2012年1月29日日曜日

旧東ドイツ紀行(6)

11月13日(日)続き  ペルガモン博物館続き
ペルガモン博物館では、中東やイスラムの遺跡を見ることも今回の旅行の大きな楽しみの一つであった。以前、アラブ・イスラム圏にのめり込んでいた時期があって、訪れた国々での体験をもう一度思い出してみたいと思ったからだ。
写真はバビロンのイシュタル門。
展示室の仕切りの壁と入口を利用して見事に再現されている。青いタイルと、ヤギのような動物のレリーフを見ながら、15年ほど前のイラク旅行のことを思い出した。
当時のイラクは、1991年の湾岸戦争と、2003年のイラク戦争とのはざまで、イラク政府も観光振興に力を入れていて、一定人数以上の団体であれば観光での入国が認められていた。
しかし、バグダッド国際空港は国連の制裁で封鎖されていたため陸路でしか入国ができなかった。そこで私たち一行は、アエロフロートでモスクワからイランの首都イランのテヘランに向かい、バスでイラクに入国することとなった。
乗り継ぎ便の都合で、テヘランに着いたのが夜中の2時すぎ。市内のホテルで仮眠して、翌朝、テヘランの西のケルマンシャーまで国内便で飛び、ケルマンシャーからはバスでイラクとの国境まで向かった。それでも国境まではバスで4時間かかる距離だ。
さらに国境通過のときに思いのほか時間がかかったので、首都バグダッドにたどり着いたのは、やはり日付が変わった午前1時過ぎであった。

イシュタル門を見たのは、その翌日。長くてつらい移動だったからこそ、ようやくここまで来た、という喜びも大きかった。
バグダッドの南約100km、ユーフラテス川沿いにあるバビロンは、かつてのバビロニア王朝の首都。国家的な大事業として多くの建物が当時のままに再現される工事が続けられていた。高さ10mはあろうかという城壁や建物にはただただ圧倒されるばかり。
紀元前6世紀、バビロンを再興したネブカドネザルⅡ世が作ったとされるイシュタル門は、かつてバビロン市街の外周19kmを取り巻く城壁に8つ作られていた。さらにそれぞれの門からは行列の道という通りがのびていて、道の両側には壁が作られ、壁面にはライオンのレリーフがはめ込まれていた。
今では8つの門のうち一つが復元されていて、門から続く行列の道も再現されている。
ペルガモン博物館でもイシュタル門に続く通路の両側に行列の道が再現されている。写真は、行列の道とライオンのレリーフのアップ。

イシュタル門や行列の道を眺めながらしばしイラクでのできごとを思い出していた。
イラクは遺跡の大きさにも圧倒されたが、印象に残っているのは現地で暮らす普通の人たちだ。
移動の途中で立ち寄った食堂で鳥を焼いていたクルド人の青年は、「俺はボクサーだ。オリンピック出場が夢なんだ」と言って目を輝かせていた。
子どもたちは誰もが明るく、カメラを向けると、みんな集まってきて笑顔を振りまき、うれしそうに手を振っていた。
北部の街モスールのスーク(市場)で出会った若者たちは「俺は兵士(ムカーティラ)だ」と誇らしげに話しかけてきた。
たとえ片言でもこちらがアラビア語で話しかけると、もともと気さくな彼らはよけい親しげに話しかけてきた。
 当時、イスラム圏に興味があり、語学教室に通ったりして「第2外国語」としてかなり真剣にアラビア語を勉強していた。イラク旅行の2年前、シリア・ヨルダンに行ったときにはあいさつ程度だったが、2年たって少しは会話がができるくらいになっていた。
おかげで現地ガイドのアリーさんとは特に仲良くなった。彼は英語も話し、ツアーの添乗員とは英語でやり取りをしていたが、私とはアラビア語まじりで話しをしてくれた。
そしてイラク滞在の最終日、なんとガイドの商売道具であるはずのアラビア語のガイドブックを私に譲ってくれた。これは今でも私の宝物の一つだ。
アラビア語は右から左に読む。左上の黄色い文字は、上に「イラク(アラビア語風に発音するとアル・イッラーク)」、その下に「旅行ガイド」と書いてある。
一枚めくるとサダム・フセイン大統領の写真。お札にもフセインの顔が描かれている。
リビアについてふれた時も書いたが、歴史は繰り返す。ここでも独裁者が国民に繁栄と破滅をもたらした。



