2011年10月24日月曜日

ベルリンの壁崩壊(5)

(前回からの続き)
 ライプツィヒに行く前にドレスデンについてもう少し。
 騒ぎのあった2年後の1991年10月下旬、私はドイツ統一後初めてドレスデンを訪れる機会を得た。
この時は観光ではなく、東の復興に係るザクセン州政府の役割についての調査が目的であった。
テーマそのものにも興味があったが、統一後のドレスデンを見ることができるというのも大きな楽しみであった。
 同行するドイツ人の一行とはシュツットガルトで合流し、そこから寝台列車に乗り込んだ。メンバーは全員で6人。日本人は私だけ。3段ベッドに向かい合わせに座り、夜中の2時までワインを飲みながら騒いでいた。周りの人には迷惑にならなかっただろうか。
 夜が明け、列車がドレスデン中央駅にゆっくりと滑り込んでくると、駅周辺の景色が見えてきた。
 「なんだこれは」
 私は駅前のあまりの変わりぶりに声を上げた。
 芝生で覆われていた駅前広場は、いくつもの西側の金融機関の仮設店舗で埋め尽くされていた。さらに遠方を見ると街じゅうのあちこちに大きなクレーンがそびえたっていて、まるで街じゅうが工事現場といった感じ。さらに街の中心には西ドイツではたいていの大都市にあるデパート「カールシュタット(Karstadt)」が進出していた。
 統一後、堰を切ったように西側の資金が流れ込んできたのだ。
 もちろん2年前にめちゃくちゃにされた駅舎も、元通りになっていた。
 変わったのは街の雰囲気だけではなかった。そこに住む人たちも何か肩の荷が降りたかのように陽気になっていた。
 その日の夜は市内のレストランで夕食をとることにした。
 扉を開けて「席あいてますか?」と聞くと、人のよさそうな中年のウェイトレスさんが、どうぞどうぞと手招きをしながら、「No,no,no」と言って迎え入れてくれた。
 私はすぐに彼女がチェコ人がであることに気がついた。
 「No,no,no」といっても「席はない(kein Platz)」ではない。
(6月26日「二度と行けない国『東ドイツ』(2)を参照してください) 
 チェコ語では、「はい」がano、「いいえ」がneで、anoはnoと省略して、強調するときは連続して「No,no,no」言うことがある。
 きっと西側資本の流入で景気がよくなって仕事も増えたのだろう。プラハからドレスデンまで列車でわずか2時間半、チェコ人が出稼ぎに来ても不思議ではない。

ドレスデンには5日間滞在したが、ホテルのフロントの女性も、日本に郵便を出すのに郵便局の場所を教えてくれたり、とても丁寧に対応してくれた。

それにしても泊まったホテルは、古く、汚く、寒かった。
 狭いシングルルームにはベッド以外には机しかなく、テレビも電話もない。風呂にお湯を張ろうとしたら出てきたのは黄色い水。
 暖房も温水式のスチームだったが、元栓を開けようとしたら固くて開けることができなかった。それでも毎晩開けようと試みていたら、4日目にようやく元栓がググッと動いて開けることができた。しかし、ほっとしたのもつかの間、夜遅くなってホテルで大元の給湯を止めてしまった。その日の夜もドイツの秋の寒さに耐えなくてはならなかった。
 さらにトイレでもトラブルがあった。水を流そうと上からぶら下がっている鎖を引っ張ったら、鎖が途中から切れてしまった。おかげで次からはわざわざ立って鎖の切れ端を引っ張らなくてはならなかった。切れた鎖をフロントに持っていってもフロントの女性は「あらっ」という感じで特に気にする様子もない。
 旧東ドイツ時代のなごりで、設備や水回りがないがしろにされているのは仕方ないにしても、ここで注目したいのは、いい意味でのドイツ人のケチケチぶり。
 長期間滞在すると宿泊費がかさむので、多少の設備の不備はがまんして、できるだけ安い宿を選んで切り詰めるという発想には頭が下がる思いであった。特に、まだバブル景気さめやらぬ日本から来た私には、忘れていた大切なものを思い出させてもらったような気がした。

ひるがえってユーロ危機に陥っている現在のヨーロッパ。
  「ユーロの宴」に酔いしれていたギリシャの人たち。
 10月10日付の朝日新聞朝刊にギリシャ人のこんなコメントが出ていた。
 「野菜だって1キロ単位で気前よく買うのがギリシャ人。ちまちま2,3個ずつしか買わないドイツみたいな国にはなりたくない」
 質素倹約の精神がしみついているドイツ人がこのコメントを聞いたらどう思うだろうか。
 気質の上では相容れない南欧の国々とは一線を画したいという気持ちの表れだろうか、ドイツ国内にはマルク復活論も出てきているようだ。
 しかし、ギリシャが財政破たんすれば世界の金融システムへの影響はあまりに大きく、ドイツ政府にはギリシャに税金を投入する以外の選択肢は残されていない。
(次回こそはライプツィヒ?)

