2019年10月20日日曜日

江戸東京博物館 特別展「士 サムライ-天下太平を支えた人びと-」

一枚の写真に納まる精悍な面構えのサムライたち。きりっとした顔つきながらも、どこか悲壮感が漂っているのはなぜなのでしょうか。



東京・両国にある江戸東京博物館では、サムライたちの生き様に焦点を当てた特別展「士 サムライ-天下太平を支えた人びと-」が開催されています。

【開催概要】
会 期  9月14日(土)~11月4日(月・休)
開館時間 9:30~17:30(土曜日は19:30まで)※入館は閉館の30分前まで
休館日  毎週月曜日(ただし11/4は開館)
観覧料(税込) 一般 特別展専用券 1,100円 特別展・常設展共通券 1,360円
公式サイトはこちら→https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/

展示はプロローグに始まり、5章構成になっていて、エピローグでフィニッシュ。
それでは、さっそく江戸時代のサムライたちに会いに行きましょう。
展覧会をご案内いただいたのは、今回の展覧会を担当された同館学芸員の小酒井さんです。
※展示室内は一部を除き撮影禁止です。掲載した写真は内覧会で主催者より特別の許可をいただいて撮影したものです。

プロローグ 都市のサムライ

展示室に入ってすぐ見えてくるのは、右隻に両国の川遊び、左隻に上野の花見の様子が描かれた色鮮やな金屏風《上野花見・両国川遊図屏風》。

《上野花見・両国川遊図屏風》(江戸東京博物館)

こちらは江戸時代前期の上野や隅田川の様子を描いた作品。
何人もの人物が描かれていますが、ここでは人物が差している刀の数に注目したいです。
サムライは二本差し、お供と思われる物は一本差し、といった具合に描き分けられているのです。まずはここで今回のテーマ「江戸時代のサムライたち」をイメージしていきましょう。

展示室内には撮影OKの作品もいくつかあります。この《上野花見・両国川遊図屏風》もその一つ。「撮影OK」のマークが目印なので来館記念にぜひ一枚!



第1章 士 変容-武人から役人へ-

徳川政権の始まりは何と言っても慶長5(1600)年「天下分け目」の関ヶ原の戦い。
下の写真右の《関ヶ原合戦図屏風》には、東軍、西軍の武将たちが細かく丁寧に描かれています。

そして徳川幕府の基礎を盤石なものにしたのは、豊臣家を滅ぼした大坂冬の陣(慶長19(1614)年)と大坂夏の陣(慶長20(1615)年)。
下の写真左の羽織は、大坂夏の陣で勲功をあげた今村正長に徳川家康が下賜した羽織。葵の御紋が燦然と輝いています。

右 《関ヶ原合戦図屏風》翫月亭峩山模写
(関ヶ原町歴史民俗資料館)
左 重要文化財《萌葱地葵紋付小紋染羽織》
(江戸東京博物館)
いくさでは兜や鎧に身を固めた武将たちだけでなく、主人とともに戦ったり、合戦に必要な物資を運んだりした雑兵(ぞうひょう)たちの活躍も重要でした。
雑兵にも階層の違いがあって、それは身につけているものでわかりました。ぜひ見比べてみてください。

右《諸卒出立図巻》、左《雑兵物語》
(いずれも東京国立博物館)


第2章 士 日常-実生活のあれこれ-

参勤交代などの諸制度を整備して幕藩体制を確立したのは第三代将軍徳川家光。
ここでの注目は参勤交代によって定期的に江戸に居住することになった大名家臣たちの日常生活を生き生きと描いた《久留米藩士江戸勤番長屋絵巻》(後期は複製)。

《久留米藩士江戸勤番長屋絵巻》(複製)
(江戸東京博物館)
楽しみにしていた帰国間近に帰国延期を告げられ暴飲している場面まであって、当時の武士たちの気持ちがよくわかる絵巻です。