私たち一行を歓迎してくれたアリーさん。
普段は陽気にふるまっていたが、湾岸戦争で多国籍軍に爆撃され、コンクリートの壁に大きな穴のあいた建物を前に「ここで罪のない市民が犠牲になったんだ」と言って急に泣き出したこともあった。
そして、イラクからイランに戻るとき、国境の緩衝地帯の前で、私たちがイラン側の検問所にたどり着くまで手を振ってくれていた。その時の姿は今でも忘れられない。

その後のイラクが悲惨な運命をたどったのは誰もが知っているとおり。
イラク戦争で主要な街は破壊され、新しい政権が発足した現在でも各地で爆弾テロにより多くの市民が犠牲になっている。

アリーさんはどうしているのだろうか。無事に生きのびているのだろうか。日本に帰ってからすぐアラビア語で手紙を書き、返事も来たが、今では郵便が到着するかどうかすらわからない。
行く先々で出会った人たちはどうしているだろうか。今となっては確かめる術はないが、無事を祈るばかりだ。

そんなことを考えながら、私はしばらくイシュタル門の前にたたずんでいた。
(次回に続く)

2012年1月22日日曜日

旧東ドイツ紀行(5)

11月13日(日)  ペルガモン博物館

博物館島に位置するペルガモン博物館。広々とした室内には、古代ギリシャ、ローマ、バビロニアやイスラム圏などの巨大遺跡がそのままの形で再現されている。





 ペルガモンは、かつてヘレニズム文化が花開いた古代ギリシャの都市で、現在はトルコ領のベルガマ。
  入口を入ってすぐに、かつて繁栄したペルガモンの姿を復元した大きな想像図が迎えてくれる。





 展示は、古代ギリシャ、ヘレニズム、古代ローマと続き、大理石の彫像群や再現された遺跡群が並び、まさに壮観の一言。



圧巻は博物館の中心に位置する、ペルガモンのゼウスの大祭壇の再現。


これはペルガモンのジオラマ。
 まずは全景。
以前にもお話ししたが、私は特撮で育った世代。そらぞらしいCGはどうもなじめないし、目が疲れてくる。それに比べて、模型は空想力をかきたててくれるので、いつまで眺めてもあきることがない。







 例えば、人の目線でジオラマを見ると、こうなる。 
今まさに西の入口に立ち、どういった街なのだろうかと期待に胸を膨らませながら、丘に立つ街の中心に向かう自分自身を想像してしまう。






これがゼウスの大祭殿。
先ほど紹介したのが、階段から下の部分。これがそっくり再現されている。





現代のヨーロッパ文明の基礎となった古代ギリシャ、ローマ文明。そして古代ギリシャは民主主義発祥の地でもあり、欧州連合(EU)もその土台の上に成り立っている。
しかし一方で、現代では「ユーロ危機」の震源地となっているギリシャ。

「どうしてこうなってしまったのか」
遺跡群に圧倒されればされるほど、こういった疑問が頭の中で大きくなってくる。
ギリシャ政府の財政危機はイタリアにも飛び火し、ドイツによる巨額の財政支援は避けられない状況だ。真面目に働き、つつましやかな生活を送るドイツ人が、自分たちの税金で、なぜ浪費ばかりしているギリシャ人を助けなくてはならないのか、といった声はドイツ国内に根強い。
ドイツに行く前に調べた記事では、ドイツ人の80%がギリシャへの支援に反対している。


シュピーゲル誌の世論調査結果

http://www.spiegel.de/politik/deutschland/0,1518,787463,00.html

しかし、よく考えてみると、ギリシャ人をはじめとしたEUの各国の人たちがドイツ製品を買ってくれるからこそ、ドイツ企業の業績は上がり、労働者にとっても、雇用は確保され賃金は上がる。現に、「ユーロ危機」といっても、ドイツ経済は危機に直面していない。経済は成長を続け、失業率は下がっている。
この記事はフランクフルト空港に置いてあった新聞の電子版。 

http://www.finanzen.net/eurams/bericht/Titel-Gewinner-der-Krise-1482191


ギリシャ政府が財政再建のために増税をはじめとした財政再建策をとれば、国民の購買意欲は下がり、ドイツ製品だって売れなくなる。こうなると困るのはドイツ企業であり、そこに雇われている労働者である。だから、ドイツの財政支援は自国民のためのものでもある。

