2014年12月21日日曜日

ドイツ世界遺産とビールの旅(5)ケルン大聖堂南塔

平成26年9月4日(木)ケルン

らせん階段をひたすら上り続けていると、階段の横に、扉のない入口が見えてくる。
中に入ると、そこには大きな鐘がいくつも並んでいた。
中からは分からないが、おそらく南塔(下の写真右側の塔)の上から二つめの窓あたりまで来たのだろう。

こちらが中央にある一番大きな鐘。下の開口部の直径はゆうに3mはある。


あとでネットで調べてみたらここには全部で8つの大きな鐘があるという。
目の前でこの鐘がすべて鳴ったらものすごい迫力だろうな、とか考えつつ鐘のある部屋を一周して、さらに階段を上って行った。



ようやく展望室にまでたどり着くと、そこはちょっとしたスペースになっていて、絵はがきやお土産などを売っている小さな売店まであった。
売店では、敗戦直後のケルン大聖堂周辺の様子を写真にとった絵はがきがあったので、それを買い、店番の中年の男性に話しかけた。



「第二次世界大戦では日本の多くの都市も空襲に遭ったので、ドイツの都市が空襲でどれだけの被害を受けたのか関心があります。大聖堂の周辺も大きな被害を受けたのですね」
「ケルンも何回も空襲を受けたのですが、大聖堂だけはほとんど被害を受けずに残りました。奇跡的なことです」
「ところで、塔の途中にあった鐘はいつ鳴らすのですか」
「「クリスマスやイースターなど、特別なときに鳴らしますが、今年は新しい枢機卿が来られたばかりなので、それを祝福して9月17日と18日にも鐘をならします」
9月8日には日本に帰ってしまうので、聞けないのが残念。


売店のあるスペースの周囲は回廊のようになっていて、一周するとケルンの街の360度パノラマを楽しむことができる。


高いところに上ると、カメラのミニチュアライズ機能を使いたくなる。
あまりミニチュアっぽくならないが、これも自己満足。
とにかく眺めがいい。

こちらはライン川沿いの景色。


こちらは南の方を臨んだところ。


塔を降りてきたら10時すぎ。7時、8時、9時と毎時行われる礼拝も10時のあとは12時なので、10時の礼拝が終わる11時ころ大聖堂の中に入るのがいいだろう。
ということで、先に大聖堂の横にある宝物館に入ることにした。


宝物館は地下2階まであって宝石のちりばめられた十字架や黄金の聖棺をはじめ展示品が充実しているので、じっくり見ていたらあっという間に11時になってしまった(館内の写真撮影はできない)。
(次回に続く)

2014年12月15日月曜日

ベルリンの壁崩壊から25年(続き)

前回に続いてベルリンの壁崩壊25周年に関連して、ZDF(ドイツ第二放送)の11月9日付けのビデオを2つ紹介します。

1つめは前回のブログで紹介した「光の国境」のセレモニーの様子です。

http://www.heute.de/merkel-gedenkt-der-maueropfer-bei-der-zentralen-gedenkfeier-an-der-bernauer-strasse-35809210.html

ウンター・デン・リンデンの画像の下に左からVideoが3つ、一番右にScroll-Grafik(前回のブログで紹介したものです)と並んでいるうちの一番左の"Mauerfall:Große Show in Berlin"は2分34秒の短い映像ですが、風船のまわりに大勢の人が集まり、セレモニーが盛り上がっている様子がよくわかります。
日本では年末の風物詩になっているベートーベンの第九も、ドイツでは統一のテーマソングです。ここでは地元のベルリンフィルが演奏しています。また、ドイツ統一に重要な役割を演じたゴルバチョフ元・ソ連書記長もセレモニーに招待されていて、久しぶりに元気な姿を見ることができます。

左から2番目の"Lichtgrenze:Die besten Momennte"も2分強の映像で、かつての壁に沿って並んでいる光の風船が次から次へと空に放たれていく感動的なシーンを見ることができます。

2つめはベルリンの壁が崩壊した1989年11月9日の様子をドキュメンタリータッチで描いたもので、ブランデンブルク門の画像の一番左下の"Video Der Mauerfall live"がそれです。

http://www.heute.de/liveblog-25-jahre-mauerfall-am-9-november-1989-35786660.html


これは40分以上の長い映像ですが、2:00あたりから当時政治局員で政府報道官だったシャボウスキーの例の記者会見が始まります。
記者とのやり取りは前回のブログで紹介しましたが、「いつ施行されるのか」との記者の質問にシャボウスキーが「すぐに」と答えたやりとりのあと、別の記者が「これからベルリンの壁はどうなるのか」と質問したシーンは初めて見ました。
シャボウスキーは「ベルリンの壁はどうなるのか」と言って少し視線を上に向け「そうえいばどうなるのかな」いう表情を浮かべたあと、「こちら側から通れるようになったということで、東ドイツの防備を固めることには違いない」と苦しい回答をしています。(何に対する防備なのか?東ドイツに好きこのんで入ってくる人はいないのに)
記者会見会場から出ようとするシャボウスキーの背中に向かって一人の記者が質問を投げかけました。
「これから逃亡する人たちのものすごい波が西に押し寄せるのでは」
シャボウスキーは振り返らずに答えました。
「そうでないことを願う」

