2011年9月24日土曜日

ベルリンの壁崩壊(2)

(前回からの続き)
 厳重に警備されていたベルリンの壁。
 私が東ドイツを訪れた1989年8月には、この壁がすぐに崩壊するなんて誰もが想像すらできなかった。でも、私みたいな通りすがりの旅行者でさえ「もうこんな国来たくない」と思ったくらい嫌な国だ。住んでいる人たちは「もうこんな国出たい」と思って、壁を乗り越える以外に西側に逃れる道を探したとしても不思議ではなかった。
 壁のほころびは意外にも国内でなく海外から現れてきた。
 その年の夏、いつもの夏と同じように東ドイツの多くの家族連れが国民車「トラバント」に乗って南に向かい、ハンガリーのバラトン湖をめざした。
 西ドイツの人たちだったら、めざすのはイタリアやフランスの地中海沿岸だろう。
でも、西ドイツにさえ自由に行くことができない東ドイツの人たちにとって、他の西側の国に行くことなど夢の夢であった。そこで東ドイツの人たちは、比較的自由に行くことができる東側の国でバカンスを楽しんだ。
 バラトン湖は面積約600㎢。面積約670㎢の琵琶湖より一回り小さいが中欧最大の湖で、ハンガリーでも最大の観光地の一つである。夏になるとヨーロッパ各地から水浴、日光浴を楽しむ人たちでにぎわう。
 東ドイツからの旅行者たちもそこで短い夏を楽しんでいた。
 ところがいつもと違う雰囲気がそこにはあった。
 いつもであれば夏の休暇が終われば誰もが東ドイツに帰っていく。しかし、その年は誰もが帰るつもりはなかった。
 旅行者たちは西ドイツのビザを申請するため、ブダペストの西ドイツ大使館に殺到した。ハンガリーとオーストリアの国境には鉄条網が張られていたが、西ドイツのビザがあれば検問所を通ることができ、オーストリア経由で西ドイツに行くことができるからだ。
 騒ぎを聞いて西ドイツ大使館前に現れてきたのが、同じくブダペストにある東ドイツ大使館の職員。
 「今すぐ東ドイツに帰ればあなたたちは罰せられることはない。ほら、ここに政府からの通知もある」
と政府発行の通知を示しながら説得にあたる。
 でも誰も真に受ける人はいない。
 「共産主義の独裁者にはさんざ騙されてきたんだ。もう騙されるものか」
一人の若者は吐き捨てるように言った。
 ハンガリー政府が9月11日にオーストリアとの国境の鉄条網を撤去し、国境を開放してからはハンガリー経由で西側に逃れる人の数はさらに増加した。国境開放後3日間で1万5千人の東ドイツ国民が西ドイツに逃れたとの統計もある。

社会主義の国では、体制を面と向かって批判することはできなかった。そこで人々はアネクドーテ(Anekdote)という小噺でシニカルな笑いをとって憂さをはらしていた。
たとえばバナナについての小噺。
 東ドイツでは外貨獲得のため西側諸国への輸出を促進し、輸入を抑えていたため、子どもに人気のあるバナナは一般市民の手に入ることはなかった。
 
 「ねえお母さん、なんで私たちはバナナを食べることができないの」
 「バナナの形を見てごらん。曲がっているだろ。だから東ドイツは避けて通るんだよ」

西ドイツへの脱出者が多く出てからはこんなアネクドーテが広まった。
 「近い将来、東ドイツ国民は身分証明書を持つ必要はなくなるだろう」
 「どうして」
 「それは、ホーネッカー(書記長)が知っている人しか残らなくなってしまうからだよ」

東ドイツの人口は1985年の統計で約1688万人。ベルリンの壁ができる前の10年間に100万人以上人口が減少した。もちろん出生率の低下による減少もあったが、1960年には1724万人に減った。壁ができてからは減少率は急激に低下したが、壁のほころびが大きくなれば冗談が本当になったかもしれない。
 また、1950年代には東ドイツの略称DDRをもじって、Der Doofe Restということばもはやっていた。「(東ドイツに)残る間抜けな連中」という意味。
 さて、ハンガリー政府は「人道的な考慮から国境を開放した」と断言しているが、実際には西ドイツ政府がハンガリー政府に相当巨額の援助を約束したからだ、という憶測が飛びかった。
 当時の西ドイツ・コール首相の動きやアメリカ・ブッシュ大統領、ソ連・ゴルバチョフ書記長の会談など、東ドイツをめぐる世界の動きについては、笹本俊二氏の『ベルリンの壁崩れる』(岩波新書)に詳しい。以前このブログで紹介した『第二次世界大戦前夜』『第二次世界大戦下のヨーロッパ』(いずれも岩波新書)を記した笹本氏は当時、チューリッヒとボンに居を構えてベルリンの壁崩壊の動きを観察していた。
 第二次世界大戦前と戦時下に書かれた2冊が緊迫感に満ちていたとのとは対照的に、『ベルリンの壁崩れる』からは、冷戦の終結の動きを前にして、どことなく和んだ雰囲気を感じ取ることができる。
 ちなみにこの3冊は、岩波書店のホームページによるといずれも「品切重版未定」とのこと。リクエストが多ければ「アンコール復刊」となるかもしれないが、いつになるかわからないので、興味のある方は図書館で借りるのが無難だと思う。