ペルガモンの遺跡群を見ながら、私の頭の中には、ヨーロッパを舞台として回り続ける巨大なメリーゴーランドが浮かんできた。
借金までしてギリシャ人がドイツ製品を買う→ドイツ企業がもうかる→ドイツ人労働者の賃金が上がり、納税額も多くなる→ギリシャの財政が破たんしてギリシャ人がドイツ製品を買わなくなる→ギリシャの財政立て直しのためドイツ人の税金をつぎ込む→ギリシャ人がドイツ製品を買う。
かなりデフォルメしているが、こういったサイクルを繰り返すメリーゴーランドだ。


日本に帰ってから興味深い動画を見つけた。
ギリシャ政府観光局のPR動画「You in Athens」。

http://www.visitgreece.jp/

老夫婦、若いカップル、遺跡に興味のある女性、中年の男性、親子連れなど各国からアテネに来た人たちが口々にアテネの素晴らしさをほめたたえている。
ところが、登場する人たちはすべて白人。アジア系の人は一人もいない。アジア系はお呼びでないということか。
また、国別にみてもアメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、イギリス、フランス、ベルギー、オーストリア、デンマークで、ドイツは見事にはずされている。現地に来てもけちでお金を落とさないドイツ人もやはりお呼びでないということか。
さらに追い打ちをかけるようにデンマーク人のおじさんは、「ギリシャ人のライフスタイルといえば、ドイツ人などと比べてたくさんのコンサートや劇場、映画館に足を運んでいますね」とまでのたまわっている。

しかし、ドイツ人たちよ、怒るなかれ。ギリシャ国民はドイツ製品を買ってくれる大事なお客さんなのだ。
そもそもEUの東方への拡大(Osterweiterung)を推し進めたのはドイツ市場の拡大のためではなかったのか。ギリシャ、ポーランド、チェコ、スロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、フィンランド、いずれの国も以前からドイツとの経済的な結びつきが強く、EU加盟によりドイツからのモノの流れはさらに加速し、ドイツが得る利益は計り知れない。一方で、盟友フランスはじめ他の国には何のメリットもないが、ドイツがそういうのだからと、しぶしぶ付き合ってきた。
先ほどのシュピーゲルの世論調査では、37%のドイツ人がユーロからの離脱に賛成しているが、離脱して困るのはドイツの方だ。
メリーゴーランドを回し続ける今の経済サイクルがいいかどうかはわらないが、今すぐに止めてしまってはドイツが、そしてヨーロッパ全体が沈没してしまうかもしれない。
(次回に続く)

2012年1月16日月曜日

旧東ドイツ紀行(4)

昨日(1月14日)、東京国立博物館の特別展「北京故宮博物院200選」に行ってきました。「清明上河図」も90分待って見ました。正確に言うと、86分待って、4分で見てきました。作品の前では、係員が「立ち止まらないでください。少しずつ左に動きながら見てください」と絶え間なく言っていたので、後ろの人に迷惑にならい程度にできるだけゆっくり動いたつもりですが、4分で見終わってしまいました。
それでもやはり実物を見た、という満足感はありました。日曜美術館を見たり、新聞に掲載された実物の写真で予習をしていたので、どういった場面が出てくるかわかっていて、ポイントを絞って見ることができたのもありますが、描かれた筆のタッチや、色使いを脳裏に焼き付けることができたからです。こうしておけば、細かいところは後で図録で見ても、実物と対照させて、こんな雰囲気だったなと思い出すことができます。
大きな絵巻物や襖絵、屏風画は見ていて飽きることがないので、ついつい長居してしまいます。欲を言えば、もう少し長く見たかったのですが、時間的な制約はあった方がいいのかもしれません。
以前、京都・妙心寺の隣華院が特別公開されたとき、方丈の襖に描かれた長谷川等伯の「山水図襖」を正座してじっくり眺め、他の部屋の襖絵を見ては戻ってきて、結局、1時間近くは隣華院にいました。切り立つ岩、遠くにかすんだ山々、滝を眺める高士、一つ一つの場面を見ていると時を忘れてしまいます。
桃山時代末期、新進気鋭の等伯が御所の障壁画の制作を依頼されたとき、すでに御用絵師としての地歩を築いていた狩野派の棟梁、狩野永徳が、等伯の台頭をおそれ、横やりを入れて阻止したのは有名な話です。等伯ファンの私にとって永徳はとんでもない絵師なのですが、そんな永徳の作品もじっくり見てしまいました。
2009年にサントリー美術館がNHK大河ドラマ「天地人」を記念して展示した「洛中洛外図屏風」です。そのときもやはり作品の前を行きつ戻りつして、また、他の展示品を見て戻ったりしながら、かれこれ1時間かけてじっくり眺めていました。祇園祭の山鉾の数々、金閣、銀閣、清水寺、北野天満宮など今でもおなじみの神社仏閣、道行く庶民の姿など、いくら見ても飽きません。

