11月16日(水) ドレスデン市内
昨日は温かくして早く寝たにもかかわらず、朝になってもノドの腫れはひかず、熱っぽさも残っていた。
今夜も地ビールを味わうのは無理かなと思いつつ、朝食が始まる6時半には1階に下りていった。少しぐらい体調が悪くても、せっかくドレスデンに来たのだから市内を歩かないともったいない。
朝食はベルリンのホテルとほとんど同じで、黒パン、チーズ、くだもの、ヨーグルト、少しばかりの野菜、そしてコーヒー。席は窓際で、ドレスデン中央駅が良く見えるところ。ここも毎朝の私の指定席となった。
ジャムも種類が豊富にある。器がコーンになっているので、底にジャムが残っても、そのままムシャムシャ食べることができる。
パンは黒いハード系。家でも毎週末にホームベーカリーでライ麦パンをつくっているほど黒パンが好きなので、黒系パンが多いのはうれしい。
朝食を終えて部屋に戻ると、外は明るくなっていたが、雲が低く立ち込めている。今日は一日曇りのようだ。
旅行前に買ったデジカメにはミニチュアライズ機能がついているので、試しに部屋の窓からドレスデン中央駅を撮ってみた。高さが十分でなかったせいか、ミニチュアっぽく見えないかな。
ところで中央駅の前の建物は、ベルリン中央駅と同様、四方が総ガラス張り。その後ろの一段低くなったところはまだ開発されずに残っている。そのうちここにも総ガラス張りの建物が建つのだろうか。
外に出るとやたら寒い。プラーガー通りから旧市街地へ行く途中はリニューアルされたホテルや、ショッピングモールがずらりと並んでいる。
下の写真の一番手前のホテルは、位置関係から見て私が22年前に泊まったインターホテルがあったところ。今では同じ系列のホテルが威勢よく3棟並んでいる。
まずはじめに見たかったのが聖母教会(Frauenkirche)だったが、一方で、戦争の悲惨さを後世に伝えるため廃墟のまま残しておけば良かったのでは、という思いも強く、きれいに再建された聖母教会は見たくない、という気持ちもあった。
そんなことを考えているうちにクリスマスの市の小屋が準備されていた旧市場広場まで来ると、聖母教会の先端が見えてきた(中央少し左寄りの高い木の後ろ)。ここまで来たらもう引き返すわけにはいかない。
見たくもあり、見たくなくもあった聖母教会。
複雑な思いを抱きながら、明るいクリーム色をした建物の前に立った。
あまりの新しさにまばゆいばかりだ。
正面のマルティン・ルターも揺るがぬ信念をもって堂々と空を見上げている。
しかし聖母教会は廃墟の痕跡を残していた。裏手に回ってみると、廃墟の部分はそのまま残し、崩れて積み上がっていた煉瓦もできるだけ再利用しているのがわかる。壁のところどころに見える黒い煉瓦がそれだ。
映画「ドレスデン」では爆撃によって街が破壊しつくされる場面が延々と続く。降り注ぐ爆弾の雨、燃え上がる炎、逃げ惑う人々。教会は新たに再建されたが、煉瓦の色の違いが当時の悲惨な状況を伝えてくれる。
私は少しほっとしたが、煉瓦の色の違いを説明する案内板や、廃墟になっていた時の写真は周囲にないのが残念に思えた。聖母教会を廃墟として残したDDRのことも過去のものにしたいからなのだろうか。
もう9時を回っているが、気温はまったく上がる気配はない。寒さでカメラのバッテリーが上がってしまい、厚手のジャケットの中に入れて温めなくてはならないほどだったし、体調も良くなかったが、それでも早く来て良かった。
後で気がついたが、この周辺はレストランやお土産物屋が並び、昼間や夜には多くの観光客が訪れる場所だ。夕方には教会の前の広場でストリートミュージシャンがギターをかき鳴らしていた。
下の写真は、午後になってエルベ川岸の方から見たところ。多くの観光客でにぎわっている。このにぎわいもいいのだが、聖母教会を前にして過去の歴史を振り返り、もの思いにふけるのは早朝に限る。
(次回に続く)
ベルリンの壁崩壊から20年以上が経過した2011年、ドイツでのできごとを東側の視点から紹介したいと思って始めたブログです。最近では美術展の紹介記事も多く書いています。これからも楽しい記事を載せたいと考えていますので、今後ともお付き合いください。
2012年4月15日日曜日
2012年4月9日月曜日
旧東ドイツ紀行(16)
11月15日(火) ベルリン→ドレスデン
ドイツに限らずヨーロッパの長距離列車はたいてい6人で1室のコンパートメントになっている。
所定のコンパートメントを見つけ中に入ると、向かいの席に20歳ぐらいの青年が座っていたので、「こんにちは」とあいさつして自分の席に腰かける。そのあと、中年のおじさんが入ってきて通路側の席に座った。
しばらくすると列車は静かに動き始めた。時計を見ると14時48分。定刻どおりの出発だ。
ベルリン中央駅を出ると、長いトンネルが続き、ようやく地上に出たかと思うと、あたりはすでにベルリンの郊外のようで、アパートが立ち並び、さらに走ると家がまばらになって、家並みが途切れてからはひたすら畑と牧草地が広がる田園地帯になった。
暇つぶしに向かいの青年に話しかけたが、「ウクライナから来た。ドイツ語はしゃべれない」という。もう一人の中年の男性は物静かな感じで、ときおりうつらうつらしていたので、特に声をかけなかった。
こうして、約2時間の列車の旅は静かに過ぎていった。
4時過ぎには次第に外が暗くなってきた。いつの間にか少し寝入っていたようだ。
ドレスデン中央駅ももうすぐだ。
体はだるく、熱っぽいが、スチームがきいて暖かいコンパートメントの中で休んだおかげで、少し体調が良くなったような気がした。
ドレスデン中央駅に到着。
下は長距離列車のホーム。向かいの一段高いホームは近郊列車が停まる。
駅構内はリニューアルされて明るくなっている。22年前に革ジャン君たちと出会ったレストランを探したが、取り壊されてしまったようだ。もう当時の暗いイメージはない。
駅の建物は昔のままだが、地ビールの広告のネオンが輝いている。
駅前は統一前のドレスデンからは想像もできないほど開けている。中央駅から旧市街地につながるプラーガー通りの両側にはショッピングモールがずらりと立ち並んでいて、多くの市民がショッピングや食事に繰り出している。
