2011年12月25日日曜日

旧東ドイツ紀行(1)

11月12日から20日までドイツに行ってきました。
ベルリンに3泊、ドレスデンに4泊、全体で7泊9日の旅でした。
今回の旅行の最大の目的は、ドイツ統一から20年以上経過して旧東ドイツ地域がどれだけ変わったかじっくり観察してくること。併せて東ドイツ民主化やドイツ統一の動きにゆかりのある場所を訪れること。
また、ベルリンでは第3帝国の夢の跡を訪れることと博物館めぐりも大きな目的の一つでした。ドレスデン滞在中には、以前から興味のあった、ドイツ国内の少数民族ソルブ人の住むバウツェンにもぜひ行きたいと思っていました。
旧東ベルリンとドレスデンを訪れてから22年、統一後のドレスデンに行ってから20年。DDRやドイツ統一をテーマにドイツ語の勉強を続けていたにもかかわらず、長い間、現地に行っていなかっただけに、ようやく訪れたチャンスに心を弾ませながら旅立ちました。
途中、過去の旅行のことを回想したり、ヨーロッパ情勢にふれたりして、大きくわき道にそれることもありますが、「私の旧東ドイツ紀行」に最後までおつきあいください。

11月12日(土)成田空港-フランクフルト空港
午前9時。成田空港。
 家を出たのが早く、朝食をとっていなかったので、おなかがすいてきた。ルフトハンザのカウンターでチェックイン手続きをしたあと、何か食べようと思いあたりを見渡したら、「サブゥエイ」の看板が目に入った。
肉や魚は食べないわけではないが、最近では野菜中心の食事をしているので、
「ちょうどいいや。ここで野菜だけをはさんでもらおう」と思い、女性の店員に
「野菜を全部はさんで」と注文した。
「これだとハム入りの『今日のサンド』と同じ290円になりますけど」
店員さんが気を利かして言ったが、
「野菜だけが食べたいのでこれでいいです」
と私。
新鮮な野菜とコーヒー。これで頭も気分もすっきり。
外の飛行機を眺めながら、気持ちよく朝食をとっていたが、このときはドイツでも「サブウェイ」が頼もしい存在になるとは夢にも思わなかった。

次の写真は今回もっていったザック。
 私の理想の旅のスタイルはあまり大きくないザックを背負って気軽に飛行機に乗り込むこと。もちろんスーツケースはもっていかない。
下着類は洗濯をするので最小限の数だけ持ち、それも古着なので帰るときにホテルに置いていく。そして空いたスペースに、これも最小限のお土産を詰めて帰る。
でも今回は大きめのザックなのにパンパンになってしまった。
9日間にわたる旅行なので、セーター、Yシャツ、冬ズボンの替えを詰めたら、これが結構かさばった。理想の旅にはまだまだ近づけないでいる。

午前10時25分、ルフトハンザLH711便は予定どおり成田空港を飛び立ち、ドイツ・フランクフルト空港に向かった。
予定所要時間は11時間50分。最近では海外に行くこともなく、長くても羽田-沖縄間の3時間なので、我慢しきれるかどうか不安だった。しかし、そこはさすがルフトハンザ、アミューズメントの充実ぶりに退屈することもなく時間が過ぎていった。
私の好きなハードロックや60年代ポップスの音楽プログラムもある。いろんなジャンルのCDが何十枚もまるごとインストールされているなんてすごすぎる(他の航空会社も同じようなサービスをしているのだろうか)。
イヤホンからスコット・マッケンジーの「サンフランシスコ」が流れてきた。坂の上から眺めるサンフランシスコのきれいな街並みが目の前に浮かんでくる。8月なのに、寒くてこごえながらベイサイドで夕食を食べたことも思い出した。
サンフランシスコは今回の旅行の候補の一つとして考えたが、アメリカはヨーロッパより近く、もっと短い休暇でも行けるので次の機会にとっておくことにしたが、次回はサンフランシスコに行こうと心に誓った。と言いつつもプラハ-ウィーンにも惹かれものがあるが。

 そんなことを考えているうちに、飛行機は水平飛行に移り、しばらくして昼食。
写真は、事前にリクエストしていたベジタリアン食。ベジタリアン食は乳製品あり、なしを選べるがこれは乳製品ありの方。どの航空会社のも味はいいし、おなかの空かない機内では量も少なくちょうどいいので、ベジタリアン食をリクエストすることにしている。でも、隣の席の食事がちらっと見えたが、デザートのケーキがおいしそうだった。
昼食が終わって時計を見るとドイツの現地時間では午前4時。
 飛行機に乗ったら現地時間の生活リズムに合わせることが、時差ボケ対策のコツなので、この昼食を「夕食」に見立て、あと3時間は寝ることにした。

起きてからは『地球の歩き方』でお勉強。
到着2時間前に朝食。これもベジタリアン食。パスタにかかっている具で肉みたいに見えるのは生揚げ。納豆をはじめ大豆製品は好きなので大歓迎。



朝食を終えればもうスカンジナビア半島の上空。飛行機はベルリン上空を飛び、フランクフルト国際空港へ。
写真はここまで運んでくれたエアバスA380-800。
国内便乗り継ぎのためターミナルAに移動したが、何しろフランクフルト国際空港は広い。いつまでたってもAまでたどり着かない。

 ようやくA19を見つけたところで、やれやれとあたりを見回したら無料のドリンクサービスコーナーがあったので、コーヒーをいただいた。これもさすがはルフトハンザ、太っ腹だ。新聞もどさっとおいてあるので一部いただいた。

ドリンクサービスコーナーでは、イタリア人のおじさんが「ホットチョコはあまりおいしくないよ」と話しかけてきた。私が「日本から来た」と言うと、「地震や津波は大変だったな。それに政府の対応も遅いんだろ」と言う。政府の対応の遅さがヨーロッパまで伝わっているのかと驚いたが、財政危機のゴタゴタで首相が交代した国の人には言われたくないなあ。



ドイツに来たら食べたかったものがブレッツェル。ワゴンに吊るされて売っている。

ベルリン行きの飛行機を待つ間、ベルリンの地図を広げてベルリン・テーゲル空港と市の中心の位置関係を確認していたら、少し迂回すればボルンホルマー通りを通れることに気がついた。タクシーなら、そこで止まってもらい写真を撮ることもできるだろう。
ボルンホルマー通り、1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊した場所。3日遅いが、その日と同じく寒い夜、当時の検問所の緊張感、市民の喜びを少しでも感じとることはできるだろう。
(ベルリンの壁崩壊の過程などについては、過去のブログをご参照ください)









(次回に続く)

ベルリン・テーゲル空港とホテルのあるベルリン市中央区(Mitte)までの位置関係はこちらをご参照ください。空港(A)から上から2番目の数字109をめざして西に向かい、96a(シェーンハウザー通り Schönhauser Allee)と交わるところで南下すると宿泊するホテル「Radisson Blu」(B)がある。ボルンホルマー通り検問所は、96aの手前のグレーの縦の線(鉄道 S-Bahn)と交差するところ。
わかりにくくてすみませんが、拡大して見てください。 

http://www.worldtaximeter.com/berlin/Berlin+Tegel+Airport/Radisson+Blu+Hotel+Berlin

それから、12月28日から4日間、また沖縄に行ってきます。次回の更新は来年になります。ご了承ください。今年の6月から始めたこのブログ、ご愛読いただきありがとうございました。来年もよろしくお願いします。それではみなさん、よいお年を。

2011年12月18日日曜日

ベルリンの壁崩壊(10)

(前回からの続き)
ベルリンの壁が崩壊してから、東ドイツ独裁体制は音を立てて崩れ始めていった。

11月13日、すでに引退が発表されていたミールケ国家保安相が人民議会で演説を行った。
一貫して国家保安省の中でキャリアを積み、1957年から32年もの間、秘密警察の長として君臨し続けたミールケ。そのミールケの最初で最後の人民議会での演説はテレビでも放映されたが、彼の最後のことばに、多くの国民は冷ややかに笑いを浮かべ、頭を横に振るだけであった。

「私はみなさんのことをいとおしく思っています。今でもそう思っています。今でもみなさんのために全力を尽くすつもりです」

国民はミールケを頂点とするシュタージにどれだけ苦しめられていたことか。
シュタージ(Stasi)とは、国家保安省(Ministerium für Staatssicherheit)の略称。あるいは頭文字をとってMfS(エム・エフ・エス)とも言うが、こちらはどちらかというと公式的な呼称。
監視カメラ、手紙の開封、盗聴、尾行、逮捕、取調べ、あらゆる手を使って国民を監視し続けたシュタージ。

  その活動の一端は2006年に公開された映画「善き人のためのソナタ(Das Leben der Andere)」でうかがい知ることができる。
主人公のヴィースラー大尉は、国家に忠誠を誓う有能なシュタージの捜査官だが、反体制的なグループを監視するうちに国家体制に疑問を抱きはじめ、彼らが逮捕されないよう手助けをするというストーリー。
正直言って、こんなに簡単に反体制派に共感するかな、という疑問を感じたのがこの映画の第一印象。本当は怖いはずのヴィースラー大尉が最後には「いい人」に写ってしまう。最後まで冷徹であった方がシュタージの凄さ、怖さが伝わったような気がする。
ただ、ぜいたくは言ってられない。シュタージのことを正面から扱った映画ができたこと自体、奇跡に近い。

ここでこの映画の中で紹介されたアネクドーテをひとつ。

朝、太陽が東から上がった。
太陽はホーネッカーにあいさつした。
「おはよう、エーリッヒ」
(以前にもふれたが、エーリッヒとはホーネッカーのファーストネーム)
昼になった。
太陽はあいさつした。
「こんにちは、エーリッヒ」
そして夕方になった。太陽は西に沈みかけているが、何も言わない。
なぜか?
西(=西ドイツ)に逃げれば、もうホーネッカーなんて関係ないからさ。
シュタージは、東ドイツ末期には9万人もの職員を抱え、全国に監視網を張りめぐらせていたが、それだけでなく、18万人とも20万人とも言われた協力者(Inoffizieller Mitarbeiter 略してIM)の存在がそれを補っていた。
IMとは、普段は普通に生活している一般市民だが、周囲の人たちの言動を逐一シュタージに報告する人たちのこと。密告者と言った方がしっくりくるかもしれない。
まさに東ドイツ監視社会の象徴とも言える。家族ぐるみで食事会を開いたり、友人どうしでお酒を飲んで騒いでいても、うかつに体制の悪口は言えない。誰がシュタージの協力者だかわからないからだ。
西側の人間と親しげに話すことも禁物だ。誰が見ているかわからない。
そこで出てくるのが「東ドイツ式外国人歓迎法」。(6月20日のブログをご参照ください) 
余計なことにはかかわらない方がいい、ということになる。

ベルリンの壁が崩壊してもSEDが君臨している限り、民主化は進まない。
11月20日のライプツィヒの月曜デモには25万人の市民が参加した。
今までは「私たちは国民だ(Wir sind das Volk)」と言って、民主化を主張していたが、この日は違った。
市民たちは「私たちはひとつの国民だ(Wir sind ein Volk)」と主張し始めた。
その日の横断幕には、「再統一のための国民投票を」「ドイツ、一つの祖国」といったものもあった。市民の目標は、明らかに東ドイツの民主化からドイツ統一に移っていた。

国民受けの良かったモドロウはすでに11月8日に首相(※)に任命されていたが、いかに改革派政治家モドロウであっても、大きなうねりとなったドイツ統一の動きを食い止めることはできなかった。

12月6日にはクレンツが国家評議会議長を辞任し、翌年3月18日に行われた人民議会の選挙は、初めての自由選挙になったが、東ドイツ版「キリスト教民主同盟」が第一党となり、当時「民主社会党」と名称を変更していたSEDは大敗し、独裁体制は終わりを告げた。
そして、10月3日にドイツ統一が実現し、「ドイツ民主共和国(DDR)」そのものが消滅していった。

ドイツ民主共和国憲法第6条第2項にこう書かれている。

「ドイツ民主共和国は、ソ連邦と恒久的に、かつ、取り消すことのできない同盟を取り結ぶ。ソ連邦との緊密かつ兄弟的な同盟は、ドイツ民主共和国人民に、社会主義および平和の道にそった一層の邁進を保証する」

ソビエト解体に先んじること1年、東ドイツはソ連邦との恒久的な同盟に基づき、歴史から姿を消した。どこまでも律儀な国であった。

(※)東ドイツには意思決定機関として国家評議会があり、その議長が国家元首。他に執行機関として閣僚会議があり、その議長は首相で、約10人の副首相、約30人の大臣から成る。国家評議会、閣僚会議ともその構成員は人民議会から選ばれる。

(「ベルリンの壁崩壊」終わり)

次回から先月行ってきた旧東ドイツ旅行記を少しずつ掲載します。ご期待ください。

2011年12月10日土曜日

ベルリンの壁崩壊(9)

(前回からの続き)
 さて、いよいよ運命の11月9日。
 SED政治局報道官のシャボウスキーは、いかにも気が乗らないといった顔で記者会見会場に姿を現した。記者席の間の通路を通って報道官席に向かったが、途中テレビカメラが行く手をふさいでいたので、不機嫌そうに大げさに避けるしぐさを見せた。

午後7時、記者会見は静かに始まった。
シャボウスキーは、旅行法の改正案を読み上げた。
 改正案は、11月6日に新聞やテレビのニュースですでに報道されいたが、永久出国は認められるものの、通常の海外旅行は年間わずか30日、外貨の持ち出しも制限されるので、国民には不評であった。
 そこでSEDはさらに譲歩し、ハンガリーやチェコスロバキア経由でなく、東ドイツ国境から直接、出国できるように変更した。シャボウスキーは、影響の大きさに不安をこぼしながらも、この変更点を強調した。

そこまでは良かったが、シャボウスキーは、あろうことか本来は翌日に公表するはずの個人の外国旅行に関する通達を読み上げた。
 「個人の外国旅行は、理由を提示することなく申請できます。申請を出せばすぐに許可されます」
 今までは、親戚を訪問するなど理由の提示が必要だったし、申請しても許可はなかなか出ず、当局から好ましくない人物とみなされれば許可されないこともあった。だからこそこの通達は東ドイツ国民にとって大きな前進であった。

会見が終わろうとしたとき、一人のイタリア人記者が質問した。
 「ところでその通達はいつ施行されるのですか」
 想定していなかった質問にシャボウスキーは「あれ、いつだったかな」という感じで書類をぱらぱらめくった。文章のなかに「すぐに(sofort)」という単語を見つけた。
 シャボウスキーは「私の知るかぎり『すぐに』施行される」と答えた。

このやりとりは、それこそ「すぐに」世界中のテレビで報道され、東ドイツ国内だけでなく全世界に衝撃が走った。

国境警備兵も突然のニュースに驚いた。
ボルンホルマー通りの検問所副所長、ハラルド・イェーガー中尉は、信じられないという表情で首を横に振った。
「すぐに?とんでもない!」

東西ベルリンの間には8つの検問所があった。そのうちの一番北にあるのがボルンホルマー通り(Bornholmer Straße)。下には鉄道が走り、その上を鉄橋がまたいでいる。その鉄橋の東側のたもとに検問所があった。

そうこうしているうちに、多くの市民たちが押し寄せてきた。歩いてきた人もいたし、トラバントで来た家族もいた。


国境警備兵たちはマイクで市民たちに呼びかけた。
「今国境を越えることはできません。ただちに家に帰ってください」
もちろん家に帰る人などいない。国外に出るのに理由が必要なくなったのだ。

「門を開けろ!門を開けろ!」
市民の合唱が響きわたった。

イェーガーは国家保安省にいる自分の上司に指示を仰いだが、明確な回答が返ってこない。
(国民の監視だけでなく、国境警備も国家保安省の重要な仕事の一つ。国家保安省については次 回ふれます)
市民のいらいらは募り、周囲は険悪な雰囲気に包まれた。
 集まっってきた市民の数は時間とともに増えてきた。
 イェーガーは上司に報告した。
 「もう持ちこたえられません」

門は開放された。
 歓声を上げて肩を組んで国境を越える若者たち、感動のあまり泣きながら鉄橋を渡る中年夫婦。クラクションを鳴らしながら通り過ぎるトラバント。

ベルリンの壁が崩壊した瞬間である。夜中の12時過ぎにはすべての検問所が開放された。壁そのものが撤去されるまではさらに時間がかかったが、東ベルリンの市民が自由に西側に行くことができるようになったので、もはや壁は意味をなさなくなった。

シャボウスキーの記者会見や、ボルンホルマー通りの様子の映像は「シュピーゲル」のテキストで紹介されている。かなり省略されいてるが、会見の雰囲気やボルンホルマー通りの混乱ぶりがよくわかる。

http://einestages.spiegel.de/static/authoralbumbackground/717/die_frage_der_fragen.html


なぜこんなことになったのか。

ドイツ統一後、シャボウスキーはメディアのインタビューでこう言い訳をしている。
 「私は、他の予定があったので、旅行法改正を議論する場には最後までいませんでした。記者発表資料は会見場に向かう車の中で渡されたので、詳しい説明は何も聞いていないのです」