ドイツでも素晴らしい美術作品や古代の芸術作品の数々を見てきました。これも今回のドイツ旅行の大きな楽しみの一つでした。ドイツ滞在中はいくつもの美術館、博物館へ行ってきましたので、これから少しずつ紹介していきたいと思います。

11月13日(日) ベルリン
 ホテルの朝食は6時から。
6時前に起きて顔を洗い、1階(ドイツでは地階)のレストランに向かった。
レストランの中はまだ客はほとんどいなかったので、窓際の席に座る。
外はまだ暗く、シュプレー川の対岸のベルリン大聖堂はうっすらとしか見えない。

バイキング形式なので、好きなものを皿にとり、さて朝食。ご覧のとおり、ヨーグルトやジャム、チーズは種類が多い。フルーツもふんだんにあり、プレーンヨーグルトを上にかけた。パンも私好みの黒いパン。家でも毎週、ホームベーカリーでライ麦パンを焼いているので、黒系のパンがあるのはうれしい。ソーセージもためしにとってみた。コーヒーもポットでもってきてくれるので、おかわりごとに立たなくて済む。
しかし、野菜が圧倒的に少ない。きゅうりとトマト、それにトマトの上にチーズをのせて焼いたものだけ。ドイツは寒いのでもう野菜がとれないからなのだろうか。寒い国は大変だなと思いつつ、野菜不足の分はフルーツやジャムで補うことにした。
ゆっくりと朝食をとり、外を眺めながらコーヒーを飲んでいると、外はようやう明るくなってきた。時計を見ると7時15分。1時間以上朝食を食べていたことになる。なんとも贅沢な時間。
 右の写真はベルリン大聖堂。
以後2日間、この席が私の指定席(Stammtisch)となった。

この日はまず、行きたいところの位置を確認するためブランデンブルク門近くの観光案内所に行くことにしていた。





いい天気にもかかわらず、外はかなり寒い。最高気温が4℃の予想だから、まだ零度そこそこだろうか。
 ベルリン大聖堂の写真をとっていたら、急に大聖堂の鐘が鳴りだした。ここぞとばかりにカメラを動画モードにして撮影したが、このブログに張り付けることができなかったのが残念。







ウンター・デン・リンデン通りをブランデンブルグ門の方向に向かって歩いていたら、「アエロフロート」の看板を見つけた。22年前、航空券受け取りのために昼前に行ったら、すでに昼休みに入っていたというあのアエロフロートだ。当時は息せき切って走ったウンター・デン・リンデン通りだが、今回はルフトハンザなので航空券の心配をしないでゆっくり歩くことができる。


(このあたりは過去のブログ「二度と行けない国・東ドイツ 」をご参照ください)



  ブランデンブルク門が見えてきた。柱の間のベルリンの壁はもちろん撤去されている。観光案内所は門の左側の建物に入っている。





観光案内所の中はスーベニアショップも入っていて、トラバントのミニカーも売っていた。それも前日DDR博物館で買ったものより一回り小さいものもあり、欲しくなったが、荷物になるのでここは我慢して、ベルリンの市街地地図を広げながら係の若い男性に声をかけた。
「おはようございます。ベルリンの壁の跡を見たいのですが、壁の博物館(Mauermuseum)はどこですか」
「ここです」と地図に印をつけてくれた。
「いわゆる壁の道(Mauerweg)はどこですか」
「壁の道?そういうのは聞いたことはないですが、ブランデンブルク門から歩く道はこれです」
と二枚の地図を印刷してくれた。
「監視塔(Wachturm)も残っていますか」
「はい、このあたりにあります」と言って、地図に印をつけてくれた。
このあたりまでは親切に対応してくれたが、次の質問あたりから、係の男性の表情が曇ってきた。
「国家保安省(シュタージ)があったところはどこですか」
それでも最寄りの地下鉄駅からの地図を打ち出して印をつけてくれた。
しかし、次の質問になると、完全に不愉快そうな表情になった。
「最後に一つ、総統官邸の跡はどこですか」
「総統?」
「ええ、ヒトラーが執務していたとこで、最後に自殺して、遺体が焼かれたところです」
「ああ、それはここで、今は中華料理屋になってますよ」
と投げやりに言って私がもってきた地図に印をつけてくれた。
「えっ、中華料理屋?そうですか」