この1年後、東ドイツは西ドイツに併合されて地球上から姿を消しました。
こうして東の人たちはわざわざ壁を越えて西に行く必要がなくなり、シャボウスキーの望みも現実のものとなったのです。


2014年11月29日土曜日

ベルリンの壁崩壊から25年

今月9日はベルリンの壁崩壊から25年目。
ベルリンではLEDで輝く1万個以上の風船が並べられて「光の国境(Lichtgrenze)」が浮かび上がり、お祝いムードが盛り上がっていました。
おかげさまで、私のブログも3年前に連載した「二度と行けない国 東ドイツ」や「ベルリンの壁崩壊」に多くの方にアクセスしていただきました。どうもありがとうございました。

さて、ドイツのメディアでは「ベルリンの壁崩壊」の特集が組まれていて、私もいろいろ記事をチェックしていますが、ZDF(ドイツ第二放送)の記事で面白いものを見つけたのでここに紹介します。
グラフや数字も多く、ある程度ドイツ語を勉強された方ならそれほど苦労なく読める文章ですが、念のため少し解説をつけます。

http://infografik-ddr.zdf.de/



表紙のタイトルは「Leben in der DDR(ドイツ民主共和国での生活)」。
マウスでスクロールしていくと、次々と興味深いデータやグラフが出てきます。

表紙の次のページでは、分断された時の東西ドイツの人口と面積が出てきますが、人口に注目してください。

1949年当時の人口  西 5095万人  東 1838万人

この記事には出てきませんが、東ドイツの人口は建国後30年間で約200万人減少し、1975年には1685万人になり、その後は1600万人台で推移しています。
人口減少の大きな要因は西への逃亡者が多いことで、4ページ目にはベルリンの壁と東西国境の延長が出てきてきますが、一番下にはベルリンの壁が建設された1961年までに約250万人が西に逃亡したと書かれています。
(何ページ目かは、左に並んでいる○がオレンジ色になる位置でわかります)

あまりの逃亡者の多さに危機感を感じた東ドイツ政府が作ったのが全長155kmに及ぶベルリンの壁。ベルリン以外にも1,376kmにわたる東西国境には鉄条網や見張り塔が設置されました。

次のページ「国境(Die Grenze)」に、国境警備のために配置された犬が3,000匹、見張り塔は302基、自動射撃装置が55,000基あったと記載されています。
逃亡を企てた人たちは、国境警備兵に見つかると射殺されるおそれがあることは知っていましたが、まさか自動射撃装置まであったとは。

ベルリンの壁の様子はベルリン市のホームページにイラストが出ているのでご参照ください。
コンクリートの壁だけでなく、幾重にも警戒網が引かれていたのがわかります。

http://www.berlin.de/mauer/zahlen_fakten/index.de.html#grenzanlagen


少し飛んで、西と東の選挙の投票率の推移が示されています(「東ドイツの選挙(Wahlen in der DDR)」)。
東は99.7%、ほとんど100%に近い数字です。
下の注意書きには、「DDRでは自由選挙でなくSED(ドイツ社会主義統一党)が公認したリストを承認するだけ。投票に行かなかったり、(日本みたいに隣とは仕切られた)投票記載台を使ったりすると(SEDを支持していないのでは)と疑われる」と書かれています。
これでは投票率が高くなるはずです。
それにしても西の投票率も89.1%で、国民の政治に対する関心の高さには驚かされます。

次は「監視国家(Der Überwachungsstaat)」というタイトルのページで、国家保安省(Stasi  シュタージ)の正規職員数と協力者数の推移が示されています。
ベルリンの壁が崩壊する1989年には正規職員は9万1千人、協力者は17万3千人に膨れ上がっています。

次のページ(「シュタージ文書(Die StasiAkten)」)では、「シュタージの集めた監視情報の文書は全長111km。これはライプツィヒとドレスデンとの距離に相当する」と記載されています。

しばらく飛んで「女性就労(Frauen im Beruf」では、東では働いている女性の割合91.2%、一方、西では1980年代は50%、「東ドイツでの保育(Kinderbetreuung in der DDR)」では、3歳までの乳幼児の託児所での保育率は大都市でほぼ100%(=待機乳幼児ゼロ)といった数字が出てきます。