クレンツは別のインタビューでシャボウスキーをこう非難している。
「彼はSED政治局員という重要なポストにいたんです。そんな言い訳が通用すると思っているのか」

クレンツ政権は、市民の不満をそらすため、改革する姿勢を市民に印象づけようと焦っていた。東ドイツ市民が大量に流れ込んでくるチェコスロバキアやハンガリーの政府から「どうにかしてくれ」というクレームもあったから、なおさらプレッシャーは感じていた。

しかし、その焦りがあったからこそ、政権内部の連携ミスを生み、シャボウスキーの勘違いを招き、「平和な革命」が成功した。

ドイツ国営放送ZDFのドキュメンタリー番組は、ユーモアを込めてこう言っている。
「歴史上もっとも素晴らしい勘違い(Das schöneste Fehler der Geschichte)」

  ドイツ統一後も言い訳を続けるシャボウスキー。しかし、本人は望んでいなかったかもしれないが、紛れもなく彼は東ドイツ民主化の動きが武力による鎮圧という最悪の事態にならず、「平和な革命」が成功することとなった功労者の一人に違いない。
(次回に続く)

2011年12月3日土曜日

ベルリンの壁崩壊(8)

(前回からの続き)
 クレンツが国家評議会議長に選ばれた時の選挙はさえなかった。
 独裁国家ではありえないことであるが、人民議会での投票は、堂々と反対の手を上げる議員いた。
 500人いる議員のほとんどは賛成の挙手をしたが、反対に26人、棄権に26人の議員が手を上げた。満場一致でものごとが決まらなかったのは人民議会史上初めてのことであった。

言うまでもなく東ドイツの国家体制は社会主義統一党(SED  Sozialistische Einheitspartei Deutschlands)の独裁体制だ。
 国家評議会(Staatsrat)は内閣、その議長は内閣総理大臣に相当し、人民議会(Volkskammer)はその名のとおり議会に相当し、国家評議会議長は人民議会により選ばれる。人民議会の議席は、SED及びその傘下にある政党、団体に割り当てられ、候補者は各政党、団体の意に沿った人が選ばれるので、選挙は実質的には信任投票であった。
 このような仕組みがSEDの独裁を長年支えてきたが、SED独裁体制には明らかにほころびが見え始めてきた。
(国家評議会は議決機関であるが、実質的にはSED政治局が決定した法案を承認するだけであった。国家評議会議長は対外的には国家元首であるが、SED党首が同時に国家評議会議長に就任するので、国内のメディアではクレンツは「新SED党首」と紹介されることが多い。)

クレンツ新党首はテレビで国民に訴えた。
「私たちは国民のみなさんとの対話を大切にします。私たちのともにこの困難な時期を乗り越えましょう」
言っていることは素晴らしい。しかし、クレンツは下を向いたまま原稿を棒読みしただけであった。

国民はクレンツ政権の成立に敢然と「Nein」をつきつけた。
 10月23日のライプツィヒの月曜デモの参加者は30万人にも及んだ。
クレンツは11月3日、テレビで旧体制派の5人の政治家の引退を発表した。その中にはミールケ国家保安相の名もあった。国民を監視するシュタージのボスを解任して、改革をアピールする意図があった。




しかし。国民の不満はおさまらなかった。
翌11月4日の東ベルリンのデモには50万人もの市民が参加した(100万人近くとも言われている)。これは今までで最大規模のデモであった。市民は共和国宮殿に押し寄せ、アレキサンダー広場は多くの市民で埋め尽くされた。
人々は対話と言論の自由、旅行の自由を求めた。それも今すぐに。

当時SED政治局の報道官だったギュンター・シャボウスキーが多くの市民の前で対話を訴えかけた。しかし返ってきたのは「ひっこめ」というヤジとあざけりの口笛だった。
11月6日のライプツィヒの月曜デモの参加者も50万人に及んだ。

クレンツは焦った。国民の関心を得ようと、旅行の自由を認めるための旅行法の改正を急いだ。そしてこの焦りが、ベルリンの壁崩壊のきっかけをつくり世界中に衝撃を与えた11月9日のシャボウスキーの記者会見につながることになった。
(次回に続く)

2011年11月28日月曜日

ベルリンの壁崩壊(7)

(ドイツ旅行から帰ってきました。ベルリン、ドレスデン、ライプツィヒ、ソルブ人の街バウツェンと回ってきました。写真もたくさん撮ってきたので、このブログで順次紹介していきたいと思います。本来であれば、すぐにでも旅行記の連載を始めたいところですが、今回の旅行のテーマの一つが「ベルリンの壁崩壊」なので、まずは壁の崩壊に至るまでの経緯をたどりたいと思います。そうした方が旅行記も説明がしやすくなるので、しばらくこのシリーズにおつきあいください)

(前回からの続き)
 東ドイツ建国40周年記念式典が行われる前日の10月6日、ゴルバチョフ書記長は東ベルリンのシェーネフェルト空港に降り立ち、黒塗りのリムジンに乗ってウンター・デン・リンデンにあるソビエト大使館に向かった。沿道は東ドイツとソ連の国旗を振った市民で埋め尽くされ、ゴルバチョフは車の窓から手を振って市民の歓迎に応えた。東ドイツの改革を求めていた市民たちは、ペレストロイカ(改革)とグラスノスト(情報公開)を進めているゴルバチョフに大きな期待を寄せた。

車を降りたゴルバチョフはメディアの前で東ドイツ政府の反動的な態度を批判した。

「困難をおそれずに改革を進めなくてはならない」

そのあと、ゴルバチョフはホーネッカーとともに市内を歩いた
周囲にを取り囲んでいた市民たちからは、「ゴルビー、ゴルビー」の合唱が巻き起こった。
ホーネッカーはゴルバチョフと腕を組んで歩いていたが、ゴルバチョフはその手をふりほどき、市民たちの求めに応じ、握手をして回った。ホーネッカーはその光景をただ渋い顔をして見ていることしかできなかった。

「ゴルビー、助けて!、ゴルビー、助けて!(Gorbi,hilf uns!Gorbi,hilf uns)」
 ベルリン市内をデモ行進している市民たちの声は街じゅうに響いた。
 市民たちの改革への期待も大きかったが、当時の東ドイツで中国式解決法(「chinesische Lösung」は「中国的」より「中国式」の方がしっくりくるので以後は「中国式」と訳します)が避けられたのは、市民の側にも流血の惨事を避けようという努力がある一方で、ゴルバチョフに武力介入の考えがなかったことも大きな要因であった。実際に東ドイツ市民はゴルバチョフに助けられたのだ。
 第二次世界大戦後、東側ブロックに組み込まれた国での民主化の動きはことごとくソ連の戦車によってつぶされてきた。
1953年6月17日の東ドイツの労働者による民主化要求デモ
1956年10月のハンガリー動乱
1968年8月の「プラハの春」事件。


しかし今回は違っていた。ソ連には軍事介入するだけの力はもう残っていなかったのはもちろんであるが、国内経済は破綻し、それを知っていたからこそペレストロイカ、グラスノストを進めたゴルバチョフにとって、ソ連とは反対に民主化を進めないホーネッカーにはかえって苛立ちを感じていた。

ここで、当時はやったアネクドーテを一つ。

ブレジネフは止まっている電車を前後にゆすって、電車が前に進んでいるよう国民に見せかけた。しかし、ゴルバチョフは「もう電車は動かないからみんな逃げろ!」と大きな声で言った。

ゴルバチョフは、ホーネッカーに「もうソ連は頼れないぞ」と言いたかったのだ。
組んでいた腕をふりほどいたのが、そのことを象徴しているようだった。

翌7日の午前10時ちょうど、東ベルリンの赤の市庁舎の鐘の音を合図に、軍事パレードが始まった。
ベルリン市内には多くの市民がデモを行い、治安部隊との衝突はあったが、市の中心部は治安部隊によって固められていたので、戦車やミサイルを繰り出した軍事パレードは支障なく行われた。
昼の軍事パレードの成功に気をよくしたホーネッカーは、妻のマルゴットとともに満足した表情で夜のレセプション会場「共和国宮殿(Palast der Republik)」に入っていった。

レセプションではホーネッカーが得意げに乾杯のあいさつをした。
「ドイツ民主共和国40周年にあたり、平和と国民の幸福のためにさらなる連帯と協力を」
これがホーネッカーの最後の晴れ舞台となった。

シュプレー川をはさんだ対岸には、現政権に抗議する多くの市民が押し寄せていた。
最初、治安部隊は人間の鎖で食い止めていたが、レセプションの途中でゴルバチョフが退席すると、事態は一変した。

「さあ、これでヒューマニズムはおしまいだ」

国家保安省(シュタージ)のミールケ大臣は治安部隊にこう命令した。
治安部隊は市民に襲いかかり、その日は何百人もの市民が拘束された。

それでも市民の民主化の動きは止まらなかった。ライプツィヒの月曜デモの参加者が10月9日には7万人、10月16日には12万人に達し、10月18日にホーネッカーが辞任したのは前回のブログのとおり。

後任の国家評議会議長に選ばれたエゴン・クレンツは、ホーネッカーに服従するだけがとりえで、決して有能な政治家ではなかった。市民から見れば、ホーネッカー路線の継承者であり、9月には中国を訪問していることも、市民の印象を悪くした。天安門事件からわずか3か月後に中国を訪問したことで、天安門事件を容認した政治家とみなされたからであった。
(次回に続く)




2011年11月7日月曜日

ベルリンの壁崩壊(6)

(前回からの続き)
 いよいよライプツィヒ。
 プラハから東ドイツ市民を乗せた列車がドレスデンを通り過ぎた10月4日の2日前、10月2日の「月曜デモ(Montagsdemonstration)」には2万人ものライプツィヒ市民が参加した。
街の中心にあるニコライ教会(Nikolaikirche)に集まり平和の祈りを捧げた市民たちは自発的に街の中を練り歩き、政府に対する抗議デモを行った。月曜日の夜のお祈りのあとに行われたので、「月曜デモ」と呼ばれた市民の抗議行動が初めて行われたのは9月4日。その時の参加者はわずか1,000人。それが9月18日には約3,000人、9月25日には8,000人に達した。9月25日の参加者数は5,000人との説もあるが、週を追うごとに参加者は雪だるま式に増えていった。
 西側への出国を求めた市民が「私たちは外へ出たい(Wir wollen raus)」と叫んだのに対し、ライプツィヒ市民は「私たちはここに残りたい(Wir bleiben hier)」と叫んだ。何もホーネッカーが好きだからでなく、反対に彼には政治の場から退場してもらい、東ドイツそのものの改革を望んだからだ。
月曜デモは市民による静かな抗議であった。10月2日も市民はゆっくりと市内を歩き、午後9時近くには家路についた。それでも市内のあちこちでトラブルがあり、警察は棍棒を振り回し何人もの市民を拘束した。
それを見ていたデモ参加者たちは口々に叫んだ。

「恥を知れ!」

次の月曜日、10月9日には月曜デモの参加者はさらに増えることが想定され、市民が暴徒化した場合に備えて東ドイツ政府が軍を投入するとの情報も入ってきた。
時間はあまりなかった。午後2時近く、ライプツィヒ・ゲバントハウスオーケストラの楽団長クルト・マズアーはライプツィヒ県当局の文化部門の責任者クルト・マイヤーに電話をした。
「今日の夜、最悪の事態を避けるにはどうすればいいか、一緒に考えましょう」

白い立派なあごひげをたくわえ、いつも穏やかな表情のマズアーはドイツで一番古い民間オーケストラの指揮者というだけでなく、改革派の象徴として市民の人望を集めていた。また、体制側からも一目置かれていた。
マズアーの申し出を受けてマイヤーは広報担当、教育担当のそれぞれの責任者に連絡をとった。彼らもマズアーの申し出に同調した。マイヤーはじめ当局側3人、マズアーはじめ市民側3人はマズアーの家に集まり、市民へのアピール文の作成にとりかかった。
月曜デモはいつも午後7時に始まる。しかし、文案の調整には時間がかかった。
それでもようやく文案は完成し6人が署名した。そして午後6時ちょうど、市内に設置されたスピーカーからマズアーの声が流れた。

「私たちに必要なのは社会主義をこれからどうしていくか自由に意見交換することです。(このアピール文に署名した)私たちはライプツィヒだけでなく、政府との対話の場を作ることに全力を注ぎます。ですからみなさん、慎重に行動してください。そうすれば平和的な対話が可能になります」

マズアーのアピールは市民の心をとらえた。その日月曜デモに参加した7万人もの市民は、「暴力反対(keine Gewalt)!」と叫びながら街じゅうを歩いた。8,000人もの警察や軍隊が動員されたが衝突は起こらなかった。最悪の事態はその一歩手前で避けられたのだ。と同時に「平和的なデモ」が東ドイツ政府に勝った瞬間だった。

その翌週、10月16日の月曜デモの参加者は12万人にも上った。この日の合言葉は「私たちは市民だ(Wir sind das Volk)!」。私たちは市民だ、だからもっと自由を、もっと権利を、とライプツィヒ市民は叫びながら歩いた。
この日の月曜デモはライプツィヒにとどまらず、ベルリン、ドレスデンや他の都市でも行われた。もう流れは止められなくなった。10月18日には19年間東ドイツに君臨したホーネッカーは辞任し、後任にはホーネッカーの「お気に入り」エゴン・クレンツが選ばれた。
市民の自発的な行動がその後の民主化につながったので、ライプツィヒはいつしか「英雄の町(Heldenstadt)」と呼ばれるようになった。

一方のホーネッカーにとっては、10月7日に行われた東ドイツ建国40周年記念式典が最後の晴れ舞台であった。しかしその晴れ舞台も、主役の座はゴルバチョフに奪われていた。
(次回に続く)


(追記)
10月28日から29日にかけて沖縄に行ってきました。普天間問題解決のため・・・ではなく、今沖縄に滞在している友人を訪ねたのですが、今回の個人的なテーマは「沖縄戦の戦跡めぐりと基地問題」だったので普天間基地は見てきました。確かに宜野湾市の真ん中をくり抜くように飛行場があって、そこをヘリや対潜哨戒機が離着陸するのですから、「世界一危険な基地」といわれるのがよくわかりました。
ちょうどイベントをやっていた首里城にも行ってきました。
首里城は沖縄守備隊の陸軍第32軍の司令部があったのでアメリカ軍の攻撃により破壊しつくされました。写真は、1958年に再建された守礼の門です。9月4日のブログで紹介していますが、門の名前はもちろんドイツ前首相のシュレーダーさんにちなんだわけでなく、「琉球は礼節を重んじる国」から来ているものです。

また、行きの飛行機は全日空でしたが、機内誌に中国の青島のことが紹介されていました。7月24日のブログでも触れたが、ドイツに占領されていた青島には今でも当時の建物が残っていて、ヨーロッパさながらの街並みが広がっています。「青島啤酒」と印刷された買い物用のビニール袋にビールを入れて買って帰る人がいるのは驚きでした。
中華料理を食べながらドイツゆかりのビールを飲む。一度やってみたいと思います。
原則、週末にブログを更新するようにしているのですが、このところ週末に旅行に行くことがあったりして、更新がペースダウンしています。熱心に読んでいただいている読者のみなさまにはご迷惑をおかけして申し訳ありません。
お詫びついでで申し訳ありませんが、来週1週間、休暇がとれることになったので、11月12日(土)から20日(日)まで9日間ドイツに行くことにしました。まったくのプライベートですが、ベルリン→ドレスデンとまわり、ドイツ統一20年を経過して旧東ドイツ地域がどう変わったか見てこようと考えています。
今日紹介したライプツィヒにも行く予定です。しばらくブログはお休みしますが、帰ってきてから旧東ドイツ旅行記をこのブログで紹介させていただきますので、どうか楽しみにしていてください。

2011年10月24日月曜日

ベルリンの壁崩壊(5)

(前回からの続き)
 ライプツィヒに行く前にドレスデンについてもう少し。
 騒ぎのあった2年後の1991年10月下旬、私はドイツ統一後初めてドレスデンを訪れる機会を得た。
この時は観光ではなく、東の復興に係るザクセン州政府の役割についての調査が目的であった。
テーマそのものにも興味があったが、統一後のドレスデンを見ることができるというのも大きな楽しみであった。
 同行するドイツ人の一行とはシュツットガルトで合流し、そこから寝台列車に乗り込んだ。メンバーは全員で6人。日本人は私だけ。3段ベッドに向かい合わせに座り、夜中の2時までワインを飲みながら騒いでいた。周りの人には迷惑にならなかっただろうか。
 夜が明け、列車がドレスデン中央駅にゆっくりと滑り込んでくると、駅周辺の景色が見えてきた。
 「なんだこれは」
 私は駅前のあまりの変わりぶりに声を上げた。
 芝生で覆われていた駅前広場は、いくつもの西側の金融機関の仮設店舗で埋め尽くされていた。さらに遠方を見ると街じゅうのあちこちに大きなクレーンがそびえたっていて、まるで街じゅうが工事現場といった感じ。さらに街の中心には西ドイツではたいていの大都市にあるデパート「カールシュタット(Karstadt)」が進出していた。
 統一後、堰を切ったように西側の資金が流れ込んできたのだ。
 もちろん2年前にめちゃくちゃにされた駅舎も、元通りになっていた。
 変わったのは街の雰囲気だけではなかった。そこに住む人たちも何か肩の荷が降りたかのように陽気になっていた。
 その日の夜は市内のレストランで夕食をとることにした。
 扉を開けて「席あいてますか?」と聞くと、人のよさそうな中年のウェイトレスさんが、どうぞどうぞと手招きをしながら、「No,no,no」と言って迎え入れてくれた。
 私はすぐに彼女がチェコ人がであることに気がついた。
 「No,no,no」といっても「席はない(kein Platz)」ではない。
(6月26日「二度と行けない国『東ドイツ』(2)を参照してください) 
 チェコ語では、「はい」がano、「いいえ」がneで、anoはnoと省略して、強調するときは連続して「No,no,no」言うことがある。
 きっと西側資本の流入で景気がよくなって仕事も増えたのだろう。プラハからドレスデンまで列車でわずか2時間半、チェコ人が出稼ぎに来ても不思議ではない。

