2011年8月28日日曜日

日独交流150周年(11)

(前回からの続き)
カダフィ大佐はヒトラーが選んだ道はとらずにドイツの技術者が作ったともいわれる強固な「地下要塞」から脱出した。国外に脱出したとの情報もある。
東からソ連軍、西から米英軍が大挙して攻めてきた第2次世界大戦末期のドイツとは状況は全く異なり逃げ道はいくらでもあった。反体制派といっても実態はいくつもの部族や地域の民兵組織の寄せ集めで、戦っている兵士にしてもテレビの映像を見る限りは普段着をきた若者が銃を乱射しているだけで、どう見ても戦闘のプロではない。一方のカダフィ派は最新鋭の兵器で抵抗を続けている。
反体制派はカダフィ派を制圧できるのだろうか。それともこのまま泥沼の状態が続き、第二のイラク、イエメンになってしまうのか。
話はそれるが、一時期、アラビア語を集中的に勉強していて、アラブ圏の国をいくつも旅行したことがある。イラク、イエメンにも行った。どちらもオイルマネーじゃぶじゃぶの国と違って古き良きアラブの雰囲気が残っていてとてもいい印象だった。イエメンでは何とドイツ語を使う機会もあったのでその時のエピソードは別の機会に。

日本に目を移すと、民主党代表選は海江田氏がリードとのニュースが目に入った。
民主党政権になって2年、だれが代表になっても月末には3人目の総理大臣が誕生する。自民党政権時代から6年連続で総理大臣が代わることになる。

映画「山本五十六」にこんな場面がある。
心ならずも三国同盟が締結された後、連合艦隊旗艦「長門」の執務室で山本が従兵とかわした会話。
山本「ところで私の従兵になってどれくらいになる」
従兵「はい、1年10か月であります」
山本「そうか、近頃の総理大臣よりよっぽど辛抱強いな」

当時も総理大臣はすぐに辞めた。
「欧州情勢は複雑怪奇なり」と言って辞職した平沼内閣は約8か月(昭和14年1月5日~同8月30日)。次の阿部信行内閣は約4か月半(昭和14年8月30日~昭和15年1月16日)。三国同盟を阻止したかった米内光政内閣は陸軍が陸軍大臣を辞任させ後任を推薦しないという挙に出て6か月であえなく総辞職(昭和15年1月16日~同7月22日)。日独伊三国同盟を締結した近衛文麿内閣はそれでも対米外交交渉を続けていたが、東條英機陸軍大臣に開戦を迫られ1年3か月で総辞職してしまう(昭和15年7月22日~昭和16年10月18日 第一次近衛内閣は昭和12年6月4日から昭和14年1月5日までの1年7ヶ月)。そして、近衛のあとを東條が継ぎ、対米開戦に突き進んだ。
第一次世界大戦後のワイマール共和国も同じような状況だった。ワイマール時代は小党が分立し不安定な政治状況が続いた。1919年2月13日のシャイデマン内閣の誕生から1933年1月28日のシュライヒャー内閣退陣までの約14年間で14回も首相が交代している。こういった混乱に乗じて勢力を伸ばしてきたのが国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)であった。

さて、現在の日本。やはり歴史は繰り返したくない。時事通信社が毎月行っている世論調査によると、8月の政党支持率は、民主党10.1%、自民党15.5%、公明党3.1%、共産党2.0%、みんなの党1.1%、その他0.4%、支持政党なし65.6%となっている。今のところ民主党、自民党に代わる大きな勢力は出ていないが、一般受けしそうなキャッチコピーを掲げ支持政党なし層をとりこんだら・・・。
考えたくない話である。

西ドイツでは第二次世界大戦後、ワイマール時代の反省から、得票率が5%に満たない政党は議席を獲得することができないという「5%条項(5%-Klausel)」が定められ、ドイツ連邦共和国建国の1949年以来、2大政党のCDU-CSU(キリスト教民主同盟-キリスト教社会同盟)、SPD(社会民主党)、中規模政党のFDP(自由民主党)、および最近では緑の党(Grünen)による比較的安定した政権運営と政権交代が行われている。