冒頭で東ドイツの人口減少についてふれましたが、建国から30年間で特に25歳から60歳までの年齢階層では減少が213万人にのぼったことが女性の社会進出の大きな要因となっていました。

次のページ「東ドイツの所得(Einkommen in der DDR)」では、税や保険料の負担が、1,000東ドイツマルクに対してわずか150東ドイツマルクで社会負担が少ないといったデータがでていて、その次のページ「いくらするの?(Was kostet wie viel?)」では主なモノの値段が出ています。

私が1989年に東ドイツに行ったときの感覚でいうと、1東ドイツマルクが100円なので、パンは1kgで70円と安いのに比べて、コーヒー豆は250gで2,500円、全自動洗濯機は27万5千円、カラーテレビは56万5千円、トラバントは850万円と信じられない値段がついています。

次のページ「新車を待って(Warten auf den Neuwagen)」ではもっと信じられない数字が。
850万円もするトラバントですが、申し込んでから普通だと12年半から17年待たねばならず、早く入手したいとすると2~3倍の値段を払わなくてはならなかったそうです。

「東ドイツの住宅(Wohnen in der DDR)」では、公営住宅も何年も待たなくては入居することができないといった記述があります。それでも家賃は平米あたり100円というのはお手頃ではないでしょうか。

「西の小包(Die Westpakete)」では25という数字が出てきます。
これは年平均で2500万個もの小包が西側から東にいる親戚に送られていたことを示しています。
中身は主に東ではなかなか手に入らないチョコレートやコーヒー豆、衣類です。

一方の東からの小包は年平均900万個で、中身は主に手製のもので、イラストは天使の人形、明かり、シュトレンといったクリスマスにまつわるものが描かれているのでしょうか。

「自由ドイツ青年同盟(Die FDJ)」では75という数字が出てきます。
FDJは、14歳から25歳までの若者が加入するさまざまな課外活動をする組織で、加入率は75%にも達していました。
下の注釈には「加入するしないは自由だが、加入しないと(社会的な)不利益を被る」とありますので、加入率の高さもうなずけます。


次のページは、東には週末に余暇をすごす家が260万、家庭菜園が85万5千あると記載されています。面積はベルリンとドレスデンを合わせたものに匹敵し、これは世界一だったそうです。

その次のページは東ドイツ国民の海外旅行先です。
東ドイツ政府は国民に西側への旅行を許していなかったので、旅行先は東側諸国だけです。
一番はかつてのチェコスロバキアで、1984年の統計では海外に行った人のうち73.2%を占めています。次がハンガリーで13.4%、ポーランド6.7%、ソビエト連邦3.6%と続いています。

こうやってとりあえず最低限度のモノや住宅を与え、余暇も限られた範囲内で楽しませて国民を社会主義国家の中に閉じ込めようとした東ドイツですが、特に1980年代後半は逃亡する人たちの流れを止めることはできませんでした。

「東からの脱出(Raus aus der DDR)」の2つめのグラフでは、壁ができる1961年までと、1989年近くになって特に東ドイツを出る人が多かったことがわかります。
黄色が東から西に移住した人全体で、濃緑色がそのうち逃亡した人たちです。単位は千人ですので、壁の崩壊前には多いときで25万人以上の人が東ドイツから出て行ったことになります。

西に逃れるだけでなく、東の中でも変化が表れてきました。
「国民は通りに出た(Das Volk geht auf die Straße)」では、1989年9月4日からライプツィヒで始まった月曜デモの参加者の数が示されています。9月4日は1000人だった参加者が10月2日には2万人、10月9日には7万人とふくれあがり、10月23日には30万人になり、ベルリンでも11月4日には約50万人もの市民が街の中心 アレクサンダー広場に集まり、表現の自由、旅行の自由、自由選挙権を求めました。

そこで当時の東ドイツ政府は、市民の不満をそらすため、個人の外国旅行を自由化することを11月9日の夜に記者発表したのですが、その席でシャボウスキー政治局員は外国旅行の自由化は「すぐに」施行される、と言ってしまったため、東ベルリン北部にあるボルンホルマー通りの検問所に多くの市民が押し寄せ、もちこたえられなくなった国境警備兵が門を開けました。

これがベルリンの壁が崩壊した瞬間です。
(詳しくは私が2011年にアップした「ベルリンの壁崩壊」をご覧ください)

これは私が3年前にベルリンに行ったときに撮ったボルンホルマー通りの写真です。
(このときの旅行の様子も2011年から翌年にかけて「旧東ドイツ紀行」で紹介しましたので、ぜひご参照ください)



(この項終わり)