ドレスデンには5日間滞在したが、ホテルのフロントの女性も、日本に郵便を出すのに郵便局の場所を教えてくれたり、とても丁寧に対応してくれた。

それにしても泊まったホテルは、古く、汚く、寒かった。
 狭いシングルルームにはベッド以外には机しかなく、テレビも電話もない。風呂にお湯を張ろうとしたら出てきたのは黄色い水。
 暖房も温水式のスチームだったが、元栓を開けようとしたら固くて開けることができなかった。それでも毎晩開けようと試みていたら、4日目にようやく元栓がググッと動いて開けることができた。しかし、ほっとしたのもつかの間、夜遅くなってホテルで大元の給湯を止めてしまった。その日の夜もドイツの秋の寒さに耐えなくてはならなかった。
 さらにトイレでもトラブルがあった。水を流そうと上からぶら下がっている鎖を引っ張ったら、鎖が途中から切れてしまった。おかげで次からはわざわざ立って鎖の切れ端を引っ張らなくてはならなかった。切れた鎖をフロントに持っていってもフロントの女性は「あらっ」という感じで特に気にする様子もない。
 旧東ドイツ時代のなごりで、設備や水回りがないがしろにされているのは仕方ないにしても、ここで注目したいのは、いい意味でのドイツ人のケチケチぶり。
 長期間滞在すると宿泊費がかさむので、多少の設備の不備はがまんして、できるだけ安い宿を選んで切り詰めるという発想には頭が下がる思いであった。特に、まだバブル景気さめやらぬ日本から来た私には、忘れていた大切なものを思い出させてもらったような気がした。

ひるがえってユーロ危機に陥っている現在のヨーロッパ。
  「ユーロの宴」に酔いしれていたギリシャの人たち。
 10月10日付の朝日新聞朝刊にギリシャ人のこんなコメントが出ていた。
 「野菜だって1キロ単位で気前よく買うのがギリシャ人。ちまちま2,3個ずつしか買わないドイツみたいな国にはなりたくない」
 質素倹約の精神がしみついているドイツ人がこのコメントを聞いたらどう思うだろうか。
 気質の上では相容れない南欧の国々とは一線を画したいという気持ちの表れだろうか、ドイツ国内にはマルク復活論も出てきているようだ。
 しかし、ギリシャが財政破たんすれば世界の金融システムへの影響はあまりに大きく、ドイツ政府にはギリシャに税金を投入する以外の選択肢は残されていない。
(次回こそはライプツィヒ?)

2011年10月17日月曜日

ベルリンの壁崩壊(4)

(前回からの続き)
 10月3日にプラハに到着するはずだった特別列車は何かの手違いで遅れていた。おかげで西ドイツ大使館の前庭に野宿していた東ドイツ市民たちはもう一晩寒い夜に凍えなくてはならなかった。
 彼らの一人が言った。
 「エーリッヒ、あなたはまだ私たちを苦しめるのか」
 エーリッヒとはホーネッカーのファーストネーム。
 それでも翌日、特別列車がプラハに到着すると、東ドイツ市民は元気を取り戻して列車の中に消えていった。
 「これでようやく自由になれるわ」
 一人の中年女性は晴れ晴れとした顔でこう言って列車に飛び乗っていった。

一方、ドレスデンでは緊張が高まっていた。国営放送で特別列車がドレスデンを通ることを知った市民たちが、自分たちもそれに乗ろうとドレスデン中央駅に集まってきた。
 このブログの「二度と行けない国『東ドイツ』(4)」で紹介したドレスデン中央駅は写真のとおり閑散としていたが、その日は何千人もの市民が駅前広場に集まり「私たちは外に出たいんだ(Wir wollen raus)」「私たちに自由を(Wir wollen Freiheit)}と叫んでいた。

ドレスデンの治安を預かるハンス・モドロウは苦境に立たされていた。
 彼は改革派の政治家として名が通っていた。だからこそ保守的なホーネッカーに批判的であり、うとんじられたため長い間ベルリンから遠ざけられていた。ホーネッカーが前任者のウルブリヒトを追い出して政権を握ってから2年後の1973年からなんと16年にわたりドレスデン県の責任者の地位に甘んじていたのだ。
 改革派だったからこそ、モドロウは市民に銃を向けたくなかっただろう。
 同じ年の6月には、中国で民主化を要求した学生や市民を人民解放軍が武力で排除した天安門事件が起こったばかりである。

モドロウは後日、メディアのインタビューに当時の苦悩を独特のしわがれ声でこう話している。
 「駅は、列車の通行が妨げられないようにしなくてはならなかった。そうすることが私に与えられた任務だった。そのためには(警官による)人間の鎖だけで何千人もの市民の駅への侵入を食い止めなくてはならなかった。できる限り武力を使わずに」

夜の7時前にプラハを出発した特別列車は、真夜中過ぎにドレスデンを通ることになっていた。真夜中が近づくにつれて駅前の状態はエスカレートしてきた。ベルリンはモドロウに武力を使う許可を与えた。同時にケスラー国防相は戦車部隊と歩兵部隊の出撃準備を命じた。当時、東ドイツ市民の間でささやかれていた、武力による民衆の鎮圧「中国的解決法(chinesische Lösung)」の危機が迫っていた。
 
 しかし、モドロウが命じた警官隊による人間の鎖は持ちこたえた。特別列車は何事もなかったかのように通り過ぎていった。暴徒化した市民は駅舎の窓や扉、切符の自動販売機などあらゆるものを破壊したが、駅構内に入ることはできなかった。警官隊は放水車や催涙ガスで市民を蹴散らしはしたが、血の海(Blutbad)は避けられた。
 モドロウは、立場上守らなくてはならなかった任務と暴徒化する市民との板挟みになりながら、ぎりぎりのところで改革派政治家としての誇りを保つことができた。
 ところで、同じく「二度と行けない国『東ドイツ』(4)」で紹介した革ジャン君たちは、その時どうしていたのだろうか。駅前広場で他の市民といっしょになって騒いでいたのかな。でも、最悪の事態は避けられてよかった。
 さて、当時の東ドイツには西へ行きたい市民の動きだけでなく、東ドイツを改革しようという動きもあった。次回からは、のちに「英雄の町(Heldemstadt)」と称えらえたライプツィヒでの民主化の動きについてふれていく。

(次回に続く)

2011年10月2日日曜日

ベルリンの壁崩壊(3)

(前回からの続き)
 プラハの旧市街の通りはまるで迷路のように入り組んでいる。ヤン・フス像の立つ旧市街広場からカレル橋に行こうと思うとかならず迷ってしまい、いつも違うルートを通っているようだが、決まってカレル橋のたもとに出てくるから不思議だ。
 カレル橋からはヴルタヴァ川対岸にある小高い丘の上にそびえるプラハ城を一望することができる。ヴルタヴァ川は豊かな水をたたえ、有名なチェコの音楽家スメタナの「ヴルタヴァ」のようにゆったりと、そして、長いプラハの歴史を刻みながら流れている。
 さて、今回の舞台となる西ドイツ大使館は、カレル橋を渡り、プラハ城を右手に眺めながらなだらかな坂道を登ったマラー・ストラナ地区にある。歴史のある建物の多いプラハの中でも特に重要なバロック建築の建物で、かつてボヘミアでは伝統があり有力な貴族ロブコビッツ家の屋敷であった。  
 1989年夏、そこには何千人もの東ドイツの家族が押し寄せ、出国ビザを求めて大使館の庭にテントを張って何日も待っていた。
 その騒ぎを聞いて、東ドイツ政府から全権特使として派遣されたのがヴォルフガング・フォーゲル。彼は、東ドイツで東西に分断された家族の再会や、西ドイツへの出国を仲介するなど、東西対立の中、東ドイツで長年にわたり人権問題を扱っていた弁護士だ。
 彼はプラハに到着した9月26日、出国を希望する人たちを前に訴えた。
 「東ドイツに戻れば、6か月以内に西ドイツへの出国を認める。報復措置はとらない。私が保証する」
 しかし人権問題では長年の実績のあるフォーゲルをもってしても東ドイツ市民を説得することはできなかった。彼の呼びかけに応じた市民はわずかであった。「何の役にも立たなかった」との言葉を残して彼は翌日、同じく現地の西ドイツ大使館に集まって出国を希望する東ドイツ市民を説得するため、ワルシャワに飛んだ。
 在プラハ・ドイツ大使館のホームページに建物(Das Palais Lobkowicz)が紹介されている。なぜか逆さまになっているページもあるが、大使館に押し寄せた東ドイツ市民の写真もあるので、当時の様子がよくわかる。
  ↓

東ドイツ市民の説得に失敗した東ドイツ政府は投げやりになっていた。ホーネッカーは言った。
「出ていきたいなら出してやる。そのかわりプラハからドレスデンを通ってバイエルンに行くという条件つきだ」 
 何の意味もないが、形だけでも東ドイツに戻ったことにしたかったのだ。
 9月30日、ボンの東ドイツ代表ホルスト・ノイバウアーはザイタース官房長官、ゲンシャー外相にホーネッカーのメッセージを伝えた。
 「一度東ドイツを通るのであれば、出国希望者を列車に乗せて西ドイツに連れて行っていい」
 この申し出にゲンシャー外相は驚いた。東ドイツ国民を刺激するのではないか。
 しかし、ホーネッカーのゴーサインが出たのだから、もうぐずぐずしてはいられなかった。ゲンシャー外相はすぐにプラハに飛んだ。
 そしてその日の夜の7時前、ゲンシャーとザイタースはプラハの西ドイツ大使館のバルコニーに姿を現した。
 すでにあたりは暗く、バルコニーにいる2人にスポットライトが当たり、前庭にいた東ドイツ市民は大きな期待をもって手拍子で迎えた。
 ゲンシャーが口火を切った。
 「ドイツ国民のみなさん(Liebe Landsleute)」、ゲンシャー外相はLandsleute(=同国人、この場合はもちろん同じドイツ国民という意味)という言葉を使った。
 「私たちはお伝えしたいことがあって来ました。今日、みなさんの出国は(wir sind zu Ihnen gekommen,um Ihnen mitzuteilen,dass heute Ihre Ausreise)・・・」
 ここから先はその場にいた人たちの歓声でかき消された。
 でも誰もがわかった。西ドイツへの出国が認められたのだ。

その時の模様は、翌10月1日、ドイツ国営放送ARDのニュースTagesschauで放映されている。
残念ながら画面が暗くてゲンシャー外相がどこにいるのかよくわからないが、その場にいた人たちの感動が伝わってくる。
 ↓

一方、東ドイツの国営テレビはそっけなくこう伝えた。
 「東ドイツ政府は、プラハの西ドイツ大使館に不法滞在していた東ドイツ国民を東ドイツ領内を通って西ドイツに退去させることでチェコスロバキア政府と合意した」
 そこで困ったのが、列車が通過する予定のドレスデン県(※)知事ハンス・モドロウであった。
(※)東ドイツでは地方分権的な州制度が廃止され、今までの5つの州(ザクセン、チューリンゲン、ザクセン・アンハルト、ブランデンブルク、メクレンブルク)に代わって14の県(Bezirk)とベルリンに分けられた。それぞれの県は県庁所在地の都市名をとっていたので、ドレスデン市の属する県はドレスデン県だった。
ちなみに、東ドイツ各州の西ドイツ(ドイツ連邦共和国)への加入を想定したボン基本法第23条「この基本法は、さしあたり、バーデン、バイエルン(以下、西ドイツの各州が続く。ボン基本法制定後、合併した州があったので、今では存在しない州名もある)の州領域で適用される。その他のドイツの部分では(=東ドイツのこと)、基本法は、ドイツ連邦共和国への加入後に効力を生じるものとする」とされていたので、東ドイツでは統一前に州を復活させて、各州がドイツ連邦共和国に加入を申請するという方法がとられた。
なお、この条項は、統一後、目的を達成したので削除された。
(次回に続く)

2011年9月24日土曜日

ベルリンの壁崩壊(2)

(前回からの続き)
 厳重に警備されていたベルリンの壁。
 私が東ドイツを訪れた1989年8月には、この壁がすぐに崩壊するなんて誰もが想像すらできなかった。でも、私みたいな通りすがりの旅行者でさえ「もうこんな国来たくない」と思ったくらい嫌な国だ。住んでいる人たちは「もうこんな国出たい」と思って、壁を乗り越える以外に西側に逃れる道を探したとしても不思議ではなかった。
 壁のほころびは意外にも国内でなく海外から現れてきた。
 その年の夏、いつもの夏と同じように東ドイツの多くの家族連れが国民車「トラバント」に乗って南に向かい、ハンガリーのバラトン湖をめざした。
 西ドイツの人たちだったら、めざすのはイタリアやフランスの地中海沿岸だろう。
でも、西ドイツにさえ自由に行くことができない東ドイツの人たちにとって、他の西側の国に行くことなど夢の夢であった。そこで東ドイツの人たちは、比較的自由に行くことができる東側の国でバカンスを楽しんだ。
 バラトン湖は面積約600㎢。面積約670㎢の琵琶湖より一回り小さいが中欧最大の湖で、ハンガリーでも最大の観光地の一つである。夏になるとヨーロッパ各地から水浴、日光浴を楽しむ人たちでにぎわう。
 東ドイツからの旅行者たちもそこで短い夏を楽しんでいた。
 ところがいつもと違う雰囲気がそこにはあった。
 いつもであれば夏の休暇が終われば誰もが東ドイツに帰っていく。しかし、その年は誰もが帰るつもりはなかった。
 旅行者たちは西ドイツのビザを申請するため、ブダペストの西ドイツ大使館に殺到した。ハンガリーとオーストリアの国境には鉄条網が張られていたが、西ドイツのビザがあれば検問所を通ることができ、オーストリア経由で西ドイツに行くことができるからだ。
 騒ぎを聞いて西ドイツ大使館前に現れてきたのが、同じくブダペストにある東ドイツ大使館の職員。
 「今すぐ東ドイツに帰ればあなたたちは罰せられることはない。ほら、ここに政府からの通知もある」
と政府発行の通知を示しながら説得にあたる。
 でも誰も真に受ける人はいない。
 「共産主義の独裁者にはさんざ騙されてきたんだ。もう騙されるものか」
一人の若者は吐き捨てるように言った。
 ハンガリー政府が9月11日にオーストリアとの国境の鉄条網を撤去し、国境を開放してからはハンガリー経由で西側に逃れる人の数はさらに増加した。国境開放後3日間で1万5千人の東ドイツ国民が西ドイツに逃れたとの統計もある。

社会主義の国では、体制を面と向かって批判することはできなかった。そこで人々はアネクドーテ(Anekdote)という小噺でシニカルな笑いをとって憂さをはらしていた。
たとえばバナナについての小噺。
 東ドイツでは外貨獲得のため西側諸国への輸出を促進し、輸入を抑えていたため、子どもに人気のあるバナナは一般市民の手に入ることはなかった。
 
 「ねえお母さん、なんで私たちはバナナを食べることができないの」
 「バナナの形を見てごらん。曲がっているだろ。だから東ドイツは避けて通るんだよ」

西ドイツへの脱出者が多く出てからはこんなアネクドーテが広まった。
 「近い将来、東ドイツ国民は身分証明書を持つ必要はなくなるだろう」
 「どうして」
 「それは、ホーネッカー(書記長)が知っている人しか残らなくなってしまうからだよ」

東ドイツの人口は1985年の統計で約1688万人。ベルリンの壁ができる前の10年間に100万人以上人口が減少した。もちろん出生率の低下による減少もあったが、1960年には1724万人に減った。壁ができてからは減少率は急激に低下したが、壁のほころびが大きくなれば冗談が本当になったかもしれない。
 また、1950年代には東ドイツの略称DDRをもじって、Der Doofe Restということばもはやっていた。「(東ドイツに)残る間抜けな連中」という意味。
 さて、ハンガリー政府は「人道的な考慮から国境を開放した」と断言しているが、実際には西ドイツ政府がハンガリー政府に相当巨額の援助を約束したからだ、という憶測が飛びかった。
 当時の西ドイツ・コール首相の動きやアメリカ・ブッシュ大統領、ソ連・ゴルバチョフ書記長の会談など、東ドイツをめぐる世界の動きについては、笹本俊二氏の『ベルリンの壁崩れる』(岩波新書)に詳しい。以前このブログで紹介した『第二次世界大戦前夜』『第二次世界大戦下のヨーロッパ』(いずれも岩波新書)を記した笹本氏は当時、チューリッヒとボンに居を構えてベルリンの壁崩壊の動きを観察していた。
 第二次世界大戦前と戦時下に書かれた2冊が緊迫感に満ちていたとのとは対照的に、『ベルリンの壁崩れる』からは、冷戦の終結の動きを前にして、どことなく和んだ雰囲気を感じ取ることができる。
 ちなみにこの3冊は、岩波書店のホームページによるといずれも「品切重版未定」とのこと。リクエストが多ければ「アンコール復刊」となるかもしれないが、いつになるかわからないので、興味のある方は図書館で借りるのが無難だと思う。

