2012年12月27日木曜日

ドイツ・ゲーテ紀行(2)

週末からクリスマスにかけて沖縄に行ってきました。
冬になると曇りがちの天気が続く沖縄ですが、イブとおとといは太陽も顔を出して、日差しも強く、外を歩いていると汗ばんでくるぐらいの陽気でした。
おかげで、今年の冬も暖かい空気の中、すっかりゆるんできました。
それにこの時期に来るのは初めてだったので、南国のクリスマスの雰囲気も味わうことができました。
これは牧志公設市場のクリスマス・イルミネーション。


横浜に帰ってきてあまりの寒さに震えているところですが、とてもうれしいクリスマスプレゼントが家に届いていました。
DNP(大日本印刷)が有料でフォトブック作成のサービスを行っているのですが、先日、五反田にある「ルーブル-DNPミュージアムラボ」にゴヤの「青い服の子供」を見に行ったときに無料クーポン券をいただき、これを利用してドイツ・ゲーテ紀行の写真にキャプションをつけてDNPにデータを送ったところ、完成したフォトブックが届いていたのです(「ルーブル-DNPミュージアムラボ」は完全事前予約制になっていて、本物のルーブル美術館所蔵の美術品が一点展示されています)。
文庫本サイズなので手のひらに乗るほどの小さなものですが、「自分だけの本」と思うと愛着が湧いてきます。





これ以上紹介すると今後のブログのネタがばれてしまうのでこれくらいにしておいて、フォトブックの編集作業や沖縄旅行でブログの更新の間隔があいてしまいましたが、さっそく前回からの続きにもどりたいと思います。

9月5日(水)続き
10時11分、定刻になるとライプツィヒ行き特急IC2157は音もなくホームをすべり出した。

今回の旅行は、まずワイマールまで行き、そこで3泊して市内観光とエアフルト日帰り旅行、フランクフルトに戻って2泊して市内観光という行程で考えていた。
アイゼナハに行ってワルトブルク城を見に行きたい気もしたが、時間的に厳しいかなと思い、今回は行かないつもりでいた。

ワイマール到着まで2時間45分。
さて、今日の午後はどうしようかと、新潮社とんぼの本『ゲーテ街道を行く』をぱらぱらとめくり始めた。

予報によるとワイマールは雨。
では、今日はまず、現在では美術館になっている「領主の居城」、ゲーテが最期の時まで50年間住んでいた「ゲーテ・ハウス」といった建物の中を中心にまわろうか、そして明日はエアフルト、あさってはワイマール市内散策、最終日は見残したところを回ろうかな、などと頭の中で考えてみた。

しかし、アイゼナハ駅に近づき、後ろの山の上にそびえ立つワルトブルク城を見て考えが変わった。
「やっぱりアイゼナハにも行きたい!」
右の写真は翌日、アイゼナハ駅前で乗ったバスの車窓から撮ったものだが、列車の中からも同じようにワルトブルク城が見えた。


 そうなると明日はワイマールから特急で1時間かかるアイゼナハに行き、あさっては各停でも17分で着くエアフルトに午前中行って、午後はワイマール市内散策にあてよう、とさっそく予定変更。

ワイマールには予定通り12時56分に到着。
少し遅めの昼食を駅ナカのカフェで食べたあと、時刻表を調べ、駅の窓口で翌日のアイゼナハ行の特急券を予約した。やはりここも窓口は中年の女性で、てきぱきと対応してくれた。


これは昼食。左はポテトサラダ、パンの後ろは大好物のサクランボタルト。全部食べきれなかったので、右のパンは食べずに持ち帰ったが、これが次の日役に立った。

駅を出ると小雨が降っていた。
ホテルまでは歩いて約10分。駅からまっすぐ延びる道をしばらく歩いていくと、街の中心に入っていく。





これが宿泊したホテル・エレファント。
ワイマール一番の高級ホテルだ。













ほんとうはもっと部屋代の安いホテルにしたかったのだが満室だったので、街の中心にあってどこへ行くにも便利だし、と思い切ってここにしたのだ。
おかげで相当な金持ちと思われたのか、フロントの女性従業員に、ホテルの中の高級レストランをやたらと勧められた。

フロントでの会話。
「こんにちわ、部屋を予約している〇〇です」
「あっ、〇〇さんお待ちしていました」
とさわやかな笑顔。
ホテルのフロントは、駅の窓口とは違いどこも若い女性ばかりだ。
ワイマールは旧東ドイツ側にある。観光はドイツ統一後に盛んになったので、この分野への女性の進出は遅れたということだろうか。

チェックインの手続きが終わった後、
「あなたのために今晩の夕食の席を用意しています」
「予約はしていませんが」
「いえ、今からでも大丈夫です」
「それはどこですか」
「ホテル内のレストランです」
念のため料金を確認したいのと、朝食会場にもなっているとのことなので、案内してもらうことにした。
そのレストランは中庭に面したところにあった。
「メインを2品注文して40ユーロ、3品注文すれば60ユーロです」
日本円にして4~6,000円だ。高い。
そこで、「アンナ・アマーリア」という名のレストランがイタリア料理だったのをいいことに、
「できれば郷土料理を食べたいので他にします」
と言うと、
「ホテルの地下に『エレファント・ケラー』というレストランがありますよ。よければ予約を入れておきますが」
「メニューを見て考えます。予約するときはお願いします」
「わかりました」

チェックインにはまだ早かったので、必要なものだけを小さいザックに移し、持ってきたザックはその女性従業員に預けた。
「ではお預かりします。行ってらっしゃい」
と笑顔。
紹介したレストランを断ったからといって機嫌を損ねたふうではなかった。
それもそのはず、レストラン攻勢はその後も続いた。
(次回に続く)

2012年12月10日月曜日

ドイツ・ゲーテ紀行(1)

9月4日(火)深夜
全日空が羽田発のフランクフルト直行便を出してくれたおかげで、ドイツがほんとうに近くなった。
仕事を終えて家に帰りシャワーを浴びて、ザックを背負って羽田空港に向かっても受付時間の11時には余裕で間に合う。
日付が変わって午前1時に出発するNH203便は、その日の朝6時10分にはフランクフルトに到着するのだから、初日から丸1日観光に使える。
帰りも昼の11時55分にフランクフルトを出発して、翌朝6時20分には羽田に到着するので、無理をすればそのまま会社に行って仕事をすることもできる。
週末をからめれば何日も休暇をとらなくてもドイツに行けるようになったのだ。
費用対効果を考えれば、せっかくお金をかけるのだから長く現地にとどまりたいと思うのが人情だが、行きたいけど時間がとれないという人でもふらりとドイツに行けるのだから、この気軽さがなんともいえない。

ドイツだけでなく、アジアやヨーロッパ、北米に行く便も多い。
週末を利用して東南アジアやアメリカにも行けると思うと、嬉しくなってくる。私は眠気をこらえながら、しばし出発便の案内ボードを眺めていた。
そのあとは眠気覚ましに、夜中でも一つだけ開いていたカフェでコーヒーを飲みながら、駐機場に停まっている飛行機を眺めていた。



