2012年3月26日月曜日

旧東ドイツ紀行(14)

11月15日(火) ベルリン

朝起きたらのどが腫れていて、少し熱っぽい。
それでも今日はベルリン最後の日。午後は列車に乗ってドレスデンに移動するだけなので、午前中はベルリン市内を歩き回ることにした。
6時過ぎには下のレストランに降りて、いつもの指定席でゆっくりと朝食。昨日取り忘れたチーズを多めにとり、おなかいっぱい食べてホテルを出た。

チェックアウトが昼の12時なので、ザックは部屋に置き、小さめのDパックを背負って外に出た。
昨日までは寒くても晴れていたが、今日はあいにくの曇り。このとおりテレビ塔も頭の部分がすっぽり霧に覆われている。


昨日が臨時休業だったので、今日こそは上まで登ろうと思っていたが、これでは上からは何も見えない。時間がたって気温が上がれば霧も晴れるかもしれない、と気を取り直し、まずはチェックポイントチャーリーまで歩くことにした。

(このあたりの位置関係は、2月19日のブログのベルリンの地図をご参照ください)

 宮殿広場から旧・国家評議会の建物の前を通り、シュプレー川を越えると、外務省(Auswärtiges Amt)。ここはかつて東ドイツを支配していたドイツ社会主義統一党(SED)本部の建物だった。
今ではガラス張りで中がよく見えるようになっていて、カフェなども入っているが、統一前はどうだったのだろうか。


次の写真は、フリードリッヒ通りに行く途中にあるジャンダルメンマルクト(Gendarmenmarkt) 。
手前がドイツドームで、奥がフランスドーム。

二つの教会の間には重厚な円柱のファザードをもつコンツェルトハウス・ベルリン。
前の広場にはクリスマスの市のテントがならんでいる。
第二次大戦で破壊される前のベルリンは、こういった趣のある建物がずらりと並んでいたのだろう。

フリードリッヒ通りに出てまっすぐ南下すると、チェックポイント・チャーリーが見えてきた。


 チェックポイント・チャーリーは、東西ベルリンの間に8つあった検問所のうち、唯一アメリカ軍が管理していた検問所。ここは外国人、東ベルリンの西ドイツ政府代表部の職員、東ドイツ政府の幹部だけが通ることを許された。
検問所近くに、統一前の様子がわかる写真が貼られていた。

今では観光客用に小さな小屋があり、星条旗と米軍兵士に扮した人が2人立っている。
左奥のベルリンの壁博物館(Mauermuseum)は時間がなかったのでまたの機会に。



最後にブランデンブルク門にお別れのあいさつ。

ブランデンブルク門は、約200年、ベルリンの、そしてドイツの歴史を見てきた。
1989年8月にここを訪れたときは門の向こう側にあったベルリンの壁が、同じ年の12月22日に撤去され、10万人もの人がここ集まり、祝福した。
それはドイツ統一への道のりの大きな一コマであった。

今は自由に行き来することができるが、一度は自分でも試してみようと思い、通り抜けてみた。
もちろんすんなり通ることができるが、22年間のことを思い出すと、なんだか不思議な感じ。
はるか遠方には戦勝記念塔(Siegessäule)が見える。
実物の写真はベルリン市のホームページをご覧ください。

http://www.berlin.de/orte/sehenswuerdigkeiten/siegessaeule/




この戦勝記念塔は、もともとブランデンブルク門の北にある帝国議事堂(現在の連邦議事堂)の前にあったが、1938年、ヒトラーによるベルリンの都市改造計画「世界首都ゲルマニア(Welthauptstadt Germania)」に基づき現在のティーアガルテンに移された。
「世界首都ゲルマニア」計画は、移設した戦勝記念塔からブランデンブルク門、ウンター・デン・リンデンを東西の軸とし、それと交差するように、巨大なキューポラをもった会議場を北端にして、新たに南北の軸をつくり、世界首都にふさわしい都市をつくるという壮大な計画であった。

(以下、ウンター・デン・リンデンにあるドイツ歴史博物館のホームページより)