2011年10月17日月曜日

ベルリンの壁崩壊(4)

(前回からの続き)
 10月3日にプラハに到着するはずだった特別列車は何かの手違いで遅れていた。おかげで西ドイツ大使館の前庭に野宿していた東ドイツ市民たちはもう一晩寒い夜に凍えなくてはならなかった。
 彼らの一人が言った。
 「エーリッヒ、あなたはまだ私たちを苦しめるのか」
 エーリッヒとはホーネッカーのファーストネーム。
 それでも翌日、特別列車がプラハに到着すると、東ドイツ市民は元気を取り戻して列車の中に消えていった。
 「これでようやく自由になれるわ」
 一人の中年女性は晴れ晴れとした顔でこう言って列車に飛び乗っていった。

一方、ドレスデンでは緊張が高まっていた。国営放送で特別列車がドレスデンを通ることを知った市民たちが、自分たちもそれに乗ろうとドレスデン中央駅に集まってきた。
 このブログの「二度と行けない国『東ドイツ』(4)」で紹介したドレスデン中央駅は写真のとおり閑散としていたが、その日は何千人もの市民が駅前広場に集まり「私たちは外に出たいんだ(Wir wollen raus)」「私たちに自由を(Wir wollen Freiheit)}と叫んでいた。

ドレスデンの治安を預かるハンス・モドロウは苦境に立たされていた。
 彼は改革派の政治家として名が通っていた。だからこそ保守的なホーネッカーに批判的であり、うとんじられたため長い間ベルリンから遠ざけられていた。ホーネッカーが前任者のウルブリヒトを追い出して政権を握ってから2年後の1973年からなんと16年にわたりドレスデン県の責任者の地位に甘んじていたのだ。
 改革派だったからこそ、モドロウは市民に銃を向けたくなかっただろう。
 同じ年の6月には、中国で民主化を要求した学生や市民を人民解放軍が武力で排除した天安門事件が起こったばかりである。

モドロウは後日、メディアのインタビューに当時の苦悩を独特のしわがれ声でこう話している。
 「駅は、列車の通行が妨げられないようにしなくてはならなかった。そうすることが私に与えられた任務だった。そのためには(警官による)人間の鎖だけで何千人もの市民の駅への侵入を食い止めなくてはならなかった。できる限り武力を使わずに」

夜の7時前にプラハを出発した特別列車は、真夜中過ぎにドレスデンを通ることになっていた。真夜中が近づくにつれて駅前の状態はエスカレートしてきた。ベルリンはモドロウに武力を使う許可を与えた。同時にケスラー国防相は戦車部隊と歩兵部隊の出撃準備を命じた。当時、東ドイツ市民の間でささやかれていた、武力による民衆の鎮圧「中国的解決法(chinesische Lösung)」の危機が迫っていた。
 
 しかし、モドロウが命じた警官隊による人間の鎖は持ちこたえた。特別列車は何事もなかったかのように通り過ぎていった。暴徒化した市民は駅舎の窓や扉、切符の自動販売機などあらゆるものを破壊したが、駅構内に入ることはできなかった。警官隊は放水車や催涙ガスで市民を蹴散らしはしたが、血の海(Blutbad)は避けられた。
 モドロウは、立場上守らなくてはならなかった任務と暴徒化する市民との板挟みになりながら、ぎりぎりのところで改革派政治家としての誇りを保つことができた。
 ところで、同じく「二度と行けない国『東ドイツ』(4)」で紹介した革ジャン君たちは、その時どうしていたのだろうか。駅前広場で他の市民といっしょになって騒いでいたのかな。でも、最悪の事態は避けられてよかった。
 さて、当時の東ドイツには西へ行きたい市民の動きだけでなく、東ドイツを改革しようという動きもあった。次回からは、のちに「英雄の町(Heldemstadt)」と称えらえたライプツィヒでの民主化の動きについてふれていく。

(次回に続く)

2011年10月2日日曜日

ベルリンの壁崩壊(3)