2014年11月7日金曜日

「ジョルジョ・デ・キリコ展」ブロガーナイト

11月4日(火)、キリコ展ブロガーナイトに行ってきました。

キリコというとすぐに思い浮かぶのが、人けのない広場とそれを取り囲む建物、そして不可思議なポーズをとるマネキン。

今、パナソニック汐留ミュージアムで開催中の「ジョルジョ・デ・キリコ-変遷と回帰」では、こういった私たちの期待に応えてくれる作品も出展されていますが、キリコもこんな作品を描いていたのか、と意外に思わせてくれる作品も多く展示されています。

この展覧会は、「変遷と回帰」という副題にあるように、現実を超越した「形而上学的」な作風を描き始めたな初期の作品から、古典主義やバロックに目覚めた時代を経て、再び形而上学的な作品に回帰し、さらに最晩年に至るまで、選りすぐった作品の数々でキリコの作風の変遷史をたどることができる構成になっています。



上の写真はミュージアムショップで購入した絵はがき。
右は「ビスケットのある形而上学的室内(1968年)」。
キリコにとってビスケットは、第一次世界大戦で軍隊に招集された時、配属されたイタリア・フェッラーラのユダヤ人街で見かけたビスケットにインスピレーションを感じて以来、作品の重要なモチーフになっています。
左は1962年の作品「ノートルダム」。
一見するとキリコらしい絵ではありませんが、川岸で釣り糸を垂れる一人の男性の姿が気に入りました。
中央上は、ビスケットではありませんが、キリコ展オリジナルグッズのチョコレートクッキーの包み紙。私が食べたのはイチゴ味でしたが、とても美味でした。

 
              


この日は、キリコ展を担当したパナソニック汐留ミュージアムの学芸員、萩原敦子さんのギャラリートークがありました。30分の予定だったのですが、作品を前に1時間近く熱のこもった解説をしていただきました。

歪んだ遠近法、写実的だが現実的でない、近くも遠くもどこまでもクリア、などなど、見る人を不思議な気持ちにさせてくれるキリコの作品の奥行きの深さ、想像を働かして謎を読み解く面白さがよくわかりました。
ギャラリートークは11月8日(土)と12月7日(日)にあります。

会場入口にはジュニアガイドのパンフレットもあります。
小学生以下は入場無料なので、週末にお子様連れでキリコの不思議な世界に迷い込んでみではいかがでしょうか。

キリコ・ワンダーランドの入口はこちらです。



12月26日(金)まで開催されています。詳細は公式サイトをご覧ください。


http://panasonic.co.jp/es/museum/exhibition/14/141025/


なお、会場の入口及びミュージアムショップの写真は美術館より特別に許可をいただいて撮影したものです。

2014年10月26日日曜日

ドイツ世界遺産とビールの旅(4)ケルンの朝

平成26年9月4日(木)ケルン

朝食は6時半から。
夜にはレストランになるので、朝食会場は落ち着いた感じでとてもいい雰囲気。


黒パン、カット野菜や惣菜、チーズ、フルーツポンチにストロベリー・ヨーグルトをかけたもの、ケーキ、コーヒーと、おなじみの顔ぶれ。



このホテルの朝食は少し小ぶりのブレッツェルがついているのもうれしい。
特にバターとの相性がよく、食欲が進む。


食べ始めたころはまだ外は暗いが、ゆっくり時間をかけて食事をしているうちに、外もしだいに明るくなってくる。


さて今日はケルン市内をどう歩こうかなどとぼんやりと考えながら食後のコーヒーを飲んでいると、もしかしたら私はこの一杯のコーヒーを飲むためにはるばるドイツにきているのでは、と思うほど幸せな気持ちになってくる。

とは言っても、ケルン市内の観光はこれから。
私はいったん部屋に戻り、いつも旅行に持ってくる小さめのザックを背負ってホテルをあとにした。

まっすぐ大聖堂に向かってもいいのだが、最初はライン川から大聖堂を眺めてみようと思いついた。
中央駅の構内を通り過ぎ、線路沿いに歩いてガードをくぐり、ライン川の川岸にたどり着いた。
まだ朝も早いのに、大きな観光船がホーエンツォレルン橋の下をくぐっている。
これからデュッセルドルフあたりまで観光客を迎えに行って、ライン川クルーズを始めるのだろうか。

振り返ると堂々とした2本の塔がそびえている。
少し前まで曇っていたが、ここで急に朝日がさしてきたので、黄金の十字架が光輝いて見える。


大聖堂前の広場まで戻り、近くから塔を見上げると、カメラではとても収まりきらないほど大きい。
これは昼に撮った大聖堂。

ケルン大聖堂の場合、礼拝が行われる時間帯は内部のステンドグラスや絵を見ることができないので要注意。
平日でも、6時30分、7時15分、8時、9時に礼拝があり、12時にも正午の礼拝がある。
私が行ったときは9時の礼拝が始まるところで、大聖堂の中に入れても、そこから礼拝者用のベンチがあるゾーンの前に神父さんが二人立っていて、いかにも観光客という人が中に入ろうとすると、「Keine Besichtigung(見学はできません)」と言って入場ををお断りしていた。