9月5日(水)
フランクフルト空港にはほぼ定刻どおり到着した。
ワイマールに向かう特急が出発するまでまだ時間があったので、まずは朝食。
さすがに空港の中だけあって、朝早くてもコーヒーショップはしっかり開いている。
そこで食べたのがこれ。
大好物のブレッツェル、それにモッツァレラチーズとトマトのサンドとコーヒー。

食後は、構内のベンチで一休み。
下の写真は今回の荷物。
昨年の11月にドイツに行った時は寒さ対策で服がかさばったが、今回は一回り小さいザックに荷物を収めることができた。
とは言っても、ワイマールはかなり涼しいという予報だったので、セーターとジャケットを持って行ったが、その分は外付けになってしまった。左の黄色い袋に入っているのがセーター。
海外に行く時も荷物はザック一つ。古着は途中でホテルに置いて、空いたスペースにお土産のお菓子を入れて帰ってくる、という私のポリシーからすると、少しズルをしたことなるが、ワイマールではセーターとジャケットを着て歩いたし、帰りはお土産といっしょにセーターから何から全部ザックに押し込むことができたので、まあ合格点だろうか。

列車は8時11分に出発する。
私は少し早めに空港地下の長距離列車用のホームに降りて行った。
そして、電光掲示板で時間と到着ホームをもう一度確認してからベンチに座り列車の到着を待っていた。
しかし、出発時間が近づいても、ホームに列車が入ってこない。
遅れているのかなと思いもう一度電光掲示板を見たら、いつの間にか「運休」というテロップが流れていた。
運休のアナウンスは何もなく、テロップには運休の理由も書かれていなかった。
しかたなくもう一度上の階に上がり、駅の窓口で次の列車に座席の予約を変更することにした。
時刻表を見たところ、1時間後にICE(ドイツの新幹線)がある。

「(運休になった特急の券を見せながら)ワイマールに行きたいので、9時1分発のICEに変更したいのですが」
「(手元のコンピューターで調べて)この列車は満席です。10時11分発のIC(特急)なら席はありますが」
「そうですか。ではそれでお願いします」
「料金は・・・、あっ、もう支払済みですね。ではチケットをどうぞ」
「はい、ありがとうございます」


たまたまかもしれないが、駅の窓口で私の対応をしてくれるのは、なぜか決まって中年の女性だ。
応対は丁寧すぎるということはなく、気さくで、そして堂々と自信をもっててきぱきとさばいてくれるので安心できる。

ということで、結局フランクフルト空港駅で2時間待たされることになったが、その間、ゲーテの自伝『詩と真実』の中のヨーゼフⅡ世の戴冠式の祝宴に若き日のゲーテがもぐりこんだ箇所を読み返したり、地球の歩き方のワイマールのページを見たりしながら、これからの行程の予習をすることができた。

これが私が乗った特急。

(次回に続く)

2012年11月25日日曜日

ギュンター・グラスの見たドイツ統一(8)

いよいよ悲劇は最終局面を迎える。

それでも国の外では大富豪の親族の取り巻き連中が、
黄金色に輝いたものすべてを君の金庫に貯めこんでいる。

ギリシャの大富豪たちが税を免れ海外の銀行に巨額の貯金を蓄えていることは、ギリシャ国民にとっても許しがたいことだ。
ただし、貯めこんでいるのはドイツの金庫でなく、スイスの銀行だ。

さあ飲め、さあ!周りで騒いでいる委員たちはこう叫ぶ。
しかしソクラテスはいっぱいになった杯(さかずき)を怒って君に返す。

委員たちとは、EUの内閣にあたる欧州委員会の委員たちのこと。
彼らはギリシャ人に向かって緊縮財政策を飲みこませようとするが、死刑宣告を受け、みずから毒杯をあおった古代ギリシャのソクラテスと異なり、現代のソクラテスたちは毒杯を容易には口にしようとしない。
11月8日には、EUやIMFなどから315億ユーロ(約3兆3000億円)の融資を受ける条件となる緊縮財政法案がギリシャ国会で可決されたが、賛成153票、反対128票というきわどい結果だった。それに、国会周辺では法案に反対する8万人もの市民が激しい抗議行動を行った。


君にとって何がおかしいのか、神々は声をそろえてののしるだろう。
オリンポスの山は君の意思のごとく財産の没収を欲している。

ギリシャ政府は空っぽになった国の金庫にお金を補充するため、国有財産の売却に着手した。国営企業の民営化や関連施設の売却で2015年までに総額190億ユーロ(約2兆円)を確保しようという計画だ。しかし、ことは思うように進まず、年内に売却できそうなのは宝くじ公社と、アテネオリンピックの会場跡地にある複合施設だけという始末。
その責任をとってか、国有財産の売却を目的に設立された「資産開発基金」のミトロプロス最高経営責任者は7月に辞任してしまった。後任者はすぐに指名されたが、こんなドタバタがあったのではギリシャ政府のもくろみもうまく行きそうにない。

オリンポスの山は、ギリシャ神話のゼウス神を中心とした12神が住む聖地。
神々は「ヨーロッパのルーツはどこだと思っているのか。なぜもっと敬意を払わない」とドイツやEU諸国に不平を言う。
しかし、神々は聖なるオリンポスの山まで売却しないとギリシャの財政は持ちこたえないのでないかと思っている。
ただし、売却するのは今のところオリンポスの山でなく、オリンピックが開催された「オリンポスの丘」だけで済みそうだ。

この国なしには君は愚かにもやせ衰えてしまうだろう。
その国の精神は君を、そしてヨーロッパを創造したのだから。

神々の訴えの効き目があったのだろうか。
今月8日になって、来年の5月以降に発行される新ユーロ紙幣には「ヨーロッパ」の由来となったギリシャ神話の王女「エウロペ」の顔が透かし部分に印刷される、と欧州中央銀行が発表した。
古代ギリシャに対する憧憬や敬意だけは忘れていないようだ。
しかし、だからといって現代のギリシャ財政に対する要求がおさまることはないだろう。


ギュンター・グラスの詩「ヨーロッパの恥」の私なりの解説及び解釈は以上です。
もちろんグラスが何を考えているのか、すべてを把握したわけではないので、十分でないところもあろうかと思いますが、この詩をより深く理解するための一助になれば幸いです。
グラスがこの詩を発表することになったきっかけは、「やっぱり怖れていたことが起こった」と思ったからでしょう。性急なドイツ統一に反対した理由の一つとしてグラスは、ヨーロッパの中に強すぎる大国ができてしまうことを挙げていたからです。
以前のブログで予告させていただいたとおり、次はグラスが1990年に行った演説を集めた小冊子"Ein Schnäppchen namens DDR"をもとに、なぜ彼が統一に反対したか探っていきたいと思いましたが、やはり同じ時に予告させていただいたとおり、演説集は後回しにして、今年9月にドイツに行った時の旅行記を先に連載したいと考えています。それは、今回の旅行でドイツ国内の東と西の「格差」が縮まっただけでなく、両者の差が「良さ」や「特徴」ではないかと感じたからで、まずはじめにそのことをお伝えしたいと思うようになったからです。
では、次回から「ドイツ・ゲーテ紀行」の連載を始めます。ご期待ください。