ベルリンの壁のほころびはブダペストからだけでなく、プラハからも現れてきた。それはハンガリーのケースよりさらにドラマチックであった。
(次回に続く)

2011年9月11日日曜日

ベルリンの壁崩壊(1)

  ベルリンの壁の建設開始から先月の13日でちょうど50年。
 1949年の建国から1961年までにおよそ270万人が西ドイツへ逃亡したのに業を煮やした東ドイツのウルブリヒト国家評議会議長(国家元首)は、「西ドイツ側からの敵対的行動を防ぐため」に西ベルリンとの国境を有刺鉄線で封鎖したのが1961年8月13日。
その翌日からは徐々にコンクリートとブロックによる本格的な壁の建設が始まった。ベルリンだけでなく、今まで何もなかった東西ドイツの間にも1,300㎞以上に及ぶ国境線が設けられた。ベルリンの壁や国境線には国境警備兵(Grenzsoldaten)が配置され、西側に逃亡しようとする者は容赦なく射殺された。
 1961年からベルリンの壁が崩壊した1989年までの28年間に10万人以上の東ドイツ国民が西ドイツへの逃亡を試み、600人以上の人が射殺されるか、国境沿いの川を渡ろうとして溺れ死んだりしている。ベルリンの壁だけでも少なくとも136人が命を落としている。
 ベルリンの壁の最後の犠牲者、クリス・ゲフロイ(当時20歳)のケースはさらなる悲劇を生んだ。
ゲフロイは、ベルリンの壁が崩壊するわずか9か月前の1989年2月の寒い夜、ベルリン南部のトレップトウ(Treptow)から西側への脱出を試みたが国境警備兵に射殺された。
警備していたのはゲフロイと同年代の4人の若者。彼らは逃亡を食い止めた功績でボーナスと特別休暇をもらったが、ドイツ統一後は反対に、(脱出者を射殺せよという)人権を侵害する命令を拒まなかったという理由で、被告人としてドイツ連邦共和国の法廷に立たされた。
被告人の一人、ペーター・シュメット(24歳)は言った。
「国境警備兵は誰だって人を撃ちたいと思っていない。何事もなく任期を終えたいと思っているんだ」
裁判中、ずっと泣き続けていたアンドレアス・キューンパスト(24歳)は絞り出すように訴えた。
「僕は社会主義だけが正しいと教えらてきた国に生まれ育ってきたんだ。西側の人たちと同じように考えろと言われても・・・」
あとの2人はマイク・シュミット(24歳)、インゴ・ハインリッヒ(23歳)。
誰も同年代の若者を撃ちたいとは思っていなかった。でもそれが許されなかった。

1991年の「シュピーゲル」の記事に4人の被告人の写真が掲載されている。誰もが悲しげにうつむいている。彼らもベルリンの壁の犠牲者。

http://wissen.spiegel.de/wissen/image/show.html?did=13491313&aref=image036/2006/05/12/cq-sp199103700720076.pdf&thumb=false

クリス・ゲフロイの母カリン・ゲフロイは、ベルリンの壁崩壊後、息子が撃たれた場所を訪れた。あたりは統一前から家庭菜園が広がっていて、ベルリン市内とはいえ緑が多い。
カリンは悲しみをこらえながら言う。
「ベルリンの壁の犠牲者のことは決して忘れてはいけないと思います。もちろん息子クリスのことだけでなく」
現場にはベルリンの壁最後の犠牲者クリス・ゲフロイの記念碑が建てられている。
 28年間も東西ドイツを分断していたベルリンの壁は、統一後の再開発などでかなりの部分がとり壊されていて、どこに壁があったのかわからなくなっている所も多い。
壁のあった位置についてはベルリン州(ベルリンは都市州)のホームページに詳しく出ている。スマートフォンでベルリンの壁があった場所を案内するサービスもあるようだ。
今ではベルリンの壁や壁のあった場所は観光名所の一つになっている。
分断の悲劇を忘れないためにも、たとえ観光であっても多くの人たちに見てもらうのも大切なことなのかもしれない。
  ↓

2011年9月4日日曜日

日独交流150周年(12)

(前回からの続き)
9月2日に発足した野田内閣は今のところ多くの国民に好感をもって受け入れられているようだ。
新聞社や通信社によって幅があるが、内閣支持率はおおむね50%台から60%台、と各社は報道している。このまま国民の期待に応えて少しは長持ちしてほしいと思うのだが・・・
なにしろ、ドイツのメルケル首相が就任した2005年(平成17年)から現在まで日本の首相は野田総理で7人目。ドイツの通信社も「この5年間で6人目の首相」と皮肉っぽく報道している。

今回のシリーズ「日独交流150周年」を始めるきっかけとなった写真展「歴史と未来を紡いで」(7月31日に終了)にはドイツのメルケル首相と日本の4人の首相がそれぞれツーショットで写っている写真があった(安倍総理、福田総理、麻生総理、菅総理の4人。なぜか鳩山総理の写真はなかった。写真を撮る間もなかったのだろうか。ちなみに就任時の日本の首相は小泉総理)。
メルケル首相は2009年(平成21年)に再任されているので任期は2013年(平成25年)まで。「メルケル首相と8人の日本の首相」という写真は想像したくない。
前回にも書いたが、毎年首相が交代していたら、日本の復興といった大事業や、ドイツを含めた外国との信頼関係を築くことはできない。

さて、話はいっきに現代まで来てしまったし、次の企画もあるので、第二次世界大戦中の日本とドイツの関係については簡単に触れるだけにとどめる。
日米開戦から1ヶ月を経過した1942年(昭和17年)1月18日、日独伊軍事協定が締結された。
日本では、勢いのよかったドイツを見てドイツ不敗を信じ、日本軍がビルマ、インドと進みコーカサスあたりでドイツ軍と手を結ぼうといった威勢のいい話もあったが、その頃は、バトル・オブ・ブリテン(英本土航空戦)に敗れ、東部戦線ではモスクワを目前にソ連軍の反撃を受け、ドイツ軍の勢いにも翳りが見えてきたのでドイツ側は大風呂敷を広げる考えはなかった。
日本には、オーストラリア、ニュージーランドから天然資源や軍需物資が運ばれるインド洋ルートを潜水艦作戦を行って遮断することが期待された。20数年前の第一次世界大戦のときにはイギリスのために通商保護を行ったインド洋で、今度はドイツのために通商破壊を行うことになったとは、なんとも歴史の皮肉である。 
当初は日本海軍も積極的に通商破壊作戦を行ったが、太平洋戦線での戦況の悪化により、インド洋にまで戦力を送り込めない状況になった。ドイツ側からの再三にわたる潜水艦派遣の要請に対しても十分に応えることができなかったので、ドイツからは日本海軍に対する不満や非難の声が聞こえてきた。
1943年(昭和18年)2月にはインド洋における潜水艦作戦を強化するため第8潜水戦隊を進出させた。戦力の増強により戦果は上がったが、1944年(昭和19年)には太平洋戦線の戦局がさらに悪化し、戦力はジリ貧状態になり、翌1945年(昭和20年)2月には第8潜水戦隊が解隊され、インド洋における日独の協力は終わりを告げた。

第一次世界大戦では、イギリスと同盟を結んでいた日本はドイツと戦火を交えた。第二次世界大戦では、日本はドイツと軍事同盟を結び、お互いが破滅の道を歩んだ。
歴史は、特定の先進国どうしが手を組んだり、対立することが大きな不幸を招くことを教えてくれる。ドイツとの関係も突出したものでなく、ほどほどぐらいがいいのかもしれない。
幸いにも冷戦は終結し、先進国が一堂に会し、共通の課題について議論するサミットの場もある。


サミットといえば、例の写真展に「泡盛を飲み干すシュレーダー首相」という2000年に開催された沖縄サミットの一コマを撮った写真があった。残念ながら泡盛の銘柄はわからないが、シュレーダー首相はおいしそうに飲んでいる。
沖縄サミットのとき、シュレーダー首相は宮古島にも訪れている。

宮古島はドイツとの縁が深い。1873年(明治6年)にドイツ商船が台風に遭い宮古島で座礁したところ、島民が台風のさなか船員を救助して、手厚い看護をした。それを船長がドイツ皇帝ヴィルヘルム1世(2世ではない)に報告したところ、皇帝は島民の博愛心を称えて軍艦を派遣し「博愛記念碑」を宮古島に建立した。
 この史実にちなんで1993年(平成5年)、宮古島にリゾート施設「うえのドイツ文化村」がオープンした。
南国の島に忽然と出現するヨーロッパ風のお城。
違和感がないわけでもないが、島民ぐるみの日本とドイツの交流があったことを知ると、周囲の景色にもなじんでくるから不思議だ。
写真は2年前の1月に宮古島に行った時の写真。
記念碑は光が当たりすぎて字が判読しづらいが、なんとなくWilhelmという文字が読めるような気がする。

 沖縄サミット後の琉球新報に、「宮古空港からうえのドイツ文化村までの県道に『シュレーダー通り』の愛称がつけられた」との報道があったが、私は標識などに気がつかなかった。沖縄のガイドブックにも記載されていない。
でもシュレーダーさん、心配しなくていいですよ。ちゃんとあなたの名前は沖縄に残っていますよ。


首里城を見学していたシュレーダー首相が同行していたガイドに尋ねた。
「この門は素晴らしい。なんていう名前の門なのか」
ガイドが答えた。
「守礼だ(シュレーダー)」

失礼しました。

日独交流150周年のシリーズは今回で終了です。次回は「ベルリンの壁崩壊」を私の体験を交えながらドキュメント形式でお伝えしたいと考えています。ご期待ください。

2011年8月28日日曜日

日独交流150周年(11)

(前回からの続き)
カダフィ大佐はヒトラーが選んだ道はとらずにドイツの技術者が作ったともいわれる強固な「地下要塞」から脱出した。国外に脱出したとの情報もある。
東からソ連軍、西から米英軍が大挙して攻めてきた第2次世界大戦末期のドイツとは状況は全く異なり逃げ道はいくらでもあった。反体制派といっても実態はいくつもの部族や地域の民兵組織の寄せ集めで、戦っている兵士にしてもテレビの映像を見る限りは普段着をきた若者が銃を乱射しているだけで、どう見ても戦闘のプロではない。一方のカダフィ派は最新鋭の兵器で抵抗を続けている。
反体制派はカダフィ派を制圧できるのだろうか。それともこのまま泥沼の状態が続き、第二のイラク、イエメンになってしまうのか。
話はそれるが、一時期、アラビア語を集中的に勉強していて、アラブ圏の国をいくつも旅行したことがある。イラク、イエメンにも行った。どちらもオイルマネーじゃぶじゃぶの国と違って古き良きアラブの雰囲気が残っていてとてもいい印象だった。イエメンでは何とドイツ語を使う機会もあったのでその時のエピソードは別の機会に。

日本に目を移すと、民主党代表選は海江田氏がリードとのニュースが目に入った。
民主党政権になって2年、だれが代表になっても月末には3人目の総理大臣が誕生する。自民党政権時代から6年連続で総理大臣が代わることになる。

映画「山本五十六」にこんな場面がある。
心ならずも三国同盟が締結された後、連合艦隊旗艦「長門」の執務室で山本が従兵とかわした会話。
山本「ところで私の従兵になってどれくらいになる」
従兵「はい、1年10か月であります」
山本「そうか、近頃の総理大臣よりよっぽど辛抱強いな」

当時も総理大臣はすぐに辞めた。
「欧州情勢は複雑怪奇なり」と言って辞職した平沼内閣は約8か月(昭和14年1月5日~同8月30日)。次の阿部信行内閣は約4か月半(昭和14年8月30日~昭和15年1月16日)。三国同盟を阻止したかった米内光政内閣は陸軍が陸軍大臣を辞任させ後任を推薦しないという挙に出て6か月であえなく総辞職(昭和15年1月16日~同7月22日)。日独伊三国同盟を締結した近衛文麿内閣はそれでも対米外交交渉を続けていたが、東條英機陸軍大臣に開戦を迫られ1年3か月で総辞職してしまう(昭和15年7月22日~昭和16年10月18日 第一次近衛内閣は昭和12年6月4日から昭和14年1月5日までの1年7ヶ月)。そして、近衛のあとを東條が継ぎ、対米開戦に突き進んだ。
第一次世界大戦後のワイマール共和国も同じような状況だった。ワイマール時代は小党が分立し不安定な政治状況が続いた。1919年2月13日のシャイデマン内閣の誕生から1933年1月28日のシュライヒャー内閣退陣までの約14年間で14回も首相が交代している。こういった混乱に乗じて勢力を伸ばしてきたのが国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)であった。

さて、現在の日本。やはり歴史は繰り返したくない。時事通信社が毎月行っている世論調査によると、8月の政党支持率は、民主党10.1%、自民党15.5%、公明党3.1%、共産党2.0%、みんなの党1.1%、その他0.4%、支持政党なし65.6%となっている。今のところ民主党、自民党に代わる大きな勢力は出ていないが、一般受けしそうなキャッチコピーを掲げ支持政党なし層をとりこんだら・・・。
考えたくない話である。

西ドイツでは第二次世界大戦後、ワイマール時代の反省から、得票率が5%に満たない政党は議席を獲得することができないという「5%条項(5%-Klausel)」が定められ、ドイツ連邦共和国建国の1949年以来、2大政党のCDU-CSU(キリスト教民主同盟-キリスト教社会同盟)、SPD(社会民主党)、中規模政党のFDP(自由民主党)、および最近では緑の党(Grünen)による比較的安定した政権運営と政権交代が行われている。

ドイツ連邦共和国の建国以来の首相
1949年~1963年 アデナウアー(CDU) CDU-CSUとFDPの連立
1963年~1966年 エアハルト(CDU)   CDU-CSUとFDPの連立
1966年~1969年 キージンガー(CDU)  CDU-CSUとSPDの大連立
1969年~1974年 ブラント(SPD)     SPDとFDPの連立
1974年~1982年 シュミット(SPD)       SPDとFDPの連立
1982年~1998年 コール(CDU)     CDU-CSUとFDPの連立
1998年~2005年 シュレーダー(SPD) SPDと緑の党の連立
2005年~      メルケル(CDU)   CDU-CSUとSPDの大連立
(2009年からはCDU-CSUとFDPの連立)

62年間で首相の交代はわずか8回。ドイツ統一を成し遂げたコール首相は4期16年、ドイツ統一のもう一人の立役者ゲンシャー外相(FDP)はSPDとの連立政権時代の1974年から1992年まで18年間も外務大臣を務めている。だからこそ、当事者の東ドイツや米ソ二大国、フランス、イギリス、ポーランドなどの近隣諸国との信頼関係を築き大きな仕事を成し遂げることができた。
毎年、首相や外務大臣がコロコロ交代してるようではこうはいかない。
(次回に続く)

2011年8月23日火曜日

日独交流150周年(10)

(前回からの続き)
今年の7月に半藤一利氏の『山本五十六』が平凡社ライブラリーから出版された。今回が3回目の出版とのことだが、やはり日米開戦70周年だから山本五十六が注目されているのだろうか。
また、対米開戦に反対した3人の提督については、阿川弘之氏の提督3部作『米内光政』『山本五十六 上・下巻』『井上成美』(いずれも新潮文庫)に詳しいので興味のある方はご参照いただきたい。
ここでもう一人の良識派、井上成美に移る前に、週末に見たドイツ映画『ヒトラー~最期の12日間~(Der Untergang)』(2004年公開)の感想を少し。
内容は日本語タイトルのとおり、ソ連軍がベルリンに迫り、総統官邸の地下壕にこもるヒトラーとその部下たちの人間模様、ヒトラーの自殺と終戦までを描いたもの。ヒトラー役はスイス出身の俳優ブルーノ・ガンツ。ちょび髭をはやし、八二ぐらいの横分けにして、興奮しだすと大きな声を出し、右手のこぶしを振り上げ、前髪が揺れて額にかかる演技は真に迫っている。
登場人物の誰もが破滅を前にして、物語は重く、暗く進んでいく。映画が終わってエンド・クレジットを見ている間も心の中に重たさが残り、頭の中には整理しきれない何かが渦巻いていた。
この映画で監督はヒトラーをどう描きたかったのか。女性秘書や子どもたちに時おり見せる優しさももちあわせていることを表したかったのだろうか。いや、そうではない。将軍たちに無理な命令を出し、反論されると逆上して大声で怒鳴るところはまさに独裁者だ。
そういったヒトラーのしぐさより、私にはゲッベルスの方が印象深かった。人間はどこまで人に忠誠を誓うことができるのか、それを示したのがゲッベルスだったからだ。
ゲッベルスは生粋のナチ党員で、1933年ヒトラー政権誕生後に新設された国民啓蒙宣伝大臣として入閣、数多くのアジテーション演説で国民の戦意を煽り、報道や芸術を統制し、映画、演劇、学問などあらゆる領域でナチ化を進めた。
ベルリンを離れヒトラーに全権委任を要求したゲーリング、、ヒトラーに重用されながらもヒトラーの冷酷さに疑問を抱きハンブルクに去るシュペーア、リューベックで連合軍に独断で降伏を申し出たヒムラーと異なりゲッベルスは最後までヒトラーとともにいて忠誠を誓った。
思い通りにならない将軍たちを怒鳴りつけるゲッベルス、ヒトラーからベルリンを脱出するよう命令されてめそめそするゲッベルス。そのゲッベルスが、ヒトラーの自殺後、遺言に基づいて総統官邸の中庭で死体をガソリンで燃やし、ナチ式敬礼をして最後の忠誠を誓う。炎に照らされたゲッベルスの狂気に支配された表情がなんともいえず異様だ。
ヒトラーから首相に任命されたゲッベルスも、その翌日、妻と6人の子どもたちとともに命を絶った。

