2012年7月29日日曜日

旧東ドイツ紀行(30)

11月28日(金)夜 ドレスデン
夕食は、聖母教会の向かいにあるおしゃれな店でとることにした。その名も「レストラン・ツア・フラウエンキルヒェ(聖母教会レストラン)」。店の前にあったメニュー表を見ると、値段は少し高そうだったが、今回のドレスデンでのメインテーマが「聖母教会」なので最後の夜にはちょうどいいと思った。


店の前にはいろいろな国の国旗とその国の言語で歓迎の言葉が書かれている。中央のグリーンのネオンサインの右側には日本語で「ようこそ」とある。
メニューも日本語版があってわかりやすい。


注文したのは一番右の列の真ん中あたりにある「ドレスデン風オリジナル酢漬けロースト肉(Original Dresner Sauerbraten)。「レーズンソース、リンゴ入り赤キャベツとポテトダンプリング」との注釈もある。
メニューの表紙はかつての聖母教会前のたたずまい。

このときはドイツ流に、ビールを飲みながら料理が出てくるのを待つことにした。

ジョッキ半分くらい飲んでもまだ料理は出てこない。
テーブルの横の手すりの上にカメラを置いて、自動で自分の写真を撮っていたら、向かいに座っていた家族連れの中年の女性が、「撮ってあげたのに」と言って笑った。そこで「ありがとうございます。でもよく撮れてました」と私。


ジョッキ1杯目を飲み終わったころようやく料理が出てきた。
手前がロースト肉、右上が赤キャベツ。左上のポテトダンプリングは、ポテトをこねて丸くしてから蒸しているので、プルンプルンしている。ドイツではジャガイモが主食なので、これがご飯がわりになる。
ロースト肉は口の中でとろけるくらい柔らかく、赤キャベツはシャキシャキ、ポテトはプルプル、とそれぞれの食感を楽しみながらゆっくりと味わった。もちろん2杯目のビールを飲みながら。

写真を撮っているのは私だけではなかった。
店内のあちこちでフラッシュが光っていた。さっきの家族連れもカメラを取り出した。
少し値段の張ったレストランでの食事は地元の人たちにとっても「ハレ」の行事なのだろう。

それでもビール中ジョッキ2杯と料理で20ユーロ50セント、チップ込みで23ユーロ。日本円でだいたい2,400円くらいだから、驚くほど高くはない。

レストランを出て、聖母教会前の広場でもう一度だけライトに照らされた教会の円天井を見上げた。
「いつになるかわからないが、きっとまた来よう」と思いながら脳裏にその姿を焼き付け、私はホテルの方角に歩き出した。振り返ればもう一度教会の姿を見ることができたが、最後の印象を大切にしたかったので、振り返らずに足早で歩いてホテルに向かった。

翌日も無理をすれば旧市街地に行くことができたが、あわただしい思いをするのはいやだったので、朝食をとったあとはそのままドレスデン中央駅まで歩き、列車でドレスデン空港に向かった。

途中、フランクフルト空港でトラバントのミニカーが荷物検査でひっかかたりもしたが、特にトラブルもなく、充実したアミューズメントのおかげで機内でも退屈することもなく、11時間あまりのフライトのあと、ぽかぽか陽気の日本に降り立った。
(「旧東ドイツ紀行」おわり)

(あとがき)
「旧東ドイツ紀行」の連載を始めたのが去年の12月25日。それから7か月、書きたいことがたくさんあって、自分で書いていながら、途中で「いつになったら終わるのだろう」と不安になることもありました。それでもようやく終えることができ、今は肩の荷が下りたような、ホッとした気分でいます。
それにしても、わき道にそれたりしながら、だらだらと続いたこの連載に最後までおつきあいいただいたみなさまにあらためてお礼申し上げます。どうもありがとうございました。
次の連載は、「ギュンター・グラスの見たドイツ統一」というテーマで進めたいと思います。グラスは、終始、性急な統一には反対で、東西それぞれの独立した二つのドイツによる緩やかな連合体を作り、徐々に統合していくべき、と主張していました。
グラスが1990年に行った演説を集めた小冊子"Ein Schnäppchen namens DDR"をもとに彼がなぜ統一に反対していたのか探っていきたいと思っていましたが、おりしも先日「南ドイツ新聞」に「ヨーロッパの恥(Europas Schande)」という詩を発表したので、まず、その詩を手がかりにグラスがドイツの、また、欧州の現状をどう思っているのか考え、次に小冊子にあたることにします。
ただし、9月にはまたドイツ旅行を計画しているので、その旅行記で中断してしまうかもしれません。
今年はフランクフルトとワイマールに宿泊して、エアフルトかアイゼナハに寄りたいと思っています。今回のテーマは、メインが「ゲーテ」で、あわせてルター、クラーナハの跡をたどり、旧東ドイツにあったワイマールの現状を見るという欲張ったものです。こちらの連載もご期待ください。
それでは次回まで。