戦勝記念塔
http://www.dhm.de/lemo/objekte/pict/ba008862/index.html

南北の軸の模型
http://www.dhm.de/lemo/objekte/pict/achse/index.html

以前このブログで紹介した「ヒトラー~最期の12日間~(Der  Untergang)」に、「世界首都ゲルマニア」の大きな模型を前に、ヒトラーが計画の設計者シュペアーに話しかける場面がある。
そこでヒトラーは、ソ連軍が目前に迫っているにもかかわらず、「ベルリンの改造は私の夢だった。今でもだ」と言っている。

劇場型政治の最たるナチスは、ベルリンの象徴であるブランデンブルク門を最大限に活用した。
1933年1月30日夜、ナチス政権の誕生を祝った突撃隊によるたいまつ行進に始まり、ことあるごとにブランデンブルグ門とウンター・デン・リンデンを行進した。

たいまつ行進の様子(同じくドイツ歴史博物館のホームページより)
http://www.dhm.de/lemo/html/nazi/innenpolitik/etablierung/index.html

1939年4月20日には、ヒトラーの50歳の誕生日を祝って、戦勝記念塔からウンター・デン・リンデンまで、沿道には10万人もの市民が集まり、リムジンに乗ったヒトラーがパレードを行った。
(パレードの様子の写真は見つかりませんでした)

それが今では観光客が訪れるベルリンの名所となっている。
門の前には、全身を銀色で塗りたくった兵士姿の男が立っていたり、熊のぬいぐるみを着た人が愛想を振りまいたりしている。
2日前にここに来たとき、銀色の兵士と一緒にいた軍服姿の男がDDRの国旗を持っていたので、「DDR国旗の写真をとりたい」と言ったら、銀色の兵士が「ダスビダーニャ」と答えたので、「ロシアから来たのか」と聞くと、「全世界からだ」と訳のわからないことを言う。いかにも怪しい。
写真を撮ってもいいと言うので、国旗にカメラを向けると、私も一緒に写らないとだめ、と言う。
どうせ写真1枚いくらでお金を取るのだろう。私も1ユーロぐらいは渡すつもりでいたが、これ以上の面倒がいやなので、黙ってその場を去った。結局、その日の午後に行ったシュタージ博物館にDDRの国旗があって、それを撮ったので、お金を渡してまで撮らなくてよかった。

それにしても人気のある観光地にはどこにも変なのがいるようだ。
これも平和な証拠か。でも、なんでロシア語で「さよなら(ダスビダーニャ)」と言ったのだろうか。

もう時間もあまりないので、名残惜しいがもう一度だけブランデンブルク門を眺め、しっかりと記憶にとどめてその場をあとにした。しばらくは振り返ればまだ見えただろうが、最後の印象をそのまま残したかったので振り返らずにウンター・デン・リンデンを急ぎ足で歩いてホテルに向かった。
(次回に続く)







2012年3月20日火曜日

旧東ドイツ紀行(13)

11月14日(月)続き ベルリン
新博物館を出たら、外はすっかり暗くなっていた。
古代エジプトの遺跡を中心に内容があまりにも充実していたので、閉館ぎりぎりの6時までいたが、地中海文明や石器時代、青銅器時代、鉄器時代の遺跡が並んだコーナーは駆け足になってしまった(新博物館は、日曜日から水曜日までは18時、木曜日から土曜日までは20時閉館)。

早いもので今日はベルリン最後の夜。
せっかくベルリンに来たのだから、東側だけでなく、西側にも行ってみようと思い、ベルリン一の繁華街「クーダム」に行ってみることにした。
これはフリードリッヒ駅構内。ドイツ人は歩くのが早い。目的地に向かってわき目もふらずに歩いていく。私も歩くのは遅い方ではないが、どこへ行っていいかわからずうろうろしていると、歩いている人の邪魔になってしまう。

フリードリッヒ通り駅からS-バーン(東京でいえば山手線のような近郊電車)に乗り、4つ目のツォー駅(動物園駅)で降りる。
駅前からクーダムに至るまで、レストランやデパートのネオンがまばゆく、街全体がやたら明るい。人通りも車も多く、せわしない感じ。