それでは、ということで、私は大聖堂の南塔に登ることにした。
南塔の入口は大聖堂正面から向かって右側にある階段を下りて、左に曲がるところにある。
これが南塔への入口。

チケット売り場の横には塔の高さや階段の段数などが表示されている。




塔の高さ157m、階段の段数 533段、上る高さ100m、上ってから降りてくるまでの所要時間30分と書かれている。さらに一番下にゴシック体で目立つように「エレベーターはありません」とある。
ここからこういった狭苦しいらせん階段を延々と登っていくことになる。
それにしても階段533段とは気の遠くなるような話だ。

(次回に続く)



2014年10月19日日曜日

ドイツ世界遺産とビールの旅(3)ライン渓谷~ケルン

平成26年9月3日(水)ライン渓谷~ケルン

ローレライを過ぎてもライン川はゆったりと流れ、対岸の山の上にはところどころ古城が見えてくる。『地球の歩き方』の写真と見くらべてみるが、お城の名前まではわからない。やっぱり次回はゆっくりと船旅をしなくては。


ボッパルト駅を通過するとライン川は大きく蛇行する。


この先にももう一つ古城が。



しばらくすると列車は速度を落としはじめた。もうすぐコブレンツ駅だ。
これで車窓から眺めたあわただしいライン渓谷古城めぐりはおしまい。
無理なかっこをしていてさすがに疲れたので、席に戻って一休み。

今でこそ世界遺産になって観光客をひきつける古城群だが、中世の人たちにとっては、その地の領主が通行者から税を徴収するための見張塔として建てたものなので、ありがたいものではなかった。

今から500年近く前の1520年夏、デューラーも故郷のニュルンベルクからネーデルラント(今のベルギー地方)への旅に出たとき、フランクフルトからケルンに向かうルートを通った。
そのときは船旅であったにもかかわらず、マインツからケルンまでの間、なんと9回も税関に立ち寄っている。
デューラーの場合は、通関券を持っていたので、たいていは無税で通ることができたが、途中のエーレンフェルスでは金貨2グルテンを支払わされ、税関吏から2ヶ月以内に免税査証を持参すれば2グルテンを返却すると言われた。
また、バッハラッハでは、同じように2ヶ月以内に2グルテンを支払うか、免税査証を持参するかどちらかであることを一筆しなくてはならなかった。
(以上、『デューラー ネーデルラント旅日記』を参照)

当時のドイツは小国分立の状態で、陸路を通ってもすぐに隣の国になって国境では税関吏が待ち構えている。EUが統合してドイツとフランスや他のEU加盟国との行き来が自由にできるようになった今となってはとても想像できないことだ。

ケルン中央駅に着いたのは20時05分。
最初の予定だと、このくらいの時間にフランクフルト空港駅を出たところ。
2時間遅ければもっと暗くなっていたし、この日は曇っていたので、古城がはっきりとわかる写真が撮れなかったであろう。

ケルン中央駅を出るとすぐ目の前に大聖堂が現れてくる。
大聖堂に行くのは次の日にすることとして、まずは大聖堂とは駅の反対側にあるホテルに向かった。

もちろんケルン中央駅の駅ナカでは忘れずにビールを調達した。
ケルンのビールはケルシュといって、透明感があるのが特徴。
つまみは行きの飛行機の中で配られたおつまみ。
このときのために食べないでとっておいたのだ。
ちなみにおつまみの袋と缶ビールの色が同じなのは全くの偶然。


ケルン大聖堂と反対側の駅前にはホテルやオフィスがあるくらいで、深夜まで営業しているレストランもなくいたって静かな環境にある。
去年行ったミュンヘンと違い、夜中に大声で騒ぐやからもいない。
おかげで夜はよく眠ることができた。
これは4連泊したウィンダム・ホテルの正面。


(次回に続く)

2014年9月30日火曜日

ドイツ世界遺産とビールの旅(2)フランクフルト空港~ライン渓谷

平成26年9月3日(水)フランクフルト空港~ライン渓谷

羽田空港11時25分発の全日空NH223便は予定より30分ほど早い16時すぎにはフランクフルト国際空港に到着した。イミグレーションも順調で、荷物の受け取りもないので、16時30分すぎにはドイツに入国することができた。

日本で予約していたケルン行きのICE(インターシティ・エキスプレス)はフランクフルト空港駅発19時58分発なので、まだ3時間以上ある。
そこでドイツ鉄道(DB)のチケットカウンターで、もっと早く出発する列車がないかどうか聞いたところ、17時58分のICEに空席があるという。
指定券の変更手数料が4ユーロ50セントかかると言われたが、さすがに10時間以上の長旅の後で、さらに2時間以上も列車に乗ることを考えると、少しでも早くホテルの部屋でシャワーを浴びてビールを飲みたいという気持ちが強くなり、即座に変更をお願いした。