ベルリンの壁のほころびはブダペストからだけでなく、プラハからも現れてきた。それはハンガリーのケースよりさらにドラマチックであった。
(次回に続く)

2011年9月11日日曜日

ベルリンの壁崩壊(1)

  ベルリンの壁の建設開始から先月の13日でちょうど50年。
 1949年の建国から1961年までにおよそ270万人が西ドイツへ逃亡したのに業を煮やした東ドイツのウルブリヒト国家評議会議長(国家元首)は、「西ドイツ側からの敵対的行動を防ぐため」に西ベルリンとの国境を有刺鉄線で封鎖したのが1961年8月13日。
その翌日からは徐々にコンクリートとブロックによる本格的な壁の建設が始まった。ベルリンだけでなく、今まで何もなかった東西ドイツの間にも1,300㎞以上に及ぶ国境線が設けられた。ベルリンの壁や国境線には国境警備兵(Grenzsoldaten)が配置され、西側に逃亡しようとする者は容赦なく射殺された。
 1961年からベルリンの壁が崩壊した1989年までの28年間に10万人以上の東ドイツ国民が西ドイツへの逃亡を試み、600人以上の人が射殺されるか、国境沿いの川を渡ろうとして溺れ死んだりしている。ベルリンの壁だけでも少なくとも136人が命を落としている。
 ベルリンの壁の最後の犠牲者、クリス・ゲフロイ(当時20歳)のケースはさらなる悲劇を生んだ。
ゲフロイは、ベルリンの壁が崩壊するわずか9か月前の1989年2月の寒い夜、ベルリン南部のトレップトウ(Treptow)から西側への脱出を試みたが国境警備兵に射殺された。
警備していたのはゲフロイと同年代の4人の若者。彼らは逃亡を食い止めた功績でボーナスと特別休暇をもらったが、ドイツ統一後は反対に、(脱出者を射殺せよという)人権を侵害する命令を拒まなかったという理由で、被告人としてドイツ連邦共和国の法廷に立たされた。
被告人の一人、ペーター・シュメット(24歳)は言った。
「国境警備兵は誰だって人を撃ちたいと思っていない。何事もなく任期を終えたいと思っているんだ」
裁判中、ずっと泣き続けていたアンドレアス・キューンパスト(24歳)は絞り出すように訴えた。
「僕は社会主義だけが正しいと教えらてきた国に生まれ育ってきたんだ。西側の人たちと同じように考えろと言われても・・・」
あとの2人はマイク・シュミット(24歳)、インゴ・ハインリッヒ(23歳)。
誰も同年代の若者を撃ちたいとは思っていなかった。でもそれが許されなかった。

1991年の「シュピーゲル」の記事に4人の被告人の写真が掲載されている。誰もが悲しげにうつむいている。彼らもベルリンの壁の犠牲者。

http://wissen.spiegel.de/wissen/image/show.html?did=13491313&aref=image036/2006/05/12/cq-sp199103700720076.pdf&thumb=false

クリス・ゲフロイの母カリン・ゲフロイは、ベルリンの壁崩壊後、息子が撃たれた場所を訪れた。あたりは統一前から家庭菜園が広がっていて、ベルリン市内とはいえ緑が多い。
カリンは悲しみをこらえながら言う。
「ベルリンの壁の犠牲者のことは決して忘れてはいけないと思います。もちろん息子クリスのことだけでなく」
現場にはベルリンの壁最後の犠牲者クリス・ゲフロイの記念碑が建てられている。
 28年間も東西ドイツを分断していたベルリンの壁は、統一後の再開発などでかなりの部分がとり壊されていて、どこに壁があったのかわからなくなっている所も多い。
壁のあった位置についてはベルリン州(ベルリンは都市州)のホームページに詳しく出ている。スマートフォンでベルリンの壁があった場所を案内するサービスもあるようだ。
今ではベルリンの壁や壁のあった場所は観光名所の一つになっている。
分断の悲劇を忘れないためにも、たとえ観光であっても多くの人たちに見てもらうのも大切なことなのかもしれない。
  ↓

2011年9月4日日曜日

日独交流150周年(12)

(前回からの続き)
9月2日に発足した野田内閣は今のところ多くの国民に好感をもって受け入れられているようだ。
新聞社や通信社によって幅があるが、内閣支持率はおおむね50%台から60%台、と各社は報道している。このまま国民の期待に応えて少しは長持ちしてほしいと思うのだが・・・
なにしろ、ドイツのメルケル首相が就任した2005年(平成17年)から現在まで日本の首相は野田総理で7人目。ドイツの通信社も「この5年間で6人目の首相」と皮肉っぽく報道している。