日本でも都会に住んでいて、人や車の多いところは慣れているはずなのに、東側の節度ある明るさ、ほどよい人の多さに慣れてしまったのだろうか。西側には違和感を感じつつ、クーダムの入口あたりまで少し歩いただけで、そそくさと東側に戻ってきてしまった。
下の写真は、ツォー駅近くの交差点。

次の写真はツォー駅の反対側。


  ドイツ人はこんな寒い冬でも外で食事をする。


気のせいか、西は東ほど交通ルールもあまり守られていないようだ。

東では、歩行者用の信号が点滅すると誰もが止まる。自動車も自転車も、交差点で横断歩道を渡る人を見るとぴたりと止まる。
ところが西では信号が赤でも横断歩道を渡ろうとする人がいる。自動車も信号が変わりかけてもかなりのスピードで交差点に進入する。
こんな調子では横断歩道を渡るときも神経を使う。
これも西側は居心地がよくないと思った一つの理由かもしれない。

交通ルールについて話が出たついでに・・・
先週末、1泊2日で京都に行ってきた。
京都市内は、道幅が広く、歩道も十分な幅がある通りでは、自転車通行帯が色分けされている。でも、歩行者の方が色分けに気付かず、自転車通行帯を歩いて自転車に乗っている人を困らせている場面をよく見かけた。
日本では自転車と歩行者のいい関係ができるまでまだ時間がかかりそうだ。
下の写真は堀川通りの歩道。





S-バーンに乗ってふたたびフリードリッヒ通り駅。
「戻ってきた」と言う感じで、何となくほっとする。
東側は人通りも、車の通りもあるが、ごみごみした感じはない。ネオンサインも少ない。
夕食は、フリードリッヒ通り駅近くのガード下の「ツア・ノレ(Zur Nolle)」。地球の歩き方に、野菜料理も豊富にある、と書いてあったのでここ決めた。


お店の上はS-バーンの線路。まるで有楽町のガード下にありそうなおしゃれな店。
そういえば、S-バーンに交差するフリードリッヒ通りはデパートやブランドショップが並んでいるので、たとえて言うなら「東ベルリンの銀座通り」。
外観だけでなく、店内も中世の酒場といった落ち着いた雰囲気。

メニューを見ると、肉料理の他に野菜料理もいくつか並んでいた。
その中で一番温かそうな「野菜ラザニア」を注文することにした。
私は案内しくれたウェイトレスさんに声をかけた。
「野菜ラザニアとビール。それから、ビールは料理といっしょにもってきてもらえますか」
「はい、わかりました」
ドイツのレストランでは、まずビールが出され、それをちびちび飲みながら料理を待つ、というのが一般的なようだ。日本の居酒屋のように、「はい、生ビール、はい、お通し、はい、枝豆」というわけにはいかない。
私は料理をつまみながらビールを飲みたかったので、こう注文した。

しばし、ガイドブックを見たり、メールを打ったりしていると、おいしそうな料理が運ばれてきた。
そこでウェイトレスさんは、「あっ」という感じでビールを持ってこなかったことに気がついて、すぐにカウンターまで戻ってビールを持ってきてくれた。東ドイツ時代では考えられないような親切な対応。

何種類もの野菜がはさまったラザニア。チーズの塩気が適度にきいて、濃い味のドイツビールによく似合う。すぐに1杯飲み干してしまい、2杯目を注文した。
道行く人や店内の装飾を眺めながら、ベルリン最後の夕食を心ゆくまで楽しんだ。

お勘定をお願いすると、ウェイトレスさんはレシートを持ってきた。
ここには「チップは含まれていません」という表示はない。観光客でなく地元の人が来るレストランだからだろうか。
「おいしかったです」とお礼を言いいながら18ユーロを渡すと、ウェイトレスさんもにこっと笑顔。
下の写真の左はレシート、右は記念にいただいたコースター。赤ちゃんがジョッキから顔を出しているかわいらしいデザイン。「ベルリーナー・キンドル」とは「ベルリンの小さな子」という意味。
ベルリーナー・キンドル社のホームページによると、「19世紀後半に醸造所が造られ、ドイツ帝国の隆盛によるベルリン人口増加に伴ってビールの製造量が増えた。1890年には、『ミュンヒナー・キンドル』に倣い名前を付けた」とある。
やはり、ドイツでもビールといえばミュンヘンが有名なようだ。