私は、係の男性に不愉快な思いをさせて悪いことをしたな、と思ったが、別にそれを意図したわけではなかった。「ただ過去の歴史の現場を見たいだけでなんです」と言おうと思ったが、時間をあまりとっては申し訳ないので、お礼だけを言ってその場を去った。

外に出るとまだ気温は上がっていない。

あまりに寒いので、とりあえずどこか屋内に避難しようと思った。
さてどこへ行こうか。そうだ、ペルガモン博物館に行こう。
(次回に続く)


適当な地図がなくてすみません。
これから出てくるベルリン市内の場所については、ベルリン市公式ホームページをご参照ください。

http://www.berlin.de/stadtplan/










2012年1月9日月曜日

旧東ドイツ紀行(3)

11月12日(土) ベルリン市内

  ホテル「ラディソン・ブルー」
 大きな回転ドアを通ってホテルに入ると、建物の中は吹き抜けになっていて、明るい光が差し込んでいる。中心には円筒形の水槽があって色とりどりの熱帯魚がゆうゆうと泳いでいる。
 入口の右手にフロントがあり、そこに背の高いドイツ人の女性が5人ほど立っている。フロントといってもカウンター式でなく、一人につき一台、ボックスのような机がならんでいて、女性たちはそこでそれぞれの業務を完結させている。
(右の写真はホテルの内から出口の方を撮ったもの。水槽の下はバーになっていて、フロントはその先にある)

旧東ドイツ時代はパラストホテルと呼ばれた最高級ホテルであったが、統一後はアンバサダーホテルグループに買収され建て替えられたようだ。
1人1泊約1万4千円。宿泊費にたじろいで泊まろうかどうか迷ったが、旧東ベルリンの中心にあり、ブランデンブルク門も、アレキサンダー広場も、ペルガモン美術館も歩いて行ける範囲なので、思い切ってこのホテルを日本で予約した。

「チェックインお願いします」
私はいちばん右の接客をしていない女性に声をかけた。
 返ってきたのは少しはにかんだような笑顔。笑顔なんて旧東ドイツではなかったこと。
一通りの手続きを終えて、部屋のカードキーを受け取るとき、「エレベーターでこのカードを差し込んでください」と言う。
(えっ、部屋のドアでなくエレベーター?)と思い少し首をかしげると、
「やり方を説明しましょう」
と手招きしてエレベーターの前まで案内してくれた。
エレベーターの各階表示の下にカードリーダーがあり、そこにカードを差し込んで認証されないと各階のボタンを押しても動かないというしくみ。

「こうやるんですよ」
とカードキーをカードリーダーに差し込んで、すぐ上のランプが緑色に光ると、私が止まる2階のボタンを押してくれた。
心の中で、こんな高級ホテルに泊まったことないもんで、と言いながらお礼を言って2階に上がった。
2階といってもドイツの表示では1階。日本の1階はドイツでは地階(Erdgeschoss)となる。


右の写真は部屋のカードキー。ここにも水槽の写真が。






部屋に入ってザックを置き、ふーっと一息ついて時計を見ると、6時半を回っていた。さて、夕食でも食べに行くかと思ったところで、あらためて気がついた。ベルリンの壁の跡をはじめ行きたいところは事前に細かく調べたが、食事をどこでとるか、何を食べるかは全く考えていなかったのだ。

さてどうしようか。
せっかくドイツに来たのだからビールでも飲みながら何かつまめればいいや、寒いから近くですまそうと、とりあえずホテルを出てあたりを見回したら、ふと「DDR」という文字が目に入った。いくら旧東ベルリンとはいっても、なぜDDR?見間違えかと思い、もう一度ホテルの右側を見ると確かにある。

DDR博物館 DDRレストラン

 今回の旅の大きな目的の一つは、ドイツ統一から20年以上たって旧東ドイツがどう変わったか見ること。迷わず私はDDRという看板のある方に向かった。右の写真は入口。下の写真は、翌朝撮ったもの。シュプレー川沿いのテラスになっている。後ろは宿泊したホテル。


まずは博物館の方へ。
入口の売店兼チケット売り場のお兄さんに聞いたら、5年前にオープンしたという。
もうドイツ人にとって、DDRは保存する努力をしなければ忘れ去られてしまう存在なのだろうか。




入口を入ってすぐ目についたのが、東ドイツの国民車「トラバント」。東ドイツはこれなしには語れない。
生まれて初めて運転席に座ってみた。窮屈でおもちゃのような小さな車。