中央のpullmanというネオンのある建物は、私が4泊した「プルマン ドレスデン ネヴァ」ホテル。
この日はまだのどが痛く、熱っぽかったのでビールはお預け。
夕食は上の写真の右手のビルの裏手にある「Soup Cafe」でグーラッシュとミネラルウォーター。ジャガイモや玉ねぎなどの野菜がたっぷり入った温かいスープが風邪気味の体を優しく暖めてくれた。
これは「Soup Cafe」を外から見たところ。
ドイツに限らずヨーロッパの長距離列車はたいてい6人で1室のコンパートメントになっている。
所定のコンパートメントを見つけ中に入ると、向かいの席に20歳ぐらいの青年が座っていたので、「こんにちは」とあいさつして自分の席に腰かける。そのあと、中年のおじさんが入ってきて通路側の席に座った。
しばらくすると列車は静かに動き始めた。時計を見ると14時48分。定刻どおりの出発だ。
ベルリン中央駅を出ると、長いトンネルが続き、ようやく地上に出たかと思うと、あたりはすでにベルリンの郊外のようで、アパートが立ち並び、さらに走ると家がまばらになって、家並みが途切れてからはひたすら畑と牧草地が広がる田園地帯になった。
こうして、約2時間の列車の旅は静かに過ぎていった。
4時過ぎには次第に外が暗くなってきた。いつの間にか少し寝入っていたようだ。
ドレスデン中央駅ももうすぐだ。
体はだるく、熱っぽいが、スチームがきいて暖かいコンパートメントの中で休んだおかげで、少し体調が良くなったような気がした。
ドレスデン中央駅に到着。
下は長距離列車のホーム。向かいの一段高いホームは近郊列車が停まる。
(革ジャン君たちのことや当時のドレスデンの様子は、昨年7月2日のブログをご参照ください)。
駅前は統一前のドレスデンからは想像もできないほど開けている。中央駅から旧市街地につながるプラーガー通りの両側にはショッピングモールがずらりと立ち並んでいて、多くの市民がショッピングや食事に繰り出している。
中央のpullmanというネオンのある建物は、私が4泊した「プルマン ドレスデン ネヴァ」ホテル。
この日はまだのどが痛く、熱っぽかったのでビールはお預け。
夕食は上の写真の右手のビルの裏手にある「Soup Cafe」でグーラッシュとミネラルウォーター。ジャガイモや玉ねぎなどの野菜がたっぷり入った温かいスープが風邪気味の体を優しく暖めてくれた。
これは「Soup Cafe」を外から見たところ。
時間はまだ早かったが、街の散策は翌日の楽しみにとっておくことにして、夕食後すぐホテルに戻り、明日は調子が良くなって地ビールが飲めるように、と願いつつベッドにもぐりこんだ。
(次回に続く)
2012年4月1日日曜日
旧東ドイツ紀行(15)
11月15日(火) ベルリンの続き
ホテルをチェックアウトして外に出た時もテレビ塔の上の方は霧に包まれたままだった。
アレキサンダー広場まで歩いて、お昼を食べたり、広場付近を散歩しようとも考えたが、トラバントのミニカーやシュタージの本でザックが重くなっていたので、タクシーでベルリン中央駅まで行って、ザックを荷物預かり所で預かってもらってからS-バーンでアレクサンダー広場に戻ることにした。
タクシーはホテルの前に何台も停まっていたのですぐにつかまった。
途中、森鴎外記念館の看板が見えてきた。本当はここも来たかったが、とても時間がなかったので、心の中で「次は来ますね」とつぶやいて前を通り過ぎた。
10分ほどでベルリン中央駅に着いた。
駅そのものは西側にあるが、ベルリンの壁に近かったので、周囲には建物などなく、今はまだ駅前の開発も進んでいないので、広大な空き地の中にガラス張りの大きな建物だけがそびえ立っている。
写真は構内から駅の正面を見たところ。たっぷりと外の光を採り入れている。ドレスデンでも気がついたが、ドイツではガラス張りの建物が目立つ。特に冬はどんよりとした日が続くドイツでは、できるだけ明るい雰囲気を出したいという思いがあるのだろうか。
最上階はS-バーンの駅。ここからアレクサンダー広場駅に戻った。やはり東側に来ると、「戻ってきた」という感じだ。
そういえばアレキサンダー広場の観光名所のひとつ、世界時計はまだ見ていなかったな、と思い出し、あたりを見回した。東ドイツ時代は目立っていたのに、今は、周囲にはたくさん建物が立ち、クリスマスの市のテントも立っていたせいか、なかなか見つからない。
あたりをしばらく歩いていたら、すみっこの方にぽつんと立っているのにようやく気がついた。
下の写真は「東京」と書いてある部分。ドイツと日本の時差は8時間。ベルリンはこのとき午後12時半だったので、東京は20時30分を示している。
面白いのは都市名の順番。ピョンヤン、東京、ソウルとなっている。やはり、同じ独裁国家に敬意を表していたのだろう。
これは、ガレリア(Galeria)というデパートのショーウィンドウ。
右はブランデンブルク門、左はベルリンの壁。ベルリンの壁は、切れ目のある部分が時々手前に倒れる仕組みなっているが、写真を撮るタイミングを逃してしまった。
例によって朝ごはんをたっぷり食べたので、あまりおなかがすいていない。
そこで、お昼はアレキサンダー駅のベーカリーショップで軽くとることにした。
モッツァレラチーズとトマトのサンド、ブレッツェルとコーヒー。ここでもブラックコーヒーはCafé Créme。フランクフルト空港で食べたブレッツェルはぱさぱさしていたが、ここのはまだもちもち感が残っていた。
西側では、バターブレッツエル(Butterbretzel)といって、ブレッツェルの横に薄く切れ目を入れてバターを挟んでいるものを売っていたが、東では見かけない。口の中に広がるブレッツェルの塩味とバターの脂分がコーヒーによく合うのだが。
昼食を終えて外に出てテレビ塔を見上げると、少し霧は晴れてきたが、まだ上の方はもやっている。
それでもせっかくだから上まで登ろうと思い、1階のチケット売り場のおばさんに、
「チケットください」と言うと、
