄さんは「もちろん」と笑顔で応えてくれた。

アルザスは、かつてドイツ領になったりフランス領になったりして複雑な歴史があり、今でもドイツ人が多く住んでいるので、街中でもドイツ語が通じる。
ドイツに比べ土地が安いので、アルザスに引っ越して、バーデン・ヴュルテンベルク州まで毎朝、自動車で通勤するというドイツ人も多くいると聞く。私も実際にアルザスに引っ越してきた人の家に招かれたことがあるが、物価も安く、食べ物もおいしいので、ドイツより生活しやすい、と言う。
ドイツ人がアルザスに引っ越すのは、日本人が、東京から神奈川や千葉、埼玉に引っ越して、毎朝、東京に通うのと同じような感覚なのだろうか。

パンを買ったのに、公園のようにベンチがあってゆっくりできる場所がなく、お昼を食べる場所を探すのに苦労した。
結局、かなり走ってライン川沿いまでもどると、砂利採取場近くに鉄管が転がっていたので、そこに座って食べることにした。
ライン川のゆったりとした流れを眺めながら食べるお昼は格別。しばし時間が過ぎるのを忘れた。

のども乾いたので、ビールでも飲もうか。そう思い、小瓶の栓をひねったら、全く動かない。どうやらフランスのビールはアメリカのバドワイザーのように栓は回らなようだ。
しまった、と思いつつ、あたりを見渡すと、鉄管のつなぎ目のネジが目に入った。
これはいいぞ、と思い、中腰になって栓をネジ山にひっかけ、エイッと力を入れたが、うまく引っかかってくれない。何回かトライしてようやくプシューッという音がして瓶の中から泡が噴き出してきた。  
暖かな日差しの下でのビールもまた格別。

(ちなみに、ヨーロッパ、特にドイツではアルコールの血中濃度の基準が日本より高いので、ビール小瓶1本やワインをグラス1杯飲んだだけでは酒気帯び運転にはならない・・・はず。もちろん今はこういうことはやりませんので、今回だけは聞き流してください。ワインはドイツ人家族へのお土産です)

国境からアルザス側の小さな街ラウターブール(Lauterbourg)までは自転車で15分ほどの距離だ。さすがフランスだけに、同じ「お城」という意味でも、ブルクでなくブールになる。
フランスは休日ではないのに、街には車があふれ、人もたくさん繰り出していて、レストランもにぎわっている。あとで聞いた話だが、ドイツ人が買い物や食事に大挙して押しかけてきたようだ。私がお世話になっている家族もフランスに買い物に行ったが、車を停める場所がなく、すぐに戻ってきたという。


ひととおり街中をサイクリングしたあと、来た道を返ることにした。
国境の街ブルクでは、公園で飼い犬のコンテストをやっていた。

その日の夕食は近くの街のレストランでいのしし肉のロースト(Wildschwein Brat)と新しいワイン。
(新しいワインのことは、去年の8月7日のブログをご参照ください)


ドイツでは、楽しく会話をしながら食事をとる。それも、必ずストーリーがあって、最後に笑いを取る会話をしなくてはならないので、かなり頭を使う。
その日の夕食は私のアルザス珍道中で盛り上がった。食べる場所が見つからなかったこと、それでもライン川を見ながらの昼食は格別だったこと、さらにはビールの栓を抜くときに苦労したこと。
中でも、ビールの話は受けた。身振り手振りを交えて説明したら、みんなでそのときの私のしぐさをまねて、腹をかかえて笑い出した。
新しいワインの口当たりのよさも手伝い、ドイツ統一記念日の夜は心地よく(gemütlich)更けていった。

食事中の会話について言うと、毎朝の朝食の時も大変だ。
たとえばこういう感じ。
「昨日、靴を買いに行ったんです」
「それで」
「私は2足買いたかったので、2つください、と言ったら、店員のおじさんは『もちろんですよ。右と左、ちゃんと2つ差し上げますから安心してください』と言ったんです」(笑い)