空港駅からは1時間ほどでケルンに到着する直線ルートの列車もあるが、今回はせっかくの機会だからと、マインツ、コブレンツ、ボンを経由してケルンに入るルートにした。
そしてこの列車の終点はハンブルク中央駅。

(ハンブルクは今回のドイツ旅行の候補地の一つだった。「ビートルズを訪ねるドイツの旅」というタイトルまで考えていた。ハンブルクはデビュー前のビートルズがクラブに出演していた街で、デビュー後も「She loves you」や「I want to hold your hand」をドイツ語の歌詞で歌っていたくらいのサービスぶりだった。ドイツ語のタイトルはそれぞれ「Sie liebt dich」と「Komm,gib mir deine Hand」)



飛行機が到着する2時間ほど前に軽食を食べていたが、少しおなかがすいてきた。
下の写真は、列車を待つ間にベンチに座って夕食がわりに食べたモッツァレラとトマトをはさんだパン。
そしていつものように荷物はザック1つだけ。



フランクフルト空港駅を出ると20分ほどで次の駅のマインツに着く。
マインツを出てしばらくするとライン川が見えてくるが、ここからコブレンツまでの約30分くらいが、世界遺産のライン渓谷。

ライン川沿いの写真を撮るには、進行方向右の窓側の席がいいのだが、通路側の席しか空いていなかった。
そこでマインツを出発してからはデッキに出て立ちっぱなしで写真を撮ることにしたが、これがまたものすごい重労働。
なにしろ列車は常に150km以上のスピードで走っているし(速度は車内のデジタル速度計に表示さている)、これだけのスピードだからよく揺れる。
写真がぶれないように、ドアに寄りかかって足をしっかり踏ん張り、さらにはどのあたりを通っているか確認するため『地球の歩き方 ドイツ』の「ライン川の旅」のページを開けて小脇に抱えたまま両脇を固めカメラを構え続けなくてはならなかったのだ。

そんな妙な姿勢でいたら男性の車掌さんが検札に来た。
「本当の席はこの車両の中なのですが、ライン渓谷の写真を撮るんでここにいるんです」
と言うと、気のよさそうな車掌さん、私のチケットを確認しながら「それはいい!」

これだけ苦労して立ったまま写真を撮ってよかったと思う。席に座っていると高さが十分でないので、いい写真は撮れなかっただろう。

どれだけ列車が速いかはこんな感じ。少しでも油断しているとお城も船も通り過ごしてしまう。
写真を撮りながら、次にライン川巡りをするときは観光船に乗ってゆったりと景色を楽しもうと心に決めた。


ライン川の対岸に古城が見えてきた。いよいよライン渓谷が始まる。




これがかの有名なローレライ。
これだけは取り損ねたくなかったので、バッハラッハ駅を通り過ぎてからはずっと足に力を入れ、カメラを持って身構えていた。


(次回に続く)




2014年9月18日木曜日

ドイツ世界遺産とビールの旅(1)まえがき

9月3日(水)から8日(月)にかけて、わずか6日間でしたがケルンを中心にドイツを旅してきました。
行程は、羽田からフランクフルトに入り、フランクフルトからはライン川沿いにケルンまで列車で行き、ケルンに滞在して周辺の街にも足を伸ばして、帰りはデュセッルドルフから成田に戻るというものでした。
今までは、2011年「旧東ドイツ紀行」、2012年「ドイツ・ゲーテ紀行」、2013年「バイエルン美術紀行」とテーマを決めて旅をしてきましたが、今回は、「ドイツ・ビール紀行」かな、でもビールを飲むだけのためにドイツに行くわけでもないしな、と思いつつも、出発まで特にテーマは頭に浮かばなかったのですが、ケルンに行く列車がライン川沿いを走っているとき、「そうだ、今走っているライン川沿いは世界遺産だ。ケルン大聖堂もそうだし、足を伸ばそうと思っているアーヘンの大聖堂もそうだ。」とひらめいたので、ケルンとデュッセルドルフのビール飲み比べとからめて今回のドイツ旅行のタイトルを表題のように決めました。
今までのようにいつ終わるかわかりませんが、どうか最後までお付き合いください。

写真はライン川側らか見たケルン大聖堂です。

2014年8月29日金曜日

最近行った美術展(3)「デュフィ展」 「ボストン美術館 華麗なるジャポニスム展」

「最近行った美術展」の第3弾は、少し前になりますが、7月の終わりに行った「デュフィ展」と「ボストン美術館 華麗なるジャポニスム展」です。
残念ながら「デュフィ展」は東京会場では終わってしまいましたが、今は大阪のあべのハルカス美術館で開催中です。
このパンフレットは、あべのハルカス美術館バージョンです。



