2013年12月19日木曜日

バイエルン美術紀行(7) ニュルンベルク2 デューラーハウス

9月6日(金)ニュルンベルク(続き)
聖ローレンツ教会からさらに北に向かい、街の真ん中を流れるペグニッツ川を渡ると中央広場に出る。この広場の前のフラウエン教会では毎日12時ちょうどに仕掛け時計が動くので、あとで戻ってくるとして、まずは旧市庁舎に向かうことにした。


正面は昔ながらの趣きを残しているが、やはりこの建物も戦争の被害を受けている。
銘板には、旧市庁舎は1616年から1622年にかけてヤコブ・ヴォルフという人によって建設され、1945年に破壊されて1956年から60年にかけて再建、と刻まれてあった。

内装はきれいにリニューアルされ、今では市民のためのギャラリーになっている。
係の男性に聞いてみると、連合軍の空襲を受けたとき、建物の外壁は残ったが、爆弾で天井や床が大きな被害を受けたとのことであった。
  

旧市庁舎の次はいよいよニュルンベルク訪問の大きな楽しみのひとつ「デューラーハウス」へ。


アルブレヒト・デューラー(1471~1528)は、金細工師だった父アルブレヒト(同名)の三男としてニュルンベルクに生まれた。
12歳の頃から父の仕事を手伝い、15歳の時には当時ニュルンベルク第一の画家ミヒャエル・ヴォルゲムートの工房に弟子入りして3年間修業を積んだ。
その後、修業の仕上げとして4年間のドイツ領内遍歴の旅に出て、23歳の時(1494年)にニュルンベルクに帰ってきてアグネスと結婚したが、その後すぐに単身でイタリアに旅行し、ヴェネチア、マントヴァ、パドヴァを訪れている。
翌年の春に帰国したデューラーは、その2年後に制作した木版連作「ヨハネ黙示録」が大反響を呼び、一躍全ヨーロッパに名が知られるようになった。
34歳から36歳(1505年~1507年)にかけてふたたびヴェネチァに滞在したあと、38歳のとき(1509年)に一軒の家を購入し、住居兼工房とした。それが現在残っている「デューラーハウス」である。


ニュルンベルクはデューラーの街だ。
街のあちこちにデューラーのモニュメントを見ることができる。

立派なデューラーの銅像。
コンパスなしに正確な円を描き、定規なしに直線をひいたという「繊細な手」にはしっかりと何本もの筆が握られている。



通りにはデューラーのレリーフも。

そして今では「アルブレヒト・デューラー通り」に面している「デューラーハウス」。

チケットを購入し奥の「デューラーの間」に入ると、後世の画家たちが模写したデューラーの絵がずらりと並んでいる。 中にはドイツでは見ることができない作品もあるので、模写とはいえそれなりの雰囲気を味わえるのはうれしい。
(下の写真の中央「アダムとイブ」と左「マギの礼拝」のオリジナルは、それぞれマドリードのプラド美術館、フィレンツェのウフィーツィ美術館に所蔵されている)



オーディオガイドは日本語バージョンもある。
画面中央は名前の頭文字AとDを組合わせたデューラーのモノグラム。

2~3階はキッチンや食堂、居間といった住居スペースになっていて、4階に作業場がある。
デューラーや弟子たちはここで制作に励んでいた。


銅板や塗料が置かれている作業机を見ていたら、一人の女性が近づいてきて「見本をお見せしましょうか」と言って、銅板に塗料を塗り始めた。


布で拭いて塗料をなじませて、


水を含んだ紙を銅板に重ね輪転機にかけると、

銅版画のできあがり。

この女性はソフィア・フレンクルさんといって、ここで銅版画を作って売っているプロの芸術家。
作業場の隅にはソフィアさんの作品がいくつも立てかけられていた。値段は大きさに応じて5ユーロから28ユーロとあった。

(次回に続く)

2013年12月15日日曜日

バイエルン美術紀行(6) ニュルンベルク1 ローレンツ教会

9月6日(金)ニュルンベルク

いつもはゆっくり食べる朝食も、この日は少しだけ早めに切りあげて7時50分発のICEに乗ってニュルンベルクに向かった。
ミュンヘンからニュルンベルクまでの所要時間は約1時間10分。
ちょうどいい具合に観光案内所が開く時間にニュルンベルクに到着する。

駅前の観光案内所に入ると、若い女性が笑顔で迎えてくれる。
まず、市内の地図をいただき、旧市街地にある中央広場やデューラーハウスの位置を確認。
さらに、ナチスが政権を獲得した1933年以降に党大会を開催した会場跡やニュルンベルク裁判の行われた法廷は郊外にあるので、交通手段や所要時間などを教えてもらった。

ニュルンベルクといえば、ユダヤ人迫害の始まりとなったニュルンベルク法やニュルンベルク裁判といったナチスの負の遺産で名前が知られていて、あまり触れてほしくないことかなと思ったが、対応してくれた女性は特にいやな顔をすることなく親切に教えてくれた。
ヒトラーの地下壕やシュタージ(国家保安省)の場所を尋ねたときのベルリンの観光案内所の男性の対応とは大違いだ。
(2012年1月16日のブログをご参照ください)

観光案内所前のケーニッヒ門から中央広場に通じるケーニッヒ通りをしばらく歩いて行くと聖ローレンツ教会の尖塔が見えてくる。



こちらは正面。
13世紀中ごろから200年以上かけて建設されたゴシック様式の教会。

中に入るとステンドグラスから光が差し込み荘厳な雰囲気。

しかしこの美しい教会も連合軍の空襲により大きな被害を受けた。
空襲直後の様子と、当時のまま残されたがれき。破壊された天使の像が痛々しい。

それでもきれいなステンドグラスも、彫像も当時の人たちの努力で、かろうじて残された。


何百年ものあいだ台座を支える人たち。手前の像はこの彫刻を制作したアダム・クラフト自身と言われている。

受胎告知のレリーフや、

最後の晩餐といったキリストの生涯の中の有名なシーンも見事に残された。

ペーパークラフトの聖ローレンツ教会もある。

これは長さが50センチほどあってかなり大きいが、これより小さいサイズのものは教会内の売店にも売られている。
ジオラマとか模型といったたぐいのものは好きな方なので、買おうかどうかさんざ迷ったが、荷物になるのでやめよう、とグッとこらえて教会をあとにした。
(次回に続く)