ドイツ連邦共和国の建国以来の首相
1949年~1963年 アデナウアー(CDU) CDU-CSUとFDPの連立
1963年~1966年 エアハルト(CDU)   CDU-CSUとFDPの連立
1966年~1969年 キージンガー(CDU)  CDU-CSUとSPDの大連立
1969年~1974年 ブラント(SPD)     SPDとFDPの連立
1974年~1982年 シュミット(SPD)       SPDとFDPの連立
1982年~1998年 コール(CDU)     CDU-CSUとFDPの連立
1998年~2005年 シュレーダー(SPD) SPDと緑の党の連立
2005年~      メルケル(CDU)   CDU-CSUとSPDの大連立
(2009年からはCDU-CSUとFDPの連立)

62年間で首相の交代はわずか8回。ドイツ統一を成し遂げたコール首相は4期16年、ドイツ統一のもう一人の立役者ゲンシャー外相(FDP)はSPDとの連立政権時代の1974年から1992年まで18年間も外務大臣を務めている。だからこそ、当事者の東ドイツや米ソ二大国、フランス、イギリス、ポーランドなどの近隣諸国との信頼関係を築き大きな仕事を成し遂げることができた。
毎年、首相や外務大臣がコロコロ交代してるようではこうはいかない。
(次回に続く)

2011年8月23日火曜日

日独交流150周年(10)

(前回からの続き)
今年の7月に半藤一利氏の『山本五十六』が平凡社ライブラリーから出版された。今回が3回目の出版とのことだが、やはり日米開戦70周年だから山本五十六が注目されているのだろうか。
また、対米開戦に反対した3人の提督については、阿川弘之氏の提督3部作『米内光政』『山本五十六 上・下巻』『井上成美』(いずれも新潮文庫)に詳しいので興味のある方はご参照いただきたい。
ここでもう一人の良識派、井上成美に移る前に、週末に見たドイツ映画『ヒトラー~最期の12日間~(Der Untergang)』(2004年公開)の感想を少し。
内容は日本語タイトルのとおり、ソ連軍がベルリンに迫り、総統官邸の地下壕にこもるヒトラーとその部下たちの人間模様、ヒトラーの自殺と終戦までを描いたもの。ヒトラー役はスイス出身の俳優ブルーノ・ガンツ。ちょび髭をはやし、八二ぐらいの横分けにして、興奮しだすと大きな声を出し、右手のこぶしを振り上げ、前髪が揺れて額にかかる演技は真に迫っている。
登場人物の誰もが破滅を前にして、物語は重く、暗く進んでいく。映画が終わってエンド・クレジットを見ている間も心の中に重たさが残り、頭の中には整理しきれない何かが渦巻いていた。
この映画で監督はヒトラーをどう描きたかったのか。女性秘書や子どもたちに時おり見せる優しさももちあわせていることを表したかったのだろうか。いや、そうではない。将軍たちに無理な命令を出し、反論されると逆上して大声で怒鳴るところはまさに独裁者だ。
そういったヒトラーのしぐさより、私にはゲッベルスの方が印象深かった。人間はどこまで人に忠誠を誓うことができるのか、それを示したのがゲッベルスだったからだ。
ゲッベルスは生粋のナチ党員で、1933年ヒトラー政権誕生後に新設された国民啓蒙宣伝大臣として入閣、数多くのアジテーション演説で国民の戦意を煽り、報道や芸術を統制し、映画、演劇、学問などあらゆる領域でナチ化を進めた。
ベルリンを離れヒトラーに全権委任を要求したゲーリング、、ヒトラーに重用されながらもヒトラーの冷酷さに疑問を抱きハンブルクに去るシュペーア、リューベックで連合軍に独断で降伏を申し出たヒムラーと異なりゲッベルスは最後までヒトラーとともにいて忠誠を誓った。
思い通りにならない将軍たちを怒鳴りつけるゲッベルス、ヒトラーからベルリンを脱出するよう命令されてめそめそするゲッベルス。そのゲッベルスが、ヒトラーの自殺後、遺言に基づいて総統官邸の中庭で死体をガソリンで燃やし、ナチ式敬礼をして最後の忠誠を誓う。炎に照らされたゲッベルスの狂気に支配された表情がなんともいえず異様だ。
ヒトラーから首相に任命されたゲッベルスも、その翌日、妻と6人の子どもたちとともに命を絶った。