眠い目をこすり、寝不足と、時には飲みすぎでボーッとした頭をフル回転させて、ネタを考え、それもドイツ語で話をして笑いを取らなくてはならない。
こんな辛い朝食はないが、ドイツ語が上達することだけは確かである。
(次回に続く)

2012年2月26日日曜日

旧東ドイツ紀行(10)

11月14日(月)続き   ベルリン
歩いているうちにだいぶ時間がたって、疲れてきたし、体も冷えてきたので、とりあえずホテルに戻ることにした。
朝食をたっぷり食べたのであまりおなかは空いていないが、暖かいお茶でも飲んで、ひと心地ついたらお昼でもとることにするか、などと考えつつウンター・デン・リンデンに出ると、今まで歩いていて気がつかなかった「ベルリン博物館」という看板が目に入った。
絵葉書や観光ガイドブックを売っているスーベニアショップに付属している小さな博物館のようだが、「ベルリンのすべて(Alles über Berlin)」という看板につられて入ることにした。

お出迎えは、もはやDDRの象徴となったトラバント。力強くベルリンの壁を破っている。
博物館は、年代順にたどることになっている。まず目を引いたのは、19世紀後半、華やかなりし頃のベルリン中心部のジオラマ。

 これは、ブランデンブルク門からウンター・デン・リンデンを望んだところ。「リンデン(菩提樹)の下」という名前のとおり、大きな菩提樹が青々と生い茂っている。
 今でも菩提樹が並んでいるが、残念ながら今はもう秋。葉が落ちて枝だけになっているので、歩いていても菩提樹の並木道という感じはあまりしない。

ジオラマに戻る。
手前は博物館島。右手は毎朝見ているベルリン大聖堂。その左手は、プロイセン、ドイツ帝国を支配したホーエンツォレルン家の王宮。
戦後は、東ドイツ政府が取り壊して人民議会が入る「共和国宮殿(Palast der Republik)」を建てた。
東ドイツ建国40周年のレセプションが行われ、ホーネッカーが妻マルゴットとともに得意げに入っていったのがここだ。
(昨年11月28日のブログをご参照ください)
 東ドイツの共和国宮殿の写真は、ベルリン市のホームページに出ていたのでご参照ください。


http://www.berlin.de/tourismus/insidertipps/1727324-2339440-palast-der-republik-untergegangen-in-rui.html

撤去作業中の様子はこちら。

http://www.berlin.de/orte/sehenswuerdigkeiten/palast-der-republik/



これは現在の宮殿広場。この左手に共和国宮殿が立ち、この広場はマルクス・エンゲルス広場と呼ばれていた。奥の建物は旧東ドイツの国家評議会。現在は「ヨーロッパ経営技術学校」。


かつて栄華を極めたホーエンツォレルン家の宮殿も、絶大な権力をもっていた共産主義独裁政権の宮殿も今はあとかたもない。
すでに秋深く、「夏草や」ではないが、まさに「兵(つわもの)どもが夢の跡」。

宮殿広場の一角では発掘調査が行われている。
ドイツに行く前に見た新聞(平成23年8月14日付 朝日新聞)によると、王宮が復元されるそうだ。そのための調査だろうか。



ベルリン博物館には、市街地中心のジオラマとは別に、王宮だけの復元模型もあった。復元されるとこのような感じになるのだろう。内部には博物館や図書館、大学が入ることになるが、どのようなものを展示する博物館になるのか、今から楽しみだ。本格的な工事は2014年に始まり、2019年に完成する予定だが、そのころまたベルリンに来てみたいと思う。