2012年11月16日金曜日

ギュンター・グラスの見たドイツ統一(7)

次に第7段落と第8段落。

独裁政権は崩壊したがギリシャの悲劇はさらに続く。

権限を持たない国を、いつも自分が正しいと思う人が意のままにし、
ベルトをギュッときつく締めつける。

 君に反抗してアンティゴネーは喪服をまとい、人々は国じゅうで喪に服している。
君は彼らのお客さんだったのに。

「ベルトをギュッと締めつける(den Gürtel enger  und enger schnallt)」は「生活を切り詰める」という意味でも使われる。この場合はもちろん後者の方だが、ドイツをはじめとしたユーロ各国が「年金や公務員給与をカットしろ、さもなくば追加融資はしないぞ」とギリシャ人のたるんだおなかをベルトでギュッと締めつける光景が浮かんでくるようなので、前者の方を採用した。

アンティゴネーはギリシャ神話に出てくる気高い王女。
父は古代ギリシャ・テーバイの王オディプス。
オディプスの死後、彼の二人の息子(エテオクレスとポリュネイケス、アンティゴネーの兄にあたる)は1年交代で王位につくことにしたが、約束を守らなかったエテオクレスに国を追い出されたポリュネイケスはアルゴス王の女婿となりテーバイに攻め入った。
相まみえることになった二人の兄弟は、互いに相手を討ち戦死する。
そこで王位についたのがオディプスの妃の兄弟クレオン(つまりアンティゴネーの叔父)。
新王クレオンは、テーバイを守ったエテオクレスの遺体は丁重に埋葬したが、テーバイに刃(やいば)を向けたポリュネイケスについては、葬ってはいけない、嘆き悲しんでもいけない、死体は放置しておけ、といったお布令(ふれ)を出した。
しかし兄思いのアンティゴネーは堂々とそのお布令に背きポリュネイケスの亡骸の上に乾いた土砂をふりかけて体を覆い隠し、弔いの儀式を行った。
そのことを聞きつけた新王クレオンは激怒し、アンティゴネーを人里離れた岩屋の洞穴にわずかばかりの食料を与えて幽閉した。けなげなアンティゴネーは自分の運命を受け入れ、その洞穴の中で自ら命を絶った。

グラスは、クレオン王をドイツに、アンティゴネーをギリシャに見立てている。
しかし、ギリシャ人たちは喪に服しておとなしくはしていない。
10月9日にアテネを訪問したドイツのメルケル首相(まさにクレオン王)を出迎えたのは「メルケルは出て行け」といったプラカードをもった数万人のデモ隊だ。

さて、第8段落では「君」と呼びかける相手方が入れ替わっている。
今までは、ギリシャ人に対して「君」と呼びかけていたが、第8段落以降はドイツに向かって「君」と呼びかけている。つまり、ここからはグラスによるドイツへのメッセージなのだ。

最後の一行の意味はもちろん、ドイツ製品を買ってくれるギリシャ人はドイツにとっていいお客さんだということを指している。

(次回に続く)

2012年10月29日月曜日

ギュンター・グラスの見たドイツ統一(6)

次は第6段落。

これほど我慢させられた国はなかっただろう。
その国の大佐たちはかつては同盟国として君によってじっと耐え忍ばれていたのだ。


 枢軸国によって占領されたギリシャでは、ドイツ軍によるソ連侵攻の補給基地として食料や物資の過酷な調達が行われ、特に1941年から42年にかけての大飢饉の時には多数の餓死者が出るといった悲惨な状況であった。
 こうした中、共産党主導の「民族解放戦線(EAM)」を中心として大衆による抵抗活動が行われ、1942年2月には「民族人民解放軍(ELAS)」が創設されて武装抵抗を行うようになった。
 
 1944年9月にELASがギリシャ全土で一斉蜂起を行い、続く10月にはイギリス軍がギリシャに上陸して枢軸国を追い出したが、12月には共産主義勢力の拡大を怖れたイギリス軍がELASを攻撃し、これをきっかけにギリシャ全土でイギリスが支援する右派とELASを中心とする左派勢力との間での内戦が始まった。
 第二次世界大戦は1945年に終結したが、内戦はその後も続き、左派勢力が国内から一掃され内戦が終結したのは1949年になってからであった。

 1951年にはNATO(北大西洋条約機構)に正式加盟し、西側諸国の一員としてギリシャにもようやく平穏な日々が訪れたかのように見えた。復活した王政のもと、軍部に支えられた右派勢力による専制的な政治体制ではあったが、経済的にはめざましい発展を遂げていった。
 しかし国民の民主化要求の動きが高まり、1963年に中道政権が樹立すると、右派勢力によるあからさまな選挙妨害が行われ、国中にきな臭い空気が漂ってきた。
 そして次期総選挙で中道勢力の勝利が確実な状況になった1967年、ゲオルギオス・パパドプロス大佐ら中堅将校のクーデターにより軍事独裁政権が樹立され、ギリシャは再び暗黒の時代に突入した。 

 アメリカの支援によって軍事独裁政権は7年間続いた。
 その間、政権に協力しない政治家たちは逮捕され、軍部内でも粛清が行われるといった恐怖政治が横行し、国民の民主化運動は抑圧された。
 国民はNATO同盟国の国民として、パパドプロス大佐らによる支配をじっと耐え忍ばなくてはならなかったのだ。
 
 こうした苦難の道を経てギリシャに民主的な政権が成立したのは、オイルショックによる経済の悪化などで軍事独裁政権が崩壊した1974年になってからであった。イタリアの侵攻から数えて33年、第二次世界大戦終了から数えて29年の長きにわたる道のりであった。
(次回に続く)

 




2012年10月12日金曜日

ギュンター・グラスの見たドイツ統一(5)

詩人ヘルダーリン(1770-1843)は、彼の偉大な先輩であるゲーテ(1749-1832)やシラー(1759-1805)が生前から名声を得ていたのと比べて、生きている間はほとんど無名のままで、後半生は精神を病んでいたためチュービンゲンのネッカー河畔にあるヘルダーリンの塔と言われた塔にこもり、そこでさびしくこの世を去った。
チュービンゲンは、彼が神学校に通っていた1788年から1793年まで5年間住んでいたなじみの街だ。
ヘルダーリンは、当時、大小300もの国に分立し、それぞれの国を諸侯が支配していた封建的なドイツの後進性を憂えていた。
おりしも彼のチュービンゲン滞在中に隣国フランスではフランス革命が勃発し(1789年)、1792年には共和制が宣言された。
その後は左右勢力の対立で政治的に不安定な状況が続いたが、1799年、ブリュメールのクーデターでナポレオンが台頭するという激動の時代であった。