トラバントの本物もいいが、ミニカーがほしくて秋葉原をさんざ探し回ったがどこにも見当たらなかった。
ミニカー専門店で、
「トラバントありますか」
と聞いたら、
「何ですかそれ」と言われてしまった。
(一部のマニアでしか有名ではないので知らなくても仕方ないか)
ところが、DDR博物館のショップにはあった。私がほしかったのは上の写真と同じ白のトラバントだったが、カラーのとラリー車仕様しかなかった。それでも、探していたものがみつかったうれしさで、帰りに荷物がかさばることも気にせずその場にあった3台を全部買ってしまった。
しかし、あせる必要はなかった、翌日以降わかったことだが、市内にあるスーベニアショップにはどこにも売っていたので、白いトラバントも、一回り小さいのも買うことができた。おかげで帰りのザックはいっぱいになったし、荷物検査でもひっかかったが。


 次に見た展示はシュタージの取調室。
この写真だとわかりづらいが、椅子に座り、両手を机にある二つの穴に肘を置いて手のひらを両耳にかざすと、尋問する捜査官の声が聞こえる仕組みになっている。
声を聴いてみると、思わず「私がやりました」と言ってしまいそう。




次は拘置室。取り調べで拘束されている間はここで寝泊まりすることになる。
ベッドのシーツのしわがリアル。






他にも東ドイツの工業製品、子どものおもちゃ、日用品などが展示されている。

出口近くには政府の要人用の高級車。

国民にはおもちゃのようなトラバントをはじめ、必要最小限のモノを与え、体制にたてつくような言動をとったら取り調べを受け、拘置室に留置される。一方で一握りの特権階級の人たちは海外の高級車を乗り回す。
狭い空間にDDRの縮図が見てとれる。



そして出口は壊れたベルリンの壁の写真。ここから無事に壁の外に逃れることができる。



下の写真はDDR博物館のチケット。大人一人6ユーロ。土曜日は22時までオープンしている。








時計は8時を回り、さすがにおなかがすいてきたので博物館隣のDDRレストランへ。
店内は広く、若者の集団が入っていたが席は余裕があった。
これで「席はない(kein Platz)」と言われたら面白いな、などとくだらないことを考えてドアを開けると、ウエイトレスさんの「こんばんわ」という声とさわやかな笑顔。



席に着きメニューを見ると「野菜の料理」とあり、その中に「パラストホテル風卵のラグー(Eierragout》Palasthotel《)」とあった。どういったものだかわからないが、「パラストホテル」というネーミングが気に入ったのでこれを注文した。料理の説明書きに「野菜がのっていてマッシュポテトがついてる」とあったので変なものではないだろう。
ビールを飲みながら待っていると、出てきた料理がこれ。


マッシュポテトの上にゆで卵のスライスと野菜やグリンピースなどがのった、いたってシンプルなもの。もっと豪華な料理を期待していた人はがっかりするかもしれないが、野菜好きの私にとっては願ってもない料理。DDRの一般庶民にはポピュラーな料理との説明もあった。
ビールは、地元のベルリナー・ビュルガーブロイ(Berliner Bürgerbräu)。メニューには東ドイツ時代から人気があったとの説明がある。
期せずして最初の夜からDDRづくし。DDRの庶民の生活に思いをはせながら、ビールを飲み、ゆっくりと料理を味わった。

下の写真は店内の風景。




さて、レストランでのチップの払い方。
「お勘定お願いします」
と最初に対応してくれたり料理を運んでくれたウエイトレスさんに声をかける。ドイツの場合、レストランでは最初に対応した従業員がその客の担当となり、最後の精算まで行う。サービスの対価としてのチップも担当の従業員に払うしくみ。
マリアーネさんという名前のウエイトレスはレシートをもってきた。
一番下には英語で「チップは含まれていません」とはっきり書いてある。
会計は11ユーロ80セント。1割かけて12.98。13ユーロだとあまりにぎりぎりなので
「14」というと、マリアーネさんはにこっと笑って「Danke」。  



レストランを出てホテルまではわずか1分。
気温はだいぶ下がっているようだが、胃が満たされたせいかあまり寒さを感じなかった。
今日の最後に、車の中では撮れなかったテレビ塔をホテルの前から一枚。


(次回に続く)

2012年1月2日月曜日

旧東ドイツ紀行(2)