ホテルまでは歩いて10分ほどの距離。
夜になりさらに寒さが厳しくなってきたが、食事をしたせいか体はぽかぽかしていた。
それでも、さっきからのどの痛みが気になっていたので、今日は風呂でよく温まって早く寝ようかな、明日は良くなってればいいのだけれど、などと考えながら、ホテルへの帰りを急いだ。
(次回に続く)

2012年3月12日月曜日

旧東ドイツ紀行(12)

11月14日(月)続き  ベルリン
昼食の後は博物館島に渡り、ペルガモン博物館の隣の「新博物館(Neues Museum)」に行った。
「新」と言っても、建物は、中世の教会のように円柱の並ぶ回廊が廻らされていて、展示されているものは、古いものでは紀元前3000年代の古代エジプトの遺跡にまでさかのぼるものもあるので、決して新しくはない。

館内のスペースはぜいたくなほどゆったりと使われていて、なおかつ現地の雰囲気を出そうという工夫が見られる。
地下1階から階段を下りると、正面の扉の両側に守り神の像が並んでいて、その先に王の棺の部屋があるようなつくりになっている。
ちなみに正面の扉は職員の通用口。この写真を撮る前に女性の職員が出てきたが、私が写真を撮るのに気付いて、小走りで私の横を通り過ぎてくれた。


  巨大な石のレリーフも迷路のように並んでいる。まるで王家の墳墓の中に入ったようだ。

これはレリーフの小片。それにしても何でこんなに鮮やかに当時の色が残っているのだろうか。
ベルリンでは過去の海外旅行のことを思い出してばかりだが、ここでも2003年の年末に行ったエジプト旅行のことを思い浮かべた。
シリア・ヨルダンに行ったときにギザのピラミッドを見たことは以前にふれたが、ナイル川をさかのぼってルクソール、アブシンベル大神殿まで行ったのはこの時が初めて。
羽田から関空に飛び、エミレーツ航空で深夜に関空を発ち、ドバイで乗り継いで翌朝、カイロに到着し市内観光とお決まりのギザの三大ピラミッドとスフィンクス。
翌日は飛行機でルクソールまで移動し、カルナック神殿、ハトシェプスト女王葬祭殿、王家の谷などを観光。ハトシェプスト女王葬祭殿は、1997年に日本人を含む観光客が襲われた銃撃事件があったところ。葬祭殿は砂山に囲まれたすり鉢状のくぼ地につくられているが、砂山を見上げると、自動小銃をもった兵士が等間隔で並んで警戒していて、ものものしい雰囲気。
ルクソールからアスワンにはバスで移動したが、私たち一行のバスだけでなく、さまざまな国の団体旅行者を乗せた観光バスが何十台も隊列を組み、前後を軍の車が護衛するという警戒ぶり。
事件後6年たっていたが、まだテロの危険性があったようだ。
途中、日本でいえばドライブインみたいなところでトイレ休憩があった。私は食堂の外に木製の丸テーブルがずらりと並んでいる中に席を見つけ、水筒に入れたお湯を飲んでいた。
すると、若い兵士が近づき、肩にかけていた自動小銃を、「バンッ」と私の隣の丸テーブルの上に置き、食堂の中に消えていった。
私は怖くなった。この自動小銃を誰かが奪って乱射したらどうするんだ。
かといって私がいじったりしたら、暴発してしまうかもしれないし、テロリストと疑われてしまうかもしれない。
私は仕方なく、誰にも奪われないよう、じーっと見張ることにした。
ほどなくして若い兵士がうれしそうにコーヒーをもって戻ってきた。そして、自動小銃を見つめていた私に言った。
「どうだ、かっこいいだろう」

若い兵士が自動小銃を肩にかつぐのを確認して、私もほっとして笑顔で言った。
「そうだね」

そしてこのエジプト旅行は、デジタルカメラを持って行った最初の海外旅行でもあった。
最近ではどこへ行っても写真はパソコンに保存しているだけだが、このときは凝った編集をして、見出しや説明書きまでつけた。見本として2ページ紹介する。