「今日は何も見えないから登らない方がいいですよ」と親切に教えてくれた。
私はお礼を言って、「次の機会にします」と言ってその場を去った。
列車の発車時刻は14時48分。
時間が迫ってきたので、ふたたびベルリン中央駅にもどり、地下の最下層に下りた。S-バーンの駅は最上階だが、長距離列車はすべてここから発車する。
ホームにはすでに列車が停まっていた。私が乗るのは特急なので、もっとデラックスな列車を想像していた。この列車は各駅停車だとろうと勝手に解釈して、ホームのベンチに座って次の列車が来るのを待っていたら、女性の駅員が「どこへ行くんですか」と聞いてきた。
「ドレスデンです」と言うと、「この列車ですよ」と指をさした。
なんと各駅停車と思っていたのが特急だったのだ。
女性駅員に声をかけてもらわなかったらあやうく乗りそこねるところだった。
(次回に続く)
ホテルをチェックアウトして外に出た時もテレビ塔の上の方は霧に包まれたままだった。
アレキサンダー広場まで歩いて、お昼を食べたり、広場付近を散歩しようとも考えたが、トラバントのミニカーやシュタージの本でザックが重くなっていたので、タクシーでベルリン中央駅まで行って、ザックを荷物預かり所で預かってもらってからS-バーンでアレクサンダー広場に戻ることにした。
タクシーはホテルの前に何台も停まっていたのですぐにつかまった。
途中、森鴎外記念館の看板が見えてきた。本当はここも来たかったが、とても時間がなかったので、心の中で「次は来ますね」とつぶやいて前を通り過ぎた。
10分ほどでベルリン中央駅に着いた。
駅そのものは西側にあるが、ベルリンの壁に近かったので、周囲には建物などなく、今はまだ駅前の開発も進んでいないので、広大な空き地の中にガラス張りの大きな建物だけがそびえ立っている。
写真は構内から駅の正面を見たところ。たっぷりと外の光を採り入れている。ドレスデンでも気がついたが、ドイツではガラス張りの建物が目立つ。特に冬はどんよりとした日が続くドイツでは、できるだけ明るい雰囲気を出したいという思いがあるのだろうか。
最上階はS-バーンの駅。ここからアレクサンダー広場駅に戻った。やはり東側に来ると、「戻ってきた」という感じだ。
あたりをしばらく歩いていたら、すみっこの方にぽつんと立っているのにようやく気がついた。
下の写真は「東京」と書いてある部分。ドイツと日本の時差は8時間。ベルリンはこのとき午後12時半だったので、東京は20時30分を示している。
面白いのは都市名の順番。ピョンヤン、東京、ソウルとなっている。やはり、同じ独裁国家に敬意を表していたのだろう。
これは、ガレリア(Galeria)というデパートのショーウィンドウ。
右はブランデンブルク門、左はベルリンの壁。ベルリンの壁は、切れ目のある部分が時々手前に倒れる仕組みなっているが、写真を撮るタイミングを逃してしまった。
例によって朝ごはんをたっぷり食べたので、あまりおなかがすいていない。
そこで、お昼はアレキサンダー駅のベーカリーショップで軽くとることにした。
モッツァレラチーズとトマトのサンド、ブレッツェルとコーヒー。ここでもブラックコーヒーはCafé Créme。フランクフルト空港で食べたブレッツェルはぱさぱさしていたが、ここのはまだもちもち感が残っていた。
西側では、バターブレッツエル(Butterbretzel)といって、ブレッツェルの横に薄く切れ目を入れてバターを挟んでいるものを売っていたが、東では見かけない。口の中に広がるブレッツェルの塩味とバターの脂分がコーヒーによく合うのだが。
昼食を終えて外に出てテレビ塔を見上げると、少し霧は晴れてきたが、まだ上の方はもやっている。
それでもせっかくだから上まで登ろうと思い、1階のチケット売り場のおばさんに、
「チケットください」と言うと、
「今日は何も見えないから登らない方がいいですよ」と親切に教えてくれた。
私はお礼を言って、「次の機会にします」と言ってその場を去った。
列車の発車時刻は14時48分。
時間が迫ってきたので、ふたたびベルリン中央駅にもどり、地下の最下層に下りた。S-バーンの駅は最上階だが、長距離列車はすべてここから発車する。
ホームにはすでに列車が停まっていた。私が乗るのは特急なので、もっとデラックスな列車を想像していた。この列車は各駅停車だとろうと勝手に解釈して、ホームのベンチに座って次の列車が来るのを待っていたら、女性の駅員が「どこへ行くんですか」と聞いてきた。
「ドレスデンです」と言うと、「この列車ですよ」と指をさした。
なんと各駅停車と思っていたのが特急だったのだ。
女性駅員に声をかけてもらわなかったらあやうく乗りそこねるところだった。
(次回に続く)
2012年3月26日月曜日
旧東ドイツ紀行(14)
11月15日(火) ベルリン
朝起きたらのどが腫れていて、少し熱っぽい。
それでも今日はベルリン最後の日。午後は列車に乗ってドレスデンに移動するだけなので、午前中はベルリン市内を歩き回ることにした。
6時過ぎには下のレストランに降りて、いつもの指定席でゆっくりと朝食。昨日取り忘れたチーズを多めにとり、おなかいっぱい食べてホテルを出た。
チェックアウトが昼の12時なので、ザックは部屋に置き、小さめのDパックを背負って外に出た。
昨日までは寒くても晴れていたが、今日はあいにくの曇り。このとおりテレビ塔も頭の部分がすっぽり霧に覆われている。
昨日が臨時休業だったので、今日こそは上まで登ろうと思っていたが、これでは上からは何も見えない。時間がたって気温が上がれば霧も晴れるかもしれない、と気を取り直し、まずはチェックポイントチャーリーまで歩くことにした。
(このあたりの位置関係は、2月19日のブログのベルリンの地図をご参照ください)
宮殿広場から旧・国家評議会の建物の前を通り、シュプレー川を越えると、外務省(Auswärtiges Amt)。ここはかつて東ドイツを支配していたドイツ社会主義統一党(SED)本部の建物だった。
今ではガラス張りで中がよく見えるようになっていて、カフェなども入っているが、統一前はどうだったのだろうか。
