2025年10月19日日曜日

永青文庫 近代日本画の粋 ーあの猫が帰って来る!ー 

 東京・目白台の永青文庫では、令和7年度秋季展 重要文化財「黒き猫」修理完成記念 「永青文庫 近代日本画の粋 ーあの猫が帰って来る!ー」が開催されています。

永青文庫外観

今回の展覧会の見どころは、タイトルにあるとおり、初めて本格的修理が行われ、より美しくなって再登場した「黒き猫」(菱田春草筆 重要文化財)をはじめ、同館が所蔵する近代日本画コレクションの中から選りすぐりの名品が見られることです。

展覧会チラシ

開幕にさきがけて開催されたプレス内覧会に参加しましたので、さっそく展示の様子をご紹介したいと思います。

展覧会開催概要


会 期  2025年10月4日(土)~11月30日(日)
    ※前・後期で大幅な展示替えがあります。
     前期:10月4日(土)~11月3日(月・祝) 後期:11月7日(金)~11月30日(日)
開館時間 10時~16時30分(入館は16時まで)
休館日  毎週月曜日、11月4日(火)~6日(木)、11月25日(火)
     (ただし、11月3日、11月24日は開館)
入館料  一般1000円、シニア(70歳以上)800円、大学・高校生500円
     ※中学生以下、障害者手帳をご提示の方及びその介助者(1名)は無料
展覧会の詳細等は同館公式サイトをご覧ください⇒https://www.eiseibunko.com/

 
※展示室内は撮影禁止です。掲載した写真はプレス内覧会で主催者より許可を得て撮影したものです。

展示は4階から始まります。
4階展示室の奥に凛として柏の木の幹に座り、こちらをじっと見据える「黒き猫」が見えてきました。


重要文化財 菱田春草「黒き猫」 明治43年(1910) 永青文庫蔵
前期展示(10/4-11/3)

今回の展覧会では、前期に「黒き猫」「平重盛」「六歌仙」、後期に「落葉」(重要文化財)と、永青文庫が所蔵する菱田春草作品全4点が展示されます。

それではここで菱田春草の生涯について少しふれながら作品を紹介していきたいと思います。

【東京美術学校時代】
長野県伊那郡飯田町(現在の飯田市)に生まれた菱田春草(1874-1911)は、明治22年(1889)に上京、翌年東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学して岡倉天心、橋本雅邦の薫陶を受け、明治28年(1895)に卒業後は同校の嘱託教員を務め、若くしてその才能を発揮し数々の名作を発するとともに、帝国博物館(現在の東京国立博物館)による古画模写事業に携わりました。

「平重盛」は春草が東京美術学校で学んでいた頃の初期の作品ですが、鎧などの緻密な描写や絵巻物のような画面構成などからは古画研究の成果がみとめられ、手前の人物は濃く、奥の門は淡く着色され、西洋の空気遠近法が取り入れられています。
画学生にしてこの完成度。やはり天才画家、春草おそるべしと感じました。

菱田春草「平重盛」 明治27年(1894)頃 永青文庫蔵
前期展示(10/4-11/3)


【日本美術院時代】
春草は、明治31年(1898)の美術学校騒動の際に同校を辞職した天心、雅邦らが東京・谷中に設立した日本美術院に横山大観らとともに参加しました。
「六歌仙」はこの頃の作品です。
この作品では、右隻右下と左隻左下に捺されている琳派風の大きな丸い円にも注目したいです。

菱田春草「六歌仙」 明治32年(1899) 永青文庫蔵
前期展示(10/4-11/3)


【東京から五浦へ、そして帰京】
当時は、「線」を描かない没線描法を大観とともに試みましたが、それが「朦朧体」と酷評され、次第に日本美術院の経営も傾き、日本画の研究所を北茨城の五浦(いづら)に置いた天心にしたがい、明治39年(1906)、大観、下村観山、木村武山とともに五浦に移住しました。
しかしながら五浦滞在は長く続かず、腎臓病に伴う眼病の治療のため、明治41年(1908)、東京に戻り、一時は病状も快方に向かい制作を再開しましたが、明治44年(1911)、春草は36歳の若さで亡くなりました。

2013年に公開された映画「天心」をご覧になられた方なら、春草が制作中に目がかすむ場面や、寂しげに五浦を去る場面などが思い出されるのではないでしょうか。

展示に戻ります。
一瞬、「五浦時代に菱田春草が描いた「賢首菩薩」がなぜここに?」と思いましたが、これは模本でした。
現在は東京国立近代美術館に所蔵されているこの作品は、もとは近代日本画を積極的に収集した細川護立氏(1883-1970)のコレクションだったのです。