最終日はフリーだったので、タクシーをチャーターしてカイロの旧市街地を観光した。
ドライバーの中年の男性は、旧市街地に住んでいるようで、行く先々で知り合いの人とあいさつしていた。
おかげで旅行者では分からないような裏路地まで教えてもらった。
夕方、ホテルに集合し、私たち一行はバスにのって空港に向かった。バスが高速道路に上がると、ちょうど日が沈むところで、夕陽に照らされたいくつものモスクの塔がまるで影絵のように浮かんでいた。
私は写真に収めようと思いカメラを出したが、バスは無情にもカーブにさしかかり、街のシルエットは見えなくなってしまった。
残念ではあったが、こういう時、私は「もう一度来る理由が見つかった」と思うようにしている。
次回こそは、どこか高いところから夕陽に浮かぶカイロの街並みを撮りたい。
「アラブの春」と言われ、民主化デモにより昨年2月に当時のムバラク大統領は辞任したが、政情は安定していない。デモ隊と治安部隊の衝突は今でも各地で起こっている。
自動小銃を無造作にテーブルの上に置いた若い兵士は今もしっかり観光客を守っているだろうか、最後にチップを渡したとき、笑顔で「ショクラン(アラビア語で「ありがとう」)」と言ったタクシーの運転手さんは商売あがったりになっていないだろうか、ピラミッドやアブシンベル大神殿などの世界遺産も素晴らしいが、現地で出会った人たちのことも目の前に浮かんでくる。
(次回に続く)

2012年3月4日日曜日

旧東ドイツ紀行(11)

11月14日(月)続き  ベルリン
ホテルの部屋に戻り、暖かい日本茶で一息ついてから、お昼を食べるところを探しに表に出ることにした。
この日もやはり野菜に飢えていた。ドイツにはイートインできるベーカリーショップが街のいたるところにある。そこで野菜をはさんだパンを食べるか、と考えながら、ホテルの横のアーケードを通って裏手に行ったら、なんと懐かしの「Subway」の看板。
 日本では数えるほどしか入ったことがなく、行きの成田空港で久しぶりに入った「Subway」だが、ベルリンではこの看板がどれだけ心強く感じたことか。
迷わず中に入り、セサミパンにありったけの野菜をはさんでもらい、デザート代わりのチョコナッツクッキーを注文した。
さて、ここで困ったのがコーヒー。料金を払ってカップをもらい、レジの横にあるコーヒーメーカーに置いて、好きなもののボタンを押すのだが、ブラックコーヒーらしきものがなかったので、「エスプレッソ」を押したら、カップの底の方にちょぼちょぼしか出てこなかった。
店員のおねえさんに「ブラックコーヒーが飲みたくてエスプレッソを押したらこんな少ししか出てこなかったのですけど」
と言ったら、「ブラックはこれです」と言って、「Café Créme」のボタンを指さした。そして、悲しげにカップの底の方を見ていた私を憐れに思ったのだろうか、「もう一回押してもいいですよ」と笑顔で言ってくれた。
私はお礼を言って、カップなみなみになったコーヒーを持って席につき食事を始めた。

それにしても不可解だ。カプチーノのボタンはあったし、「Café Créme」を押したらミルクコーヒーが出てくるものとばかり思っていたが、どうやら最近のドイツでは「Café Créme」とはブラックコーヒーのことをさすようだ。翌日入ったアレキサンダー広場駅のベーカリーショップもそうだった。

Café Crémeは少し薄めだが、野菜サンドにかけた少し辛めのドレッシングでひりひりした口にはちょうどよく、すっきりした味わい。
野菜サンドを食べ終え、クッキーに移ったときには、底の方に残っていたエスプレッソの濃い味が出てきてクッキーの甘みとよく合う。
野菜もたくさん食べたし、親切な店員のおねえさんのおかげで二種類のコーヒーも味わえたしで、満足してSubwayを出た。

ホテルの横のアーケードにはスーベニアショップもある。トラバントのミニカーもずらりと並んでいた。
これは前から探していた白いトラバント。やっぱりトラバントは白が私のイメージにぴったりくる。