こういった時代の流れを敏感に感じ取っていたヘルダーリンは、1799年、彼の唯一の小説「ヒューペリオン」を完成させた。
この書簡体の小説は、トルコに支配されていたギリシャを解放しようと立ちあがったギリシャ人の若者ヒューペリオンが主人公の物語だ。
ヒューペリオンは、当時、南下政策を進めトルコと衝突していたロシアに加担して独立を勝ち取ろうと考え、ロシア艦隊に志願したが、海戦で瀕死の重傷を負ってしまった。
その後、怪我も回復して退役したが、反トルコ的とみなされトルコ当局から命を狙われるようになったので、ドイツに逃れた。
そこでヒューペリオンは現状を打破しようとしないドイツ人の無気力さに失望してふたたびギリシャに戻る決意を固める、というところでこの小説は終わっている。

ヘルダーリンは、「ヒューペリオン」の完成と同じ年に「祖国のための死」という詩を発表し、「祖国のために犠牲になる」と決意表明している。

こうした情熱にかられた一連の作品を創作したヘルダーリンは両大戦時に再評価され、多くの兵士たちは背嚢に彼の詩集を背負って戦場に向かった。特にナチスの時代には、「ドイツ民族の詩人」としてもてはやされ、本格的なヘルダーリン研究が始められた。

一方でヘルダーリンは、理想的な世界として古代ギリシャへの憧れを強く持ち続けた詩人だった。
一度もかの地に足を踏み入れたわけではないのに、「ヒューペリオン」ではギリシャの海が、山が、空がまるで目の前で見ているかのように描写されている。
さらにギリシャへの思いを込めた「ギリシャ」「エーゲ海」といった詩もつくっている。

ヘルダーリンがあこがれ続けていたギリシャ。
その地をナチスの兵士たちはヘルダーリンの作品を携えて軍靴で踏みにじった。

しかし、ヘルダーリンは祖国ドイツのことは憂えたが、他国への侵略のためにわが身を捧げることを美化したわけではなかった。
そしてヒトラーも、強敵ソビエトと事を構える前に、ギリシャにかかずらわりたくなかった。

イタリア以外は誰も望まなかったギリシャ侵攻。
でも、枢軸国軍に踏みにじられたギリシャ。
結局、一番迷惑をこうむったのは、ドイツ、イタリア、ブルガリアによって分割・占領されたギリシャだった。

(次回に続く)

2012年9月30日日曜日

ギュンター・グラスの見たドイツ統一(4)

9月5日から9月11日までドイツに行ってきました。
写真や資料の整理は一段落しましたが、旅行記の方は、泡盛やワインのように少し置いた方が美味しいものができるかもしれないということで、今は頭の中で構想を練っている状況です。
そこでドイツ紀行の方は少しお待ちいただいて、しばらくはグラスの詩の続きを。

さて、今回は第5段落。

武器を携えた軍勢が、多くの島々に恵まれた国を襲った。
将兵のために背嚢にはヘルダーリンを携えて。

1941年4月6日、ドイツ軍は、同年2月28日に三国同盟に加入したブルガリアからギリシャに侵攻し、5月にはギリシャ全土を制圧した。
ギリシャから多くのことを学んだのに、そのギリシャを軍靴で踏みにじった、グラスはドイツをこう非難している。
しかし、ギリシャへの侵攻はヒトラーが望んでいたものではなく、ギリシャ攻撃に失敗したムッソリーニがヒトラーに泣き付いて援軍を要請したものだった。
おかげで5月15日に開始するはずだったバルバロッサ作戦(対ソ連侵攻作戦)が6月22日に延期され、その年の10月には、例年より早く訪れた「冬将軍」にドイツ軍は悩まされ、当初予定していた電撃作戦が失敗に終わるという代償を払わされたのだ。

去年8月23日のブログでも少しふれたが、何しろイタリア軍は弱かった。
1939年3月にドイツがチェコを併合したのに便乗して、翌4月にアルバニアを占領したところまでは順調だった。
しかしその後がよくなかった。
新英政策をとっていたギリシャを足掛かりにイギリス軍が攻めてくるのを危惧したムッソリーニは、1940年10月、軍勢をアルバニアからギリシャ領内に進めたが、国境の山岳地帯に行く手を阻まれ、さらにはギリシャ軍の予想を超える激しい抵抗にあい、ギリシャ領内から撃退させられてしまった。その上、アルバニア領内に侵攻してきたギリシャ軍によって、アルバニアの南半分まで失うという大失態まで演じてしまったのだ。
そこで慌てたムッソリーニは、ヒトラーに助けを求めたという次第だ。

ここで前々回のブログで紹介したアメリカの調査機関のアンケート結果を思い出した。
「一番まじめに働かない国は?」という質問に、ギリシャ人は「イタリア」と回答している。
ギリシャ人たちは、「強国ドイツに負けたのは仕方ないが、イタリアには負けていない」という気概があるのかもしれない。

さて、次に2行目。ここでヘルダーリンが出てくるが、これについては次回に。
(次回に続く)











2012年9月3日月曜日

ギュンター・グラスの見たドイツ統一(3)

今回は第3段落と第4段落。

まず、第3段落。

債務者として服も着ないでさらし者にされ、国は苦しんでいる。
君のおかげだ、というのはお世辞だったのだ。

民主主義も、科学も、哲学も、演劇も、ギリシャで生まれたものが、その後のヨーロッパ社会の形成に大きな影響を及ぼしたことは誰もが知っている。
ヨーロッパの人たちにとってギリシャは理想の楽園であり、憧れの的であった。

しかし、今ではどうだろうか。
ギリシャはまわりの国から「借金(負債)が多すぎる」と後ろ指をさされるところまで落ちぶれてしまった。

ここでグラスは、Schudner(債務者)と dem Dank zu schulden(~のおかげ)という具合に、schuldenを二つの意味に掛けている。
もともとschuldenとは、借りがある、とか、おかげである、といった、相手方に何かを負っていることを意味するので、この掛けことばを生かして訳してみるとこういう感じになる。


君の国は、「借金を負っている人」と服も着ないでさらし者にされて苦しんでいる。
今のヨーロッパがあるのはギリシャに負っている、というのはお世辞だったのだ。

解説をしたあとではこちらの方がわかりやすいかもしれない。

次に第4段落。


貧しい国と宣告された国の富が保護されて、博物館を飾っている。
それは君によって大切にされてきた略奪品だ。

グラスは、ドイツをはじめとしたほかの国を鋭く批判している。
ギリシャのことを貧しい国と決めつけているのに、ギリシャの遺跡を自分たちの国にもってきて、博物館に展示している。
私が昨年行った、ベルリンのペルガモン博物館がそのいい例だ。
(今年1月22日のブログをご参照ください)
まず、名称からして古代ギリシャの都市の名前そのもので(現在はトルコ領)、大神殿を建物の中に復元したりして、この古代都市国家を理想化している。
展示されているものも、学術研究、遺跡の保護の名のもとに現地から運んできたものだが、持って行かれた側にしては、いい迷惑だ。

(次回に続く)