歴史は繰り返す、と言う。
DVDを見終わったらちょうどNHKのニュースがリビア情勢について報道していた。
NATOの支援を得た反体制派は、首都トリポリを制圧しつつあるが、それでも独裁者カダフィ大佐は強気の発言をしている。さらに、国営放送の女性キャスターは銃を持ちながら「私たちは殉教者になる覚悟でいる」と言っている映像が紹介されていた。
今はもう反体制派が首都を制圧してカダフィ大佐の行方を追っているようだ。
果たしてカダフィ大佐はヒトラーのように自殺して、ガソリンで死体を燃やすよう命令したのか、銃を持った女性キャスターはゲッベルスのように殉教したのか。
繰り返してほしくない歴史である。

さて、ようやくもう一人の良識派、井上成美。井上はイタリア駐在の経験から、三国同盟のもう一人のパートナーであるイタリア人がいかに戦争に向いていない民族であるか見抜いていた。
確かにイタリア軍は弱かった。
1940年6月10日、ドイツのフランス侵攻に遅れること1ヶ月、漁夫の利を得ようとしてフランスに攻め込んだが、反対に国境線で撃退されてしまう。さらに、同年9月13日にはイタリア領リビアからエジプトに侵攻するが、12月に始まったイギリス軍の攻勢で壊滅的打撃を受ける。10月28日にはイタリアが併合したアルバニアからギリシャに攻め入るが、反対に押し返され、アルバニアの南半分を奪われてしまった。(翌年1月には、この機に乗じてイギリス軍がギリシャに上陸してきた)
そこで、翌年1月、ムッソリーニはヒトラーに助けを求めた。ドイツとしてもバルカン半島や北アフリカがイギリスの勢力圏内になってはかなわない。さっそく、2月にはロンメル将軍指揮のアフリカ軍団がリビアに派遣され、4月にはドイツ軍によるギリシャ攻撃が始まり、5月にはギリシャが制圧された。
井上が予測したように、イタリアはドイツにとってお荷物でしかなかった。

ここでふたたび笹本駿二氏の『第二次世界大戦下のヨーロッパ』に登場願う。笹本氏は、ムッソリーニの軽率な行動の代償は大きかった、と言っている。
なぜなら、ドイツのソ連攻撃が6月22日でなく、当初の予定どおり5月15日に始まっていれば二度目のモスクワ攻撃もひと月早い9月上旬に始めることができた。モスクワを攻略できたかどうかわからないが、「冬将軍」にひどく悩まされることもなかっただろう、と考えているからである。
ついでながら、井上も戦争に弱かった。
1941年(昭和16年)8月に、第一次世界大戦後、ドイツから取り上げた南洋諸島(内南洋)の防備を担当する第4艦隊の司令長官に任命され、開戦劈頭、内南洋にあるアメリカ軍基地のひとつウェーキ島に上陸作戦を敢行したが失敗。その後、真珠湾攻撃の帰りの機動部隊の応援を得てようやく攻略に成功した。また、翌年5月にはニューギニア島南部のポートモレスビー攻略を図ったが、やはり失敗。海軍内では「マタモ負ケタカ四艦隊」ともの笑いのタネにされた。
実戦には弱い井上ではあったが、学問には長けていた。
三国同盟締結で湧きかえる中、ヒトラーの著書『我が闘争(Mein Kampf)』を原書で読んでいた井上は、ヒトラーが日本人を侮蔑する記述をしているのを知っていたので、そんな相手と同盟を結ぶのか、と冷ややかだった。当時、日本に出回っていた抄訳では、都合の悪い箇所は訳されいなかったので、多くの人はそのことを知らなかったのだ。
今の日本では角川文庫から出ている上下二巻で全部を読むことができる。ちなみに私はブックオフで上巻100円、下巻400円で買った。独断と偏見とはまさにこの本のためにあるのではないかと感じた。読んでいて気分が悪くなる。それでも我慢して必要と思える箇所はひととおり目を通した。
(次回に続く)

2011年8月19日金曜日

日独交流150周年(9)

(前回からの続き)
 話は少し遡るが、1939年(昭和14年)8月にドイツがソ連との不可侵条約を締結する前のこと。日本国中でドイツとの軍事同盟締結の気運が盛り上がる中、ドイツとの同盟がアメリカとの戦争につながり、ひいては国の破滅をまねくことに気がつき、軍事同盟の締結に反対した3人の海軍軍人がいた。
 米内光政海軍大臣、山本五十六海軍次官、井上成美軍務局長(肩書は平沼内閣当時)である。
 特に山本は、アメリカ駐在の経験があり、享楽的と見られていたアメリカ人がいざ戦争になると本気でかかってくるヤンキー魂を見抜いていたし、日本とは比べものにならないくらいの工業力のものすごさを知っていた。
 東宝映画「山本五十六」(1968年(昭和43年)公開)では、ドイツとの軍事同盟に消極的な海軍の態度に苛立った陸軍の若手将校が海軍次官室に押しかける場面がある。

「いい加減に海軍も話を分かっていただきたい。盟邦ドイツと手を結ぶしかないでしょう」と軍事同盟への協力を迫る陸軍若手将校に、山本は「そんなにドイツと仲良くしたいのか。一度、アメリカに行って工場の煙突の数を数えてきなさい。日本の何千倍、いや何万倍あるか分からん」と諭すように話している。

山本は、同盟推進派からの脅迫状も連日のように届き、命を狙われるようになったので、遺書をしたためた。自分の身を犠牲にしてでも日本を破滅から救おうという覚悟であった。
 独ソ不可侵条約の締結により、日独軍事同盟の動きは下火になり、平沼内閣総辞職とともに山本は海軍次官を辞職し連合艦隊司令長官に任命された。1939年(昭和14年)8月30日のことである。これは連合艦隊がボディガードなら命も狙われないだろうという米内の配慮であったとも言われている。
 それにしても三船敏郎の山本五十六はかっこいい。なにしろ重みがある。前線激励のため一式陸攻に搭乗し、米軍機に撃墜されるラストシーンで、背後から銃弾が貫通し軍刀を握ったまま微動だにしない姿で死を暗示させるところは圧巻。ジャングルの中に滑り込むように墜落する特撮シーンも見ごたえがある。
 今年の12月23日には「聯合艦隊司令長官 山本五十六」が公開されるそうだ。山本役は役所広司とのこと。映画「ローレライ」では潜水艦長の役を演じて軍服姿もそれなりに様になっていたが、山本五十六はどうかなあ。
 それに、最近の映画はコンピューター・グラフィックを多用しているので、どうも嘘くさくていけない。年代がばれてしまうが、私は東宝の怪獣映画、ウルトラシリーズやサンダーバードで育った世代。特撮でどこまで本物に近い迫力を見せるかが映画の醍醐味と思っている。
 とはいっても、開戦直前までアメリカとの和平交渉成立に望みをもち、開戦後も早期講和の必要性を考えていた山本を描いているようなので、どこまで描き出しているか見に行ってみよう。ところで、今年は日米開戦から70年目。12月8日に公開したらさすがに同盟国アメリカを刺激しすぎか。
 
 多くの日本人は、ポーランド侵攻の1939年(昭和14年)9月1日より真珠湾攻撃の1941年(昭和16年)12月8日の日付を記憶しているだろう。
 もちろんドイツ人はその反対だが、ドイツ人は第2次世界戦争が終わったのもドイツが降伏した1945年(昭和20年)5月7日と思っている。
 あるとき、ドイツ人の友人たちと話をしていたらポツダムのことが話題になり、誰かが「戦後、ポツダムで会談が行われたんだよね」と言った。最初、私は聞き間違えたのかと思ったが、みんな「そうだね戦後だね」とか言っている。私は思わず「ちょっと待った。まだ戦争は終わっていないよ」とむきになって言い返した。(ポツダム会談のことは6月20日のブログで書いたのでご参照ください)
 するとドイツ人の友人たちは「まあ、そうカリカリするな。ドイツでは戦後だよ」とこともなげに言う。日本とヨーロッパ、認識の違いはこんなものなのかもしれない。
 終戦の話ではないが、日本にも良識派がいたことを知ってもらいたいので、ドイツ人にも「聯合艦隊司令長官 山本五十六」を見ることを勧めようかな。
(次回に続く)

(追記)
 例の家電量販店で「ブリキの太鼓」を買った。値段は1,780円、公開は1979年とある。今まで見ていたのがテレビから録画していたものなので画面の鮮明さは格段の差だ。
 ジャケットの写真を見開きで添付する。


2011年8月15日月曜日

日独交流150周年(8)

(前回からの続き、というより前々回からの続き)
 はたして欧州情勢は複雑怪奇だったのか。もちろんお互いに相容れないナチズムとコミュニズムが手を結んだのだから、世界中が驚いたことは事実である。
 しかし、当時のドイツの置かれた立場を見ると、必ずしも不思議なことではなかった。
 ドイツは、ダンツィヒとポーランド回廊(下図参照)の返還に応じなかったポーランドに侵攻し、返す刀でフランスを陥れ、一気にイギリスを攻める考えでいた。その間、背後からソ連に攻められることだけは避けたかった。二正面戦争を避けることはビスマルク以来、ドイツにとっての至上命題だ。
 独ソ不可侵条約に安堵したヒトラーは、条約締結からわずか1週間後の1939年(昭和14年)91日、ポーランドに侵攻、イギリス、フランスがポーランドとの同盟に基づきドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が始まった。
 ドイツ軍は航空部隊による先制攻撃と機甲部隊の集中投入による電撃戦(Blitzkrieg)で、旧式装備しか持たないポーランド軍をわずか1ヶ月で撃破した。このときソ連軍もポーランド領内に侵攻し、しっかり領土をせしめている。独ソ不可侵条約はポーランド分割の取り決めでもあったのだ。
  ドイツ軍の攻撃のすさまじさはギュンター・グラス原作の映画「ブリキの太鼓(die Blechtrommel)」を見るとよくわかる。
 「ブリキの太鼓」は、大人たちが酔っぱらって大騒ぎするのを見て、3歳のときに「大人にはならない」と心に決め地下室の階段から飛び降りて成長が止まった少年オスカルが主人公の物語。舞台は第一次世界大戦が終わりドイツ領から国際連盟管理下の自由市となったダンツィヒ。
 いつもブリキの太鼓を手放さないオスカルは、成長が止まったかわりに奇声でガラスを破壊する能力を身につけ、学校や近所でトラブルを引き起こす。一方、母親アグネスはドイツ人の夫アルフレートがいながら、従兄のヤン・ブロンスキーと奇妙な関係をもち続けていた。
 母親アグネスは(おそらく)ヤンの子どもを身ごもったことに気がつく。ところがストレスからか、毎日魚を猛烈に食べ続け、命を落としてしまう。
 ドイツ軍が攻めてきたとき、ヤンはオスカルに引き付けられるように勤め先のポーランド郵便局に入り、仲間たちと銃をとって籠城するはめになってしまった。
 このあたりの戦闘シーンは怖くなるくらいすごい迫力。
 ドイツ軍が攻めてくるまで建物の中で銃を構え息をひそめるポーランド人たちの緊張感。攻撃が始まると、砲撃や機関銃の銃弾で天井は落ち、部屋の中は破壊しつくされ、「ポーランド郵便局」の看板がかかる正面入り口も、正門も崩れ落ち、仲間たちは次々倒れていく。抵抗むなしく、夜明けには生き残った仲間とともにヤンは投降した。オスカルがヤンの姿を見たのはこのときが最後。オスカルは子供の姿だったのでドイツ兵に抱きかかえるように連れ出され無事だったが、捕虜になったポーランド人はみな銃殺されたことをあとで聞かされる。
 
 

 ワルシャワに入城したヒトラーは、二重の喜びだっただろう、と笹本氏は『第二次世界大戦下のヨーロッパ』で指摘している。
英仏はドイツに攻め込んでこない、と読んだヒトラーは、英仏の攻撃に備えて西部戦線にも主力部隊を残すべきと主張した軍首脳の反対を押し切り、ポーランド攻略に全力を注いだ。ワルシャワに入ったヒトラーは「歴史に前例のない輝かしい勝利」と有頂天だったが、「将軍たちにも勝った」という意味も含んでいたのでは、と笹本氏は言う。

 ヒトラーの読みは、西部戦線でも冴えわたった。当初、軍首脳は平坦なオランダ-ベルギー戦線に主力を投入する考えでいたが、ヒトラーは攻撃直前に軍参謀から提案のあったベルギー南部の丘陵地帯、アルデンヌの森に主力をもってくる作戦に独断で切り替えた。(位置関係は下図参照)
 1940年(昭和15年)5月10日、ドイツ軍はオランダ、アルデンヌの森、アルザス-スイス国境の3方面から侵入した。アルデンヌの森から攻撃した主力部隊は、フランスの不意を突き、一気にパリ迫っていった。フランス政府は6月11日に無防備都市宣言を行ってパリを放棄したので、パリの市街地は破壊を免れたが、6月22日にはフランス政府が降伏し、ドイツに協力するヴィシー政権が成立した。     
 以後、1944年8月25日に連合軍によって解放されるまで、パリはスワスティカ(Swastika)の旗のもと、ナチの軍靴に踏みにじられた。
  
 
 
 ドイツの快進撃は、独ソ不可侵条約以来、日本政府がもっていたドイツに対する不信感を吹き飛ばすのに十分であった。陸軍を中心に日本中が「バスに乗り遅れるな」とばかりにドイツとの軍事同盟の締結を急いだ。
 (次回に続く)

(追記)
 さて、「ブリキの太鼓」の続き。
 
 オスカルは、以前、両親に連れて行かれたときに知り合ったサーカスの道化師べブラと偶然、街中で出会う。10歳で成長を止めたべブラは、久しぶりの再会を喜び、オスカルをパリに連れて行く。そのときべブラはナチの前線慰問団の団長になっていて、軍服に身を固めていた。 
 オスカルはパリで「ガラス割りのオスカル」としてデビュー。同じ慰問団で、やはり成長が止まったロスヴィータ嬢との恋も芽生える。
 その後、べブラ一行はノルマンディーを巡業するが、時は1944年6月、押し寄せる連合軍の前に、オスカルたちは慌てふためいて軍用トラック車で逃げることになったが、ロスヴィータ嬢はコーヒー一杯を飲んでいる間に連合軍の艦砲射撃に吹き飛ばされてしまう。
 オスカルはダンツィヒの実家に戻り父親アルフレートと再会するが、今度は東から攻めてきたソ連軍の兵士に家に踏み込まれアルフレートは射殺されてしまう。
 原作は、戦後、オスカルが旧西ドイツに行った後も続くが、映画の方は、オスカルの乗った列車が西へ向かうところで終わる。

 
 
 まさに戦争に翻弄された一家の物語。
 ところが、それを悲しくもおかしくさせてしまうところがギュンター・グラス。映画の中でときおり入る「ボョョョョ~ン」という調子はずれな効果音がすべてを物語っているような気がする。

2011年8月7日日曜日

日独交流150周年(7)

(前回からの続き)
時代が時代だけに、どうしても内容が重苦しくなってしまう。そこで今回は少し気分転換を。

 日独交流150周年(4)で青島ビールのことを書いら飲みたくなったので久しぶりに買ってみた。
味はさっぱり系、やっぱり蒸し暑い夏は下面発酵のすっきりした味のビールに限る。イギリスのエールやドイツのバイツェンビールみたいな上面発酵ビールは冬に温かい部屋で飲む方がいい。
ラベルを見ると「since 1903」とある。ドイツが青島を占領したのは1896年。7年間どうしたのだろうか。日本でもすでにビールを醸造していたが、まさか三国干渉をした相手方からは輸入しづらいだろうな、個人的に醸造していたのではまかないきれないから本国からの輸入に頼ったかな、など勝手に想像する。
次に裏のラベルを見る。「原材料 大麦麦芽、ホップ、米」とある。
えっ、米?
確かビール純粋令(Reinheitsgebot)によると、ビール(Bier)は麦芽(Malz)、ホップ(Hopfen)、酵母(Hefe)、水(Wasser)だけでできていなくてはならないはず。いつから米が入ったのか?
日本の多くのビールに見られるように、米やコーンスターチを入れると湿潤な日本の気候に適したさっぱりした味のビールができる。でも、ドイツではこういったビールは造ってもいけないし、輸入もできないはず。
ビール純粋令は、1516年4月23日、バイエルン公ヴィルヘルム4世が公布したもの。
それがバイエルンで長年引き継がれ、ドイツ帝国成立後やワイマール共和国時代にはドイツ全土に適用された。第二次世界大戦後もめでたくビール税法(Biersteuergesetz)で公認されている。(旧東ドイツで適用されたかは不明→今度調べておきます)
 以前、ドイツの地ビールのことを書いた本を買ったことを思い出し、本棚をさがした。それがこの『ドイツ地ビール 夢の旅』(相原恭子著 1996年 東京書籍)。
ビール純粋令のことはこの本でも紹介されている。1995年からビール純粋令を記念して4月23日は「ビールの日」となり各地の醸造所やレストランで催し物や記念行事が行われたとのこと。バレンタインデーやクリスマスなどいろんな記念日を取り込んでいる日本が「ビールの日」に飛びつかないのは不思議な気がする。
この本では世界最古のビール醸造所ヴァイエンシュテファンに始まり地ビールゆかりの地を訪ねる旅を紹介している。文章もさることながら、何しろ写真がきれい。紹介されている街に行ってビールを飲みたくなってしまう。