次の写真は、フリードリッヒ通りに行く途中にあるジャンダルメンマルクト(Gendarmenmarkt) 。
手前がドイツドームで、奥がフランスドーム。
二つの教会の間には重厚な円柱のファザードをもつコンツェルトハウス・ベルリン。
前の広場にはクリスマスの市のテントがならんでいる。
第二次大戦で破壊される前のベルリンは、こういった趣のある建物がずらりと並んでいたのだろう。
フリードリッヒ通りに出てまっすぐ南下すると、チェックポイント・チャーリーが見えてきた。
チェックポイント・チャーリーは、東西ベルリンの間に8つあった検問所のうち、唯一アメリカ軍が管理していた検問所。ここは外国人、東ベルリンの西ドイツ政府代表部の職員、東ドイツ政府の幹部だけが通ることを許された。
検問所近くに、統一前の様子がわかる写真が貼られていた。
今では観光客用に小さな小屋があり、星条旗と米軍兵士に扮した人が2人立っている。
左奥のベルリンの壁博物館(Mauermuseum)は時間がなかったのでまたの機会に。
ブランデンブルク門は、約200年、ベルリンの、そしてドイツの歴史を見てきた。
1989年8月にここを訪れたときは門の向こう側にあったベルリンの壁が、同じ年の12月22日に撤去され、10万人もの人がここ集まり、祝福した。
それはドイツ統一への道のりの大きな一コマであった。
今は自由に行き来することができるが、一度は自分でも試してみようと思い、通り抜けてみた。
もちろんすんなり通ることができるが、22年間のことを思い出すと、なんだか不思議な感じ。
はるか遠方には戦勝記念塔(Siegessäule)が見える。
実物の写真はベルリン市のホームページをご覧ください。
↓
http://www.berlin.de/orte/sehenswuerdigkeiten/siegessaeule/
この戦勝記念塔は、もともとブランデンブルク門の北にある帝国議事堂(現在の連邦議事堂)の前にあったが、1938年、ヒトラーによるベルリンの都市改造計画「世界首都ゲルマニア(Welthauptstadt Germania)」に基づき現在のティーアガルテンに移された。
「世界首都ゲルマニア」計画は、移設した戦勝記念塔からブランデンブルク門、ウンター・デン・リンデンを東西の軸とし、それと交差するように、巨大なキューポラをもった会議場を北端にして、新たに南北の軸をつくり、世界首都にふさわしい都市をつくるという壮大な計画であった。
(以下、ウンター・デン・リンデンにあるドイツ歴史博物館のホームページより)
戦勝記念塔
http://www.dhm.de/lemo/objekte/pict/ba008862/index.html
南北の軸の模型
http://www.dhm.de/lemo/objekte/pict/achse/index.html
以前このブログで紹介した「ヒトラー~最期の12日間~(Der Untergang)」に、「世界首都ゲルマニア」の大きな模型を前に、ヒトラーが計画の設計者シュペアーに話しかける場面がある。
そこでヒトラーは、ソ連軍が目前に迫っているにもかかわらず、「ベルリンの改造は私の夢だった。今でもだ」と言っている。
劇場型政治の最たるナチスは、ベルリンの象徴であるブランデンブルク門を最大限に活用した。
1933年1月30日夜、ナチス政権の誕生を祝った突撃隊によるたいまつ行進に始まり、ことあるごとにブランデンブルグ門とウンター・デン・リンデンを行進した。
たいまつ行進の様子(同じくドイツ歴史博物館のホームページより)
http://www.dhm.de/lemo/html/nazi/innenpolitik/etablierung/index.html
1939年4月20日には、ヒトラーの50歳の誕生日を祝って、戦勝記念塔からウンター・デン・リンデンまで、沿道には10万人もの市民が集まり、リムジンに乗ったヒトラーがパレードを行った。
(パレードの様子の写真は見つかりませんでした)
それが今では観光客が訪れるベルリンの名所となっている。
門の前には、全身を銀色で塗りたくった兵士姿の男が立っていたり、熊のぬいぐるみを着た人が愛想を振りまいたりしている。
2日前にここに来たとき、銀色の兵士と一緒にいた軍服姿の男がDDRの国旗を持っていたので、「DDR国旗の写真をとりたい」と言ったら、銀色の兵士が「ダスビダーニャ」と答えたので、「ロシアから来たのか」と聞くと、「全世界からだ」と訳のわからないことを言う。いかにも怪しい。
写真を撮ってもいいと言うので、国旗にカメラを向けると、私も一緒に写らないとだめ、と言う。
どうせ写真1枚いくらでお金を取るのだろう。私も1ユーロぐらいは渡すつもりでいたが、これ以上の面倒がいやなので、黙ってその場を去った。結局、その日の午後に行ったシュタージ博物館にDDRの国旗があって、それを撮ったので、お金を渡してまで撮らなくてよかった。
それにしても人気のある観光地にはどこにも変なのがいるようだ。
これも平和な証拠か。でも、なんでロシア語で「さよなら(ダスビダーニャ)」と言ったのだろうか。
もう時間もあまりないので、名残惜しいがもう一度だけブランデンブルク門を眺め、しっかりと記憶にとどめてその場をあとにした。しばらくは振り返ればまだ見えただろうが、最後の印象をそのまま残したかったので振り返らずにウンター・デン・リンデンを急ぎ足で歩いてホテルに向かった。
(次回に続く)
朝起きたらのどが腫れていて、少し熱っぽい。
それでも今日はベルリン最後の日。午後は列車に乗ってドレスデンに移動するだけなので、午前中はベルリン市内を歩き回ることにした。
6時過ぎには下のレストランに降りて、いつもの指定席でゆっくりと朝食。昨日取り忘れたチーズを多めにとり、おなかいっぱい食べてホテルを出た。
チェックアウトが昼の12時なので、ザックは部屋に置き、小さめのDパックを背負って外に出た。
昨日までは寒くても晴れていたが、今日はあいにくの曇り。このとおりテレビ塔も頭の部分がすっぽり霧に覆われている。