歴史は繰り返す、と言う。
DVDを見終わったらちょうどNHKのニュースがリビア情勢について報道していた。
NATOの支援を得た反体制派は、首都トリポリを制圧しつつあるが、それでも独裁者カダフィ大佐は強気の発言をしている。さらに、国営放送の女性キャスターは銃を持ちながら「私たちは殉教者になる覚悟でいる」と言っている映像が紹介されていた。
今はもう反体制派が首都を制圧してカダフィ大佐の行方を追っているようだ。
果たしてカダフィ大佐はヒトラーのように自殺して、ガソリンで死体を燃やすよう命令したのか、銃を持った女性キャスターはゲッベルスのように殉教したのか。
繰り返してほしくない歴史である。

さて、ようやくもう一人の良識派、井上成美。井上はイタリア駐在の経験から、三国同盟のもう一人のパートナーであるイタリア人がいかに戦争に向いていない民族であるか見抜いていた。
確かにイタリア軍は弱かった。
1940年6月10日、ドイツのフランス侵攻に遅れること1ヶ月、漁夫の利を得ようとしてフランスに攻め込んだが、反対に国境線で撃退されてしまう。さらに、同年9月13日にはイタリア領リビアからエジプトに侵攻するが、12月に始まったイギリス軍の攻勢で壊滅的打撃を受ける。10月28日にはイタリアが併合したアルバニアからギリシャに攻め入るが、反対に押し返され、アルバニアの南半分を奪われてしまった。(翌年1月には、この機に乗じてイギリス軍がギリシャに上陸してきた)
そこで、翌年1月、ムッソリーニはヒトラーに助けを求めた。ドイツとしてもバルカン半島や北アフリカがイギリスの勢力圏内になってはかなわない。さっそく、2月にはロンメル将軍指揮のアフリカ軍団がリビアに派遣され、4月にはドイツ軍によるギリシャ攻撃が始まり、5月にはギリシャが制圧された。
井上が予測したように、イタリアはドイツにとってお荷物でしかなかった。

ここでふたたび笹本駿二氏の『第二次世界大戦下のヨーロッパ』に登場願う。笹本氏は、ムッソリーニの軽率な行動の代償は大きかった、と言っている。
なぜなら、ドイツのソ連攻撃が6月22日でなく、当初の予定どおり5月15日に始まっていれば二度目のモスクワ攻撃もひと月早い9月上旬に始めることができた。モスクワを攻略できたかどうかわからないが、「冬将軍」にひどく悩まされることもなかっただろう、と考えているからである。
ついでながら、井上も戦争に弱かった。
1941年(昭和16年)8月に、第一次世界大戦後、ドイツから取り上げた南洋諸島(内南洋)の防備を担当する第4艦隊の司令長官に任命され、開戦劈頭、内南洋にあるアメリカ軍基地のひとつウェーキ島に上陸作戦を敢行したが失敗。その後、真珠湾攻撃の帰りの機動部隊の応援を得てようやく攻略に成功した。また、翌年5月にはニューギニア島南部のポートモレスビー攻略を図ったが、やはり失敗。海軍内では「マタモ負ケタカ四艦隊」ともの笑いのタネにされた。
実戦には弱い井上ではあったが、学問には長けていた。
三国同盟締結で湧きかえる中、ヒトラーの著書『我が闘争(Mein Kampf)』を原書で読んでいた井上は、ヒトラーが日本人を侮蔑する記述をしているのを知っていたので、そんな相手と同盟を結ぶのか、と冷ややかだった。当時、日本に出回っていた抄訳では、都合の悪い箇所は訳されいなかったので、多くの人はそのことを知らなかったのだ。
今の日本では角川文庫から出ている上下二巻で全部を読むことができる。ちなみに私はブックオフで上巻100円、下巻400円で買った。独断と偏見とはまさにこの本のためにあるのではないかと感じた。読んでいて気分が悪くなる。それでも我慢して必要と思える箇所はひととおり目を通した。
(次回に続く)