青島ビールに話を戻すと、2009年にアサヒビールが青島ビールと提携して世界最大のビール消費国中国の販路を拡大したいとのプレスリリースをした。それによると青島ビールは中国ビール市場で占有率第2位とのこと。青島ビールはもはやドイツビールでなくなってしまったということか。少しさびしい気がする。

(アサヒビールのプレスリリース)

いろんなことを考えているうちに青島ビールを飲み干してしまったので、泡盛の水割りに移る。自分では軽い沖縄病に罹っていると思っている。だから最近は泡盛の水割り。「沖縄もの」の本によると、重度の沖縄病だと移住してしまうくらい沖縄が好きになってしまうようだが、私の場合は、寒くなって手の甲にあかぎれができて痛くなる1月から2月になると沖縄に行きたくなるくらいなので、勝手に軽症と診断している。
ところでドイツ人は日本人のようにチャンポンはしない。日本だと、まず中ジョッキの生で乾杯、その後はめいめいがチューハイや日本酒、最近だとハイボールという感じだが、ドイツではビールを飲む人は最後までビール、ワインを飲む人は最初の乾杯もワインだし、最後までワイン、という具合。
ドイツといえばビールを思い浮かべるが、ワインも負けてはいない。
私が住んでいたラインラント・プファルツ州の小さな街に近いライン川中流、フランスと国境を接する丘陵地帯はブドウ畑が広がっている。
10月になるとブドウ農家でも自家製のワインを造り、家の軒先に「新しいワイン(Neuer Wein)」と手書きで書いた小さな看板をぶら下げて売っている。買う人は自分で1ℓや2ℓのブラスチック容器を持参して買っていく。新しいワインは市販されている白ワインのように透き通っていない。濁ったリンゴジュースのような感じ。きちんと精製していないのでアルコール度数もわからない。地元の人には、甘くて口当たりがいいので飲みすぎないようにと言われる。
新しいワインによく合うのが玉ねぎケーキ(Zwiebelkuchen)。ケーキと言っても甘くはなく、小麦粉生地の上に、塩コショウで味付けして炒めた玉ねぎとベーコンをのせてオーブンで焼くもの。味はピザに近い。
秋にはクルミも採れる。脂分がじっとりしみこんだカリフォルニア産のクルミに慣れきっていたので採れたてのみずみすしいクルミは新鮮な味がした。
秋にドイツに行ったら「ワイン党」になった方がいいかもしれない。
 (次回に続く)

2011年8月1日月曜日

日独交流150周年(6)

(前回からの続き)
 第一次世界大戦後のドイツには強い反日感情がくすぶっていた。ヴィルヘルム2世の黄禍論で人種的偏見が広まり、さらにはドイツ領だった山東半島や南洋諸島を日本が横取りしてしまったからだ。 
 ところが、1933年にヒトラーが政権をとってから情勢は変わる。同じ年に日本、ドイツが国際連盟を脱退し、国際的に孤立してから両国の接近が始まった。それが形になったのが、ちょうど日独交流75年目の1936年に締結された日独防共協定である(翌年イタリアが加入し日独伊防共協定となった)。
 防共協定はドイツ語ではAnti-Komintern Pakt。直訳すると反コミンテルン条約。1935年にファシズムに対抗するため人民戦線戦術を採用したコミンテルン(及びその後ろ盾であるソ連)に対抗するものだった。 
 防共協定を軍事同盟にまでもっていきたかった日本はドイツとの交渉を進めていたが、1939年8月、ドイツはこともあろうに敵対しているはずのソ連と独ソ不可侵条約を締結してしまう。防共協定は全く有名無実のものになり、日独の交渉も一時中断する。当時の平沼麒一郎内閣は交渉行き詰まりの責任をとり、「欧州情勢は複雑怪奇なり」との迷セリフを残して総辞職してしまった。
だが、独ソ接近の兆候はあった。在ドイツ日本大使館も日本政府も気がつかなかった欧州情勢の変化を、当時、ヨーロッパに滞在していた笹本駿二氏は著書『第二次世界大戦前夜』(岩波新書 1969年)で指摘している。
 笹本氏は、1938年5月に日本からヨーロッパに派遣された新聞社の特派員。彼は著書の中で、最初の滞在地がスイスだったのは何といっても幸運だった、日本では間違ったヒトラー像を押しつけられていたが、中立国のスイスでは公平な立場での報道に接することができた、としみじみ振り返っている。
 詳細は著書に譲るとして、この『第二次世界大戦前夜』と続編である『第二次世界大戦下のヨーロッパ』(岩波新書 1970年)は名著である。
簡潔な文体に引き付けられて、ズデーデン問題とそれに続くミュンヘン会談、ドイツ軍のチェコスロバキア占領、英仏ソの軍事会談、ヒトラーとスターリンの交渉など次から次へと続くできごとに引き込まれ、大きな戦争を予感させる緊張感に包まれたヨーロッパに、あたかも自分がいるような感覚にとらわれてしまう。
 この2冊を読み返して、高校時代に初めて読んだとき、海外特派員になって世界の大きなできごとを日本に伝えるんだ、と心に決めたことを思い出した。もちろん、その夢はかなっていないが、こうやってドイツのことを調べたり、ブログで公開しているのは、そのころの思いがわずかではあるが心の片隅に残っているからなのかな、と思う。
(次回に続く)

2011年7月29日金曜日

日独交流150周年(5)

(前回からの続き)
 日独交流150周年を書くきっかけとなった写真展「歴史と未来を紡いで」は7月31日で終わってしまうので、ここで展示されている写真のいくつかについてコメントしたい。
 「第1次世界大戦」のコーナーにはヒンデンブルクが地図を指し示しながらヴィルヘルム2世に作戦を説明する「ヒンデンブルク元帥と皇帝ヴィルヘルム2世ら」という写真がある。
 ヒンデンブルクは、開戦劈頭の1914年8月下旬、第8軍司令官としてドイツ東部国境のタンネンベルクでロシア軍を壊滅させ、一躍、国民的英雄になった。しかし、実際に指揮をとったのは写真のキャプションで「ら」と表現された参謀長のルーデンドルフであった。
 1916年、ヒンデンブルクが参謀総長に任命されると、ルーデンドルフは参謀次長に就任し、事実上、ドイツの戦争指導にあたり、軍事独裁体制を確立した。ヒンデンブルクは単なる「お飾り」であった。
 写真の撮影年は不明とのことであるが、直接、皇帝に作戦を説明するのは陸軍トップの参謀総長しか考えられないので、1916年以降に撮影されたものだろう。少し離れてヒンデンブルクが余計なことを言わないか心配しているように見えるルーデンドルフが印象的。
 「お飾り」であったヒンデンブルクは戦後も国民的人気は衰えず、1925年、ワイマール共和国大統領に就任してしまう。1932年には、当時84歳の高齢であったがヒトラーが大統領になるのを阻止するため大統領選に立候補し、再選されたが、1933年1月にはついにヒトラー内閣の成立を許してしまう。ここにワイマール共和国は終焉を迎え、ナチスの支配が始まった。
 もちろんヒトラーを首班に指名する権限をもっていたのは大統領であり彼の責任は免れないが、ナチスの台頭を前に、その力を過小評価し、党内対立や政党間の綱引きに明け暮れていた社会民主党、中央党、共産党をはじめとした他の政党の責任は大きい。政党間のごたごたの中、数の上では第1党であったとはいえ過半数に達していなかったナチス以外に組閣できる政党はなかったのだ。

 「ドイツ兵捕虜収容所」のコーナーには日本が収容したドイツ軍捕虜は約4,700人との説明書きがあり、日本で初めてベートーベンの第9を全部演奏したのはドイツ人捕虜たちであったとも書かれている。四国88か所の第一番札所、霊山寺(りょうぜんじ)の前でオーケストラが演奏する場面もある。
オーケストラといえば、先日、6月下旬から7月1日まで日本で講演する予定だったドレスデン交響楽団の来日が中止になった、との報道があった。放射能汚染に対する不安から楽団員の合意がとれなかったとのことであったが、日独交流150周年の一環でもあり、廃墟から復興した経験のあるドレスデンだからこそ来日中止は残念。
(次回に続く)

2011年7月24日日曜日

日独交流150周年(4)

(前回からの続き)
 三国干渉の次の日独の接触は第一次世界大戦だ。
 その前に第一次世界大戦に至った経緯と世界情勢についておさらいしてみる。
 
 ドイツ皇帝・ヴィルヘルム2世の野望はとどまるところを知らなかった。
 1898年には艦隊法が、1900年には第二次艦隊法が帝国議会で可決され、ドイツの大艦隊建設が始まった。その立役者は海軍大臣ティルピッツ。第一次世界大戦末期には無差別潜水艦作戦を遂行し中立国の非難を浴びて辞職しているが、戦後、帝政派政党の国家人民党の国会議員として復活している。
 前回は対英関係の悪化について詳しく書かなかったが、英独間の対立は世界史の教科書によく出てくる3C政策と3B政策の衝突であった。英独の建艦競争は、両国間の緊張の高まりに応じて次第にエスカレートしていく。
 イギリスはインドのカルカッタ(Calcutta 現コルカタ)、エジプトのカイロ(Cairo)、南アフリカのケープ(Cape Town)を結ぶ三角地帯を勢力下に収めようとした(3都市の頭文字をとって3C政策と呼ばれた)。イギリスは、1875年にスエズ運河を買収したが、カイロとケープタウンを結ぶ鉄道の建設は、1893年にドイツがフランスと組んで断念させた。
 一方のドイツは、トルコから現在のイラクにつながる「バグダード鉄道」敷設権が1901年にトルコのスルタンから認可され、中東進出の足掛かりを得ることになった。ドイツの中東進出政策は、ベルリン(Berlin)、コンスタンティノープル(かつてのビザンティウム(Byzantium)、現在のイスタンブール)、バグダード(Bagdad)の頭文字をとって3B政策と呼ばれ、中東に利害関係をもつイギリス、ロシアと鋭く対立した。
 世界各地で列強の利害が複雑に対立する中、イギリスは「光栄ある孤立」を放棄して、まず、東アジアにおけるロシアの南下策に対抗して1902年に日英同盟を締結した。次に、1904年に英仏協商、1907年に英露協商を結んだ。ここに露仏同盟と併せて英仏露の三国協商が成立し、独墺伊の三国同盟と激しく対峙することとなり、ヨーロッパの緊張感は一気に高まった。 
 1914年(大正3年)6月28日、オーストリア皇太子フランツ=フェルディナンド夫妻が暗殺されたサライェボ事件は、オーストリアとセルビア(と後ろ盾のロシア)だけの争いに止まらず、第一次世界大戦へと発展した。ドイツは8月1日にロシアに対して、8月3日にはフランスに対して宣戦布告、イギリスは8月4日にドイツに対して宣戦布告し、ヨーロッパの戦端が開かれた。
 その3日後、イギリスは同盟国日本に対して、山東半島の膠州湾を根拠地とするドイツ艦隊攻撃の助力を求めてきた。不況と日露戦争の外債の圧力のあえいでいた日本にとって参戦の誘いはまさに「天佑」であった。それに山東半島を獲得できれば中国進出の足掛かりになる。
 8月23日、日本はドイツに宣戦布告した。
 10月31日、日本はイギリスと協力して青島要塞への攻撃を開始し、11月7日、ドイツ軍は降伏した。このとき日本海軍の水上機母艦(当時は「航空隊母艦」)「若宮丸」は、搭載した水上機により爆撃を行っている。軍艦が搭載した航空機を使って爆撃を行ったのは、史上初めてのことであった。
 青島要塞の爆撃は映画になっている。東宝が1963年(昭和38年)に公開した「青島要塞爆撃命令」。史実をもとにしたフィクション映画であるが、そこは東宝の戦争映画や「ゴジラ」など怪獣映画の特撮を手がけた円谷英二が特技監督だけあって、空中戦や海戦の特撮シーンの迫力はさすが。水上機が弾薬を積んだ機関車を追いかけ爆破するクライマックスシーンは思わず身を乗り出してしまう。地上戦の実写のシーンも真に迫っている。
 なお、このDVDは某家電量販店で購入したが、「邦画チ」でなく「邦画ア」のコーナーに入っていた。店員さんは「アオシマ」と読んだのだろう。その後しばらくして同じ店に行ったら、すぐに補充されていたが、やはり「邦画ア」のコーナーに入っていた。ご購入される方はご注意を。
 余談になるが、青島の街並みは「恋の風景」という中国映画で見た。戦争とは全く関係ない映画だが、主人公の女性が旧市街地を歩くシーンがよく出てくる。旧市街地には昔の街並みが残っていていい雰囲気の街。ドイツ人が醸造技術を持ち込んで作ったので青島ビールはおいしいとドイツ人は自慢する。いつか行ってみたい街の一つ。

 日本新聞博物館で開催されている写真展には、青島のドイツ兵の様子や、プロペラ戦闘機の写真が展示されていたので、青島攻撃当時の雰囲気を垣間見ることができるのでは。

 日本海軍は太平洋、インド洋、さらには地中海にまで艦隊を派遣している。
 10月には巡洋戦艦1隻、装甲巡洋艦1隻、駆逐艦2隻他からなる第1南遣支隊、戦艦1隻、巡洋艦2隻他からなる第2南遣支隊を太平洋に派遣してドイツ東洋艦隊を追撃し、10月中には赤道以北のドイツ領南洋諸島を占領した。
 1917年(大正6年)2月には、南シナ海、インド洋方面の通商保護のため、巡洋艦4隻、駆逐艦4隻からなる第1特務艦隊を派遣した。カバーしたエリアは広く、紅海や南アフリカ海域まで作戦行動に従事した艦もあった。
 同じ2月には、イギリスからの要請に応じて、ドイツの無制限潜水艦作戦に対抗して、連合国艦船の保護のため、巡洋艦1隻、駆逐艦8隻(のち駆逐艦4隻増派)からなる第2特務艦隊を派遣し、マルタ島を基地として連合国艦船の護衛に従事した。
 しかし、当時の最新鋭巡洋戦艦「金剛」「榛名」「比叡」「霧島」のイギリスからの応援要請には、できたばかりの軍艦がすぐに沈んでは日本海軍にとって大きな打撃となってしまうので、訓練不十分を理由に丁重にお断わりしている。なお、「金剛」「榛名」「比叡」「霧島」の4隻は2度の改装ののち、高速戦艦として生まれ変わり、太平洋戦争で活躍している。
(次回に続く)

 

2011年7月22日金曜日

日独交流150周年(3)

(前回からの続き)
 1834年のドイツ関税同盟発足以来、プロイセン主導のもとに進められていたドイツ統一は、1870年7月19日に始まった普仏戦争でフランスを破り、南ドイツ諸邦をプロイセンの影響下に収めようやく完成することとなった。
 フランスのナポレオン3世は9月2日に早々と降伏し、プロイセンのパリ入城に先立つ1871年1月18日、ヴェルサイユ宮殿鏡の間で、プロイセン国王ヴィルヘルム1世のドイツ皇帝即位式が行われ、ここにドイツ帝国が成立した。プロイセン首相ビスマルクも同時にドイツ帝国宰相に就任し、以後、ドイツの内政外交において辣腕ぶりを発揮した。
 特に外交政策では普仏戦争後も敵対するフランスを孤立化させ、フランスとロシアを同時に敵に回す二正面戦争を回避するためロシアとの友好関係を築き、併せて、バルカン半島で利害対立するロシアとオーストリアの仲介役を果たすなど、巧みにヨーロッパにおけるドイツの安全保障の確立に努めた。
 (ビスマルクの安全保障外交の動き)
  1873年 独墺露三帝協約(君主制維持で一致)
      (三帝は、ドイツ・ヴィルヘルム1世、オーストリア・フランツ=ヨーゼフ1世、
       ロシア・アレクサンドル2世)
  1881年 独墺露三帝条約(3国のいずれかが3国以外の国と開戦した場合、他の
      2国は好意的中立を守る秘密条約、有効期間は3年)
  1882年 独墺伊三国同盟(フランス包囲網)
  1884年 独墺露三帝条約更新
  1887年 独露再保険条約(オーストリアとロシアが対立し、三帝条約が継続が不
       可能になった際の保険)
  