もう一つの注目は、幕末期に来日した写真家フェリーチェ・ベアトが撮影した写真と、明治初期に撮影された大名屋敷などの写真。


冒頭紹介したサムライたちの写真はベアトが撮影したもので、彼らは生麦事件(文久2(1862)年)が発端となってイギリス艦隊と薩摩藩の砲台が交戦した薩英戦争(文久3(1863)年)後の後処理に向かう使者たちだったのです。
重大な使命を担った彼らの緊張感が伝わってくるようです。

「ベアトの写真は風景の中にサムライたちがいるものをセレクトしました。」と小酒井さん。サムライたちの面構えをぜひご覧になってください。

時代劇の主人公たちのコーナーもあります。

まずは大岡忠相(大岡越前)に関係する資料。
裁きの前に髭を抜きながら思考したと伝えらえる大岡越前。
その時に使った鑷(=毛抜き)まで展示されています。


その隣が遠山景元(遠山の金さん)に関係する資料。
晩年の金さんの姿や、痔を患っていたため馬で登城することができず、駕籠での登城を願い出た文書まで展示されていて、テレビではかっこいい金さんの人間的な面もしのばれます。


第3章 士 非常-変事への対応-

「火事と喧嘩は江戸の華」と言われたほど、建物が密集して人も多かった大都市・江戸では水害も大きな脅威でした。
いくさがなくなった天下太平の時代になって、サムライたちが存在感を示す絶好の機会が災害時。

《江戸幕府所持船図巻》は、さながら幕府主催の観艦式。
中央の大きな船は、火事や水害時に出動する「快速艇」。

《江戸幕府所持船図巻》(江戸東京博物館)

第4章 交流-諸芸修養と人材交流-

武家諸法度に定められているように、江戸時代のサムライたちには「文武両道」が求められました。武芸だけでなく学問も重視され、そこで設けられたのが昌平坂学問所。

下の写真は、昌平坂場公文所の平面図《昌平坂学問所惣絵図》(江戸東京博物館)。


第5章 一新 -時代はかけめぐるー

約260年続いた江戸幕府も、いよいよその終焉の時を迎えます。
こちらは幕末期の大砲。
明治になってからは正午を知らせる空砲を発射していたので《午砲(ごほう)》(江戸東京たてもの館)と呼ばれました。《午砲》は撮影可です。


そして慶応4年(明治元年 1868年)の江戸無血開城に尽力した三人の幕臣、勝海舟、高橋泥舟、山岡鉄舟のコーナーが続きます。三人とも雅号に「舟」が用いられているので「幕末の三舟」と呼ばれています。

一番有名なのは東征軍の江戸総攻撃前に参謀・西郷隆盛と直談判して江戸無血開城を実現した勝海舟。
中央の書額《海舟書屋》(江戸東京博物館)は、佐久間象山宅にかけられていたもので、「海舟」の号はこれにちなんでいます。

続いて高橋泥舟の進言で駿府まで進軍してきた東征軍の西郷隆盛と交渉にあたり、幕府の降伏条件を提示した山岡鉄舟。
ここでは勝海舟が西郷隆盛に宛てた書状を入れたとされる革製の小袋《鉄舟胴乱》(全生庵)に注目です。



エピローグ サムライ、新たな生き様

明治維新後の西洋の人たちの日本に対するイメージは「サムライ」。
日本の軍人が洋装に移行するのに対して、来日した西洋人たちが好んで自国への土産としたのは自分たちの和装像。
こちらは観光地などでよく見かける顔はめ看板のような《和装西洋男女図》(江戸東京博物館)。撮影可の作品なので、並んで記念撮影ができます。


江戸時代のサムライを知るならこの一冊。展覧会の図録(2,130円+税)です。


ロビーには撮影コーナーがあります。
江戸時代を生き抜いたサムライといっしょにぜひ一枚!



会期は11月4日(月・休)までなのでお早目に。
常設展示とあわせてゆっくり時間をとって見たい展覧会です。