今回のシリーズ「日独交流150周年」を始めるきっかけとなった写真展「歴史と未来を紡いで」(7月31日に終了)にはドイツのメルケル首相と日本の4人の首相がそれぞれツーショットで写っている写真があった(安倍総理、福田総理、麻生総理、菅総理の4人。なぜか鳩山総理の写真はなかった。写真を撮る間もなかったのだろうか。ちなみに就任時の日本の首相は小泉総理)。
メルケル首相は2009年(平成21年)に再任されているので任期は2013年(平成25年)まで。「メルケル首相と8人の日本の首相」という写真は想像したくない。
前回にも書いたが、毎年首相が交代していたら、日本の復興といった大事業や、ドイツを含めた外国との信頼関係を築くことはできない。

さて、話はいっきに現代まで来てしまったし、次の企画もあるので、第二次世界大戦中の日本とドイツの関係については簡単に触れるだけにとどめる。
日米開戦から1ヶ月を経過した1942年(昭和17年)1月18日、日独伊軍事協定が締結された。
日本では、勢いのよかったドイツを見てドイツ不敗を信じ、日本軍がビルマ、インドと進みコーカサスあたりでドイツ軍と手を結ぼうといった威勢のいい話もあったが、その頃は、バトル・オブ・ブリテン(英本土航空戦)に敗れ、東部戦線ではモスクワを目前にソ連軍の反撃を受け、ドイツ軍の勢いにも翳りが見えてきたのでドイツ側は大風呂敷を広げる考えはなかった。
日本には、オーストラリア、ニュージーランドから天然資源や軍需物資が運ばれるインド洋ルートを潜水艦作戦を行って遮断することが期待された。20数年前の第一次世界大戦のときにはイギリスのために通商保護を行ったインド洋で、今度はドイツのために通商破壊を行うことになったとは、なんとも歴史の皮肉である。 
当初は日本海軍も積極的に通商破壊作戦を行ったが、太平洋戦線での戦況の悪化により、インド洋にまで戦力を送り込めない状況になった。ドイツ側からの再三にわたる潜水艦派遣の要請に対しても十分に応えることができなかったので、ドイツからは日本海軍に対する不満や非難の声が聞こえてきた。
1943年(昭和18年)2月にはインド洋における潜水艦作戦を強化するため第8潜水戦隊を進出させた。戦力の増強により戦果は上がったが、1944年(昭和19年)には太平洋戦線の戦局がさらに悪化し、戦力はジリ貧状態になり、翌1945年(昭和20年)2月には第8潜水戦隊が解隊され、インド洋における日独の協力は終わりを告げた。

第一次世界大戦では、イギリスと同盟を結んでいた日本はドイツと戦火を交えた。第二次世界大戦では、日本はドイツと軍事同盟を結び、お互いが破滅の道を歩んだ。
歴史は、特定の先進国どうしが手を組んだり、対立することが大きな不幸を招くことを教えてくれる。ドイツとの関係も突出したものでなく、ほどほどぐらいがいいのかもしれない。
幸いにも冷戦は終結し、先進国が一堂に会し、共通の課題について議論するサミットの場もある。


サミットといえば、例の写真展に「泡盛を飲み干すシュレーダー首相」という2000年に開催された沖縄サミットの一コマを撮った写真があった。残念ながら泡盛の銘柄はわからないが、シュレーダー首相はおいしそうに飲んでいる。
沖縄サミットのとき、シュレーダー首相は宮古島にも訪れている。

宮古島はドイツとの縁が深い。1873年(明治6年)にドイツ商船が台風に遭い宮古島で座礁したところ、島民が台風のさなか船員を救助して、手厚い看護をした。それを船長がドイツ皇帝ヴィルヘルム1世(2世ではない)に報告したところ、皇帝は島民の博愛心を称えて軍艦を派遣し「博愛記念碑」を宮古島に建立した。
 この史実にちなんで1993年(平成5年)、宮古島にリゾート施設「うえのドイツ文化村」がオープンした。
南国の島に忽然と出現するヨーロッパ風のお城。
違和感がないわけでもないが、島民ぐるみの日本とドイツの交流があったことを知ると、周囲の景色にもなじんでくるから不思議だ。
写真は2年前の1月に宮古島に行った時の写真。
記念碑は光が当たりすぎて字が判読しづらいが、なんとなくWilhelmという文字が読めるような気がする。

 沖縄サミット後の琉球新報に、「宮古空港からうえのドイツ文化村までの県道に『シュレーダー通り』の愛称がつけられた」との報道があったが、私は標識などに気がつかなかった。沖縄のガイドブックにも記載されていない。
でもシュレーダーさん、心配しなくていいですよ。ちゃんとあなたの名前は沖縄に残っていますよ。


首里城を見学していたシュレーダー首相が同行していたガイドに尋ねた。
「この門は素晴らしい。なんていう名前の門なのか」
ガイドが答えた。
「守礼だ(シュレーダー)」

失礼しました。

日独交流150周年のシリーズは今回で終了です。次回は「ベルリンの壁崩壊」を私の体験を交えながらドキュメント形式でお伝えしたいと考えています。ご期待ください。