  また、領土的野心のないビスマルクであったが、ドイツ国内での世論に押され、やはりここでも列強との対立を避けながら巧みに海外植民地を獲得していった。ヨーロッパ列強のアフリカ分割に際しては、1881年 ドイツ領東アフリカ(現在のタンザニア)、1884年、南西アフリカ(現在のナミビア)、トーゴ、カメルーンを保護下に置き、南太平洋でも、同じく1884年にはニューギニア北東部(現在のパプアニューギニアの北半分)を保護領にして「カイザー=ヴィルヘルム=ラント」と命名し、その北の島嶼部(現在はパプアニューギニア領)を保護領としビスマルク諸島とした。
 (参考)外務省ホームページのパプアニューギニア紹介ページ
    ↓
  http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/png/index.html

 しかし、1888年にヴィルヘルム1世が没してからドイツの外交政策は一変する。跡を継いだヴィルヘルム1世の長子フリードリッヒ3世が在位99日で病没し、フリードリッヒ3世の長子ヴィルヘルム2世がわずか29歳でドイツ皇帝の座についた。
 野心家のヴィルヘルム2世にとってビスマルクはうっとおしい存在であり、皇帝と衝突したビスマルクは1890年辞任してしまった。ビスマルク外交の主眼はドイツの安全保障の確立であったのに対して、ヴィルヘルム2世の外交は、軍拡を進め、積極的に海外進出を図る「世界政策」であった。しかし、それは敵を増やし、ドイツを窮地に追いやることとなったと同時に、日本との対立の構図も浮かび上がらすこととなった。
 まずは1890年。ドイツはロシア側の求めに対し独露再保険条約の更新を拒否した。その後、ロシアはフランスに接近し、1892年、露仏軍事協約が締結された。恐れていた二正面戦争の危機が迫ってきたのだ。
 続いて1893年には積極的な植民地政策により対英関係も悪化した。
 すると今度は東アジア政策でロシアと同一歩調をとるようになった。1895年には、ロシア、フランスとともに、日清戦争で日本が獲得した遼東半島の領有に干渉し、清に返還させるという事件がおこった(「三国干渉」)。←ようやく「日独交流」が出てきた
 ヴィルヘルム2世は日本の軍事力の伸長を恐れていた。彼は「黄禍論」をとなえ、日清戦争に圧倒的勝利を収めた日本が中心となって黄色人種が政治的に結束する脅威を強調し、これに対抗すべき、と説いた。三国干渉は「黄禍論」に基づいた行動であった。
 遼東半島を清に返還した見返りとしてドイツは、1897年、山東半島の膠州湾を租借した。その前年には宣教師殺害事件を口実に、膠州湾の入り口にある青島(チンタオ)を占領している。
 さらに1898年には米西戦争に敗れたスペインからマリアナ、カロリン、パラオ諸島を買い取り、サモア諸島をアメリカと分割するに及び、ドイツは太平洋と東アジアに大きく勢力を伸ばしていった。
(次回に続く)

 

 
 

2011年7月15日金曜日

日独交流150周年(2)

(前回からの続き)
 江戸幕府がプロイセンと日普修好通商条約を締結したのは、年の暮れも押しせまった万延元年12月14日。西暦では1861年1月24日、今年はそれから150年目にあたる。 
 この条約は、安政年間に締結された米、蘭、露、英、仏との「安政五か国条約」と同様、日本に不利な不平等条約であった。
 幕末には悪いことがあるとすぐ改元してわかりづらいので、ここで西暦と元号の関係を整理する。なお、できごとは主に条約関連のものを記載した。日付は旧暦で表示した。 
 1858年 安政5年  6月19日 日米修好通商条約締結
              7月10日 日蘭修好通商条約締結、その後7月中に、ロシア、イギリス、
                    フランスと立て続けに修好条約を締結(以上、安政の五か国条約)
 1859年 安政6年  6月2日 神奈川(のち横浜に変更)、長崎、箱館で米、蘭、露、英、仏
                   と自由貿易を開始
                  (西暦では7月1日だが、私の住む横浜では毎年6月2日を開港記念日 
                   として祝っている。この日は横浜市立の小中学校は休みなので、子
                   どものときはうれしかった)
 1860年 安政7年  3月3日 桜田門外の変。大老 井伊直弼斬殺される。
                  (開港によりその後の繁栄の基礎を築いた井伊直弼は横浜の恩人。 
                   今ではみなとみらい地区を見下ろす丘にある公園に、港の方向を
                   眺める井伊直弼像が立ち、その公園は井伊掃部守(かもんのかみ)
                   にちなみ掃部山公園と呼ばれている) 
      万延元年  3月18日 江戸城本丸炎上により万延に改元 
 1861年         12月14日 日普修好通商条約締結
        万延2年
      文久元年  2月19日 辛酉革命説により文久に改元(この年の干支は辛酉)
 1862年  文久2年   8月21日 生麦事件
 1863年  文久3年
 1864年    文久4年
       元治元年  2月20日 甲子革命説により元治に改元(この年の干支は甲子)
 1865年  元治2年    
                 慶応元年   4月7日 前年に勃発した禁門の変と京都大火により慶応に改元         
 1866年 慶応2年   
 1867年 慶応3年   10月14日 大政奉還

日普修好通商条約が締結されたのが、万延元年。プロイセン公使館を探す手がかりとした地図は文久二・三年の横浜地図なので、条約締結から1~2年。最初は他にあったものが(場所は不明)、この地に移ってきた。海側がプロイセン、その後ろがオランダとなっている。
 しかし、横浜開港資料館で見た慶応年間の横浜地図によると同じ場所はフランス領事館とオランダ領事館が並列している。その地図にはプロイセン領事館の位置はどこにも示されていないが、2~3年でまた他の場所に移ったのだろうか。
 1871年の普仏戦争でフランスを破りドイツ統一を成し遂げたプロイセンが、その4~5年前、逆にフランスに追い出された(?)形になっている。
 横浜開港資料館は、関東大震災後に再建された旧英国領事館。今でも当時の状態で保存されている。プロイセン公使館や他の在外公館もこんな感じだったのかなと想像して写真を撮った。

(横浜開港資料館の公式サイト)
  ↓ 

 さて、横浜に繁栄をもたらした列強との条約、開港であったが、不平等条約であったため、明治政府に外交上の大きな問題を残すことととなった。
 それでも明治政府の懸命の交渉、日清・日露戦争の勝利による国際社会での地位の向上などにより、長い年月がたってようやく欧米列強との不平等条約は改善された。日独間の治外法権が廃止されたのは条約締結35年後の1896年(明治29年)、関税自主権が回復したのは、なんと50年後の1911年(明治44年)であった。
 しかし、日独関係はこのあたりから対立の構図が際立ってくることになる。
(次回に続く)

2011年7月12日火曜日

日独交流150周年(1)

 2011年は日独交流150周年。
 今日、横浜の日本新聞博物館で開催中の日独交流150周年記念写真展「歴史と未来を紡いで」を見に行ってきた。そこで、前回のブログでアナウンスした「ベルリンの壁崩壊の過程」は次のシリーズにして、これから何回かに分けて日独交流150周年について、思いついたことを書いてみたい。

 日本新聞博物館企画展のサイト
   ↓
  http://newspark.jp/newspark/floor/info.html

 写真展に出展されている作品は約130点。「産業・科学」「政治・外交」「スポーツ」などのジャンルに分かれていて、見やすくなっている。
 「産業・科学」のコーナーでは、東ドイツの国民車「トラバント」が3台、白い煙を排気筒から勢いよく吐き出しながら街の中を疾走している写真があった。排ガス規制のなかった東ドイツでは、有害物資は出し放題。街中を歩いているときの鼻にツンとくる臭いと胸が息苦しくなる感触を思い出した。
 撮影年月日を見ると、1989年11月24日とある。国境が開放され、ベルリンの壁が事実上崩壊したのが11月9日。すでに自由に通れるようになった検問所に向かっているところなのだろうか。気のせいか明るさと勢いを感じる。
 「ベルリンの壁」というコーナーもちゃんとある。東ベルリンの壁の向こうから見えるソ連の戦車2台が砲塔をこちらに向けて構えているのが不気味。ドイツ統一の日、ブランデンブルグ門に市民が集まり祝っている光景は映像でも何度も見た。
 日独交流150周年と言いつつ、興味の対象はやはりドイツ統一、東西ドイツに向いてしまう。
 しかし、今回のシリーズでは、特に「世界大戦」をキーワードに日独交流史を見ていきたい。
 日独両国は第1次世界大戦では戦火を交え、150年のちょうど真ん中にあたる75年目の1936年には日独防共協定が締結され、第2次世界大戦では枢軸国として連合国と戦った。写真展にも「第1次世界大戦」「ドイツ兵捕虜収容所」「政治・外交/戦前」というコーナーがあったので、それらの写真にも触れながらが話を進めてみる。
(次回に続く)


写真は、上が日本新聞博物館。
ついでに、文久二・三年の横浜地図を手がかりにプロイセン公使館の場所を確認しようとしたが、結局わからなかった。おそらくここではと思ったのが、旧生糸検査所、現在は、法務局や労働局など国の出先機関が入っている横浜第2合同庁舎。写真下は生糸検査所の趣を再現した入口。
場所はここです。
 ↓
http://publicmap.jp/print/20614404

2011年7月11日月曜日

二度と行けない国「東ドイツ」(7)

(前回からの続き)
 今まで訪れた海外の街の中で一番好きな街は、と聞かれると、「プラハとブハラ」と答えることにしている。もちろん他にも好きな街はたくさんあり、それぞれの良さがあるので、どれが一番かと言われると困ってしまうが、語呂の良さと思い入れの強さからか、あるとき人から聞かれて自然と口から出てしまったので、あながちはずれてはないだろう。
 プラハはそれほどまでに好きな街。プラハについて語っているといつまでたっても終わらないので、別の機会に登場いただくとして、ここは先を急ぐ。
 そう、今回のテーマは「東ドイツ式外国人歓迎法」だ。なぜ東ドイツの人は外国人観光客に冷たいのか。それはモスクワからの帰りの飛行機で偶然判明した。
 モスクワ発成田行きのアエロフロートはヨーロッパ各地から多くの日本人を乗せて飛んでくる。私が乗ったのは東ドイツから来た便で、隣には東ベルリンに1年間住んでいるという日本人女性が座っていた。
 私は、東ドイツでの体験を話した。するとその女性は、
「そうなんです。東ドイツの人は外国人に冷たいんです。私にもこんな経験がありました。朝、アパートの窓を開けて、たまたま向かいのアパートの東ドイツ人の女性が窓を開けていていました。目が合ったので挨拶しようとしたら、その女性はあわてて窓をバタンと閉めてしまいました」
「なんでそんな対応をするのですか」
「悲しいことですが、東ドイツは強い相互監視の社会なのです。西側と認識されている私たち日本人と何か話をしていたというだけで密告され、社会的地位を失ったりするんです。だから、西側の人間とは関わりをもちたくないのです。シェーネフェルト空港であなたに声をかけた中年の女性は、困っている外国人観光客を助けてあげたいという気持ちがよっぽど強かったのでしょう。それでも、『道を教えてあげているだけですよ』と周囲に強調したかったので、ドイツ語でなく外国人でもわかる英語で話しかけてきたのです」
「相互監視の社会、ですか」
 やっぱり二度と行きたくない、私はあらためてそう感じた。
 国家保安省(Ministerium für Staatssicherheit)、略して「シュタージ(Stasi)」という諜報組織があることを知り、詳しく調べるようになったのは、それから数年後のことであった。

 ドレスデン中央駅の食堂で会った革ジャン君たちの話はしなかった。でも、なぜ彼らが外国人と親しく話をしたのか察しはつく。彼らは、社会主義体制の枠外にいるので自由に振る舞えるのだ。
 それにしても、こんな国にみんなよく我慢していられるな、と思ったが、実は、ハンガリーがオーストリアとの国境の鉄条網を撤去した5月から8月中旬までに、ハンガリー経由で約7000人の東ドイツ市民が西側に脱出して大きなニュースになっていた。日本に帰ってから初めて知ったが、すでに私の東ドイツ滞在中からベルリンの壁崩壊の過程は始まっていたのだ。
(「二度と行けない国『東ドイツ』」の項は終わりです)

(追記)
 「次の機会に」と先送りした宿題が次から次へと増えてしまった。ドレスデン中央駅を包む緊張、プラハ、シュタージ、ベルリンの壁崩壊の過程。関連する部分もあるが、少しづつ触れていくことにしたい。
 それから、冒頭の「ブハラ」は中央アジアのウズベキスタンにある中世の趣を残している街。プラハも、幸いにして二つの大戦で大きな被害を受けず、中世の面影がそのまま残っている。

2011年7月9日土曜日

二度と行けない国「東ドイツ」(6)

(前回からの続き)
 入国審査のあとは検札。赤ら顔で小太りの車掌がコンパートメントに顔を出した。まずチェコ人のおばさんの切符に目を通し、黙って返す。続いて私。財布から切符を出して車掌に渡す。すぐ返すのかと思ったら、なんと
「この切符ではプラハに行けない」と言い出す。
「そんなことはない。日本でちゃんとプラハまで注文したんだ」と言い返す。
すると車掌、
「この切符ではひとつ前の駅までしか行けない」
「プラハって書いてあるじゃないか」
「いや、これでは途中で降りてもらうしかない」
 しばらく押し問答がつづいたあと、車掌はあごをしゃくって、
「ちょっと来い」と言う。
 仕方なくついて行く。2両ほど歩いただろうか、車両の連結部で車掌が立ち止りこちらを振り向いた。
「おい、お前、西ドイツの50マルク札をもっているだろ」
 しまった、切符を出すとき、財布の中を見られたのだ。
「あれをよこせば許してやる」
 なんだ、この車掌はワイロがほしかったのか。
 50マルクといったら大金だ。当時のレートは1マルク80円ぐらいだったろうか。約4,000円だ。
ワイロを要求されることがわかっていたら、少額紙幣を用意していたのに、と思ったがもう遅い。持っている外貨はこれだけで、あとは日本円だ。
 あれこれ考えたが、いい知恵も浮かばず、この窮地から脱却するには50マルク札を渡すしかなかった。
 50マルクを受け取った車掌は、もういい、といったしぐさを見せて、私たちのコンパートメントとは反対の方向に歩いていった。
 コンパートメントにもどり、向かいに座っているおばさんに一部始終を話すと、おばさんは右手で自分の前を払うようなしぐさを見せ、「50マルク!」と言って天を仰いだ。

 プラハにはどうにかたどり着くことができた。夕暮れの迫るホームを歩いていたら、人ごみの前の方に、ワイロ車掌が歩いているのが見えた。
 私たちは、
「ああやって小遣い稼ぎしているんだろうな」とか、
「今日は家族においしいものを買って帰るんだろうな」とか言って、うさを晴らすしかなかった。
 
 東ドイツの暗い街からきたせいか、プラハの街はオレンジ色の街灯があちこちに輝いて、明るく感じられた。レストランにも何の問題もなく入ることができ、夕食をとった。
 メニューは直径20㎝以上ある骨付き豚肉のかたまり。ナイフとフォークで格闘しながら食べた。もちろんチェコビールを飲みながら。
 実は、今回の旅行では8ミリビデオをもっていった。このブログを書くため押入れから久しぶりに出したが、故障して動かない。この料理も撮ったのだが、残念ながら見ることができない。ビデオで撮っていたので、写真は撮らなかった。
 その晩、豚肉の食べすぎか、床についた時、ものすごい胸焼けに襲われたが、おいしい料理をたらふく食べ、おいしいビールをたっぷり飲むことができた喜びにひたりながら眠りにつくことができた。
(次回に続く) 

2011年7月6日水曜日

二度と行けない国「東ドイツ」(5)

(前回からの続き)
 実は、「二度と行けない国『東ドイツ』」は、1983年に出版された『行ってみたい東ドイツ~DDRの魅力』(サイマル出版会)へのアンサーソングだ。行ってみたいけど、もう二度と行けない。
 その本の裏表紙には、
 「歴史的な首都ベルリン、バロック芸術の街ドレスデン、静寂が身を包むチューリンゲンの森、石畳にバッハが流れる商業の街ライプツィヒ。ポツダム、ワイマール、そして中世の繁栄を伝える港町ロストックなど・・・DDRにはさまざまな顔がある」
と高らかにうたわれている。東ドイツは見どころが多い。これはまぎれもない事実だ。
 本文でも、それぞれの街や森が紹介されていて、写真もふんだんに使われれているので、読んでいるだけで楽しい。旅のガイドブックとしては今でも十分に通用すると思う。
 DDRを訪問した日本の著名人の短い旅行記も掲載されている。もちろん、彼らは私たちのような「招かれざる個人旅行者」ではなく、東ドイツ政府に「招かれた来賓」として歓待されたので、レストランで食事ができなかったという体験はない。
 産業や文化についても良いことばかり書かれ、工業については「世界で最も工業化の進んだ国の一つ」と称えられている。実態があまりにひどかったのは、当時の西ドイツでさえ見抜けなかったことは第1回目のブログでも触れた。
 DDRトラベル情報にはインターホテルのことが出ていた。
 「外国人観光客の場合は、そのほとんどがインターホテルに宿泊している。日本人観光客が宿泊するホテルでは、日本人向けのサービスとして、浴用スリッパ、浴衣などが用意されている」とある。
 しかし、浴衣はなかったように記憶している。まあ、バロック芸術の街で浴衣もないと思うが。
 また、インターホテル・チェーンは、DDR国内に31のホテルをもつとのこと。やっぱり統一後は、チェーンごと西側の資本に買収されたのだろう。
 右の写真は『行ってみたい東ドイツ』の表紙。出版社も廃業して、本も絶版になっているが、図書館にはあると思うので、興味のある方はご一読を。