ベルリンの歴史は、ドイツの繁栄と破滅の歴史そのものである。ナチスの悲劇を繰り返さないためにも、負の遺産も語られている。

戦後のベルリンは東西冷戦の最前線に置かれた。写真は、1953年のベルリンの労働者の暴動に対して出動したソ連の戦車と、それに投石して抗議する労働者(6月17日事件)。
博物館の一番奥のシアター・ルームでは、ベルリンの壁建設により東西の緊張が高まる中、1963年6月26日、西ベルリンを訪れたアメリカのケネディ大統領の演説の映像が流れていた。
演説の最後にケネディ大統領がドイツ語で「私はベルリン市民だ(Ich bin ein Berliner)」というセリフは、多くの西ベルリン市民を勇気づけた。

これもベルリン市のホームページ。
このテキストの下から2行目、"Alle freien Menschen"をクリックするとケネディの肉声を聞くことができる。

http://www.berlin.de/rubrik/hauptstadt/geschichte/kennedyrede.html
(次回に続く)


2012年2月19日日曜日

旧東ドイツ紀行(9)

11月14日(月)  ベルリン 
ベルリン大聖堂が窓越しに見える「指定席」で、昨日と同じく朝食をおなかいっぱい食べ、ホテルを出た。この日も晴れているが、気温はかなり低い。それでも、めげずにベルリンの壁の跡を追いかけることにした。
話に入る前に、どのあたりを歩いたか、説明だけではわからないので、自分でベルリン中心部の地図を書いてみた。拙い絵であるが、クリックすると大きくなるので拡大して見ていただきたい。

街の構造は比較的単純だ。
左側真ん中にブランデンブルク門があり、東に向かってウンター・デン・リンデンが伸びている。途中、フリードリッヒ通りと交差し、さらに進むとシュプレー川中州の「博物館島」を越え、テレビ塔を過ぎると右手にアレクサンダー広場が見えてくる。
ベルリン滞在中はほとんどこのエリア内をうろうろしていた。
この日も、宿泊したホテル「ラディソン・ブルー」から、ブランデンブルク門に向かった。前の日も往復したので、もうおなじみの道だ。
ブランデンブルク門横の道の一本手前の通りを左にまがり、かつて外務省など政府の省庁がならんでいたあたりを歩いていりると高級そうなアパート群が出てきた。総統官邸跡はこのあたりかな、と周囲を見渡してみると、中華料理屋が目に入った。
ここだ、観光案内所のお兄さんがそっけなく言っていた店だ。

 看板には「Peking Ente」とある。「Ente」とはドイツ語で「アヒル」、つまり北京ダックを出す店。ただしビールは青島ビールでなく、ベルリーナー・ピルスナー。






歩道には案内看板も立っている。
一番上の写真は当時の総統官邸。ヒトラーはこの中庭に地下壕を作り、戦争末期はここにこもっていた。以前このブログで紹介した「ヒトラー~最期の12日間~(Der Unergang)」の舞台となったところだ。


ここが中庭のあったところ。
ヒトラーとエバ・ブラウンの遺体が焼かれ、その炎に照らされたゲッベルスがナチ式の敬礼で別れを告げたのがこのあたりだ。
今では託児施設になっている。右手前の建物の窓にペタペタと貼ってある花柄模様の色画用紙が、いかにもそれらしく、平和そのもの。

この地区には旧東ドイツの特権階級の人たちが住んでいた、との説明が案内看板にあった。どうりで高級そうな感じがするはずだ。
ベルリンの壁もすぐ近くにあるが、時の権力者から優遇されているなら西側に逃げ出さないだろうという目算があったのだろうか。