 さらに、箱に入った小さめのもあったので、全色買ってしまった。






「トラバントは排ガス規制の関係でもう道路は走れないんですか。なにしろ有毒ガスをそのまま出しててますからね」とレジで店員のおねえさんに聞いてみた。
おねえさんは少し考えながら、
「んー、それもあるけど、メンテが大変なんで台数が少なくなったんだと思います。今では貴重な存在ですよ」
良くも悪くもDDRの象徴「トラバント」、やはり博物館に保存しないと私たちの目の前から消え失せてしまうのだろう。私もせめてミニカーでDDRの記憶を残していきたい。

 さて、ここで少し話題を変えて、最近、日本で問題になっている自転車の走行について。
まず、ドイツでは自転車は原則、車道のはしを走ることになっていて、交差点にさしかかると自転車用のレーンが示される。歩道を通る区間もあるが、自転車の通行帯がはっきり分かるようになっている。
日本でもこういったハード面では整備が進んでいる地域もあるが、日本と決定的に違うのは、ドイツ人は交通ルールを守る、ということ。
赤信号で止まる、歩道では徐行する、横断歩道を歩いている人を見たら止まる。携帯で通話しながら走っている人なんていない。
 当たり前のことばかりだが、これらがすべてきちんと守られている。
自転車無法地帯の日本から来て、どうしてこんなに違うんだろうと、考えながら、新鮮な思いで自転車に乗っている人たちを眺めていた。
おそらく、ドイツはヨーロッパの国の中では例外的に交通マナーのいい国だろう。
具体的な国名は言わないが、特に大都市でのドライバーのマナーの悪さはひどい。横断歩道を人が渡っていても平気で猛スピードで横を通り抜けていく、前が詰まっていても交差点に進入して、案の定、交差点内で止まってしまう、クラクションを鳴らすのは当たり前、こういった国をいくつも見てきた。

歩行者も同じだ。横断歩道にさしかかるとまず左右を見て、車が来なければ渡る。信号なんか見ない。第一、どんなに交通量が多くても信号すらない交差点もある。
しかし、ドイツ人は信号を見て、それに従う

自転車の話題をもう一つ。
ドイツ人は自転車好きだ。アルプスに近い南部を除いて、ヨーロッパ大平原に属する中北部ドイツはほとんどが平らな土地なので、どんなに遠くへも自転車で行くことを厭わない。国境を越えて隣の国へも行ってしまう。
私も21年前、ドイツに住んでいたとき、宿泊先のドイツ人一家に勧められて、一人で自転車に乗ってライン川を越えて隣のフランスまで行ったことがある。
以前にもお話したが、私がいたのはラインラント・プファルツ州で、南の方に住んでいたので、西へ行けばフランスのアルザス州、東に行けばすぐにバーデン・ヴュルテンベルク州という位置関係だった。

初秋のおだやかに晴れた午後。その日は最初のドイツ統一記念日。仕事も休みだったので、ゆっくり起きてシャワーを浴びてから出発した。気温は18℃。サイクリングにはもってこいの陽気。 
住宅街を出ると、同じくサイクリングしている二人組に出会った。「フランスに行く」というと、「こっちの方だ」と親切に行先を教えてくれた。
国境の街ブルク(Burg)までは、畑と小高い木が生い茂った林ばかりで何の障害物もない自転車専用道路をひたすら走る。気温もさらに上がり少し汗ばんできたが、木陰は涼しく、何ともいえない爽快な気分。
家を出てから30分ほどでドイツとフランスの国境にたどり着いた。国境といっても、検問所の建物があるだけで、中には誰もいない。誰でもフリーパスで通ることができる。
しかし、フランス領内で警官に呼び止められたとき、身分を証明するものがないと厄介なことになる、と注意されていたので、パスポートは首からぶら下げていた。
国境を越えるとすぐに「Coop」というスーパーがあり、そこでビールの小瓶、パン、菓子、ワインを買った。レジで恐るおそる「ドイツ語で話してもいいですか」と聞くと、レジのお兄さんは「もちろん」と笑顔で応えてくれた。