2011年8月19日金曜日

日独交流150周年(9)

(前回からの続き)
 話は少し遡るが、1939年(昭和14年)8月にドイツがソ連との不可侵条約を締結する前のこと。日本国中でドイツとの軍事同盟締結の気運が盛り上がる中、ドイツとの同盟がアメリカとの戦争につながり、ひいては国の破滅をまねくことに気がつき、軍事同盟の締結に反対した3人の海軍軍人がいた。
 米内光政海軍大臣、山本五十六海軍次官、井上成美軍務局長(肩書は平沼内閣当時)である。
 特に山本は、アメリカ駐在の経験があり、享楽的と見られていたアメリカ人がいざ戦争になると本気でかかってくるヤンキー魂を見抜いていたし、日本とは比べものにならないくらいの工業力のものすごさを知っていた。
 東宝映画「山本五十六」(1968年(昭和43年)公開)では、ドイツとの軍事同盟に消極的な海軍の態度に苛立った陸軍の若手将校が海軍次官室に押しかける場面がある。

「いい加減に海軍も話を分かっていただきたい。盟邦ドイツと手を結ぶしかないでしょう」と軍事同盟への協力を迫る陸軍若手将校に、山本は「そんなにドイツと仲良くしたいのか。一度、アメリカに行って工場の煙突の数を数えてきなさい。日本の何千倍、いや何万倍あるか分からん」と諭すように話している。

山本は、同盟推進派からの脅迫状も連日のように届き、命を狙われるようになったので、遺書をしたためた。自分の身を犠牲にしてでも日本を破滅から救おうという覚悟であった。
 独ソ不可侵条約の締結により、日独軍事同盟の動きは下火になり、平沼内閣総辞職とともに山本は海軍次官を辞職し連合艦隊司令長官に任命された。1939年(昭和14年)8月30日のことである。これは連合艦隊がボディガードなら命も狙われないだろうという米内の配慮であったとも言われている。
 それにしても三船敏郎の山本五十六はかっこいい。なにしろ重みがある。前線激励のため一式陸攻に搭乗し、米軍機に撃墜されるラストシーンで、背後から銃弾が貫通し軍刀を握ったまま微動だにしない姿で死を暗示させるところは圧巻。ジャングルの中に滑り込むように墜落する特撮シーンも見ごたえがある。
 今年の12月23日には「聯合艦隊司令長官 山本五十六」が公開されるそうだ。山本役は役所広司とのこと。映画「ローレライ」では潜水艦長の役を演じて軍服姿もそれなりに様になっていたが、山本五十六はどうかなあ。
 それに、最近の映画はコンピューター・グラフィックを多用しているので、どうも嘘くさくていけない。年代がばれてしまうが、私は東宝の怪獣映画、ウルトラシリーズやサンダーバードで育った世代。特撮でどこまで本物に近い迫力を見せるかが映画の醍醐味と思っている。
 とはいっても、開戦直前までアメリカとの和平交渉成立に望みをもち、開戦後も早期講和の必要性を考えていた山本を描いているようなので、どこまで描き出しているか見に行ってみよう。ところで、今年は日米開戦から70年目。12月8日に公開したらさすがに同盟国アメリカを刺激しすぎか。
 