海や空、草木や花、そしてパリや南フランス、デュフィの生まれ育ったル・アーブルの街角や広場、さらにはアトリエの中。
会場いっぱいに明るい色彩のデュフィの世界が広がっています。
こういった風景を見にヨーロッパの街に行ってみたい、そんな気持ちにさせてくれる展覧会でした。

10月9日からは愛知県美術館にも巡回します。
詳細はこちらをご参照ください。
 ↓
http://event.chunichi.co.jp/dufy/


次の「ボストン美術館 華麗なるジャポニスム展」は、現在、世田谷美術館で開催中です。
圧巻はなんといってもパンフレットの表紙になっているモネの「ラ・ジャポネーズ」。
鮮やかな色彩と着物の柄になっている刀を抜こうとする武者の立体感は必見です。

印象派の画家たちが日本の浮世絵から強い影響を受けたのはよく知られていますが、今回の展覧会では両方を並べて展示しているので、どれだけの影響を受けたかがよくわかります。
それにしてもモネの「積みわら」が広重の東海道五十三次「鞠子宿」の構図からヒントを得たとは知りませんでした。
でも、いくらモネといえども鞠子宿のとろろ飯の味は知らないでしょうね。1時間以上待ってでも食べるだけの価値がある美味しさでした。

この展覧会も京都、名古屋と巡回します。詳細はこちらをご参照ください。

http://www.boston-japonisme.jp/top/










2014年8月24日日曜日

最近行った美術展(2) 特別展「台北 國立故宮博物院」

「メトロポリタン美術館 古代エジプト展」で古代エジプトの世界に迷い込んだあとは、東京国立博物館で開催中の特別展「台北 國立故宮博物院」で中国皇帝の芸術コレクションにため息をついてきました。

こちらは東京会場バージョンのパンフレットです。 


今回の展覧会は、台北 國立故宮博物院の約70万点の収蔵品の中からよりすぐりの186作品が展示される豪華なもので、自らも筆をとり、書画や古器を愛し、文化事業を保護奨励した北宋の第8代皇帝 徽宗(1082-1135 在位 1100-1125)、その徽宗を敬愛し、学術を奨励した清の第6代皇帝 乾隆帝(1711-99 在位1735-1795)のコレクションを中心に、歴代皇帝の蒐集した美術品がずらりと並んでいます。

特別展だけではありません。
本館やアジア・ギャラリー(東洋館)でも「台北 國立故宮博物院」とコラボした作品が展示されているので、こちらも見逃せないです。
詳細はこちらでチェックしてみてください。
 ↓
http://www.tnm.jp/?mobile_view_mode=pc&tnm_session=0jisgfdnikc6qit4oes5qe1ch2

これだけの素晴らしい作品を見ると、もっと他のものも見てみたいという気になってきます。
ぜひとも近いうちに現地に行って、今回は見逃してしまった大人気の翠玉白菜や、日本に来なかった所蔵品も見に行きたいですね。

東京国立博物館での開催は9月15日(月・祝)まで、その後は会場を九州に移し、10月7日から11月30日までは九州国立博物館で開催されます。
九州会場だけで公開される作品もあり、話題の「肉形石」は10月7日~10月20日まで限定公開されます。
10月はちょうど九州に行く用事があって九州会場にも行く予定ですので、今から楽しみです。



こちらはパンフレットの裏面で、九州会場バージョンです。


2014年8月21日木曜日

最近行った美術展(1)「メトロポリタン美術館 古代エジプト展 女王と女神」

先週のことになりますが、8月12日~17日は夜9時まで開館していたので、仕事帰りに東京都美術館で開催中の「メトロポリタン美術館 古代エジプト展 女王と女神」に行ってきました。

会場に入るとすぐにハトシェプスト女王がお出迎え。




続いて、ハトシェプスト女王のスフィンクス、ひざまずくハトシェプスト女王像と並び、さらには当時の様子を再現したハトシェプスト葬祭殿の模型まで来ると、まるで時空を越えて古代エジプトの世界に迷い込んだような気分になってきます。

展示品のレイアウトも工夫されてます。
シストラムや弧状ハープといった古代の楽器の前に来るとその音色が聞こえたり、「王族の装身具」のコーナーでは照明を暗くして輝く金の装飾品がより一層きらびやかに見えるようにしたり、見る人を飽きさせません。
夏休みなので親子連れも見かけましたが、子どもたちも楽しそうに展示品を見てましたね。

古代エジプトでは神様がさまざまな動物たちの姿になって現れてきます。
牛、猫、ハヤブサ、ライオン、コブラ、そしてユーモラスな姿のカバまでも。
カエルやハエといった小動物や昆虫もその生命力からお守りになっていました。
1センチにも満たないかわいいカエルの護符をさがして見てください。