 さて、次の目的地はプラハ。親しく話をした若者にも出会えたが、東ドイツの人たちの冷たい対応にはほとほと疲れ、「もう二度と来たくないな」と思いつつ、私はドレスデンからプラハに向かう列車に乗った。
 繰り返しになるが、旧DDRには見どころが多い。列車は途中、「ザクセンのスイス(Sächsische Schweiz)」と呼ばれる渓谷地帯を縫うように通っていく。奇岩がそそり立つ山肌や、澄み切った川面を見ながら、同じコンパートメントで向かいに座ったチェコ人のおばさんと話をしているうちに沈んでいた気持ちも少しづつ和らいできた。

(ザクセンのスイスについてはザクセン州のホームページをご参照ください)
  ↓
http://www.regionen.sachsen.de/1601.htm

 チェコ人のおばさんは東ドイツの知り合いのつてをたよって買い出しに行ってきたとのこと。座席の横には大きな包みがある。
 列車が走っているうちに出入国管理官がコンパートメントに回ってきて、入国手続きを行う。私たちは無事、チェコスロバキアに入国できた。黄金のプラハ、我が愛すべきフランツ・カフカの生まれ育ったプラハはあと少しだ。
 ところが、プラハに着く前にまた思いもかけぬトラブルに見舞われることになる。
(次回に続く)


(写真の説明)
 上は東ドイツのビザ。都市および農村の勤労者を表す穂の輪に囲まれた鎚とコンパスのエンブレムのスタンプが誇らしげに押されている。
 下は東ドイツの紙幣と硬貨。20マルク札の肖像はゲーテ。ゲーテの下には1マルク硬貨を表裏にして置いた。ここにも東ドイツのエンブレムが。それにしても1マルクは軽い。アルミニウムでできていてまるで1円玉のよう。軽いのは重さだけでなく、価値も軽かった。ドイツ統一にさきがけ1990年7月の東西ドイツの通貨同盟では公称の交換レートは1:1だったが、実際には1:5またはそれ以下だったと言われている。

2011年7月2日土曜日

二度と行けない国「東ドイツ」(4)

(前回からの続き)
 私たちはドレスデンの旧市街を中心に散歩していた。ちょうどブリュールのテラスあたりを歩いていたとき、若い女性の先生に連れられた幼稚園ぐらいの子どもたちの一群と出くわした。子どもだったら冷たい反応はしないだろうと思い、私は手を振ってみた。
 すると、十人ぐらいいた男の子や女の子は、全くの無表情でじーっとこちらを見つめている。
 「ああ、子どもたちまでも」
私はいたたまれなくなり、その場を離れた。
 さて、夕食。ドレスデン中央駅の中の食堂なら旅行者も相手にしているので入れるだろうと思い、中央駅に向かった。中央駅といっても、前回お見せした写真のように、旅行者の乗降はあるが、至って静かなたたずまい。それでも食堂はある。
 中に入ると、空いている席にどうぞ、という感じ。とりあえずは一安心。しかし、店の中を見渡すと、でかい図体で、長髪に革ジャン、髭はぼうぼうという若い連中が5~6人、飲み食いしながら大声で騒いでいる。
 一瞬、「これはまずいところに入ったな」と思ったが、だからといって出るわけにもいかず、ビールと料理を注文した。
 そのうちに、革ジャン軍団の一人が私たちの存在に気がつき話しかけてきた。目は座っていて、ろれつもまわらず、そうとう酔っぱらっているようだ。
 ところが、「どこから来たんだ。そうか、日本か」とか、「日本のどこに住んでいるんだ」とか親しげに話しかけてくる。
 私はうれしくなり、しばし会話を続けた。
 そのうちにビールと料理も出てきて、話しかけてきた革ジャン君も軍団にもどり、自分たちだけで盛り上がっていたので、静かに料理にありつくことができた。
 帰り際に、「帰るね」と革ジャン君に声をかけると、笑顔で「また来いよ」という声が返ってきた。わずかの間の会話であったが、こんな親しげに話をしたのは東ドイツでは初めだ。
 宿は駅から歩いてすぐの「インターホテル」。ホテルまでの短い距離を歩きながら、何だか救われたような気になった。
(写真は、上がホテルから見たドレスデン中央駅の全景。約40日後の10月5日、ここは東ドイツ崩壊の動きの中で大きな緊張に包まれることになる。この話はまたあらためて。そして、下が駅前広場から続く通りとインターホテル。ドイツの新しい観光ガイドブックを見たら「インターホテル」の名前は見当たらなかった。西の資本に買収されたのだろうか。)

(次回に続く)

(前回の補足)
 現在の聖母教会の写真は、ドレスデン市の観光案内の聖母教会のページで見ることができます。
   ↓

http://www.dresden.de/dtg/de/sightseeing/sehenswuerdigkeiten/historische_altstadt/frauenkirche.php

前回紹介したドレスデン市観光のトップページでは、一番左のドーム型の屋根をもった新しい建物が聖母教会です。

2011年6月27日月曜日

二度と行けない国「東ドイツ」(3)

(前回からの続き)
 ザクセン王国の首都として栄華を極めたドレスデン。街の美しさから「エルベ川のフィレンツェ(Elbflorenz)」とうたわれたドレスデン。この街を訪れることは今回の旅行の大きな楽しみの一つであった。
 この美しい街は第二次世界大戦末期、1945年2月13日、14日のイギリス空軍の爆撃により、たった二晩で廃墟と化した(2月15日のアメリカ空軍の爆撃によりさらに被害は広がった)。戦後、ドイツのどの都市でも復興が始まったが、ドレスデン市民は、がれきの山を片付けて新しい建物を建てるのでなく、再利用できる石を積み上げて、もう一度かつての街を再現することを試みた。その努力のおかげで私たちは、今でも古きよきドレスデンの面影を追うことができる。
 しかし、聖母教会(Frauenkirche)だけは爆撃により破壊されたときの姿をとどめていた。市当局の財政が厳しいという事情もあったようであるが、広島の原爆ドームのように、第二次世界大戦の悲惨さを伝える遺跡として残されていたのだ。ドイツ統一後、賛否両論あったが、再建の機運が高まり、イギリスほか海外からも寄付が集まり再建が始まった。塔の頂上にある金の十字架の制作にはイギリスの技術者たちが関わった。そしてついに完成し、2005年10月30日に記念式典が行われた。その日から聖母教会はドイツとイギリスの和解(Versöhnung)のシンボルとなった。
 ドレスデン空襲については、2007年に公開された映画「ドレスデン~運命の日」が参考になる。撃墜されドレスデンに降り立ったイギリス空軍爆撃機のパイロットとドイツ人の看護師がお互いに惹かれるというストーリーは少し無理があるが、空襲により街中が火の海になり、市民が恐怖で逃げまどうシーン、空襲前や空襲直後の聖母教会の映像、それに完成記念式典の映像もあり、ドレスデン空襲の悲惨さ、聖母教会がドレスデンの歴史に果たしてきた役割がよくわかる。
 右の写真の左側中央は、1989年当時はまだ廃墟のままとなっていた聖母教会。その前に立つのはマルティン・ルターの像。映画「ドレスデン」の空襲直後の映像では像が台座からとれて地面に倒れていたが、その後修復したのだろう。
 順番が前後するが、左側上の写真は、ドレスデン中央駅。この中の食堂で、東ドイツでは唯一親しく話ができた人たちに出会ったが、それは次回に。左側下は、エルベ川岸の「ブリュールのテラス(Brühlsche Terrasse)」。その美しさから「ヨーロッパのバルコニー(Balkon Europas)」と呼ばれている。右側の写真は「君主の行列(Fürstenzug)」。マイセン磁器製のタイルに歴代のザクセンの君主が描かれたもので、長さは100m以上ある。(第1回のブログで、あてどなく歩きたいと書いたのはこのあたりです。詳しくはドレスデン市の観光案内をご覧ください)
(次回に続く)

(参考)ドレスデン市の観光案内

2011年6月26日日曜日

二度と行けない国「東ドイツ」(2)

(前回からの続き)

 ベルリンにはまだ明るいうちに戻ることができた。お昼が軽かったのでおなかも空いたし、ビールも飲みたかったので夕食はレストランでしっかり食べることにした。
 市の中心でレストランはすぐ見つかった。だだっ広いフロアにテーブルがぎっしり並んでいたが、客は全く入っていなかった。入口にいたウェイトレスの若い女性に「二人」と声をかけ中に入ろうとした。
 すると、ウェイトレスの若い女性からは信じられない返事が返ってきた。

 「席はない(Kein Platz)」

 私は自分の耳を疑った。店はガラガラだ。
 「どうして?席はあるのに」とか「私の友人がおなかを空かしていているんだ」となんとか言っても「ないものはない」の繰り返しで、とりつく島がない。
 社会主義の国では仕事してもしなくても給料は同じだから、レストランでもお客が多く入って忙しくなるのをいやがる、とどこかに書かれていたことを思い出した。
 「これがそのことだったのか」と思ったが、海外から来た観光客に対して、どこにでもいるような普通の若い女性が、悪びれる風もなく、こともなげに「席はない」と言ってのける神経はとても信じられなかった。
 仕方なくその場を離れたが、どこへ行くあてがあるわけではない。結局、夕食も通りに並んでいるワゴンで売れ残りのパンを買って宿泊先のホテルで食べたが、空腹はおさまらなかった。ビールもなく、さびしい東ベルリンの夜はこうして過ぎていった。
 翌日は、ホテルの朝食をしっかり食べて、列車でドレスデンに向かった。
 (次回に続く)

2011年6月20日月曜日

二度と行けない国「東ドイツ」(1)

(東ドイツには一度だけ行ったことがあります。ツアーでなく、日本で宿や列車のチケットをなどを手配して東ドイツ、プラハ、モスクワと当時の社会主義の国を友人と2人で周ったのですが、東ドイツの人たちの外国人に対するあまりに冷たい対応に「こんなひどい国二度と来るもんか」と思いました。その後、ドイツ統一により東ドイツは消滅し、実際に二度と行くことができなくなってしまいました。もちろん旧東ドイツのエリアには今でも行くことはできますが、そこではもう社会主義のもとで生活していた東ドイツの人々の人間模様に接することはできません。そういった意味では貴重な私の東ドイツ珍道中紀行にしばらくお付合いください・・・)

私が初めて訪れたドイツの都市は、ベルリンとドレスデン。まだ東ドイツ時代の1989年8月のことだった。東京からモスクワ経由で東ベルリンのシェーネフェルト空港に降り立った時、夜はだいぶ更けていた。予約してあるホテルまでの行き方がわからず、近くを通りかかる人たちに声をかけても誰も振り向いてくれない。もちろん私はドイツ語で話しかけたので、彼らが理解しなかったわけではない。ようやく中年の女性が親切に笑顔で説明してくれたが、なんと英語。
なぜ、声をかけても無視にするのか、なぜ女性はドイツ語でなく英語で答えたのか、不思議な思いを感じながらとりあえずホテルにたどり着き、眠りについた。
空港での不思議な体験が「東ドイツ式外国人歓迎法」のほんの序曲にすぎないことは後になって思い知らされた。翌朝、ベルリンからドレスデンに行く列車のチケットを受け取るため宿泊先のホテル(ホテル名は忘れたが、たしか部屋の窓から博物館島(※)の建物が見えたように思う)のフロントで受け取とろうとしたところ、「ここにはない。旅行代理店に行け」と若い女性。ホテルから10分ほど歩き、政府旅行代理店に行ったら、「ここにはない。ホテルにあるはずだ」とそっけない。仕方なくホテルに戻ったが同じ答え。もう一度言う政府旅行代理店に行っても同じ。途方に暮れながらくたびれた足どりでもう一度ホテルに戻ると、フロントではさきほどの若い女性が、私に遠くから気が付き、笑いながら封筒みたいなものを右手に高くあげてひらひらさせている。「やっぱりここにあったわ」っていう感じ。もちろんお詫びのことばはひとつもない。社会主義の国が非効率で、およそサービス精神というものがないことは予備知識で知っていたので、私も何事もなかったかのように受け取った。
 (※)ベルリン市内を流れるシュプレー川の中州。ペルガモン博物館など4つの博物館が集中している
  ことからこう呼ばれている。

 余計な時間をとってしまったが、気を取り直して午前中はブランデンブルク門や博物館島のあたりを散策した。一番上の写真はブランデンブルク門。円柱の付け根の白いついたてのようなものはベルリンの壁。もちろん今は取り壊されている。真ん中の写真は博物館島にあるペルガモン博物館。古代バビロニア、ギリシャ、ローマの遺跡など内容は充実しているのは知っていたが、残念ながら列車チケット騒動のおかげで時間がなくなり、中には入れなかった。
(ペルガモンと思って撮った建物は旧ナショナルギャラリーで、ペルガモンはこの建物の後に位置します。失礼しました)
午後はポツダムに行って帰りが遅くなることがわかっていたので、午前中に帰りの航空券を受け取ろうと思い、ウンター・デン・リンデンにあるアエロフロートの事務所に向かった。12時前には到着しなくては、と少し小走りで向かい、10分前に到着したが、何と「昼休み」の貼り紙。こんなことではくじけてはいけないと思い、近くのワゴンで売っていたソーセージをはさんだパンをほおばり、再開の時間まで待った。
無事に航空券を受け取り、ポツダムに向かった。一番下の写真は、1945年7月17日から8月12日まで行われたポツダム会談の舞台となったツェツィーリエンホーフ宮殿。宮殿前の庭園は緑が豊かで、宮殿の後ろに広がる湖は日の光が反射してきらきら輝き、幻想的な景色が広がっていた。あわただしかった午前中とは反対に広々とした庭園でゆったりとした時間を楽しむことができた。
しかし、旅の楽しさにひたっていたのもつかの間。ベルリンに戻って夕食をとろうとした段になってまたひと悶着あった。(続きは次回)

2011年6月14日火曜日

心の壁

 1989年、ベルリンの壁の崩壊により、東側の人たちは自由に西側へ行き、いつでも東側に戻ることができるようになった。翌年には、ドイツ民主共和国(DDR、旧東ドイツ)の各州がボン基本法第23条の規定にしたがってドイツ連邦共和国に加入し、政治的にもドイツの統一が実現した。一部の冷静な人たちを除き、多くの人たちが花開く未来(blühende Zukunft)に酔いしれていた。東の復興(Aufbau Ost)のために連帯付加税(Solidaritätszuschlag)が新設され東西が連帯して新しいドイツをつくる準備もできた。
 ところが、東の復興は東の人たちが期待したほどうまくはいかなかった。日本のバブル崩壊に見られるように世界的な不況の影響は大きかったが、工業の分野では東側の優等生だった東ドイツも、ふたを開けてみると機械設備はそれこそ40年前の建国時から更新されずに老朽化していたり、工場の排煙、排水は流しっぱなし、新たな設備投資や公害防止の浄化装置のために統一前の予想をはるかに超える費用がかかることも大きく影響した。
 西の人たちは、東のために自分たちの税金を投入したのに何の役にも立っていないと不満を言い、東の人たちは花開く未来が約束されていたのに、いっこうに実現する気配がないと不平を言う。おまけに、低い生活水準に抑えられていたことから、西側からは「二級市民(Bürger zweiter Klasse)」と揶揄され「こんなはずではなかった」と嘆いている。

 ベルリンの壁は崩壊した。けれど、東西ドイツ人の間に横たわる「心の壁」は依然として残っている。

 こう感じたことがドイツ統一、DDRに関心をもつきっかけであった。かれこれ20年、細々と関連する書籍や資料、DVDにあたり、ドイツ統一とは何だったのか、DDRとはどういう国だったのか自分なりに考えを整理しようとしているが、なんとなくわかってきたようでも、「心の壁」をどう崩壊させたらいいのかヒントは見つけられていない。
 しかし、20年という歳月は人々の心を和ませてくれるようである。ベルリンの壁崩壊からちょうど20年目にあたる2009年11月に実施された意識調査の結果によると、統一してよかったと思う人がドイツ人全体の86%を占めていた。この数値は20年間ほとんど80%そこそこで推移していて、ドイツ統一10年目にご祝儀みたいに少し上向いただけだったので手放しでは喜べないが、東西の一体感を感じるという人が1995年の26%から2009年には40%と、わずかではあるが上向いていたので、これにはかすかではあるが希望がもてるような気がした。冗談半分であるが、この数値が90%以上になったら、私のDDR研究は終わりだなとひとり言を言っているが、「心の壁」を感じずに旧東ドイツの街、たとえば私の好きな街、ドレスデンの通りをあてどなく歩き、エルベ川にたどり着いたら岸辺でぼんやりと川面をながめるといったことをしてみたいとも思う。
 もちろん、そこにたどり着くまでには解決すべき課題は多い。同じ意識調査では、西側の60%の人たちは、統一は東のためと思っているし、東側の57%の人たちは、今の生活状態は「まあまあ」か「悪い」と思っている。

参考にしたテキストはこちらです。
  ↓
http://www.forschungsgruppe.de/Umfragen_und_Publikationen/Politbarometer/Archiv/Politbarometer-Extra/PB-Extra_Mauerfall/