昨日が臨時休業だったので、今日こそは上まで登ろうと思っていたが、これでは上からは何も見えない。時間がたって気温が上がれば霧も晴れるかもしれない、と気を取り直し、まずはチェックポイントチャーリーまで歩くことにした。
(このあたりの位置関係は、2月19日のブログのベルリンの地図をご参照ください)
宮殿広場から旧・国家評議会の建物の前を通り、シュプレー川を越えると、外務省(Auswärtiges Amt)。ここはかつて東ドイツを支配していたドイツ社会主義統一党(SED)本部の建物だった。
今ではガラス張りで中がよく見えるようになっていて、カフェなども入っているが、統一前はどうだったのだろうか。
次の写真は、フリードリッヒ通りに行く途中にあるジャンダルメンマルクト(Gendarmenmarkt) 。
手前がドイツドームで、奥がフランスドーム。
二つの教会の間には重厚な円柱のファザードをもつコンツェルトハウス・ベルリン。
前の広場にはクリスマスの市のテントがならんでいる。
第二次大戦で破壊される前のベルリンは、こういった趣のある建物がずらりと並んでいたのだろう。
フリードリッヒ通りに出てまっすぐ南下すると、チェックポイント・チャーリーが見えてきた。
チェックポイント・チャーリーは、東西ベルリンの間に8つあった検問所のうち、唯一アメリカ軍が管理していた検問所。ここは外国人、東ベルリンの西ドイツ政府代表部の職員、東ドイツ政府の幹部だけが通ることを許された。
検問所近くに、統一前の様子がわかる写真が貼られていた。
今では観光客用に小さな小屋があり、星条旗と米軍兵士に扮した人が2人立っている。
左奥のベルリンの壁博物館(Mauermuseum)は時間がなかったのでまたの機会に。
最後にブランデンブルク門にお別れのあいさつ。
ブランデンブルク門は、約200年、ベルリンの、そしてドイツの歴史を見てきた。
1989年8月にここを訪れたときは門の向こう側にあったベルリンの壁が、同じ年の12月22日に撤去され、10万人もの人がここ集まり、祝福した。
それはドイツ統一への道のりの大きな一コマであった。
今は自由に行き来することができるが、一度は自分でも試してみようと思い、通り抜けてみた。
もちろんすんなり通ることができるが、22年間のことを思い出すと、なんだか不思議な感じ。
はるか遠方には戦勝記念塔(Siegessäule)が見える。
実物の写真はベルリン市のホームページをご覧ください。
↓
http://www.berlin.de/orte/sehenswuerdigkeiten/siegessaeule/
この戦勝記念塔は、もともとブランデンブルク門の北にある帝国議事堂(現在の連邦議事堂)の前にあったが、1938年、ヒトラーによるベルリンの都市改造計画「世界首都ゲルマニア(Welthauptstadt Germania)」に基づき現在のティーアガルテンに移された。
「世界首都ゲルマニア」計画は、移設した戦勝記念塔からブランデンブルク門、ウンター・デン・リンデンを東西の軸とし、それと交差するように、巨大なキューポラをもった会議場を北端にして、新たに南北の軸をつくり、世界首都にふさわしい都市をつくるという壮大な計画であった。
(以下、ウンター・デン・リンデンにあるドイツ歴史博物館のホームページより)
戦勝記念塔
http://www.dhm.de/lemo/objekte/pict/ba008862/index.html
南北の軸の模型
http://www.dhm.de/lemo/objekte/pict/achse/index.html
以前このブログで紹介した「ヒトラー~最期の12日間~(Der Untergang)」に、「世界首都ゲルマニア」の大きな模型を前に、ヒトラーが計画の設計者シュペアーに話しかける場面がある。
そこでヒトラーは、ソ連軍が目前に迫っているにもかかわらず、「ベルリンの改造は私の夢だった。今でもだ」と言っている。
劇場型政治の最たるナチスは、ベルリンの象徴であるブランデンブルク門を最大限に活用した。
1933年1月30日夜、ナチス政権の誕生を祝った突撃隊によるたいまつ行進に始まり、ことあるごとにブランデンブルグ門とウンター・デン・リンデンを行進した。
たいまつ行進の様子(同じくドイツ歴史博物館のホームページより)
http://www.dhm.de/lemo/html/nazi/innenpolitik/etablierung/index.html
1939年4月20日には、ヒトラーの50歳の誕生日を祝って、戦勝記念塔からウンター・デン・リンデンまで、沿道には10万人もの市民が集まり、リムジンに乗ったヒトラーがパレードを行った。
(パレードの様子の写真は見つかりませんでした)
それが今では観光客が訪れるベルリンの名所となっている。
門の前には、全身を銀色で塗りたくった兵士姿の男が立っていたり、熊のぬいぐるみを着た人が愛想を振りまいたりしている。
2日前にここに来たとき、銀色の兵士と一緒にいた軍服姿の男がDDRの国旗を持っていたので、「DDR国旗の写真をとりたい」と言ったら、銀色の兵士が「ダスビダーニャ」と答えたので、「ロシアから来たのか」と聞くと、「全世界からだ」と訳のわからないことを言う。いかにも怪しい。
写真を撮ってもいいと言うので、国旗にカメラを向けると、私も一緒に写らないとだめ、と言う。
どうせ写真1枚いくらでお金を取るのだろう。私も1ユーロぐらいは渡すつもりでいたが、これ以上の面倒がいやなので、黙ってその場を去った。結局、その日の午後に行ったシュタージ博物館にDDRの国旗があって、それを撮ったので、お金を渡してまで撮らなくてよかった。
それにしても人気のある観光地にはどこにも変なのがいるようだ。
これも平和な証拠か。でも、なんでロシア語で「さよなら(ダスビダーニャ)」と言ったのだろうか。
もう時間もあまりないので、名残惜しいがもう一度だけブランデンブルク門を眺め、しっかりと記憶にとどめてその場をあとにした。しばらくは振り返ればまだ見えただろうが、最後の印象をそのまま残したかったので振り返らずにウンター・デン・リンデンを急ぎ足で歩いてホテルに向かった。