アルザスは、かつてドイツ領になったりフランス領になったりして複雑な歴史があり、今でもドイツ人が多く住んでいるので、街中でもドイツ語が通じる。
ドイツに比べ土地が安いので、アルザスに引っ越して、バーデン・ヴュルテンベルク州まで毎朝、自動車で通勤するというドイツ人も多くいると聞く。私も実際にアルザスに引っ越してきた人の家に招かれたことがあるが、物価も安く、食べ物もおいしいので、ドイツより生活しやすい、と言う。
ドイツ人がアルザスに引っ越すのは、日本人が、東京から神奈川や千葉、埼玉に引っ越して、毎朝、東京に通うのと同じような感覚なのだろうか。

パンを買ったのに、公園のようにベンチがあってゆっくりできる場所がなく、お昼を食べる場所を探すのに苦労した。
結局、かなり走ってライン川沿いまでもどると、砂利採取場近くに鉄管が転がっていたので、そこに座って食べることにした。
ライン川のゆったりとした流れを眺めながら食べるお昼は格別。しばし時間が過ぎるのを忘れた。

のども乾いたので、ビールでも飲もうか。そう思い、小瓶の栓をひねったら、全く動かない。どうやらフランスのビールはアメリカのバドワイザーのように栓は回らなようだ。
しまった、と思いつつ、あたりを見渡すと、鉄管のつなぎ目のネジが目に入った。
これはいいぞ、と思い、中腰になって栓をネジ山にひっかけ、エイッと力を入れたが、うまく引っかかってくれない。何回かトライしてようやくプシューッという音がして瓶の中から泡が噴き出してきた。  
暖かな日差しの下でのビールもまた格別。

(ちなみに、ヨーロッパ、特にドイツではアルコールの血中濃度の基準が日本より高いので、ビール小瓶1本やワインをグラス1杯飲んだだけでは酒気帯び運転にはならない・・・はず。もちろん今はこういうことはやりませんので、今回だけは聞き流してください。ワインはドイツ人家族へのお土産です)

国境からアルザス側の小さな街ラウターブール(Lauterbourg)までは自転車で15分ほどの距離だ。さすがフランスだけに、同じ「お城」という意味でも、ブルクでなくブールになる。
フランスは休日ではないのに、街には車があふれ、人もたくさん繰り出していて、レストランもにぎわっている。あとで聞いた話だが、ドイツ人が買い物や食事に大挙して押しかけてきたようだ。私がお世話になっている家族もフランスに買い物に行ったが、車を停める場所がなく、すぐに戻ってきたという。


ひととおり街中をサイクリングしたあと、来た道を返ることにした。
国境の街ブルクでは、公園で飼い犬のコンテストをやっていた。

その日の夕食は近くの街のレストランでいのしし肉のロースト(Wildschwein Brat)と新しいワイン。
(新しいワインのことは、去年の8月7日のブログをご参照ください)


ドイツでは、楽しく会話をしながら食事をとる。それも、必ずストーリーがあって、最後に笑いを取る会話をしなくてはならないので、かなり頭を使う。
その日の夕食は私のアルザス珍道中で盛り上がった。食べる場所が見つからなかったこと、それでもライン川を見ながらの昼食は格別だったこと、さらにはビールの栓を抜くときに苦労したこと。
中でも、ビールの話は受けた。身振り手振りを交えて説明したら、みんなでそのときの私のしぐさをまねて、腹をかかえて笑い出した。
新しいワインの口当たりのよさも手伝い、ドイツ統一記念日の夜は心地よく(gemütlich)更けていった。

食事中の会話について言うと、毎朝の朝食の時も大変だ。
たとえばこういう感じ。
「昨日、靴を買いに行ったんです」
「それで」
「私は2足買いたかったので、2つください、と言ったら、店員のおじさんは『もちろんですよ。右と左、ちゃんと2つ差し上げますから安心してください』と言ったんです」(笑い)

眠い目をこすり、寝不足と、時には飲みすぎでボーッとした頭をフル回転させて、ネタを考え、それもドイツ語で話をして笑いを取らなくてはならない。
こんな辛い朝食はないが、ドイツ語が上達することだけは確かである。
(次回に続く)