あけましておめでとうございます。読者のみなさん、今年もこのブログにおつきあいのほどよろしくお願い申し上げます。
年末に行ってきた沖縄ではすっかり緩(ゆる)んできました。。 那覇の最高気温は20℃。那覇空港に着いた瞬間、横浜では寒さで固まっていた体がじわ~とほぐれてくる感じがしました。
それでも街中では地元の人たちが「寒い、寒い」と言ってジャケットを着て歩いていました。ふわふわ毛のフードのついた厚手のコートを着ていかにも寒そうに歩いている女の人たちもよく見かけました。
やはり人間はそれぞれの土地の気候風土に慣れるものなのでしょうか。長い夏に慣れた人たちは少し涼しくなると「寒い」と感じるのでしょう。
私もそれとは逆ですが、同じような体験をしました。
 最高気温4℃~5℃、最低気温は氷点下という11月のドイツから帰ってきて、12月に入ってから例年より早く寒さが厳しくなっても、さほど寒いと感じませんでした。
このまま寒さに強い体になったのかなと思いましたが、沖縄に行ってふたたび暖かさが恋しい体に戻ってしまったようです。これからさらに寒さが厳しくなる中、耐えられるかどうか心配です。
ここで沖縄の写真を一枚。今年の干支にちなんで、那覇市内の福州園近くの歩道にあった愛嬌のある顔の龍です。


さて、舞台はふたたびドイツへ。

11月12日(土) フランクフルト-ベルリン

無料のコーヒーを飲み終え、もう一杯飲みたいと思ったが少し気が引けた。でも、機内サービスの延長だから遠慮しなくていやと勝手な解釈をしておかわりをした。
2杯目のコーヒーを飲み終えるとすぐにアナウンスがあり機内へ。
座席についてシートベルトを締めると、新聞に目を通し始めた。主にチェックしたのはユーロ危機関連の記事。

ところで、フランクフルト国際空港に着いたときからずっと感じていたが、ドイツは本当に久しぶりなのに、はるばる海外にやって来たという感じがしない。
ドイツの政治や経済の動きは、毎日ネットでチェックしているし、ドイツ語の授業でもドイツ情勢について議論しているので、いつもドイツを身近に感じているからだろうか。ユーロ危機についても毎日かなりの量の情報を入手している。
それに何よりことばが通じる。
ベルリンに向かう機内でも、ドイツ語の新聞を読んでいたので、客室乗務員の女性は「飲み物何にしますか」とドイツ語で聞いてくる。こちらも自然に「炭酸なしのミネラルウォーター(stilles Mineralwasser)」とドイツ語が出てくる。
(日本でミネラルウォーターといえば炭酸なしが普通だが、ヨーロッパでは炭酸ありと、なしの両方とも一般に出回っているので、「ミネラルウォーター」とだけ言うと、必ず炭酸入りかどうか聞かれる。)
時間とお金をかけてせっかく来たのに、海外まで来たという感じがしないのはもったいない、と思われるかもしれないが、「第2のふるさと」と言うのはおおげさでも、「なじみの街」が増えたような気がして、これはこれで心地いい。

フランクフルトからベルリンまでは1時間10分のフライトなので、飛行機は飛び立ってしばらくするとすぐに降下体制に入る。
ベルリン・テーゲル空港に着いたのは夕方の5時半。あたりはすでに暗く、気温はかなり下がっていた。
TAXIの表示をたよりにタクシー乗り場に向かう。フランクフルト国際空港よりは狭いのでタクシー乗り場はすぐに見つかった。
一番前のタクシーに乗り込み、ザックを後部座席に置いて助手席に座った。そう、ドイツでは一人の場合、助手席に座り、道中ドライバーと世間話をするのが常だ。

「ラディソン・ブルーに行きたいのですが、途中、ボルンホルマー通りに寄ってもらえますか」
「ボルンホルマー通り?」
「1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊したとき、市民が押し寄せてきて、検問所の門が開いたところです」
「ああ、あそこね」 

タクシーは走り出した。
ドライバーのおじさんはトルコから来たという。
「どこから来た?ベトナムか、インドネシアか?」
自分でも祖先は南方から流れ着いたのではと思っているくらい東南アジアの人たちに親近感をもっているので、当たらずとも遠からずといったところだ。
「日本から」 と答えると、
「そうか、どっちにしても俺たちは同じアジア人だな。ハハハ」
と大きな声で笑った。気さくなドライバーだ。