(前回からの続き)
 プラハの旧市街の通りはまるで迷路のように入り組んでいる。ヤン・フス像の立つ旧市街広場からカレル橋に行こうと思うとかならず迷ってしまい、いつも違うルートを通っているようだが、決まってカレル橋のたもとに出てくるから不思議だ。
 カレル橋からはヴルタヴァ川対岸にある小高い丘の上にそびえるプラハ城を一望することができる。ヴルタヴァ川は豊かな水をたたえ、有名なチェコの音楽家スメタナの「ヴルタヴァ」のようにゆったりと、そして、長いプラハの歴史を刻みながら流れている。
 さて、今回の舞台となる西ドイツ大使館は、カレル橋を渡り、プラハ城を右手に眺めながらなだらかな坂道を登ったマラー・ストラナ地区にある。歴史のある建物の多いプラハの中でも特に重要なバロック建築の建物で、かつてボヘミアでは伝統があり有力な貴族ロブコビッツ家の屋敷であった。  
 1989年夏、そこには何千人もの東ドイツの家族が押し寄せ、出国ビザを求めて大使館の庭にテントを張って何日も待っていた。
 その騒ぎを聞いて、東ドイツ政府から全権特使として派遣されたのがヴォルフガング・フォーゲル。彼は、東ドイツで東西に分断された家族の再会や、西ドイツへの出国を仲介するなど、東西対立の中、東ドイツで長年にわたり人権問題を扱っていた弁護士だ。
 彼はプラハに到着した9月26日、出国を希望する人たちを前に訴えた。
 「東ドイツに戻れば、6か月以内に西ドイツへの出国を認める。報復措置はとらない。私が保証する」
 しかし人権問題では長年の実績のあるフォーゲルをもってしても東ドイツ市民を説得することはできなかった。彼の呼びかけに応じた市民はわずかであった。「何の役にも立たなかった」との言葉を残して彼は翌日、同じく現地の西ドイツ大使館に集まって出国を希望する東ドイツ市民を説得するため、ワルシャワに飛んだ。
 在プラハ・ドイツ大使館のホームページに建物(Das Palais Lobkowicz)が紹介されている。なぜか逆さまになっているページもあるが、大使館に押し寄せた東ドイツ市民の写真もあるので、当時の様子がよくわかる。
  ↓

東ドイツ市民の説得に失敗した東ドイツ政府は投げやりになっていた。ホーネッカーは言った。
「出ていきたいなら出してやる。そのかわりプラハからドレスデンを通ってバイエルンに行くという条件つきだ」 
 何の意味もないが、形だけでも東ドイツに戻ったことにしたかったのだ。
 9月30日、ボンの東ドイツ代表ホルスト・ノイバウアーはザイタース官房長官、ゲンシャー外相にホーネッカーのメッセージを伝えた。
 「一度東ドイツを通るのであれば、出国希望者を列車に乗せて西ドイツに連れて行っていい」
 この申し出にゲンシャー外相は驚いた。東ドイツ国民を刺激するのではないか。
 しかし、ホーネッカーのゴーサインが出たのだから、もうぐずぐずしてはいられなかった。ゲンシャー外相はすぐにプラハに飛んだ。
 そしてその日の夜の7時前、ゲンシャーとザイタースはプラハの西ドイツ大使館のバルコニーに姿を現した。
 すでにあたりは暗く、バルコニーにいる2人にスポットライトが当たり、前庭にいた東ドイツ市民は大きな期待をもって手拍子で迎えた。
 ゲンシャーが口火を切った。
 「ドイツ国民のみなさん(Liebe Landsleute)」、ゲンシャー外相はLandsleute(=同国人、この場合はもちろん同じドイツ国民という意味)という言葉を使った。
 「私たちはお伝えしたいことがあって来ました。今日、みなさんの出国は(wir sind zu Ihnen gekommen,um Ihnen mitzuteilen,dass heute Ihre Ausreise)・・・」
 ここから先はその場にいた人たちの歓声でかき消された。
 でも誰もがわかった。西ドイツへの出国が認められたのだ。

その時の模様は、翌10月1日、ドイツ国営放送ARDのニュースTagesschauで放映されている。
残念ながら画面が暗くてゲンシャー外相がどこにいるのかよくわからないが、その場にいた人たちの感動が伝わってくる。
 ↓

一方、東ドイツの国営テレビはそっけなくこう伝えた。
 「東ドイツ政府は、プラハの西ドイツ大使館に不法滞在していた東ドイツ国民を東ドイツ領内を通って西ドイツに退去させることでチェコスロバキア政府と合意した」
 そこで困ったのが、列車が通過する予定のドレスデン県(※)知事ハンス・モドロウであった。
(※)東ドイツでは地方分権的な州制度が廃止され、今までの5つの州(ザクセン、チューリンゲン、ザクセン・アンハルト、ブランデンブルク、メクレンブルク)に代わって14の県(Bezirk)とベルリンに分けられた。それぞれの県は県庁所在地の都市名をとっていたので、ドレスデン市の属する県はドレスデン県だった。
ちなみに、東ドイツ各州の西ドイツ(ドイツ連邦共和国)への加入を想定したボン基本法第23条「この基本法は、さしあたり、バーデン、バイエルン(以下、西ドイツの各州が続く。ボン基本法制定後、合併した州があったので、今では存在しない州名もある)の州領域で適用される。その他のドイツの部分では(=東ドイツのこと)、基本法は、ドイツ連邦共和国への加入後に効力を生じるものとする」とされていたので、東ドイツでは統一前に州を復活させて、各州がドイツ連邦共和国に加入を申請するという方法がとられた。
なお、この条項は、統一後、目的を達成したので削除された。
(次回に続く)