今はどういう人たちが住んでいるか分からないが、東西冷戦の呪縛から解き放たれ、ようやく安心した生活ができるのだろう。

総統官邸跡からさらに南に向かうと、ポツダム広場が見えてくる。

これはポツダム広場を見下ろすように立っている旧西ベルリン側の高層ビル群。






ベルリンの壁も、統一後の再開発でほとんどが取り壊されたが、分断の悲劇を忘れないため、路面に煉瓦を埋めて壁の位置を表している。









ここには「ベルリンの壁 1961-1989」と書かれた碑銘が埋め込まれている。






  また、壁はところどころ記念碑のように残されているが、たいていはユニークなイラスト入りである。




壁の下のラインはかつてここに壁が立っていたことを示している。
ベルリンの壁といっても、壁が一枚立っているだけでなく、その後ろにはバリケードがあり、見張り塔もあったので、ドイツ統一により広大な土地が大都市のど真ん中に出現したことになる。
かつてのベルリンの壁の様子は、ベルリン市のホームページに詳しい。

http://www.berlin.de/mauer/zahlen_fakten/index.de.html


見張り塔も市内にいくつか残されているが、私が見たのは劣化が進んでいるせいか足場が組まれ覆いが被されていた。
今では住宅街の中にある見張り塔。もう用はなさないので、いつかは取り壊されてしまうのだろう。



1961年から1989年までの28年間に東西の国境を越えようとして犠牲になった人の数は600人以上。そのうち少なくとも136人がベルリンの壁を越えようとして命を落としている。
しかし、今はその心配はない。恋人たちも、ザックを背負った若者も、ここで悲劇があったことを気にとめることもなく通り過ぎていく。

(次回に続く)

2012年2月12日日曜日

旧東ドイツ紀行(8)

11月13日(日)午後  ベルリン
ホテルでの軽い昼食を終えて、午後はブランデンブルク門近くの観光案内所でもらった地図をたよりに、かつての国家保安省、現在のシュタージ博物館に行くことにした。
ホテルからはアレキサンダー広場まで歩き、そこから地下鉄(U-Bahn)で7つめの「マグダーレン通り」が最寄駅だ。
 右の写真はホテルからアレクサンダー広場の方に向かうところ。右手に見えるのがマリエン教会。旧東ベルリンには路面電車が走っている。古い建物と路面電車の組み合わせは好きなので、あちこちで写真に撮った。

  マックやバーガーキングはすっかり旧東ベルリンの街になじんでいる。


これがアレキサンダー広場。クリスマス1か月前の11月26日から始まるクリスマス市場のための仮設店舗が所狭しと並んでいるせいもあるが、周囲にビルができたため、統一前より広場はかなり狭くなっている。
1989年11月4日、政府が発表した旅行法が不十分だったので、それに抗議して50万人の市民が集まったが、この広さではもうそんなに多くの市民が集まるスペースはない。警察の車も、かつてのように体制を批判する市民を拘束することはない。

当時の抗議行動の様子が「シュピーゲル」の記事に出ている。統一前はこの広場はこんなに広かった。

http://einestages.spiegel.de/static/entry/platz_da_fuer_die_revolution/82601/grossdemonstration_auf_dem_ost_berliner_alexanderplatz.html?o=position-ASCENDING&s=6&r=1&a=20841&c=1

地下鉄の中は駅と駅の間のトンネルの中も携帯電話が使える。私のドコモの携帯を見ても、アンテナがしっかり3本立っている。
東京の都営地下鉄と東京メトロは今年3月から順次、トンネル内でも携帯電話が利用できるようにするとのことだが、メールの送受信だけで、通話は今までどおり控えるよう呼びかけるようだ。
でもドイツでは通話も禁止されていないので、車内ではみんな気にせず携帯でおしゃべりしている。禁止されていないと、こちらも気にならないから不思議だ。
 駅ごとに緑、赤、黄色などカラフルな色になっているのも大きな特徴。これだと降りる駅を間違えないで済む。「アレキサンダー通り」と「マグダーレン通り」は緑。途中の駅は赤とか黄色だった。