2012年7月24日火曜日

旧東ドイツ紀行(29)

11月28日(金)午後 ドレスデン
午後はドレスデンに戻ってきて旧市街地をふらりと散歩。
聖母教会の中に入ろうかどうか迷い、周囲をうろうろしていたが、中から楽器を鳴らしている音が聞こえたのにつられて中に入ることにした。
入口がよくわからなかったので、とりあえず空いていた扉から入ったが、中は暗く人の気配がしない。さらに前方に扉があり、そこが入口かと思い前に進もうとしたところ、教会の係員とおぼしき若い女性が近づいてきて、いきなり大きな声で「出ていけ!」と怒鳴り出した。
「チケットはどこで買うんですか」と聞いても、私が踏んでいたフロアマットを手にとってしまうしぐさを見せて「どけ!」と取りつく島がない。

旧東ドイツ時代であれば、こういった対応は当たり前だったのだろうが、まさかドイツ統一後にこんな対応をする人がいるなんて信じられなかった。ここにもまだ「東ドイツ式外国人歓迎法」が残っていたのだ。

仕方なく外に出たが、ドイツ旅行の最後がこれではあまりに寂しいので、せめて中に入れない理由だけでも教えてもらおうと思い、隣の入口に立っていた係員の若い男性に聞いてみると、
「今日はこれから夜のコンサートに向けた練習があるので、公開は3時半で終わってしまったのです」と丁寧に説明してくれた。そして「明日また来てくださいね」と付け加えた。
しかし、私は翌日早くドレスデンを発たなくてはならないので、
「明日は飛行機で日本に帰らなくてはならないのです。少しだけでも中を見させてもらえませんか」
と恐るおそるお願いしたところ、
快く「いいですよ」と笑顔で答えてくれた。
私はドアの外から遠慮がちに中をのぞいた。
ホールにはオーケストラのメンバーが座り、めいめいの楽器の調子を確認していた。
上を見上げると、円天井はどこまでも明るくきれいで、壁や窓に飾られた装飾品が日の光に輝いていた。
あまり長くいては申し訳ないので、
「どうもありがとうございました。」とお礼をいってその場を立ち去ることにした。
帰り際、
「私はドイツ統一前の1989年にここに来ました。その時はがれきのままでしたが、再建されたことはニュースで知りました。また、映画『ドレスデン』を見て、この教会の再建がドイツとイギリスの和解の象徴であることも知りました」
と言い、重ねてお礼を述べた。
その若い男性は「次回はもっとゆっくり見にきてくださいね」と言ったので、私も「是非そうします」と答えてその場をあとにした。
心の中で、「次回はちゃんと入場料をお支払します」と言いながら。


扉の手前に立っているモーニング姿の人が私を中に入れてくれた親切な男性。
それから、4月15日のブログで「煉瓦の色の違いを説明する案内板や、廃墟になった時の写真は周囲にない」と書いたが、この写真の右手下の黒く焦げた煉瓦が積まれたところに、空襲によって聖母教会の円天井が音を立てて崩れ落ちるときの様子を刻んだ文字板がかろうじて埋め込まれていた。



ドレスデンの空襲から遡ること180年あまり。七年戦争(1756-1763)でプロイセン軍の砲撃によって市街を破壊されたドレスデンの様子を聖母教会の円屋根の上から見渡したゲーテは、「もっとも悲しむべき光景」と言って嘆いている。
しかし、1945年2月のドレスデン空襲はその時以上に市街地を焼き尽くしてしまった。
聖母教会の円屋根も爆撃により破壊されたことを知ったら、ゲーテはどれだけ心を痛めたであろうか。