こちらは出口近くにある記念撮影スポットです


手前はハトシェプスト女王のスフィンクス。後方は首都テーベ(現在のルクソール郊外)にあるハトシェプスト女王葬祭殿の写真です。

このように最初から最後まで古代エジプトの世界を楽しませてくれる展覧会でした。
会期は9月23日(火・祝)までです。
毎週金曜日は夜9時まで開館しているので(入場は8時30分まで)、仕事帰りにふらりと古代エジプトを散歩してみてはいかがでしょうか。
展覧会の詳しい情報はこちらをご参照ください。

http://www.tobikan.jp/exhibition/index.html


下は11年前にハトシェプスト女王葬祭殿に行ったときの写真です。とても懐かしいです。





2014年8月18日月曜日

バイエルン美術紀行(18)アルテ&ノイエ・ピナコテーク

平成25年9月8日(日) ミュンヘン
ミュンヘン最終日はアルテ・ピナコテークとノイエ・ピナコテーク。

アルテ・ピナコテークは1836年に設立された美術館で、ヴィッテルスバッハ家によって集められた14世紀から18世紀にかけての西洋絵画の名品がずらりと並んでいる。
アルテ・ピナコテークの向かいに建っているノイエ・ピナコテークは1953年にオープンした美術館で、こちらは19世紀の西洋絵画が展示されている。

夕方の4時の飛行機で日本に帰らなくてはならなかったので、あまり時間はなかったが、それこそ「駆け足」で2つの美術館をはしごした。
入館料は、日曜日だとアルテが3ユーロ、ノイエが1ユーロと、とてもお得。

最初に入ったのが、アルテ・ピナコテーク。
今回のバイエルン美術紀行のメイン・テーマであるデューラーの作品は見逃すわけにはいかなかったので、まずは2階の第2の間(SaalⅡ)に向かった。

こちらは西暦1500年、29歳の時に描いた「自画像」。
この2年前に出版された木版連作「ヨハネ黙示録」によって一躍ヨーロッパじゅうに名を広めた若きデューラーではあるが、血気にはやるという風でもなく、悟りの境地にたどり着いたかのような静かな表情を見ていると、こちらもなんとなく心が落ち着いてくる。
それにしてもこのしなやかな右手の人差し指!




「四人の使徒」


左から「カーネーションの聖母子」、「オスヴォルト・クレルの肖像」、「若い男の肖像」。



左から「キリスト哀悼」、「ルクレティア」、「キリスト降臨」、「悲しみの聖母」。


さすがヴィッテルスバッハ家、イタリア・ルネッサンスの作品も充実している。
左はフィリッポ・リッピの「受胎告知」、一番右はダビンチの「カーネーションの聖母子」。

右から2番目はラファエロの「カニージャの聖母子」。


そして圧巻はルーベンスの巨大な作品群。
昨年、渋谷のbunkamura ザ・ミュージアムで開催された「ルーベンス展」でもルーベンスの筆使いの迫力を感じたが、これだけ大きいと迫力も並大抵ではない。


こちらはエルグレコの「聖衣剥奪」。

(今回のブログの原稿を書くためアルテピナコテークのホームページをあらためて調べましたが、今年から2017年までリニューアル工事のため順番で閉鎖される部屋が出てくるようです。今はエルグレコの部屋は閉鎖されています。この時期にアルテピナコテークに行かれる方はご注意ください。)

駆け足といいつつアルテ・ピナコテークでかなり時間をとったので、ノイエ・ピナコテークは本当に駆け足になってしまった。
それでも、私は今回の旅行で多くの美術作品を見ることができた満足感にひたりながら、ミュンヘン中央駅に向かって歩いていった。

これはグスタフ・クリムトの「マルガレート・ストンボロー=ヴィトゲンシュタイン」(ノイエ・ピナコテーク)


さて、今回の旅行は、夕食を部屋で食べてばかりいて、それはそれで美味しいパスタやビールにありつけたのでよかったが、前日の夜は、ミュンヘン最後の夜ということで外で食べることにした。
とはいっても、足が向くのはやはりイタリアン・レストラン。
宿泊しているホテルに併設されていて、その名もヴェネツィアの「黄金の館」からとった「カドーロ」。



ミュンヘン最後の夜も地ビールとパスタで心地よく更けていった。
(バイエルン美術紀行終わり)

今回のドイツ旅行のレポートも1年かかってしまいましたが、気長にお付き合いいただきありがとうございました。
今年は、来月の3日から8日までケルンを拠点にその周辺の都市を回ってくる予定です。
帰ってきてから旅行記を紹介していきたいと思いますので、どうかご期待のほどよろしくお願いいたします。