 駅には大きな絵も飾られている。
  














ドアの模様はブランデンブルク門。これは統一後のことか。




 地上に出て、もらった地図どおりに歩いていくと、住宅街の一角を占める大きな敷地の中にかつての国家保安省の建物がいくつも並んでいた。今では多くの建物は住宅やクリニックビル、オフィスなどとして使われている。
敷地の中のどこに「シュタージ博物館」があるのかわからず敷地の周りをぐるぐる歩いていると「ノルマーネン通り(Normannenstraße)」という表示が目に入った。

「ノルマーネン通り」

東ドイツ国民は、シュタージの代名詞となったこの通りの名前を聞くだけで背筋がぞっとしたという。日本の江戸時代でいうと「八丁堀」だろうか。

ぐるっと周っているうちに、ようやく入口に「シュタージ博物館」と書いている建物を見つけた。
中に入り、気のよさそうなおじさんに料金を払った。博物館は2階まであり、まずは1階から入る。





1階展示室前でわれわれ来館者を出迎えてくれるのは、このブログにもよく登場するエーリッヒ・ホーネッカー。この顔を見たくない旧・東ドイツ国民は多いはずだ。




1階展示室に入ると国家保安省の模型。いくつもの建物が群をなしている。
これは大臣室の再現。一番奥の隅が大臣の席。
これは枯木の幹に仕掛けられた監視カメラ。
野っ原に置かれ、祭りなどに来る人たちを記録していた。ここまでやるのか、とあきれてしまう。
  これは映画「善き人のためのソナタ(Das Leben der Andere)」にも、尋問される市民が自分の太ももの下に手を当てるように命じられるシーンが出てきた。椅子に布を敷いておいて、そこにその人の臭いを浸み込ませて、その臭いを犬に嗅がせて、その人を識別させるものだ。
下の写真は布の敷き方の説明書き。




2階のカフェで高校生ぐらいの男女7~8人がコーヒーを飲みながら楽しそうにおしゃべりをしていた。社会見学に来ていたのだろうか。
彼らにとってドイツ統一は生まれる前のできごと。昨夜行ったDDR博物館と同じで、残す努力をしないと、いつの間にか忘れ去られてしまうのだろう。

 帰りがけに「シュタージ」という書籍を買った。値段は14ユーロ99セント。15ユーロ渡すとおじさんはすまなそうに「今、おつりの1セントがないんだ」と言う。
「いいですよ。そのうち1セントがくずせたら募金箱に入れておいてください」と私。
それから、いくつかのパンフレット類をもらい、
「DDRがどういう国だったか研究してるんです。とても参考になりました」と礼を言ってシュタージ博物館を後にした。

外に出ると、5時前なのにあたりはすでに暗い。気温もかなり下がっている。
昨日の夜も、実質的な観光初日の今日も内容が盛りだくさんで、滑り出し順調だな、などと考えながら、ひんやりとした空気の中、地下鉄の駅に向かった。






いったんホテルに戻り一休み。
今日の夕食はどうしようかと考えたが、寒いのでやはり近いところということで、ホテルと隣のビルの間のショッピングモールに行った。
奥の方のレストランの外に立っている看板を見ると、「ベルリン名物、カレーソーセージ(Currywurst)」とあったので、このレストランに入ることにした。
写真は、レストランの中から見たショッピング・モール。
  出てきた料理はこれ。ソーセージにケチャップとカレー粉がかかっているだけのシンプルなものだが、カレー味がビールに合う。ビールは、やはりご当地の「Berliner Kindler」。
  これがレシート。「チップは含まれていません。10%です」と英語で書かれたスタンプが押してある。これならわかりやすい。