七年戦争が始まった時のザクセン王はアウグスト強王の息子のアウグスト2世。
4月24日のブログでふれたが、アウグスト2世も父と同様に芸術作品の収集に熱心で、今ではアルテ・マイスター絵画館の代名詞とも言えるラファエロの「システィナのマドンナ」は彼が蒐集したもの。
さらに、国外から作曲家や歌手を招へいし、ドレスデンでのイタリアオペラの確立にも力を注いだ。
こういったザクセンの文化・芸術の振興に重要な役割を果たしたのがハインリッヒ・フォン・ブリュール伯。彼は、アウグスト2世が即位した年に芸術作品収集の責任者に任命され、1738年には外務大臣、1746年には宰相に登りつめている。エルベ川沿いの「ブリュールのテラス」は彼の名にちなんだものだ。
しかし、芸術や文化に心血を注いだアウグスト2世ではあったが、外交や軍事にはあまり関心を払わなかった。
そのため、当時、フリードリヒ大王のもと富国強兵策をとり、ヨーロッパの列強にのし上がろうとしていたプロイセンの攻撃によって、ドレスデン市街の3分の1と旧市街の東地区のほとんどを焼き尽くされてしまった。

こうして歴史を振り返ってみると、アウグスト2世の姿は室町幕府第八代将軍、足利義政(1436-1490 在位1449-1473)とだぶって見えてくる。
足利義政といえば、戦乱をよそに風流の生活を送った、政治家としては無能な将軍ではあったが、一方で「東山文化」を創出し、連歌、漢詩、花道、築庭、茶の湯などを奨励し、その後の日本の文化・芸術に大きな影響を与えた人でもあった。
義政が始めた茶の湯はその後、茶道に発展し、義政が蒐集した南宋や元の水墨画は、雪舟や狩野派の始祖である狩野正信によって日本独自の絵画に展開していった。
また、室町時代には、「同朋衆」と呼ばれた芸能、茶事などに勤めた将軍の側近が文化・芸術を支えていた。この「同朋衆」であった能阿弥、子の芸阿弥、孫の相阿弥と、三代にわたって義政に仕えた「三阿弥」が、アウグスト2世にとってのフォン・ブリュール伯に相当すると言えるだろう。

文化・芸術は後世に残るが、戦(いくさ)は何も残さない。しかし、戦に強くなければ民(たみ)は守れない。そのバランスが大切なのだが、両立は難しいのだろうか。

さて、ドレスデン市内に戻るが、このあと、夕闇が迫る中、ツヴィンガー宮殿、君主の行列の壁画、レジデンツ城などを、「これが見納め」とばかりに名残を惜しみながら見て回った。
(次回に続く)


2012年7月14日土曜日

旧東ドイツ紀行(28)

11月18日(金) バウツェン
いよいよ観光最終日。
この日は、ドイツの中のスラブ系の少数民族ソルブ人の街、バウツェンに行くことにした。
ドレスデンから鉄道で西に向かい約1時間。
バウツェンは、あたり一面に畑や牧草地が広がる田園地帯の中にぽつんと浮かぶ小さな町。列車からは降りる人も少なく、駅前も静か。

ソルブ人は、6~7世紀にドイツ東部に移住して農地を開拓したが、12世紀以降のゲルマン民族の東方植民以降、徐々にその活動範囲が狭められ、今ではブランデンブルク州南部とザクセン州北東部にまたがるラウジッツ地方におよそ6万人が住んでいるだけ。
しかし、他のスラブ民族がドイツ人に同化したのに対して、ソルブ人は自分たちの言語・文化をかたくなに守って今に至っている。
「バウツェン駅」の駅名もドイツ語の下にソルブ語で表記されている。


駅前にあった地図をもとに旧市街地に向かおうとしたが、看板のうしろに二手に分かれた道の左側に行かなくてはならないところ、間違えて右側の道に行ってしまった。


おかげで見ることができたのが、見上げるような尖塔をもったマリア・マルタ教会(Maria-und-Martha Kirche)。

道を間違えたことに気がつき教会の前を左に曲がると郵便局が見えてきた。あとはまっすぐ北に向かうと旧市街地だ。
郵便局から旧市街地に通じる通りの名前は「カール・マルクス通り」。
もう旧東ドイツからはマルクスもエンゲルスも消え去ったと思っていたが、小さな田舎町にはまだ東ドイツの面影が残っていた。
これが「カール・マルクス通り」の標識。

クリスマスの飾りつけが通りに彩りを添えている。
左側の赤い看板に「Dreißig」と書かれたベーカリーショップは、帰りに昼食をとったところ。


旧市街地に入った。まずはツーリスト・インフォメーションに寄って、地図を入手することにした。
正面の黄色い建物が市庁舎で、ツーリスト・インフォメーションはここの1階にある。