 多くの日本人は、ポーランド侵攻の1939年(昭和14年)9月1日より真珠湾攻撃の1941年(昭和16年)12月8日の日付を記憶しているだろう。
 もちろんドイツ人はその反対だが、ドイツ人は第2次世界戦争が終わったのもドイツが降伏した1945年(昭和20年)5月7日と思っている。
 あるとき、ドイツ人の友人たちと話をしていたらポツダムのことが話題になり、誰かが「戦後、ポツダムで会談が行われたんだよね」と言った。最初、私は聞き間違えたのかと思ったが、みんな「そうだね戦後だね」とか言っている。私は思わず「ちょっと待った。まだ戦争は終わっていないよ」とむきになって言い返した。(ポツダム会談のことは6月20日のブログで書いたのでご参照ください)
 するとドイツ人の友人たちは「まあ、そうカリカリするな。ドイツでは戦後だよ」とこともなげに言う。日本とヨーロッパ、認識の違いはこんなものなのかもしれない。
 終戦の話ではないが、日本にも良識派がいたことを知ってもらいたいので、ドイツ人にも「聯合艦隊司令長官 山本五十六」を見ることを勧めようかな。
(次回に続く)

(追記)
 例の家電量販店で「ブリキの太鼓」を買った。値段は1,780円、公開は1979年とある。今まで見ていたのがテレビから録画していたものなので画面の鮮明さは格段の差だ。
 ジャケットの写真を見開きで添付する。


2011年8月15日月曜日

日独交流150周年(8)

(前回からの続き、というより前々回からの続き)
 はたして欧州情勢は複雑怪奇だったのか。もちろんお互いに相容れないナチズムとコミュニズムが手を結んだのだから、世界中が驚いたことは事実である。
 しかし、当時のドイツの置かれた立場を見ると、必ずしも不思議なことではなかった。
 ドイツは、ダンツィヒとポーランド回廊(下図参照)の返還に応じなかったポーランドに侵攻し、返す刀でフランスを陥れ、一気にイギリスを攻める考えでいた。その間、背後からソ連に攻められることだけは避けたかった。二正面戦争を避けることはビスマルク以来、ドイツにとっての至上命題だ。
 独ソ不可侵条約に安堵したヒトラーは、条約締結からわずか1週間後の1939年(昭和14年)91日、ポーランドに侵攻、イギリス、フランスがポーランドとの同盟に基づきドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が始まった。
 ドイツ軍は航空部隊による先制攻撃と機甲部隊の集中投入による電撃戦(Blitzkrieg)で、旧式装備しか持たないポーランド軍をわずか1ヶ月で撃破した。このときソ連軍もポーランド領内に侵攻し、しっかり領土をせしめている。独ソ不可侵条約はポーランド分割の取り決めでもあったのだ。
  ドイツ軍の攻撃のすさまじさはギュンター・グラス原作の映画「ブリキの太鼓(die Blechtrommel)」を見るとよくわかる。
 「ブリキの太鼓」は、大人たちが酔っぱらって大騒ぎするのを見て、3歳のときに「大人にはならない」と心に決め地下室の階段から飛び降りて成長が止まった少年オスカルが主人公の物語。舞台は第一次世界大戦が終わりドイツ領から国際連盟管理下の自由市となったダンツィヒ。
 いつもブリキの太鼓を手放さないオスカルは、成長が止まったかわりに奇声でガラスを破壊する能力を身につけ、学校や近所でトラブルを引き起こす。一方、母親アグネスはドイツ人の夫アルフレートがいながら、従兄のヤン・ブロンスキーと奇妙な関係をもち続けていた。
 母親アグネスは(おそらく)ヤンの子どもを身ごもったことに気がつく。ところがストレスからか、毎日魚を猛烈に食べ続け、命を落としてしまう。
 ドイツ軍が攻めてきたとき、ヤンはオスカルに引き付けられるように勤め先のポーランド郵便局に入り、仲間たちと銃をとって籠城するはめになってしまった。
 このあたりの戦闘シーンは怖くなるくらいすごい迫力。
 ドイツ軍が攻めてくるまで建物の中で銃を構え息をひそめるポーランド人たちの緊張感。攻撃が始まると、砲撃や機関銃の銃弾で天井は落ち、部屋の中は破壊しつくされ、「ポーランド郵便局」の看板がかかる正面入り口も、正門も崩れ落ち、仲間たちは次々倒れていく。抵抗むなしく、夜明けには生き残った仲間とともにヤンは投降した。オスカルがヤンの姿を見たのはこのときが最後。オスカルは子供の姿だったのでドイツ兵に抱きかかえるように連れ出され無事だったが、捕虜になったポーランド人はみな銃殺されたことをあとで聞かされる。
 