ちなみに日本の消費税に相当する付加価値税の税率は19%。
ドイツの付加価値税の税率は、1968年に導入された10%から、1998年までに6回、1%ずつだけ小刻みにアップしたが、2007年1月には16%から19%と、一気に3%アップした(軽減税率は導入時の5%から、やはり小刻みにアップしたが、1983年に7%になって以来、2007年以降も7%で据え置き)。
付加価値税率の大幅な引上げの背景には、当時、財政再建が喫緊の課題だったことがあるが、2005年の総選挙で2大政党の社会民主党(SPD)とキリスト教民主・社会同盟(CDU/CSU)のどちらも過半数をとれなかったため、大連立を組んで19%に引上げたものである。
日本でも消費税率引上げが大きな議論になっているが、さて、これからどうなるのだろうか。
この日の夕食のように、食事して、ビール1杯飲んで税込で約1,300円。いきなり19%はないが、ある程度の負担増は仕方ないかなあ、と思いつつレシートを眺めていた。もちろん、税金のムダ遣いだけはやめてほしいと思う。


翌日は寒さを我慢してベルリンの壁の跡など外歩きをしました。街の様子などを紹介しますので、ご期待を。
(次回に続く)

2012年2月6日月曜日

旧東ドイツ紀行(7)

11月13日(日)  ペルガモン博物館続き。
ペルガモン博物館の2階はイスラム文化博物館になってる。

写真は、ヨルダンの首都アンマンから30km南にあるムシャッタ城遺跡。展示室の壁づたいに繊細なレリーフをもつ城の外壁が見事に再現されている。
ムシャッタ城は、碑文などが残されていなかったので、長い間、いつの時代に建設されたものか分からなかったが、1964年に発見された一枚の瓦によって、ウマイヤ朝のカリフ、アル・ワリド2世(在位743-744)の時代に建設されたことが判明した。



シリア・ヨルダンに行ったのが1994年の冬。
成田からバンコク経由でエジプトのカイロに入り、ギザのピラミッドとスフィンクス、エジプト考古学博物館を観光。その日の夕方のうちにエジプト航空でシリア首都ダマスカスに飛び、翌日は午前はダマスカス市内観光、午後にローマ時代に栄えた都市パルミラにバスで移動し、そこで2泊。その後、陸路で国境を越えヨルダンの首都アンマンへ。その翌日は死海、ネボ山などを通り紀元前3世紀ごろナバティア人が建設したペトラに向かい、そこで2泊。

このときがアラブ圏に足を踏み入れた最初の旅行だった。
もちろんギザのピラミッドやスフィンクス、パルミラやペトラの遺跡には圧倒されたが、特に印象に残っているのが、ダマスカス市内観光のとき、昼食をとるため入ったウマイヤド・モスク近くのレストラン「ウマイヤド・パレス」の中にただよっていた香辛料の香り。
タイとは違い、アラブ圏の料理はあまり辛くはないが、よく食される羊肉の臭いをとるためか香料は多用する。その香りが鼻から脳に入り、アラブ圏に来たんだということを実感させてくれた。
スーク(市場)でもいろいろな種類の香料が大きな麻袋に入って売られているので、狭いスークの路地にもその香りはただよってくる。


ただし、香りや味は人によって好みが大きく違ってくるので、誰もが香りからアラブ圏を感じ取るとは限らないだろう。私なんかは、タイ料理店に入ったときに鼻に入ってくるナンプラー(魚醤)の香りがたまらなく好きだし、麺料理に浮かぶパクチーも大好きだが、どちらも苦手という人の話はよく聞く。

右の写真、上は「ウマイヤド・パレス」の店内。楽器の演奏もあり、店内の調度品も雰囲気を出している。真中はパレルモ。下は、映画「インディー・ジョーン 最後の聖戦」を意識して撮ったペトラのエル・カズネだが、わかりにくくなってしまった。もっとわかりやすい写真は、ヨルダン政府観光局のHPにあるので、こちらをどうぞ。

http://jp.visitjordan.com/default.aspx?tabid=300

冒頭の写真のムシャッタ城には行っていないが、イスラム文化博物館の遺跡や出土品を眺めているうちに、あの香料の香りが思い出されてきた。
しかし、時計を見るとすでに1時を過ぎていたにもかかわらず、おなかは全く空いてこなかった。朝食の料理が充実していて食べすぎたのだ。