ツーリスト・インフォメーションはスーベニアショップを兼ねているので中は広々している。
カウンターの向こう側では若い男性がパソコンの前に座り、熱心に何か検索しているようだった。
「Guten Morgen」
と挨拶すると、青年はパソコンから目をそらさず挨拶を返した。
「地図はありますか」と聞いたところ、その青年は立ち上がって、
「これです」とカウンターの上を指さした。
ドイツではパンフレットも有料だ。
1枚50セントの地図を購入すると、青年はもとどおりパソコンの前に座り、
私が少し店内を見て外に出るとき、「Danke」と言うと、やはり青年はパソコンから目を離さずに「Bitte」と返した。
愛想がないと言ってしまえばそれまでだが、まあ彼の性格か、それとも旧東ドイツ時代の外国人への対応のなごりなのだろうか。
(「東ドイツ式外国人歓迎法」については、昨年6月~7月にこのブログに連載した「二度と行けない国『東ドイツ』」をご参照ください)
市庁舎の裏手はバウツェンで一番大きな聖ペトリ教会。


中もこんなに広々している。


これがツーリスト・インフォメーションで購入したバウツェンの地図。

街も小さく、迷いようもないので、地図を見ながらも適当に小路に入ってみるとおもしろい発見がある。







街の中を歩いていると、ドイツにいながら、ドイツの街でないような気がする。
なぜだろうか?
なんだかイタリアの街ような感じもするし、など考えているうちに何が他のドイツの街と違うか分かってきた。
ドイツだと石造りの家が並び、建物も灰色、あるいは薄いベージュ色のモノトーン、または木組みの家というイメージがあるが、この街は建物も装飾も色とりどりなのだ。
イタリアというより、やはり同じスラブ系のチェコの街並みに雰囲気が近いのだろうか。

バウツェンには見張り塔も多い。
街角で立ち止まり、ふと横を見ると塔がある。


街の一番奥のオルテンブルク城の一角は現在ではソルブ博物館になっている。

ここでの表示は、ソルブ語の方が上で、字も大きい。

博物館の中は、ソルブ人の歴史が順を追ってわかるようになっている。民族衣装を着飾ったソルブ人たちの人形のひたむきな表情がかわいらしかった。
館内は撮影禁止だったので、写真は撮れなかったが、ソルブ博物館のホームページのトップページに一枚だけ写真が出ていた。

http://www.museum.sorben.com/


ソルブ博物館の受付にいた中年の女性はとても感じのいい方だった。
東ドイツ時代には冷遇されていたソルブ人は、「東ドイツ式外国人歓迎法」を身に着けなかったのだろう、なんて勝手に想像してしまう。

オルテンブルク城の裏手は崖になっていて、この下はベルリンにまで流れていくシュプレー川。

これは城からシュプレー川を見下ろしたところ。


帰りの時間も近づいてきたので、先ほど紹介した「Dreißig」で軽めの昼食を食べてバウツェン駅に向かった。
トマト、きゅうり、モッツァレラチーズをはさんだ胚芽パン、チョコプリンケーキとコーヒー。
ドイツのベーカリーショップには珍しく、コーヒーには小さいクッキーと水がついていて、チョコプリンケーキとセットになって値段も安くなっている。合計で4ユーロ60セント(約500円)。

店内のショーウィンドウを入れたら胚芽パンがはみ出てしまったのでもう一枚。

ドレスデン市内に入り、エルベ川を渡るところで、昨日の夜見た旧市街地の教会の尖塔が見えてきたので、動画で撮った。
(動画はアップできないので、行きに撮った写真を掲載します)



午後はドレスデンの旧市街地をもう一度ゆっくり歩いてみようと思った。
(次回に続く)

2012年7月3日火曜日

旧東ドイツ紀行(27)

11月17日(木) ライプツィヒ続き

アウエルバッハス・ケラーは、旧市庁舎裏手のアーケード街「メードラー・パサージュ」の中にある。

これは昼に撮った「メードラー・パサージュ」の入口。彫像や彫刻の模様などがよくわかる。


入口から少し入ったところにゲーテ「ファウスト」の一場面、学生がメフィストに魔法をかけられている像が立っている。


この後ろに階段があり、地下に降りるとレストランの入口がある。
写真を撮り終り、階段の方に向かおうとすると、学生とおぼしき若い男性が早足で像に近づいてきた。
何をするのか見ていたら、学生の像の左の靴に手を置いて立ち止まり、目を閉じてお祈りすると、さっと立ち去って行った。
「誘惑に負けずに勉学に専念できますように」と祈ったのだろうか。
よく見ると学生の像の左の靴先だけは金色に光っている。彼だけでなく、多くの学生がここに手をあてて願をかけているようだ。

