2019年9月19日木曜日

山種美術館「大観・春草・玉堂・龍子-日本画のパイオニア-」

東京・広尾の山種美術館では広尾開館10周年記念特別展「大観・春草・玉堂・龍子-日本画のパイオニア-」が開催されています。


近代日本画を代表する横山大観、菱田春草、川合玉堂、川端龍子の足跡を山種美術館所蔵作品で綴る豪華なラインナップの展覧会です。


【展覧会概要】
会 期  8月31日(土)~10月27日(日)
開館時間 午前10時から午後5時(入館は午後4時30分まで)
休館日  月曜日(ただし9/16(月)、9/23(月)、10/14(月)は開館、9/17(火)、9/24(火)、10/15(火)は休館)
入館料 一般 1200円ほか
展覧会の詳細は山種美術館公式ホームページをご覧ください→http://www.yamatane-museum.jp/

※今回展示されている作品はすべて山種美術館所蔵です。
※内覧会では、山下裕二さん(公益財団法人山種美術財団評議員、山種美術館顧問、明治学院大学教授)のスライドを使った見どころ解説と、同館特別研究員の三戸さんのギャラリートークをおうかがいしました。以下はお二人のお話をもとに構成しています。
※展示室内は原則撮影禁止です。掲載した写真は美術館より特別の許可をいただいて撮影したものです。
今回写真撮影OKの作品は横山大観《心神》。山種美術館の創設者山﨑種二氏が、美術館をつくるならという条件で大観から購入を許可された作品です。


横山大観《心神》(1952(昭和27)年)
さて、さっそく展示室内をご案内しましょう。展示は春草、大観、龍子、玉堂の順に1章ずつの構成になっています。

第1章 菱田春草

最初は、数えで39歳の誕生日を目前に若くして亡くなった菱田春草(1874-1911)。

第1章展示風景
手前が菱田春草《釣帰》(1901(明治34)年)

展示室入口でお出迎えしてくれるのは菱田春草《釣帰》。

「空気を描く方法はないか」という岡倉天心からの課題に応えようとして描いたとされる彼らの作品は「朦朧」という揶揄する表現で批判されましたが、今見てみると「この空気感がたまらない!」と感じられます。
当時でも1904(明治37)年にアメリカで「大観・春草展」を開催したら大好評で、作品は飛ぶように売れたそうです。

「手前に描かれた船頭の顔がかわいい。」と山下さん。
まるで少年のような船頭さん。ぜひ近くでご覧になってください。

春草のパイオニアたる所以(ゆえん)は、大観らとともに墨による輪郭線を描かない「朦朧体」に挑戦したことですが、春草の中でも変化がありました。


左から、菱田春草《雨後》(1907(明治40)年頃)、
《初夏(牧童)》(1906(明治39)年)、
《月下牧童》(1910(明治43)年)
この順番で展示されていることに意味があります。
空気の表現方法が《雨後》は色で、《初夏(牧童)》は色と面で表現していたものが、《月下牧童》では筆による表現に変わってきたのです。《月下牧童》の後ろの細い筆で描かれた草に注目です。
「朦朧体のbefore and afterです。」と三戸さん。(笑)

《月四題》が4幅ともそろっています。ぼんやりと描かれた月と草花が絶妙なコンビネーションです。
菱田春草《月四題》(1909-10(明治42-43)年頃)


第2章 横山大観

次は横山大観(1868-1958)。
大正期に入ると朦朧体から離れて東洋的な水墨画に回帰していった大観。
まずは雪舟の《山水長巻》(毛利博物館)を意識した《楚水の巻》です。

横山大観《楚水の巻》(1910(明治43)年)(部分)
乾燥した華北の風景を描いた《燕山の巻》(山種美術館)(今回は展示されません)と並んで大観の中国山水画の二大絵巻の一つが、中国江南地方の風景を描いたこの《楚水の巻》。

河岸沿いに並ぶ家と階段にたたずむ人たちがいい雰囲気を出しています。
こちらも細かいところまでぜひご覧になってください。

横山大観《楚水の巻》(1910(明治43)年)(部分)
さて、大観のパイオニアたる所以(ゆえん)は。
「画材への挑戦です。」と三戸さん。

横山大観《喜撰山》(1919(大正8)年)
紙の裏から金箔を貼りつけた裏箔の技法を用いて、宇治の赤土の色合いを出しています。
「古い技法で新しい発想を表現するのが大観。」と三戸さん。

昭和に入ると、愛国心を象徴した作品が多くなります。
下の写真中央の《春朝》に描かれているのは日本の象徴、山桜と太陽。
《蓬莱山》に描かれた松と雲に浮かぶお堂は、大観たちが一時滞在した北茨城の五浦の海岸を連想します。
右から、横山大観《龍》(1937(昭和12)年)、
《春朝》(1939(昭和14)年頃)、
《蓬莱山》(1939(昭和14)年頃)