 ただ、何か食べなくてはと思い、いったんホテルに帰って、ルフトハンザの機内でもらったスナック菓子やチョコレートを食べることにした。飲み物は、朝食を食べたレストランで水筒に入れてもらったお湯があるので、日本から持ってきたティーバッグで入れたお茶。

ついでながら、シリア・ヨルダン旅行の翌年の冬は、アラブ首長国連邦、オマーン、イエメン、バーレーンと、アラビア半島の4か国を回った。
その中でも特に印象的だったのはイエメン。石油がとれず、貧しい生活をしているが、現地の人たちは親切で明るく、人なつこい。街も昔のままで残っているから古き良きアラビア半島の街並みが残っている。
そのイエメンで、ドイツ語を勉強していてよかった、と思ったできごとがあった。
イエメンの首都、サヌアの空港に着いたとき、現地のガイドの男性が出迎えてくれた。私は片言のアラビア語であいさつすると、驚くと同時に「ほかにどんな言葉を習っているんだ」と聞いてきた。
私は「アレマニー(ドイツ語)」と答えた。
すると、そのガイドさんは「おれもドイツ語を話すんだ」と言う。
「どうしてですか」と聞くと、妻がドイツ人で、一年の半分はサヌアに住んで、あとの半分はミュンヘンに住んでいる、とのこと。
それからそのガイドさんとはドイツ語で話をした。
そして、大晦日のガラ・ディナー。
大きな式典会場で、団体ごとに分かれて食事を始めた。ヨーロッパからの観光客も多いようだ。食事も一段落すると、ショータイム。ここはベリーダンスでなく、男たちが踊るジャンビア・ダンス。
ジャンビアとは短剣のこと。イエメンの男たちは上からすっぽりかぶり、足首までの長さのある服を着ていて、成人した男性は、首からはジャンビアをぶら下げている。
そんなものけんかのとき振り回したら危ないではないかと思うが、彼らは、ジャンビアを抜きたいときでも我慢するのが成年男子の美徳と教えられている。
それでも、便利な道具としては使っている。たとえば、食事中に果物の皮をむくときとか、太陽の光を反射させ、ライト代わりにして走っている車に合図したりとか。
そういったジャンビアを振り回して踊るのがジャンビア・ダンス。
ショーが始まると、ガイドさんが私の近くにきてドイツ語で話かけてきた。
 「いいか、ステージの正面のドイツ人の団体はもうすぐ引き上げる時間だから、彼らが席を立ったらあそこに行くといい。せっかくだから前で見た方がいい」
私たちの席は後ろの方だったのだ。

ことばは何か得することがあるから勉強するのでなく、そのことばが話されている国や地域のことに興味があり、そこに住む人たちと話がしたいから勉強しているのだ、と常々思っているが、長年勉強しているといいこともあるものだ。
おかげで目の前で短剣が振り回され、迫力のあるショーを楽しむことができた。
右の写真、上2枚はジャンビア・ダンス。下の一枚は、シバの女王の「太陽の神殿跡」まで連れて行ってくれたドライバーさんたち。
みんなジャンビアを首からぶら下げている。


次の写真は、上からサナアの旧市街。旧市街の中のスーク。スークの通りは牛も通る。下はシバの女王の太陽の神殿跡。今は柱が残っているだけで、子どもたちの遊び場になっている。


去年はチュニジアやエジプト、リビアで独裁政権が倒れ、「アラブの春」と言われたが、エジプトではムバラク政権退陣後も民衆のデモが暴徒化している。
また、シリアでは反体制デモが弾圧され、イエメンでも首都サヌアをはじめ各地で反政府デモがあり、治安部隊との衝突が起こっている。
アラブ圏への旅行のことを思い出すたびに、現地で出会った人たちは今どうしているのだろうかと案じずにはいられない。



(次回に続く)