(追記)
  9月5日から11日までドイツに行ってきます。今回は、ワイマール、エアフルト、フランクフルトと回ってくる予定です。帰ってきたらこのブログで旅行記を連載しますので、こちらの方もご期待ください。

2012年8月26日日曜日

ギュンター・グラスの見たドイツ統一(2)

まず、最初の段落。


君は混沌の世界に近づいている。なぜなら、市場には公平さがないからだ。
君は、君に「ヨーロッパ発祥の地」という名を与えた国から遠ざかってしまった。


グラスはギリシャに呼びかけている。
「そもそも君は、ユーロという一つの土俵の中でドイツやオランダのような経済力の強い国と対等にわたりあうことは無理だったのだ。
古代ギリシャには、きびやかな文明が花開いていた。その文明は、のちにヨーロッパ文明の基礎となったので、ギリシャは『ヨーロッパ文明発祥の地』と呼ばれるようになった。でも今ではかつての面影はない」

EU加盟国の中で単位通貨ユーロが導入されたのは1999年1月1日。
この時ユーロに参加したのはドイツ、フランス、イタリア、スペイン、ポルトガル、アイルランド、オーストリア、フィンランド、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクの11か国。
ギリシャは政府財政赤字などの条件をクリアするのが遅れたため、2001年1月になってユーロ圏に参加した。
しかし最近になって、EUへの財政報告を粉飾して赤字を少なくしていたことが発覚した。なんと国ぐるみでうそをついていたのだ。

「なんでそんなことまでしてユーロを導入する必要があったんだ!」
グラスはこう叫ばずにはいられなかった。

しかしギリシャにとってユーロは魔法の通貨だった。
ギリシャの通貨ドラクマと違って、信用のあるユーロなら銀行が低利で資金を調達できる。だから国民は低利でお金を借りて、高級ドイツ車を買ったりしてぜいたくな生活ができる。
夢を見ていた人たちにグラスの叫びは届かない。

そして次の段落

君が心からさがし求めていたことは、君にとって大切なことだった。
でも今は価値のないものとみなされ、見捨てられている。

ギリシャ人たちにとって大切なことは生活を楽しむこと。
でも他の国の人たちの目には、それが「なまけ者」「享楽的」と映る。

おもしろい統計がある。
アメリカのある調査機関が、今年の3月から4月にかけてギリシャ、フランス、イギリス、ドイツ、スペイン、イタリア、ポーランド、チェコのEU加盟8か国の人たちにアンケートを行ったところ、「一番まじめに働かない国は?」という質問に、8か国中、5か国の人たちが「ギリシャ」と答えている(※)。

しかし、ギリシャ人自身はそうは思っていない。
「一番まじめに働く国は?」との質問に、他の7か国の人たちが「ドイツ」と答えているのに対して、ギリシャだけは堂々と「ギリシャ」と答えている。

この神経のず太さは何なのか?
労働や生活に対する意識がほかの国の人たちと違うのだろう。

こういったギリシャ人に対して、まわりの国は「節約しろ、節約しろ」と自分たちの価値観を押し付けているのが今の状況だが、これについては次の段落以降に。
(次回に続く)

(※)ちなみに「一番まじめに働かない国は?」との質問に対して、「ギリシャ」と答えたのはイギリス、ドイツ、スペイン、ポーランド、チェコ。
ギリシャは、フランスとともに「イタリア」と答えている。
そして、ギリシャ人になまけ者と思われているイタリア人は「ルーマニア人」と答えている。
やはり、誰も自分たちが一番なまけているとは思わない、あるいは思いたくないのであろう。

2012年8月13日月曜日

ギュンター・グラスの見たドイツ統一(1)

性急なドイツ統一に反対し続けたギュンター・グラス。
その理由の一つとして、ヨーロッパの中でドイツが突出して強くなり、周囲から嫌われることをあげていた。
ユーロ圏の中で圧倒的な政治力と経済力でギリシャに緊縮財政を迫るドイツ。
それを押しつけとばかりにドイツに反感をもつギリシャ。
こういった状況を見てグラスは「ああ、やっぱり危惧したとおりだ」と思っているであろう。

今年の5月、グラスは南ドイツ新聞に「ヨーロッパの恥(Europas Schande)」という詩を発表した。
タイトルからしてグラスが今、統一ドイツについてどう考えているのかよく分かるが、先走りしないで、まずは詩を訳してみよう。

ヨーロッパの恥

君は混沌の世界に近づいている。なぜなら、市場には公平さがないからだ。
君は、君に「ヨーロッパ発祥の地」という名を与えた国から遠ざかってしまった。


君が心からさがし求めたことは、君にとって大切なことだった。
でも今では価値のないものとみなされ、見捨てられている。


債務者として服も着ないでさらし者にされ、国は苦しんでいる。
君のおかげだ、というのはお世辞だったのだ。

貧しい国と宣告された国の冨が保護されて、博物館を飾っている。
それは君によって大切にされてきた略奪品だ。


武器を携えた軍勢が、多くの島々に恵まれた国を襲った。
将兵のために背嚢にはヘルダーリンを携えて。

これほど我慢させられた国はなかっただろう。
その国の陸軍大佐たちはかつては同盟国として君によってじっと耐え忍ばれていたのだ。



権限を持たない国を、いつも自分が正しいと思う人が意のままにし、
ベルトをギュッときつく締めつける。


君に反抗してアンティゴネーは喪服をまとい、人々は国じゅうで喪に服している。
君は彼らのお客さんだったのに。


それでも国の外では大富豪の親族の取り巻き連中が、
黄金色に輝いたものすべてを君の金庫に貯めこんでいる。


さあ飲め、さあ!周りで騒いでいる委員たちはこう叫ぶ。
しかしソクラテスはいっぱいになった杯(さかずき)を怒って君に返す。


君にとって何がおかしいのか、神々は声をそろえてののしるだろう。
オリンポスの山は君の意思のごとく財産の没収を欲している。


この国なしには君は愚かにもやせ衰えてしまうだろう。
その国の精神は君を、そしてヨーロッパを創造したのだから。


できるだけ原文に忠実に、かつ、分かりやすく訳したつもりだが、そこはドイツ人にとっても難解な文章を書くギュンター・グラス。説明なしには分かりづらい箇所も多々あるので、次回以降、ひとつの段落ごとに解説を加え、さらには私なりの解釈をしてみるつもりだ。
(次回に続く)




2012年7月29日日曜日

旧東ドイツ紀行(30)

11月28日(金)夜 ドレスデン
夕食は、聖母教会の向かいにあるおしゃれな店でとることにした。その名も「レストラン・ツア・フラウエンキルヒェ(聖母教会レストラン)」。店の前にあったメニュー表を見ると、値段は少し高そうだったが、今回のドレスデンでのメインテーマが「聖母教会」なので最後の夜にはちょうどいいと思った。


店の前にはいろいろな国の国旗とその国の言語で歓迎の言葉が書かれている。中央のグリーンのネオンサインの右側には日本語で「ようこそ」とある。
メニューも日本語版があってわかりやすい。


