2012年6月25日月曜日

旧東ドイツ紀行(26)

11月17日 ライプツィヒ続き

ニコライ教会の中では、男女合わせて14~15人の参加者の人たちが椅子に座って教会の牧師さんの話に耳を傾けていた。
ちょうど1989年10月9日の民主化デモのことを説明しているところだったので、私もその集団の後ろの方に腰かけて聴くことにした。


「この日の月曜デモは暴動になるのではないか、政府はそれに対して武力で弾圧するのではないかという緊張感の中で月曜の夜の祈りは始まりました。お祈りのあと、ライプツィヒ市民はいつものように月曜デモの行進を行いましたが、多くの市民や当局側の努力で最悪の事態は避けられたのです。そしてその後、独裁政権が倒れ、東ドイツの民主化が実現しました。その発端となったのが、まさに皆さんのいるこのニコライ教会なのです」
ここは東ドイツ民主化の動きのクライマックスなので、牧師さんの語りにも力が入ってきた。身振り手振りを交えて、熱っぽく訴えかけるように話していた。
そこにはクルト・マズアーさんの名前は出てこなかったが、マズアーさんや当局側のクルト・マイヤー氏たちの努力があったからこそ、同年6月の天安門事件の再現は避けられたんだよな、など頭に思い浮かべ、うなずきながら聴いていた。
(このあたりの経緯は去年11月7日のブログをご参照ください)

熱い説明が一通り終わったところで牧師さんが、
「次は正面の祭壇の説明に移りますが、その前に何か質問はございますか」
と参加者に投げかけた。
すると一人の中年男性が天井の方を指さしてこう切り出した。
「ところで天井近くの柱から水蒸気がでているけど、何のためなんですか」

私は愕然とした。
と同時に「おじさん、その質問はないでしょ」と心の中で叫んだ。
そのおじさんの頭の中では、東ドイツの民主化も、それが当時の人たちの努力で平和的に行われたことも、このニコライ教会がその舞台となったこともどうでもよくて、水蒸気だけが気にかかっていたようだ。
確かにその前兆はあった。
午前にこの教会に来たとき、スーベニアショップで何かいいものがないか探していたら、若い男性が勢いよく店に入ってきて、
「あの水蒸気は何のために出しているんですか」と店の人に聞いてきた。
店の男性も、よく聞かれることとばかりに、
「ああ、あれは木の柱に湿気を与えるためですよ」とこともなげに答えていた。

さて当の牧師さんの反応はどうだったか。
一瞬戸惑った表情を見せたが、そこは人間ができている。気を取り直して、
「木の柱には湿気が必要ですからね」と丁寧に対応した。
質問はそれだけだった。
「さあみなさん祭壇の前まで移動してください」
牧師さんの声に参加者たちは席を立って祭壇の方に向かった。
写真は祭壇で説明を聴く参加者たち。左から二人目の赤いジャケットを着た人が牧師さん。


牧師さんのお話をもっとおうかがいしたかったが、そろそろ夕食を食べないと帰りの列車に間に合わなくなるので、祭壇で絵の説明をしている牧師さんに遠くから一礼をしてニコライ教会を出た。

夕食は、ゲーテが学生時代よく通ったという「アウエルバッハスケラー」で、と決めていた。
ニコライ教会からはさほど遠くないが、古い街の中をさまようように歩くのが好きなので、わざと細い道や裏路地などに入って遠回りをしてみた。
その間、ドイツ人にとって東ドイツ民主化の動きやドイツ統一はすでに過去のできごとになってしまったのだろうか、それよりも水蒸気の方がはるかに関心の高いことなのだろうか、などとといった考えが頭の中を廻っていた。
(次回に続く)

2012年6月16日土曜日

旧東ドイツ紀行(25)