 

 ワルシャワに入城したヒトラーは、二重の喜びだっただろう、と笹本氏は『第二次世界大戦下のヨーロッパ』で指摘している。
英仏はドイツに攻め込んでこない、と読んだヒトラーは、英仏の攻撃に備えて西部戦線にも主力部隊を残すべきと主張した軍首脳の反対を押し切り、ポーランド攻略に全力を注いだ。ワルシャワに入ったヒトラーは「歴史に前例のない輝かしい勝利」と有頂天だったが、「将軍たちにも勝った」という意味も含んでいたのでは、と笹本氏は言う。

 ヒトラーの読みは、西部戦線でも冴えわたった。当初、軍首脳は平坦なオランダ-ベルギー戦線に主力を投入する考えでいたが、ヒトラーは攻撃直前に軍参謀から提案のあったベルギー南部の丘陵地帯、アルデンヌの森に主力をもってくる作戦に独断で切り替えた。(位置関係は下図参照)
 1940年(昭和15年)5月10日、ドイツ軍はオランダ、アルデンヌの森、アルザス-スイス国境の3方面から侵入した。アルデンヌの森から攻撃した主力部隊は、フランスの不意を突き、一気にパリ迫っていった。フランス政府は6月11日に無防備都市宣言を行ってパリを放棄したので、パリの市街地は破壊を免れたが、6月22日にはフランス政府が降伏し、ドイツに協力するヴィシー政権が成立した。     
 以後、1944年8月25日に連合軍によって解放されるまで、パリはスワスティカ(Swastika)の旗のもと、ナチの軍靴に踏みにじられた。
  
 
 
 ドイツの快進撃は、独ソ不可侵条約以来、日本政府がもっていたドイツに対する不信感を吹き飛ばすのに十分であった。陸軍を中心に日本中が「バスに乗り遅れるな」とばかりにドイツとの軍事同盟の締結を急いだ。
 (次回に続く)

(追記)
 さて、「ブリキの太鼓」の続き。
 
 オスカルは、以前、両親に連れて行かれたときに知り合ったサーカスの道化師べブラと偶然、街中で出会う。10歳で成長を止めたべブラは、久しぶりの再会を喜び、オスカルをパリに連れて行く。そのときべブラはナチの前線慰問団の団長になっていて、軍服に身を固めていた。 
 オスカルはパリで「ガラス割りのオスカル」としてデビュー。同じ慰問団で、やはり成長が止まったロスヴィータ嬢との恋も芽生える。
 その後、べブラ一行はノルマンディーを巡業するが、時は1944年6月、押し寄せる連合軍の前に、オスカルたちは慌てふためいて軍用トラック車で逃げることになったが、ロスヴィータ嬢はコーヒー一杯を飲んでいる間に連合軍の艦砲射撃に吹き飛ばされてしまう。
 オスカルはダンツィヒの実家に戻り父親アルフレートと再会するが、今度は東から攻めてきたソ連軍の兵士に家に踏み込まれアルフレートは射殺されてしまう。
 原作は、戦後、オスカルが旧西ドイツに行った後も続くが、映画の方は、オスカルの乗った列車が西へ向かうところで終わる。

 
 
 まさに戦争に翻弄された一家の物語。
 ところが、それを悲しくもおかしくさせてしまうところがギュンター・グラス。映画の中でときおり入る「ボョョョョ~ン」という調子はずれな効果音がすべてを物語っているような気がする。

2011年8月7日日曜日

日独交流150周年(7)