注文したのは一番右の列の真ん中あたりにある「ドレスデン風オリジナル酢漬けロースト肉(Original Dresner Sauerbraten)。「レーズンソース、リンゴ入り赤キャベツとポテトダンプリング」との注釈もある。
メニューの表紙はかつての聖母教会前のたたずまい。

このときはドイツ流に、ビールを飲みながら料理が出てくるのを待つことにした。

ジョッキ半分くらい飲んでもまだ料理は出てこない。
テーブルの横の手すりの上にカメラを置いて、自動で自分の写真を撮っていたら、向かいに座っていた家族連れの中年の女性が、「撮ってあげたのに」と言って笑った。そこで「ありがとうございます。でもよく撮れてました」と私。


ジョッキ1杯目を飲み終わったころようやく料理が出てきた。
手前がロースト肉、右上が赤キャベツ。左上のポテトダンプリングは、ポテトをこねて丸くしてから蒸しているので、プルンプルンしている。ドイツではジャガイモが主食なので、これがご飯がわりになる。
ロースト肉は口の中でとろけるくらい柔らかく、赤キャベツはシャキシャキ、ポテトはプルプル、とそれぞれの食感を楽しみながらゆっくりと味わった。もちろん2杯目のビールを飲みながら。

写真を撮っているのは私だけではなかった。
店内のあちこちでフラッシュが光っていた。さっきの家族連れもカメラを取り出した。
少し値段の張ったレストランでの食事は地元の人たちにとっても「ハレ」の行事なのだろう。

それでもビール中ジョッキ2杯と料理で20ユーロ50セント、チップ込みで23ユーロ。日本円でだいたい2,400円くらいだから、驚くほど高くはない。

レストランを出て、聖母教会前の広場でもう一度だけライトに照らされた教会の円天井を見上げた。
「いつになるかわからないが、きっとまた来よう」と思いながら脳裏にその姿を焼き付け、私はホテルの方角に歩き出した。振り返ればもう一度教会の姿を見ることができたが、最後の印象を大切にしたかったので、振り返らずに足早で歩いてホテルに向かった。

翌日も無理をすれば旧市街地に行くことができたが、あわただしい思いをするのはいやだったので、朝食をとったあとはそのままドレスデン中央駅まで歩き、列車でドレスデン空港に向かった。

途中、フランクフルト空港でトラバントのミニカーが荷物検査でひっかかたりもしたが、特にトラブルもなく、充実したアミューズメントのおかげで機内でも退屈することもなく、11時間あまりのフライトのあと、ぽかぽか陽気の日本に降り立った。
(「旧東ドイツ紀行」おわり)

(あとがき)
「旧東ドイツ紀行」の連載を始めたのが去年の12月25日。それから7か月、書きたいことがたくさんあって、自分で書いていながら、途中で「いつになったら終わるのだろう」と不安になることもありました。それでもようやく終えることができ、今は肩の荷が下りたような、ホッとした気分でいます。
それにしても、わき道にそれたりしながら、だらだらと続いたこの連載に最後までおつきあいいただいたみなさまにあらためてお礼申し上げます。どうもありがとうございました。
次の連載は、「ギュンター・グラスの見たドイツ統一」というテーマで進めたいと思います。グラスは、終始、性急な統一には反対で、東西それぞれの独立した二つのドイツによる緩やかな連合体を作り、徐々に統合していくべき、と主張していました。
グラスが1990年に行った演説を集めた小冊子"Ein Schnäppchen namens DDR"をもとに彼がなぜ統一に反対していたのか探っていきたいと思っていましたが、おりしも先日「南ドイツ新聞」に「ヨーロッパの恥(Europas Schande)」という詩を発表したので、まず、その詩を手がかりにグラスがドイツの、また、欧州の現状をどう思っているのか考え、次に小冊子にあたることにします。
ただし、9月にはまたドイツ旅行を計画しているので、その旅行記で中断してしまうかもしれません。
今年はフランクフルトとワイマールに宿泊して、エアフルトかアイゼナハに寄りたいと思っています。今回のテーマは、メインが「ゲーテ」で、あわせてルター、クラーナハの跡をたどり、旧東ドイツにあったワイマールの現状を見るという欲張ったものです。こちらの連載もご期待ください。
それでは次回まで。

2012年7月24日火曜日

旧東ドイツ紀行(29)

11月28日(金)午後 ドレスデン
午後はドレスデンに戻ってきて旧市街地をふらりと散歩。
聖母教会の中に入ろうかどうか迷い、周囲をうろうろしていたが、中から楽器を鳴らしている音が聞こえたのにつられて中に入ることにした。
入口がよくわからなかったので、とりあえず空いていた扉から入ったが、中は暗く人の気配がしない。さらに前方に扉があり、そこが入口かと思い前に進もうとしたところ、教会の係員とおぼしき若い女性が近づいてきて、いきなり大きな声で「出ていけ!」と怒鳴り出した。
「チケットはどこで買うんですか」と聞いても、私が踏んでいたフロアマットを手にとってしまうしぐさを見せて「どけ!」と取りつく島がない。

旧東ドイツ時代であれば、こういった対応は当たり前だったのだろうが、まさかドイツ統一後にこんな対応をする人がいるなんて信じられなかった。ここにもまだ「東ドイツ式外国人歓迎法」が残っていたのだ。

仕方なく外に出たが、ドイツ旅行の最後がこれではあまりに寂しいので、せめて中に入れない理由だけでも教えてもらおうと思い、隣の入口に立っていた係員の若い男性に聞いてみると、
「今日はこれから夜のコンサートに向けた練習があるので、公開は3時半で終わってしまったのです」と丁寧に説明してくれた。そして「明日また来てくださいね」と付け加えた。
しかし、私は翌日早くドレスデンを発たなくてはならないので、
「明日は飛行機で日本に帰らなくてはならないのです。少しだけでも中を見させてもらえませんか」
と恐るおそるお願いしたところ、
快く「いいですよ」と笑顔で答えてくれた。
私はドアの外から遠慮がちに中をのぞいた。
ホールにはオーケストラのメンバーが座り、めいめいの楽器の調子を確認していた。
上を見上げると、円天井はどこまでも明るくきれいで、壁や窓に飾られた装飾品が日の光に輝いていた。
あまり長くいては申し訳ないので、
「どうもありがとうございました。」とお礼をいってその場を立ち去ることにした。
帰り際、
「私はドイツ統一前の1989年にここに来ました。その時はがれきのままでしたが、再建されたことはニュースで知りました。また、映画『ドレスデン』を見て、この教会の再建がドイツとイギリスの和解の象徴であることも知りました」
と言い、重ねてお礼を述べた。
その若い男性は「次回はもっとゆっくり見にきてくださいね」と言ったので、私も「是非そうします」と答えてその場をあとにした。
心の中で、「次回はちゃんと入場料をお支払します」と言いながら。