そして、これがなければ大観じゃない!
生涯で描いた作品が1,200点とも2,000点とも言われる富士山です。

左から、横山大観《富士山》(1933(昭和8)年)、
《霊峰不二》(1937(昭和12)年)、
《心神》(1952(昭和27)年)

第3章 川端龍子

川端龍子(1885-1966)の作品といえば、やはり迫力の大画面。
「会場芸術」と批判されたのに、その表現が気に入って自分でも使うようになった龍子らしい作品がこちら。

川端龍子《鳴門》(1929(昭和4)年)
その大胆な発想と色使いで横山大観らが中心となっていた院展から浮いた存在になって、ついに院展から脱退したのが1928(昭和3)年。
その翌年に「青龍社」を創設して、第1回展で発表されたのがこの《鳴門》。
近くで見ると波しぶきをかぶりそう。それ以上に、自らの道を貫き通そうとする龍子の心意気が感じられます。

そしてもう一点は《八ツ橋》。

川端龍子《八ツ橋》(1945(昭和20)年)
尾形光琳《八橋図屏風》(メトロポリタン美術館)の影響を受けた上品な作品ですが、太平洋戦争末期、空襲の中をかいくぐって青龍展を開催してしまう龍子の気迫を感じます。

「古典に拠りつつも、ひねりが入るのが龍子流。」と三戸さん。

川端龍子《華曲》(1928(昭和3)年)
牡丹と獅子という古典的なテーマを描いているのに、蝶々に夢中で逆さになって首をひん曲げている獅子のおかしなポーズに注目です。

そして龍子のもう一つの特徴が「タイトルと絵の微妙なずれ」(三戸さん)。

下の写真の《月光》は、日光山輪王寺の大猷院に取材したもので、タイトルは《月光》なのに月は屋根の上からのぞいているだけ。建物に映える月の光で「月光」を表現しているのです。

川端龍子《月光》(1933(昭和8)年)
第4章 川合玉堂

夕日に映える山あいの景色、ここに薪を背負って家路に向かう農夫がいたらバシッと決まるだろうなと思って絵を見てみると、やっぱりそこには薪を背負った農夫がいる。
川合玉堂(1873-1957)は、私にとって「ほっとさせてくれる」風景を描いてくれる画家なのです。

最初は京都の幸野楳嶺のもとで学び、その後、橋本雅邦の作品に大きな衝撃を受けて京都から東京に出てきて雅邦に師事した玉堂。
この作品は、雅邦の影響を大きく受けていますが、中国山水画の影響はあっても、描かれた人物は日本的で、山並みも妙義山でのスケッチをもとにしているので実景っぽいところが玉堂。
「中国山水画を日本的なものに変えたのが玉堂です。」と三戸さん。

川合玉堂《渓山秋趣》(1906(明治39)年)


「人を驚かせるのが大観なら、人と共感できるのが玉堂。」と三戸さん。
まるで絵はがきのような大胆な構図の《石楠花》。
こういった作品を見たら、このきれいな石楠花と雪山を見に山登りがしたい!と思いたくなります。

川合玉堂《石楠花》(1930(昭和5)年)
第2展示室は、大観、玉堂、龍子の「松竹梅展」のコーナー。
戦前は仲たがいした大観と龍子ですが、戦後になると交流が復活した二人。
それでも顔を合わせても話すことがなかったので、二人でひたすらジョニーウォーカーを飲み交わしていたという逸話があったそうです。

1955(昭和30)年から1957(昭和32)年にかけて3回開催された「松竹梅展」。山種美術館では、そのうち第1回と第3回の松竹梅を所蔵しています。

第1回《松竹梅》のうち
右から川合玉堂「竹(東風)」、横山大観「松(白砂青松)」、
川端龍子「梅(紫昏図)」



第3回《松竹梅》のうち、
右から、川端龍子「竹(物語)」、川合玉堂「松(老松)」、
横山大観「梅(暗香浮動)」

展示されている作品にちなんだ和菓子も山種美術館のお楽しみの一つです。
下の写真、中央が「朝の光」(横山大観《富士山》)、右上から時計回りに「錦秋」(川合玉堂《渓雨紅樹》)、「しらなみ」(川端龍子《鳴門》(左隻))、「月下の柳」(菱田春草《月四題》のうち夏)、「葉かげ」(横山大観《作右衛門の家》)。(カッコ内はモチーフになった作品)
どれも美味ですが、どれか一つとなると、個人的にはふわふわ感のある淡雪羹の「しらなみ」でしょうか。

アプリゲーム「明治東京恋伽~ハヰイカデヱト~(通称「めいこい」)と山種美術館とのコラボレーション第2弾も実現!


グッズも充実しています。
今回の新作は川端龍子《鳴門》と《八ツ橋》のマスキングテープ(各400円+税)。
どこにでも貼りたくなりそうです。


今回もいろいろ盛りだくさんで楽しめる展覧会です。
パイオニアたちの挑戦をぜひご覧になってください!