(前回からの続き)
時代が時代だけに、どうしても内容が重苦しくなってしまう。そこで今回は少し気分転換を。

 日独交流150周年(4)で青島ビールのことを書いら飲みたくなったので久しぶりに買ってみた。
味はさっぱり系、やっぱり蒸し暑い夏は下面発酵のすっきりした味のビールに限る。イギリスのエールやドイツのバイツェンビールみたいな上面発酵ビールは冬に温かい部屋で飲む方がいい。
ラベルを見ると「since 1903」とある。ドイツが青島を占領したのは1896年。7年間どうしたのだろうか。日本でもすでにビールを醸造していたが、まさか三国干渉をした相手方からは輸入しづらいだろうな、個人的に醸造していたのではまかないきれないから本国からの輸入に頼ったかな、など勝手に想像する。
次に裏のラベルを見る。「原材料 大麦麦芽、ホップ、米」とある。
えっ、米?
確かビール純粋令(Reinheitsgebot)によると、ビール(Bier)は麦芽(Malz)、ホップ(Hopfen)、酵母(Hefe)、水(Wasser)だけでできていなくてはならないはず。いつから米が入ったのか?
日本の多くのビールに見られるように、米やコーンスターチを入れると湿潤な日本の気候に適したさっぱりした味のビールができる。でも、ドイツではこういったビールは造ってもいけないし、輸入もできないはず。
ビール純粋令は、1516年4月23日、バイエルン公ヴィルヘルム4世が公布したもの。
それがバイエルンで長年引き継がれ、ドイツ帝国成立後やワイマール共和国時代にはドイツ全土に適用された。第二次世界大戦後もめでたくビール税法(Biersteuergesetz)で公認されている。(旧東ドイツで適用されたかは不明→今度調べておきます)
 以前、ドイツの地ビールのことを書いた本を買ったことを思い出し、本棚をさがした。それがこの『ドイツ地ビール 夢の旅』(相原恭子著 1996年 東京書籍)。
ビール純粋令のことはこの本でも紹介されている。1995年からビール純粋令を記念して4月23日は「ビールの日」となり各地の醸造所やレストランで催し物や記念行事が行われたとのこと。バレンタインデーやクリスマスなどいろんな記念日を取り込んでいる日本が「ビールの日」に飛びつかないのは不思議な気がする。
この本では世界最古のビール醸造所ヴァイエンシュテファンに始まり地ビールゆかりの地を訪ねる旅を紹介している。文章もさることながら、何しろ写真がきれい。紹介されている街に行ってビールを飲みたくなってしまう。

青島ビールに話を戻すと、2009年にアサヒビールが青島ビールと提携して世界最大のビール消費国中国の販路を拡大したいとのプレスリリースをした。それによると青島ビールは中国ビール市場で占有率第2位とのこと。青島ビールはもはやドイツビールでなくなってしまったということか。少しさびしい気がする。

(アサヒビールのプレスリリース)