(お詫びと訂正 平成24年9月1日)
 こちら側はメフィストとファウストの像です。台座に「メフィストに魔法をかけられる学生たち」とあったので早とちりしてしまいました。
反対側が魔法をかけられた学生たち。確かによく見ると左の学生が、葡萄と間違えて右の学生の鼻をつかんでいる。
ただ、ファウストの左の靴にふれた学生は何をお願いしたのだろうか。
すべての学問を習得して退屈になったファウストは、快楽を求めて悪魔と契約をする。そして少女グレートヒェンを追いかける。
わざわざ女の子を追いかけるためにファウストはなぜ悪魔と契約したのだろうか。そんなファウストのどこにあやかりたいというのだろうか。
ついつい天神様と比較してしまう私としては、「勉学に専念できますように」とお願いしていると思いたいのだが。


振り返ってみると、通りの反対側にもメフィストに魔法をかけられた学生の像があった。この後ろにも階段があり、地下でこちら側の階段とつながっている。


これがアウエルバッハス・ケラーの入口。
ゲーテがライプツィヒ大学の学生時代よく通っていたのがここ。
ドアの上には「歴史的ワイン酒場」と書かれている。
さて入ろうかと思ったが、メニューを見てあまりの値段の高さにたじろいでしまった。メインやサラダ、デザートなどが込みになっているのだろうが、料理一品が安くても日本円で3,000円~4,000円ぐらいする。

せっかくここまで来たのだから思い切って入ろうかとも思ったが、反対側の方が手ごろな値段なのでこちらに入ることにした。
こちらは20世紀に入って新しく作られたもの。でもドアの上にはちゃんと「アウエルバッハス・ケラー」と書いてある。

空いている席に案内されメニューを見ていると、私のテーブル担当のウエイトレス、アーニッケさんがやってきた。
名前はあとでレシートをみて分かった。名前の後ろに(25)とあるが、これは年齢だろうか。

こちらはテーブルの上に置いてあったナプキン。
アーケードの両側にある学生とメフィストの像がデザインされている。


体調はだいぶ良くなってきたので、3日ぶりにビールを飲むことにした。それにいつものとおり野菜中心の料理。
「クロスティッツァー・ビールと『トマトとズッキーニのスフレ ホウレンソウつき』をください。それからビールは料理と一緒に持ってきてもらえますか」と注文すると、アーニッケさんは少しけげんそうな顔をして、
「料理ができるまで20分くらいかかりますけど」と言った。
以前にもふれたが、ドイツではビールと料理を注文すると、まずビールだけが出てきて、それをちびちび飲みながら料理が出てくるのを待つ。そして料理が出るころには残りが少なくなるのでもう一杯、ということになる。
この日はまだ本調子でないのでビールは1杯だけにしたいというのもあるし、料理を待つ間、店内の写真を撮ったり、日本にメールを送ったりと、いろいろやることもあるので、
「いいです。料理ができるまで待ちます」と答えた。
アーニッケさんはにこりと笑って厨房に下がっていった。

新しいとはいえ、内装は凝っていて、古風な雰囲気を出している。


出てきた料理がこれ。
スフレ(Auflauf)とあるが、メレンゲは入っていない。きしめん状パスタが入っていてモッツァレラチーズがからめてあるので、形は違うけど味はラザニアに近い。チーズの適度な塩味がビールによくあう。

食事をしてふたたび体が温まってきた。列車が出るまでにはまだ時間があったので、新市庁舎まで寄って、ぐるりと遠回りしてから中央駅にもどることにした。
新市庁舎といっても完成したのは100年以上前なので、貫録十分。


トーマス教会はライトアップされていた。

こちらは旧市庁舎。

そして最後にニコライ教会。



久しぶりのビールで酔いが回ってきた。帰りの列車の中では気持ちよくうつらうつらしていた。
日本なら電車の中では男性も女性もよく寝るが、ドイツでは寝る人はあまりいない。
隣の女子学生はテーブルいっぱいに資料を広げてレポートを書いていた。資料が私のスペースにまで広がっていたのに気いて「失礼」と言ったが、私は寝いているだけなので、「いいですよ」と一言。
列車がドレスデン・ノイシュタット駅を出てエルベ川の鉄橋を通るところで旧市街地の尖塔群が見えてきた。淡いオレンジ色のライトに照らされたシルエットは幻想的だったが、カメラをザックから出す前に目の前の景色は通り過ぎてしまった。
私はシャッターチャンスを逃したことを惜しんだが、明日もこの路線は通るので、そのときこそは写真を撮ろう、と心に決め、気を取り直すことにした。
(次回に続く)