(次回に続く)
2012年3月20日火曜日
旧東ドイツ紀行(13)
11月14日(月)続き ベルリン
新博物館を出たら、外はすっかり暗くなっていた。
古代エジプトの遺跡を中心に内容があまりにも充実していたので、閉館ぎりぎりの6時までいたが、地中海文明や石器時代、青銅器時代、鉄器時代の遺跡が並んだコーナーは駆け足になってしまった(新博物館は、日曜日から水曜日までは18時、木曜日から土曜日までは20時閉館)。
早いもので今日はベルリン最後の夜。
せっかくベルリンに来たのだから、東側だけでなく、西側にも行ってみようと思い、ベルリン一の繁華街「クーダム」に行ってみることにした。
これはフリードリッヒ駅構内。ドイツ人は歩くのが早い。目的地に向かってわき目もふらずに歩いていく。私も歩くのは遅い方ではないが、どこへ行っていいかわからずうろうろしていると、歩いている人の邪魔になってしまう。
フリードリッヒ通り駅からS-バーン(東京でいえば山手線のような近郊電車)に乗り、4つ目のツォー駅(動物園駅)で降りる。
駅前からクーダムに至るまで、レストランやデパートのネオンがまばゆく、街全体がやたら明るい。人通りも車も多く、せわしない感じ。
日本でも都会に住んでいて、人や車の多いところは慣れているはずなのに、東側の節度ある明るさ、ほどよい人の多さに慣れてしまったのだろうか。西側には違和感を感じつつ、クーダムの入口あたりまで少し歩いただけで、そそくさと東側に戻ってきてしまった。
下の写真は、ツォー駅近くの交差点。
次の写真はツォー駅の反対側。
ドイツ人はこんな寒い冬でも外で食事をする。
気のせいか、西は東ほど交通ルールもあまり守られていないようだ。
東では、歩行者用の信号が点滅すると誰もが止まる。自動車も自転車も、交差点で横断歩道を渡る人を見るとぴたりと止まる。
ところが西では信号が赤でも横断歩道を渡ろうとする人がいる。自動車も信号が変わりかけてもかなりのスピードで交差点に進入する。
こんな調子では横断歩道を渡るときも神経を使う。
これも西側は居心地がよくないと思った一つの理由かもしれない。
交通ルールについて話が出たついでに・・・
先週末、1泊2日で京都に行ってきた。
京都市内は、道幅が広く、歩道も十分な幅がある通りでは、自転車通行帯が色分けされている。でも、歩行者の方が色分けに気付かず、自転車通行帯を歩いて自転車に乗っている人を困らせている場面をよく見かけた。
日本では自転車と歩行者のいい関係ができるまでまだ時間がかかりそうだ。
下の写真は堀川通りの歩道。
S-バーンに乗ってふたたびフリードリッヒ通り駅。
「戻ってきた」と言う感じで、何となくほっとする。
東側は人通りも、車の通りもあるが、ごみごみした感じはない。ネオンサインも少ない。
夕食は、フリードリッヒ通り駅近くのガード下の「ツア・ノレ(Zur Nolle)」。地球の歩き方に、野菜料理も豊富にある、と書いてあったのでここ決めた。
メニューを見ると、肉料理の他に野菜料理もいくつか並んでいた。
お勘定をお願いすると、ウェイトレスさんはレシートを持ってきた。
ホテルまでは歩いて10分ほどの距離。
新博物館を出たら、外はすっかり暗くなっていた。
古代エジプトの遺跡を中心に内容があまりにも充実していたので、閉館ぎりぎりの6時までいたが、地中海文明や石器時代、青銅器時代、鉄器時代の遺跡が並んだコーナーは駆け足になってしまった(新博物館は、日曜日から水曜日までは18時、木曜日から土曜日までは20時閉館)。
早いもので今日はベルリン最後の夜。
せっかくベルリンに来たのだから、東側だけでなく、西側にも行ってみようと思い、ベルリン一の繁華街「クーダム」に行ってみることにした。
これはフリードリッヒ駅構内。ドイツ人は歩くのが早い。目的地に向かってわき目もふらずに歩いていく。私も歩くのは遅い方ではないが、どこへ行っていいかわからずうろうろしていると、歩いている人の邪魔になってしまう。
フリードリッヒ通り駅からS-バーン(東京でいえば山手線のような近郊電車)に乗り、4つ目のツォー駅(動物園駅)で降りる。
駅前からクーダムに至るまで、レストランやデパートのネオンがまばゆく、街全体がやたら明るい。人通りも車も多く、せわしない感じ。
日本でも都会に住んでいて、人や車の多いところは慣れているはずなのに、東側の節度ある明るさ、ほどよい人の多さに慣れてしまったのだろうか。西側には違和感を感じつつ、クーダムの入口あたりまで少し歩いただけで、そそくさと東側に戻ってきてしまった。
下の写真は、ツォー駅近くの交差点。
次の写真はツォー駅の反対側。
ドイツ人はこんな寒い冬でも外で食事をする。
気のせいか、西は東ほど交通ルールもあまり守られていないようだ。
東では、歩行者用の信号が点滅すると誰もが止まる。自動車も自転車も、交差点で横断歩道を渡る人を見るとぴたりと止まる。
ところが西では信号が赤でも横断歩道を渡ろうとする人がいる。自動車も信号が変わりかけてもかなりのスピードで交差点に進入する。
こんな調子では横断歩道を渡るときも神経を使う。
これも西側は居心地がよくないと思った一つの理由かもしれない。
交通ルールについて話が出たついでに・・・
先週末、1泊2日で京都に行ってきた。
京都市内は、道幅が広く、歩道も十分な幅がある通りでは、自転車通行帯が色分けされている。でも、歩行者の方が色分けに気付かず、自転車通行帯を歩いて自転車に乗っている人を困らせている場面をよく見かけた。
日本では自転車と歩行者のいい関係ができるまでまだ時間がかかりそうだ。
下の写真は堀川通りの歩道。
S-バーンに乗ってふたたびフリードリッヒ通り駅。
「戻ってきた」と言う感じで、何となくほっとする。
東側は人通りも、車の通りもあるが、ごみごみした感じはない。ネオンサインも少ない。
夕食は、フリードリッヒ通り駅近くのガード下の「ツア・ノレ(Zur Nolle)」。地球の歩き方に、野菜料理も豊富にある、と書いてあったのでここ決めた。
お店の上はS-バーンの線路。まるで有楽町のガード下にありそうなおしゃれな店。