いろんなことを考えているうちに青島ビールを飲み干してしまったので、泡盛の水割りに移る。自分では軽い沖縄病に罹っていると思っている。だから最近は泡盛の水割り。「沖縄もの」の本によると、重度の沖縄病だと移住してしまうくらい沖縄が好きになってしまうようだが、私の場合は、寒くなって手の甲にあかぎれができて痛くなる1月から2月になると沖縄に行きたくなるくらいなので、勝手に軽症と診断している。
ところでドイツ人は日本人のようにチャンポンはしない。日本だと、まず中ジョッキの生で乾杯、その後はめいめいがチューハイや日本酒、最近だとハイボールという感じだが、ドイツではビールを飲む人は最後までビール、ワインを飲む人は最初の乾杯もワインだし、最後までワイン、という具合。
ドイツといえばビールを思い浮かべるが、ワインも負けてはいない。
私が住んでいたラインラント・プファルツ州の小さな街に近いライン川中流、フランスと国境を接する丘陵地帯はブドウ畑が広がっている。
10月になるとブドウ農家でも自家製のワインを造り、家の軒先に「新しいワイン(Neuer Wein)」と手書きで書いた小さな看板をぶら下げて売っている。買う人は自分で1ℓや2ℓのブラスチック容器を持参して買っていく。新しいワインは市販されている白ワインのように透き通っていない。濁ったリンゴジュースのような感じ。きちんと精製していないのでアルコール度数もわからない。地元の人には、甘くて口当たりがいいので飲みすぎないようにと言われる。
新しいワインによく合うのが玉ねぎケーキ(Zwiebelkuchen)。ケーキと言っても甘くはなく、小麦粉生地の上に、塩コショウで味付けして炒めた玉ねぎとベーコンをのせてオーブンで焼くもの。味はピザに近い。
秋にはクルミも採れる。脂分がじっとりしみこんだカリフォルニア産のクルミに慣れきっていたので採れたてのみずみすしいクルミは新鮮な味がした。
秋にドイツに行ったら「ワイン党」になった方がいいかもしれない。
 (次回に続く)

2011年8月1日月曜日

日独交流150周年(6)

(前回からの続き)
 第一次世界大戦後のドイツには強い反日感情がくすぶっていた。ヴィルヘルム2世の黄禍論で人種的偏見が広まり、さらにはドイツ領だった山東半島や南洋諸島を日本が横取りしてしまったからだ。 
 ところが、1933年にヒトラーが政権をとってから情勢は変わる。同じ年に日本、ドイツが国際連盟を脱退し、国際的に孤立してから両国の接近が始まった。それが形になったのが、ちょうど日独交流75年目の1936年に締結された日独防共協定である(翌年イタリアが加入し日独伊防共協定となった)。
 防共協定はドイツ語ではAnti-Komintern Pakt。直訳すると反コミンテルン条約。1935年にファシズムに対抗するため人民戦線戦術を採用したコミンテルン(及びその後ろ盾であるソ連)に対抗するものだった。 
 防共協定を軍事同盟にまでもっていきたかった日本はドイツとの交渉を進めていたが、1939年8月、ドイツはこともあろうに敵対しているはずのソ連と独ソ不可侵条約を締結してしまう。防共協定は全く有名無実のものになり、日独の交渉も一時中断する。当時の平沼麒一郎内閣は交渉行き詰まりの責任をとり、「欧州情勢は複雑怪奇なり」との迷セリフを残して総辞職してしまった。
だが、独ソ接近の兆候はあった。在ドイツ日本大使館も日本政府も気がつかなかった欧州情勢の変化を、当時、ヨーロッパに滞在していた笹本駿二氏は著書『第二次世界大戦前夜』(岩波新書 1969年)で指摘している。
 笹本氏は、1938年5月に日本からヨーロッパに派遣された新聞社の特派員。彼は著書の中で、最初の滞在地がスイスだったのは何といっても幸運だった、日本では間違ったヒトラー像を押しつけられていたが、中立国のスイスでは公平な立場での報道に接することができた、としみじみ振り返っている。
 詳細は著書に譲るとして、この『第二次世界大戦前夜』と続編である『第二次世界大戦下のヨーロッパ』(岩波新書 1970年)は名著である。
簡潔な文体に引き付けられて、ズデーデン問題とそれに続くミュンヘン会談、ドイツ軍のチェコスロバキア占領、英仏ソの軍事会談、ヒトラーとスターリンの交渉など次から次へと続くできごとに引き込まれ、大きな戦争を予感させる緊張感に包まれたヨーロッパに、あたかも自分がいるような感覚にとらわれてしまう。
 この2冊を読み返して、高校時代に初めて読んだとき、海外特派員になって世界の大きなできごとを日本に伝えるんだ、と心に決めたことを思い出した。もちろん、その夢はかなっていないが、こうやってドイツのことを調べたり、ブログで公開しているのは、そのころの思いがわずかではあるが心の片隅に残っているからなのかな、と思う。
(次回に続く)