作者不詳「菱田春草「賢首菩薩」(模本)」 永青文庫蔵
前期展示(10/4-11/3)

「黒き猫」が第4回文展に出品されたのが亡くなる1年前の明治43年(1910)。
後期に展示される「落葉」が第3回文展に出品されたのはその1年前の明治42年(1909)。
どちらも、春草が病魔と闘いながら最後の力を振り絞って描いたことを想像すると、涙なしでは見られない作品です。

菱田春草「落葉」(左隻) 明治42年(1909) 永青文庫蔵(熊本県立美術館寄託)
後期展示(11/7-11/30) 


菱田春草「落葉」(右隻) 明治42年(1909) 永青文庫蔵(熊本県立美術館寄託)
後期展示(11/7-11/30) 



永青文庫の設立者・細川護立氏が近代日本画に強い関心をもつようになったのは、明治33年(1900)に開催された第九回日本絵画協会第四回日本美術院連合絵画共進会を訪れ、横山大観、下村観山、菱田春草の作品を見て感銘を受けてからでした。
その後、日本美術院関連の展覧会を毎年観覧し、明治41年(1908)、25歳の時に日本美術院小展覧会を観覧して、横山大観「杜鵑」、下村観山「峯の朝」、菱田春草「林和靖」、木村武山「瀧」を購入しましたが、会場は閑散としていて、ほかに購入者はいなかったといわれています。

右 下村観山「春日の朝」 明治42年(1909)頃 永青文庫蔵
左 横山大観「柿紅葉」 大正9年(1920) 永青文庫蔵(熊本県立美術館寄託)
どちらも前期展示(10/4-11/30)


「五浦組」の中ではあまり知名度の高くない木村武山ですが、色彩豊かな武山の作品は好みなので、後期に展示される「祇王祇女」は楽しみです。


木村武山「祇王祇女」 明治41年(1908) 永青文庫蔵
後期展示(11/7-11/30)



画家と関わりながら日本画蒐集を進めた護立氏でしたが、春草が若くして亡くなったこともあって、近代日本画家の中でも特に高く評価した春草との交流はあまりなかったようです。

一方、特に深い交流を結んだ画家が横山大観でした。
現在は東京国立近代美術館が所蔵する全長40メートルにもおよぶ絵巻物の大作「生々流転」が、もとは護立氏のコレクションだったとは初めて知りました。

3階展示室には、護立氏と近代日本画家たちとの交流がうかがえる作品が展示されています。


右から 「社頭雪」昭和6年(1931) 「簑田喜太郎宛書簡」昭和6年2月4日
「山色連天」大正14年(1925) いずれも横山大観 永青文庫蔵
前期展示(10/4-11/3) 

「社頭雪」と「山色連天」は、大正7年(1918)正月、護立氏が大観から歌会始の勅題・海辺松を題材にした作品を買い受けたことをきっかけに、翌年から昭和17年(1943)まで護立氏のもとに贈られてきた勅題画で、後期(11/7-11/30)には「山色新」が展示されます。

3階展示室には、ほかにも大観や小林古径らの小襖、大観、観山、武山らのきらびやかな扇、大観らに下図を依頼した手拭などが展示されています。

3階展示室展示風景



平福百穂「花鳥図扇面」    永青文庫蔵 通期展示

平福百穂は、自然主義を唱え、晩年は南画風の写実画を描いた秋田出身の日本画家。
先ほどご紹介した春草の「六歌仙」は百穂が秋田で見つけたもので、護立氏は百穂に強く勧められて買い求めたといわれています。

2階展示室には護立氏のコレクションへの思いが伝わってくる書付などが展示されています。

こちらは下村観山「春日の朝」(4階展示室)の書付。
「「春日の朝」が年々色あせて、当初のものから調子が変わってきたことを嘆き、観山没後、上野で遺作展があったとき、観山が描き、後年観山自身が自分の目の前で補筆したにも関わらず、日本美術院の同人たちはこんなに色の調子はありえないので偽作ではないかと疑い、遺作展の目録に入れるのを拒んだ」というエピソードが紹介されているのが興味深かったです。


下村観山「春日の朝」書付 昭和19年(1944)1月22日 前期展示

『季刊 永青文庫』(127号)には、「黒き猫」の修理の様子、春草作品の解説、春草が描いた猫図で現存するもののリストなどが掲載されていて、内容がとても充実しているので春草ファン必携です。

『季刊 永青文庫』127号 1200円(税込)


「黒き猫」は11月3日(月・祝)までの期間限定公開です。後期展示(11/7-11/30)の「落葉」も楽しみです。どちらもお見逃しなく!