11月17日(木) ライプツィヒ続き

寒さから逃れるために入ったのは旧市庁舎。
旧市庁舎前のマルクト広場は、いくつもの店が立ち並び、せわしげにクリスマスの市の準備を始めていた。


 建物の裏手にはゲーテの銅像が立っているが、周囲に木が生い茂っているので、銅像はあまり目立たなかった。


旧庁舎は現在では歴史博物館となって保存されている。
内装は当時のままで、各部屋にライプツィヒの歴史を物語る財宝や資料が展示されている。



これはかつての大広間。どの部屋もシャンデリアや内装が豪華。

トイレの鍵も重厚だ。まるで中世の牢獄の扉のよう。開けるのに苦労した。



19世紀の頃の市街地のジオラマがあった。当時、市の中心部は城壁で囲まれていた。


今回のドイツ旅行前に買ったデジカメには、本物の景色がミニチュアのように見える「ミニチュアライズ機能」があるので、この機能を使って撮ってみた。
実はベルリンでテレビ塔に上ってベルリンの街をミニチュア風に撮ろうと思っていたのだが、もやがかかっていてテレビ塔に上れなかったので、この機能を使うチャンスがなく、どこかで試してみたいと思っていたのだ。
ミニチュアをミニチュアライズで撮るというのも変だが、高いところから撮ったつもりで一枚。
やっぱりミニチュアっぽく見える(?)


写真中央の広場はマルクト広場で、その前に旧市庁舎が建っている。右手の黒い屋根と高い塔の建物はトーマス教会。マルクト広場から左の方に視線を移すと、ニコライ教会の塔と黒い屋根が見える。
写真左手の先が現在のライプツィヒ中央駅なので、この日は左から歩いてきてニコライ教会に入り、そのあとはマルクト広場を抜けて城壁近くの「カフェ・バウム」で昼食→トーマス教会→マルクト広場を通り過ぎて写真左端のアウグストゥス広場→中央の旧市庁舎に戻ってくるというルートを歩いてきた。

今でもかつての面影を残すライプツィヒ。
それでも第二次世界大戦中は連合軍の空襲により大きな被害を受けた。
チケット売り場のおねえさんに聞いたところ、
「1943年12月4日に大空襲がありました。そのとき、この建物も屋根に少し被害を受けましたが、その後の空襲では被害を受けなかったので、昔のままの状態が残されているのです。屋上も戦後、修復されました」と、丁寧に説明してくれた。

中央はライプツィヒのジオラマのある広間。右手前は空襲のお話をしてくれたチケット窓口のおねえさん。パソコンで顔が隠れているが。


いつの間にか外は真っ暗。クリスマスのイルミネーションが冬の夜空に彩りを添えてくれる。

時計を見ると夕方の5時前。夕食にはまだ早かったし、酔っぱらって教会に行くのは不謹慎と思い、夕食前にもう一度ニコライ教会に行くことにした。
するとそこでは教会のガイドツアーが始まっていた。
(次回に続く)


2012年6月3日日曜日

旧東ドイツ紀行(24)

11月17日(木) ライプツィヒ続き

お昼を食べた後はバッハゆかりのトーマス教会。


中に入ると、夜のコンサートに向けてパイプオルガンの練習をしていた。オルガン奏者が演奏していたのは正面でなく、右端に見える方。


ステンドグラスの絵が午後のおだやかな日差しにきらきらと輝く中、私は椅子に腰かけ、しばしパイプオルガンの調べに聴き入っていた。


東ドイツ民主化の動きの中、トーマス教会でも月曜の祈りが行われていた。当時の市民たちが将来への不安や希望を書いた紙片が十字架に貼られている。


教会前のバッハの像。上着の左ポケットの中身が外に出ているのはお金がないことをアピールしている、と『地球の歩き方』に書いてあったが、近くまで寄ってもよくわからなかった。

ここはかつて「カールマルクス広場」と呼ばれたアウグストゥス広場。ニコライ教会で祈りを終えた人たちは、この広場を通って市内をデモ行進した。
正面はオペラハウス。

広場の反対側は、平和的革命の立役者となったクルト・マズアーさんが楽団長を務めていたライプツィヒ・ゲヴァンドハウスオーケストラの本拠地「ゲヴァンドハウス」。




ゲヴァンドハウスの後ろにはライプツィヒ大学の高層ビルが見える。ドイツで2番目に古い大学だが、建物は新しい。旧東ドイツ時代はカールマルクス大学と呼ばれていた。
ドイツの街のどこにでもあったマルクス、エンゲルスの名前。今ではどこにもない。


11月中旬ともなると日の暮れるのは早い。まだ3時半前だというのにだいぶ日が落ちてきて、気温も下がってきた。お昼のバターもすでに体の中で燃焼しきってしまったようで、寒さが身にしみてきた。
「まるで冷蔵庫の中を歩いているようだ!」と心の中で叫びながら歩いていたが、通りの電光掲示板を見たらなんと4℃。
やっぱり冷蔵庫の中だ。
これではたまらないので建物の中に避難することにした。
(次回に続く)