そういえば、S-バーンに交差するフリードリッヒ通りはデパートやブランドショップが並んでいるので、たとえて言うなら「東ベルリンの銀座通り」。
外観だけでなく、店内も中世の酒場といった落ち着いた雰囲気。
その中で一番温かそうな「野菜ラザニア」を注文することにした。
私は案内しくれたウェイトレスさんに声をかけた。
「野菜ラザニアとビール。それから、ビールは料理といっしょにもってきてもらえますか」
「はい、わかりました」
ドイツのレストランでは、まずビールが出され、それをちびちび飲みながら料理を待つ、というのが一般的なようだ。日本の居酒屋のように、「はい、生ビール、はい、お通し、はい、枝豆」というわけにはいかない。
私は料理をつまみながらビールを飲みたかったので、こう注文した。
しばし、ガイドブックを見たり、メールを打ったりしていると、おいしそうな料理が運ばれてきた。
そこでウェイトレスさんは、「あっ」という感じでビールを持ってこなかったことに気がついて、すぐにカウンターまで戻ってビールを持ってきてくれた。東ドイツ時代では考えられないような親切な対応。
何種類もの野菜がはさまったラザニア。チーズの塩気が適度にきいて、濃い味のドイツビールによく似合う。すぐに1杯飲み干してしまい、2杯目を注文した。
道行く人や店内の装飾を眺めながら、ベルリン最後の夕食を心ゆくまで楽しんだ。
ここには「チップは含まれていません」という表示はない。観光客でなく地元の人が来るレストランだからだろうか。
「おいしかったです」とお礼を言いいながら18ユーロを渡すと、ウェイトレスさんもにこっと笑顔。
下の写真の左はレシート、右は記念にいただいたコースター。赤ちゃんがジョッキから顔を出しているかわいらしいデザイン。「ベルリーナー・キンドル」とは「ベルリンの小さな子」という意味。
ベルリーナー・キンドル社のホームページによると、「19世紀後半に醸造所が造られ、ドイツ帝国の隆盛によるベルリン人口増加に伴ってビールの製造量が増えた。1890年には、『ミュンヒナー・キンドル』に倣い名前を付けた」とある。
やはり、ドイツでもビールといえばミュンヘンが有名なようだ。
夜になりさらに寒さが厳しくなってきたが、食事をしたせいか体はぽかぽかしていた。
それでも、さっきからのどの痛みが気になっていたので、今日は風呂でよく温まって早く寝ようかな、明日は良くなってればいいのだけれど、などと考えながら、ホテルへの帰りを急いだ。
(次回に続く)
2012年3月12日月曜日
旧東ドイツ紀行(12)
11月14日(月)続き ベルリン
昼食の後は博物館島に渡り、ペルガモン博物館の隣の「新博物館(Neues Museum)」に行った。
「新」と言っても、建物は、中世の教会のように円柱の並ぶ回廊が廻らされていて、展示されているものは、古いものでは紀元前3000年代の古代エジプトの遺跡にまでさかのぼるものもあるので、決して新しくはない。
館内のスペースはぜいたくなほどゆったりと使われていて、なおかつ現地の雰囲気を出そうという工夫が見られる。
地下1階から階段を下りると、正面の扉の両側に守り神の像が並んでいて、その先に王の棺の部屋があるようなつくりになっている。
ちなみに正面の扉は職員の通用口。この写真を撮る前に女性の職員が出てきたが、私が写真を撮るのに気付いて、小走りで私の横を通り過ぎてくれた。
巨大な石のレリーフも迷路のように並んでいる。まるで王家の墳墓の中に入ったようだ。
これはレリーフの小片。それにしても何でこんなに鮮やかに当時の色が残っているのだろうか。
ベルリンでは過去の海外旅行のことを思い出してばかりだが、ここでも2003年の年末に行ったエジプト旅行のことを思い浮かべた。
シリア・ヨルダンに行ったときにギザのピラミッドを見たことは以前にふれたが、ナイル川をさかのぼってルクソール、アブシンベル大神殿まで行ったのはこの時が初めて。
羽田から関空に飛び、エミレーツ航空で深夜に関空を発ち、ドバイで乗り継いで翌朝、カイロに到着し市内観光とお決まりのギザの三大ピラミッドとスフィンクス。
翌日は飛行機でルクソールまで移動し、カルナック神殿、ハトシェプスト女王葬祭殿、王家の谷などを観光。ハトシェプスト女王葬祭殿は、1997年に日本人を含む観光客が襲われた銃撃事件があったところ。葬祭殿は砂山に囲まれたすり鉢状のくぼ地につくられているが、砂山を見上げると、自動小銃をもった兵士が等間隔で並んで警戒していて、ものものしい雰囲気。
ルクソールからアスワンにはバスで移動したが、私たち一行のバスだけでなく、さまざまな国の団体旅行者を乗せた観光バスが何十台も隊列を組み、前後を軍の車が護衛するという警戒ぶり。
事件後6年たっていたが、まだテロの危険性があったようだ。
途中、日本でいえばドライブインみたいなところでトイレ休憩があった。私は食堂の外に木製の丸テーブルがずらりと並んでいる中に席を見つけ、水筒に入れたお湯を飲んでいた。
すると、若い兵士が近づき、肩にかけていた自動小銃を、「バンッ」と私の隣の丸テーブルの上に置き、食堂の中に消えていった。
私は怖くなった。この自動小銃を誰かが奪って乱射したらどうするんだ。
かといって私がいじったりしたら、暴発してしまうかもしれないし、テロリストと疑われてしまうかもしれない。
私は仕方なく、誰にも奪われないよう、じーっと見張ることにした。
ほどなくして若い兵士がうれしそうにコーヒーをもって戻ってきた。そして、自動小銃を見つめていた私に言った。
「どうだ、かっこいいだろう」
若い兵士が自動小銃を肩にかつぐのを確認して、私もほっとして笑顔で言った。
「そうだね」
そしてこのエジプト旅行は、デジタルカメラを持って行った最初の海外旅行でもあった。
最近ではどこへ行っても写真はパソコンに保存しているだけだが、このときは凝った編集をして、見出しや説明書きまでつけた。見本として2ページ紹介する。
最終日はフリーだったので、タクシーをチャーターしてカイロの旧市街地を観光した。
ドライバーの中年の男性は、旧市街地に住んでいるようで、行く先々で知り合いの人とあいさつしていた。