「運転手さん、ベルリンは長いんですか」
「ああ、もう20年以上だ」
「じゃあ、ドイツ統一前からいたんですね」

その後、日本についていろいろ聞かれたが難しい質問ばかりで返答に困った。
サラリーマンの平均月収は?平均家賃は?日本にトルコ人はどのくらいいるか?・・・などなど。

例えばこういう感じ。
「日本のサラリーマンの平均月収は?」
日本の場合、まだ年功序列が残っているし、ボーナスもあるし、大企業と中小企業でも差があるしで、一口に平均といっても難しいな、と思いながら、30代から40代のサラリーマンの年収を12か月で割るとこのくらいになるかなという数字を言った。
「3,000~4,000ユーロくらい(1ユーロ100円として30万円から40万円)」 
「そんなに高いのか!家賃はどのくらいか?」
これだって都心部か郊外か、駅に近いか遠いかで違うと思ったが、自宅近くの相場はこのくらいかなといった数字を言った。
「3LDKで1,200~1,500ユーロくらい」と言うと、またまた
「それは高い!」と驚く。
そんなに驚くほど的外れではないと思うが。
このように、世間話といっても頭をフル回転させなくてはならないので、かなり疲れる。特に数字の換算は面倒だ。もちろんドイツ語のいいトレーニングになるが。

話をしているうちに通り過ぎてしまわないかと気が気でなかったが、ドライバーはちゃんと気にしていてくれて、
「次の信号の先がボルンホルマー通りだ」
と丁寧に教えてくれた。
 私は東側から写真が撮りたかったので、
「橋を渡ったあたりで車を止めてもらえませんか」とドライバーにお願いした。

私は車を降り、小走りで橋のたもとに向かった。
「これがあのベルリンの壁崩壊の舞台になったボルンホルマー通りだ」

 22年前、シャボウスキーの記者会見の模様を聞いた市民が集まってきて、国境警備兵と押し問答をしたのがここにあった検問所だ。そして、検問所の門が開き、喜びに震えながら市民たちが通り抜けたのがこの橋だ。
検問所はあとかたもないが、重厚な鉄橋の欄干は当時のままだ。あの日も今日と同じくらい寒かったろう。でも、今では写真のように、人も、車も自由に通ることができる。
私は夢中になってシャッターを押した。

車に戻り 「いい写真が撮れました」と言うと、
「それはよかった」とドライバーも笑顔。


 シェーンハウザー通りを右に曲がり、南下したが、このあたりは地下鉄が道路の上を通っていて、まるで首都高が上を通っている渋谷から南青山、六本木にいたる六本木通りのよう。
通りの両側も飲食店や商店が多く、店のネオンがキラキラ輝いている。街全体が明るい。

テレビ塔が遠くに見えてきた。沿道はさらににぎやかさを増していく。(車内からテレビ塔の写真を撮ったが、残念ながらぶれてしまった)
テレビ塔を過ぎて1ブロック先が、私の宿泊するホテル。
ホテルの前で車を止め、ドライバーは、
「26ユーロ30セント」と料金を示した。
私は、チップが1割として約29ユーロ、途中で車を止めたりしてくれたからプラス1ユーロと頭の中で計算して、
「30ユーロ」と言って20ユーロ札1枚と10ユーロ札1枚を渡した。

「フーフン」
と、ドイツ人が「了解した」という意味で使う表現が返ってきた。この表現は聞く側にとってはあまり乗り気でない、といった感じに聞こえてしまうが、最後に、 「元気でな」と笑顔で言って別れたので、チップに不満はなかったであろう。 

ドイツに限らず、海外で頭を悩ませるのがチップだ。
チップの目安は料金の1割で端数は切りあげる。
タクシーだとだいたい上記のようなやりとりになる。
また、細かい紙幣がなくても心配することはない。今回の場合でも、20ユーロ札2枚出せば10ユーロのおつりが返ってくる。
ドライバーは客が言った金額しか受け取らない。

参考までに前回のブログに添付したベルリン市内のタクシーのホームページを見ると、チップを含まないで30ユーロ22セントだった。ルートは南回り。北回りをして渋滞しなかった分安く上がったのだろうか。
また、ヨーロッパの他の国ではメーターが動かなくて(あるいは意図的に動かなくして?)高い料金をふっかけられるという話を聞くが、ドイツではそんなことはない。メーターはきちんと動く。ドイツだから大丈夫。
なぜドイツだから大丈夫か?
ドイツ語で「大丈夫」は"Alles in Ordnung"。直訳すると「すべては秩序どおり」だから。
(次回に続く)