扉の手前に立っているモーニング姿の人が私を中に入れてくれた親切な男性。
それから、4月15日のブログで「煉瓦の色の違いを説明する案内板や、廃墟になった時の写真は周囲にない」と書いたが、この写真の右手下の黒く焦げた煉瓦が積まれたところに、空襲によって聖母教会の円天井が音を立てて崩れ落ちるときの様子を刻んだ文字板がかろうじて埋め込まれていた。



ドレスデンの空襲から遡ること180年あまり。七年戦争(1756-1763)でプロイセン軍の砲撃によって市街を破壊されたドレスデンの様子を聖母教会の円屋根の上から見渡したゲーテは、「もっとも悲しむべき光景」と言って嘆いている。
しかし、1945年2月のドレスデン空襲はその時以上に市街地を焼き尽くしてしまった。
聖母教会の円屋根も爆撃により破壊されたことを知ったら、ゲーテはどれだけ心を痛めたであろうか。

七年戦争が始まった時のザクセン王はアウグスト強王の息子のアウグスト2世。
4月24日のブログでふれたが、アウグスト2世も父と同様に芸術作品の収集に熱心で、今ではアルテ・マイスター絵画館の代名詞とも言えるラファエロの「システィナのマドンナ」は彼が蒐集したもの。
さらに、国外から作曲家や歌手を招へいし、ドレスデンでのイタリアオペラの確立にも力を注いだ。
こういったザクセンの文化・芸術の振興に重要な役割を果たしたのがハインリッヒ・フォン・ブリュール伯。彼は、アウグスト2世が即位した年に芸術作品収集の責任者に任命され、1738年には外務大臣、1746年には宰相に登りつめている。エルベ川沿いの「ブリュールのテラス」は彼の名にちなんだものだ。
しかし、芸術や文化に心血を注いだアウグスト2世ではあったが、外交や軍事にはあまり関心を払わなかった。
そのため、当時、フリードリヒ大王のもと富国強兵策をとり、ヨーロッパの列強にのし上がろうとしていたプロイセンの攻撃によって、ドレスデン市街の3分の1と旧市街の東地区のほとんどを焼き尽くされてしまった。

こうして歴史を振り返ってみると、アウグスト2世の姿は室町幕府第八代将軍、足利義政(1436-1490 在位1449-1473)とだぶって見えてくる。
足利義政といえば、戦乱をよそに風流の生活を送った、政治家としては無能な将軍ではあったが、一方で「東山文化」を創出し、連歌、漢詩、花道、築庭、茶の湯などを奨励し、その後の日本の文化・芸術に大きな影響を与えた人でもあった。
義政が始めた茶の湯はその後、茶道に発展し、義政が蒐集した南宋や元の水墨画は、雪舟や狩野派の始祖である狩野正信によって日本独自の絵画に展開していった。
また、室町時代には、「同朋衆」と呼ばれた芸能、茶事などに勤めた将軍の側近が文化・芸術を支えていた。この「同朋衆」であった能阿弥、子の芸阿弥、孫の相阿弥と、三代にわたって義政に仕えた「三阿弥」が、アウグスト2世にとってのフォン・ブリュール伯に相当すると言えるだろう。

文化・芸術は後世に残るが、戦(いくさ)は何も残さない。しかし、戦に強くなければ民(たみ)は守れない。そのバランスが大切なのだが、両立は難しいのだろうか。

さて、ドレスデン市内に戻るが、このあと、夕闇が迫る中、ツヴィンガー宮殿、君主の行列の壁画、レジデンツ城などを、「これが見納め」とばかりに名残を惜しみながら見て回った。
(次回に続く)


2012年7月14日土曜日

旧東ドイツ紀行(28)

11月18日(金) バウツェン
いよいよ観光最終日。
この日は、ドイツの中のスラブ系の少数民族ソルブ人の街、バウツェンに行くことにした。
ドレスデンから鉄道で西に向かい約1時間。
バウツェンは、あたり一面に畑や牧草地が広がる田園地帯の中にぽつんと浮かぶ小さな町。列車からは降りる人も少なく、駅前も静か。

ソルブ人は、6~7世紀にドイツ東部に移住して農地を開拓したが、12世紀以降のゲルマン民族の東方植民以降、徐々にその活動範囲が狭められ、今ではブランデンブルク州南部とザクセン州北東部にまたがるラウジッツ地方におよそ6万人が住んでいるだけ。
しかし、他のスラブ民族がドイツ人に同化したのに対して、ソルブ人は自分たちの言語・文化をかたくなに守って今に至っている。
「バウツェン駅」の駅名もドイツ語の下にソルブ語で表記されている。


駅前にあった地図をもとに旧市街地に向かおうとしたが、看板のうしろに二手に分かれた道の左側に行かなくてはならないところ、間違えて右側の道に行ってしまった。


おかげで見ることができたのが、見上げるような尖塔をもったマリア・マルタ教会(Maria-und-Martha Kirche)。

道を間違えたことに気がつき教会の前を左に曲がると郵便局が見えてきた。あとはまっすぐ北に向かうと旧市街地だ。
郵便局から旧市街地に通じる通りの名前は「カール・マルクス通り」。
もう旧東ドイツからはマルクスもエンゲルスも消え去ったと思っていたが、小さな田舎町にはまだ東ドイツの面影が残っていた。
これが「カール・マルクス通り」の標識。

クリスマスの飾りつけが通りに彩りを添えている。
左側の赤い看板に「Dreißig」と書かれたベーカリーショップは、帰りに昼食をとったところ。


旧市街地に入った。まずはツーリスト・インフォメーションに寄って、地図を入手することにした。
正面の黄色い建物が市庁舎で、ツーリスト・インフォメーションはここの1階にある。


ツーリスト・インフォメーションはスーベニアショップを兼ねているので中は広々している。
カウンターの向こう側では若い男性がパソコンの前に座り、熱心に何か検索しているようだった。
「Guten Morgen」
と挨拶すると、青年はパソコンから目をそらさず挨拶を返した。
「地図はありますか」と聞いたところ、その青年は立ち上がって、
「これです」とカウンターの上を指さした。
ドイツではパンフレットも有料だ。
1枚50セントの地図を購入すると、青年はもとどおりパソコンの前に座り、
私が少し店内を見て外に出るとき、「Danke」と言うと、やはり青年はパソコンから目を離さずに「Bitte」と返した。
愛想がないと言ってしまえばそれまでだが、まあ彼の性格か、それとも旧東ドイツ時代の外国人への対応のなごりなのだろうか。
(「東ドイツ式外国人歓迎法」については、昨年6月~7月にこのブログに連載した「二度と行けない国『東ドイツ』」をご参照ください)
市庁舎の裏手はバウツェンで一番大きな聖ペトリ教会。


中もこんなに広々している。


これがツーリスト・インフォメーションで購入したバウツェンの地図。

街も小さく、迷いようもないので、地図を見ながらも適当に小路に入ってみるとおもしろい発見がある。







街の中を歩いていると、ドイツにいながら、ドイツの街でないような気がする。
なぜだろうか?
なんだかイタリアの街ような感じもするし、など考えているうちに何が他のドイツの街と違うか分かってきた。
ドイツだと石造りの家が並び、建物も灰色、あるいは薄いベージュ色のモノトーン、または木組みの家というイメージがあるが、この街は建物も装飾も色とりどりなのだ。
イタリアというより、やはり同じスラブ系のチェコの街並みに雰囲気が近いのだろうか。