おかげで旅行者では分からないような裏路地まで教えてもらった。
夕方、ホテルに集合し、私たち一行はバスにのって空港に向かった。バスが高速道路に上がると、ちょうど日が沈むところで、夕陽に照らされたいくつものモスクの塔がまるで影絵のように浮かんでいた。
私は写真に収めようと思いカメラを出したが、バスは無情にもカーブにさしかかり、街のシルエットは見えなくなってしまった。
残念ではあったが、こういう時、私は「もう一度来る理由が見つかった」と思うようにしている。
次回こそは、どこか高いところから夕陽に浮かぶカイロの街並みを撮りたい。
「アラブの春」と言われ、民主化デモにより昨年2月に当時のムバラク大統領は辞任したが、政情は安定していない。デモ隊と治安部隊の衝突は今でも各地で起こっている。
自動小銃を無造作にテーブルの上に置いた若い兵士は今もしっかり観光客を守っているだろうか、最後にチップを渡したとき、笑顔で「ショクラン(アラビア語で「ありがとう」)」と言ったタクシーの運転手さんは商売あがったりになっていないだろうか、ピラミッドやアブシンベル大神殿などの世界遺産も素晴らしいが、現地で出会った人たちのことも目の前に浮かんでくる。
(次回に続く)
昼食の後は博物館島に渡り、ペルガモン博物館の隣の「新博物館(Neues Museum)」に行った。
「新」と言っても、建物は、中世の教会のように円柱の並ぶ回廊が廻らされていて、展示されているものは、古いものでは紀元前3000年代の古代エジプトの遺跡にまでさかのぼるものもあるので、決して新しくはない。
館内のスペースはぜいたくなほどゆったりと使われていて、なおかつ現地の雰囲気を出そうという工夫が見られる。
地下1階から階段を下りると、正面の扉の両側に守り神の像が並んでいて、その先に王の棺の部屋があるようなつくりになっている。
ちなみに正面の扉は職員の通用口。この写真を撮る前に女性の職員が出てきたが、私が写真を撮るのに気付いて、小走りで私の横を通り過ぎてくれた。
巨大な石のレリーフも迷路のように並んでいる。まるで王家の墳墓の中に入ったようだ。
これはレリーフの小片。それにしても何でこんなに鮮やかに当時の色が残っているのだろうか。
ベルリンでは過去の海外旅行のことを思い出してばかりだが、ここでも2003年の年末に行ったエジプト旅行のことを思い浮かべた。
シリア・ヨルダンに行ったときにギザのピラミッドを見たことは以前にふれたが、ナイル川をさかのぼってルクソール、アブシンベル大神殿まで行ったのはこの時が初めて。
羽田から関空に飛び、エミレーツ航空で深夜に関空を発ち、ドバイで乗り継いで翌朝、カイロに到着し市内観光とお決まりのギザの三大ピラミッドとスフィンクス。
翌日は飛行機でルクソールまで移動し、カルナック神殿、ハトシェプスト女王葬祭殿、王家の谷などを観光。ハトシェプスト女王葬祭殿は、1997年に日本人を含む観光客が襲われた銃撃事件があったところ。葬祭殿は砂山に囲まれたすり鉢状のくぼ地につくられているが、砂山を見上げると、自動小銃をもった兵士が等間隔で並んで警戒していて、ものものしい雰囲気。
ルクソールからアスワンにはバスで移動したが、私たち一行のバスだけでなく、さまざまな国の団体旅行者を乗せた観光バスが何十台も隊列を組み、前後を軍の車が護衛するという警戒ぶり。
事件後6年たっていたが、まだテロの危険性があったようだ。
途中、日本でいえばドライブインみたいなところでトイレ休憩があった。私は食堂の外に木製の丸テーブルがずらりと並んでいる中に席を見つけ、水筒に入れたお湯を飲んでいた。
すると、若い兵士が近づき、肩にかけていた自動小銃を、「バンッ」と私の隣の丸テーブルの上に置き、食堂の中に消えていった。
私は怖くなった。この自動小銃を誰かが奪って乱射したらどうするんだ。
かといって私がいじったりしたら、暴発してしまうかもしれないし、テロリストと疑われてしまうかもしれない。
私は仕方なく、誰にも奪われないよう、じーっと見張ることにした。
ほどなくして若い兵士がうれしそうにコーヒーをもって戻ってきた。そして、自動小銃を見つめていた私に言った。
「どうだ、かっこいいだろう」
若い兵士が自動小銃を肩にかつぐのを確認して、私もほっとして笑顔で言った。
「そうだね」
そしてこのエジプト旅行は、デジタルカメラを持って行った最初の海外旅行でもあった。
最近ではどこへ行っても写真はパソコンに保存しているだけだが、このときは凝った編集をして、見出しや説明書きまでつけた。見本として2ページ紹介する。
最終日はフリーだったので、タクシーをチャーターしてカイロの旧市街地を観光した。
ドライバーの中年の男性は、旧市街地に住んでいるようで、行く先々で知り合いの人とあいさつしていた。
おかげで旅行者では分からないような裏路地まで教えてもらった。
夕方、ホテルに集合し、私たち一行はバスにのって空港に向かった。バスが高速道路に上がると、ちょうど日が沈むところで、夕陽に照らされたいくつものモスクの塔がまるで影絵のように浮かんでいた。
私は写真に収めようと思いカメラを出したが、バスは無情にもカーブにさしかかり、街のシルエットは見えなくなってしまった。
残念ではあったが、こういう時、私は「もう一度来る理由が見つかった」と思うようにしている。
次回こそは、どこか高いところから夕陽に浮かぶカイロの街並みを撮りたい。
「アラブの春」と言われ、民主化デモにより昨年2月に当時のムバラク大統領は辞任したが、政情は安定していない。デモ隊と治安部隊の衝突は今でも各地で起こっている。
自動小銃を無造作にテーブルの上に置いた若い兵士は今もしっかり観光客を守っているだろうか、最後にチップを渡したとき、笑顔で「ショクラン(アラビア語で「ありがとう」)」と言ったタクシーの運転手さんは商売あがったりになっていないだろうか、ピラミッドやアブシンベル大神殿などの世界遺産も素晴らしいが、現地で出会った人たちのことも目の前に浮かんでくる。
(次回に続く)
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