バウツェンには見張り塔も多い。
街角で立ち止まり、ふと横を見ると塔がある。


街の一番奥のオルテンブルク城の一角は現在ではソルブ博物館になっている。

ここでの表示は、ソルブ語の方が上で、字も大きい。

博物館の中は、ソルブ人の歴史が順を追ってわかるようになっている。民族衣装を着飾ったソルブ人たちの人形のひたむきな表情がかわいらしかった。
館内は撮影禁止だったので、写真は撮れなかったが、ソルブ博物館のホームページのトップページに一枚だけ写真が出ていた。

http://www.museum.sorben.com/


ソルブ博物館の受付にいた中年の女性はとても感じのいい方だった。
東ドイツ時代には冷遇されていたソルブ人は、「東ドイツ式外国人歓迎法」を身に着けなかったのだろう、なんて勝手に想像してしまう。

オルテンブルク城の裏手は崖になっていて、この下はベルリンにまで流れていくシュプレー川。

これは城からシュプレー川を見下ろしたところ。


帰りの時間も近づいてきたので、先ほど紹介した「Dreißig」で軽めの昼食を食べてバウツェン駅に向かった。
トマト、きゅうり、モッツァレラチーズをはさんだ胚芽パン、チョコプリンケーキとコーヒー。
ドイツのベーカリーショップには珍しく、コーヒーには小さいクッキーと水がついていて、チョコプリンケーキとセットになって値段も安くなっている。合計で4ユーロ60セント(約500円)。

店内のショーウィンドウを入れたら胚芽パンがはみ出てしまったのでもう一枚。

ドレスデン市内に入り、エルベ川を渡るところで、昨日の夜見た旧市街地の教会の尖塔が見えてきたので、動画で撮った。
(動画はアップできないので、行きに撮った写真を掲載します)



午後はドレスデンの旧市街地をもう一度ゆっくり歩いてみようと思った。
(次回に続く)

2012年7月3日火曜日

旧東ドイツ紀行(27)

11月17日(木) ライプツィヒ続き

アウエルバッハス・ケラーは、旧市庁舎裏手のアーケード街「メードラー・パサージュ」の中にある。

これは昼に撮った「メードラー・パサージュ」の入口。彫像や彫刻の模様などがよくわかる。


入口から少し入ったところにゲーテ「ファウスト」の一場面、学生がメフィストに魔法をかけられている像が立っている。
よく見ると、中央の学生がブドウと間違えて右の学生の鼻をつまんでいるのがわかる。



写真を撮り終り、階段の方に向かおうとすると、学生とおぼしき若い男性が早足で像に近づいてきた。
何をするのか見ていたら、学生の像の左の靴に手を置いて立ち止まり、目を閉じてお祈りすると、さっと立ち去って行った。
「誘惑に負けずに勉学に専念できますように」と祈ったのだろうか。
よく見ると学生の像の左の靴先だけは金色に光っている。彼だけでなく、多くの学生がここに手をあてて願をかけているようだ。

こちら側はメフィストとファウストの像。


どちらの像のうしろにも下に降りる階段があって地下でつながっている。


これがアウエルバッハス・ケラーの入口。
ゲーテがライプツィヒ大学の学生時代よく通っていたのがここ。
ドアの上には「歴史的ワイン酒場」と書かれている。
さて入ろうかと思ったが、メニューを見てあまりの値段の高さにたじろいでしまった。メインやサラダ、デザートなどが込みになっているのだろうが、料理一品が安くても日本円で3,000円~4,000円ぐらいする。

せっかくここまで来たのだから思い切って入ろうかとも思ったが、反対側の方が手ごろな値段なのでこちらに入ることにした。
こちらは20世紀に入って新しく作られたもの。でもドアの上にはちゃんと「アウエルバッハス・ケラー」と書いてある。

空いている席に案内されメニューを見ていると、私のテーブル担当のウエイトレス、アーニッケさんがやってきた。
名前はあとでレシートをみて分かった。名前の後ろに(25)とあるが、これは年齢だろうか。

こちらはテーブルの上に置いてあったナプキン。
アーケードの両側にある学生とメフィストの像がデザインされている。


体調はだいぶ良くなってきたので、3日ぶりにビールを飲むことにした。それにいつものとおり野菜中心の料理。
「クロスティッツァー・ビールと『トマトとズッキーニのスフレ ホウレンソウつき』をください。それからビールは料理と一緒に持ってきてもらえますか」と注文すると、アーニッケさんは少しけげんそうな顔をして、
「料理ができるまで20分くらいかかりますけど」と言った。
以前にもふれたが、ドイツではビールと料理を注文すると、まずビールだけが出てきて、それをちびちび飲みながら料理が出てくるのを待つ。そして料理が出るころには残りが少なくなるのでもう一杯、ということになる。
この日はまだ本調子でないのでビールは1杯だけにしたいというのもあるし、料理を待つ間、店内の写真を撮ったり、日本にメールを送ったりと、いろいろやることもあるので、
「いいです。料理ができるまで待ちます」と答えた。
アーニッケさんはにこりと笑って厨房に下がっていった。

新しいとはいえ、内装は凝っていて、古風な雰囲気を出している。


出てきた料理がこれ。
スフレ(Auflauf)とあるが、メレンゲは入っていない。きしめん状パスタが入っていてモッツァレラチーズがからめてあるので、形は違うけど味はラザニアに近い。チーズの適度な塩味がビールによくあう。

食事をしてふたたび体が温まってきた。列車が出るまでにはまだ時間があったので、新市庁舎まで寄って、ぐるりと遠回りしてから中央駅にもどることにした。
新市庁舎といっても完成したのは100年以上前なので、貫録十分。


トーマス教会はライトアップされていた。

こちらは旧市庁舎。

そして最後にニコライ教会。



久しぶりのビールで酔いが回ってきた。帰りの列車の中では気持ちよくうつらうつらしていた。
日本なら電車の中では男性も女性もよく寝るが、ドイツでは寝る人はあまりいない。
隣の女子学生はテーブルいっぱいに資料を広げてレポートを書いていた。資料が私のスペースにまで広がっていたのに気いて「失礼」と言ったが、私は寝いているだけなので、「いいですよ」と一言。
列車がドレスデン・ノイシュタット駅を出てエルベ川の鉄橋を通るところで旧市街地の尖塔群が見えてきた。淡いオレンジ色のライトに照らされたシルエットは幻想的だったが、カメラをザックから出す前に目の前の景色は通り過ぎてしまった。
私はシャッターチャンスを逃したことを惜しんだが、明日もこの路線は通るので、そのときこそは写真を撮ろう、と心に決め、気を取り直すことにした。
(次回に続く)