2011年7月29日金曜日

日独交流150周年(5)

(前回からの続き)
 日独交流150周年を書くきっかけとなった写真展「歴史と未来を紡いで」は7月31日で終わってしまうので、ここで展示されている写真のいくつかについてコメントしたい。
 「第1次世界大戦」のコーナーにはヒンデンブルクが地図を指し示しながらヴィルヘルム2世に作戦を説明する「ヒンデンブルク元帥と皇帝ヴィルヘルム2世ら」という写真がある。
 ヒンデンブルクは、開戦劈頭の1914年8月下旬、第8軍司令官としてドイツ東部国境のタンネンベルクでロシア軍を壊滅させ、一躍、国民的英雄になった。しかし、実際に指揮をとったのは写真のキャプションで「ら」と表現された参謀長のルーデンドルフであった。
 1916年、ヒンデンブルクが参謀総長に任命されると、ルーデンドルフは参謀次長に就任し、事実上、ドイツの戦争指導にあたり、軍事独裁体制を確立した。ヒンデンブルクは単なる「お飾り」であった。
 写真の撮影年は不明とのことであるが、直接、皇帝に作戦を説明するのは陸軍トップの参謀総長しか考えられないので、1916年以降に撮影されたものだろう。少し離れてヒンデンブルクが余計なことを言わないか心配しているように見えるルーデンドルフが印象的。
 「お飾り」であったヒンデンブルクは戦後も国民的人気は衰えず、1925年、ワイマール共和国大統領に就任してしまう。1932年には、当時84歳の高齢であったがヒトラーが大統領になるのを阻止するため大統領選に立候補し、再選されたが、1933年1月にはついにヒトラー内閣の成立を許してしまう。ここにワイマール共和国は終焉を迎え、ナチスの支配が始まった。
 もちろんヒトラーを首班に指名する権限をもっていたのは大統領であり彼の責任は免れないが、ナチスの台頭を前に、その力を過小評価し、党内対立や政党間の綱引きに明け暮れていた社会民主党、中央党、共産党をはじめとした他の政党の責任は大きい。政党間のごたごたの中、数の上では第1党であったとはいえ過半数に達していなかったナチス以外に組閣できる政党はなかったのだ。

 「ドイツ兵捕虜収容所」のコーナーには日本が収容したドイツ軍捕虜は約4,700人との説明書きがあり、日本で初めてベートーベンの第9を全部演奏したのはドイツ人捕虜たちであったとも書かれている。四国88か所の第一番札所、霊山寺(りょうぜんじ)の前でオーケストラが演奏する場面もある。
オーケストラといえば、先日、6月下旬から7月1日まで日本で講演する予定だったドレスデン交響楽団の来日が中止になった、との報道があった。放射能汚染に対する不安から楽団員の合意がとれなかったとのことであったが、日独交流150周年の一環でもあり、廃墟から復興した経験のあるドレスデンだからこそ来日中止は残念。
(次回に続く)

2011年7月24日日曜日

日独交流150周年(4)

(前回からの続き)
 三国干渉の次の日独の接触は第一次世界大戦だ。
 その前に第一次世界大戦に至った経緯と世界情勢についておさらいしてみる。
 
 ドイツ皇帝・ヴィルヘルム2世の野望はとどまるところを知らなかった。
 1898年には艦隊法が、1900年には第二次艦隊法が帝国議会で可決され、ドイツの大艦隊建設が始まった。その立役者は海軍大臣ティルピッツ。第一次世界大戦末期には無差別潜水艦作戦を遂行し中立国の非難を浴びて辞職しているが、戦後、帝政派政党の国家人民党の国会議員として復活している。
 前回は対英関係の悪化について詳しく書かなかったが、英独間の対立は世界史の教科書によく出てくる3C政策と3B政策の衝突であった。英独の建艦競争は、両国間の緊張の高まりに応じて次第にエスカレートしていく。
 イギリスはインドのカルカッタ(Calcutta 現コルカタ)、エジプトのカイロ(Cairo)、南アフリカのケープ(Cape Town)を結ぶ三角地帯を勢力下に収めようとした(3都市の頭文字をとって3C政策と呼ばれた)。イギリスは、1875年にスエズ運河を買収したが、カイロとケープタウンを結ぶ鉄道の建設は、1893年にドイツがフランスと組んで断念させた。
 一方のドイツは、トルコから現在のイラクにつながる「バグダード鉄道」敷設権が1901年にトルコのスルタンから認可され、中東進出の足掛かりを得ることになった。ドイツの中東進出政策は、ベルリン(Berlin)、コンスタンティノープル(かつてのビザンティウム(Byzantium)、現在のイスタンブール)、バグダード(Bagdad)の頭文字をとって3B政策と呼ばれ、中東に利害関係をもつイギリス、ロシアと鋭く対立した。
 世界各地で列強の利害が複雑に対立する中、イギリスは「光栄ある孤立」を放棄して、まず、東アジアにおけるロシアの南下策に対抗して1902年に日英同盟を締結した。次に、1904年に英仏協商、1907年に英露協商を結んだ。ここに露仏同盟と併せて英仏露の三国協商が成立し、独墺伊の三国同盟と激しく対峙することとなり、ヨーロッパの緊張感は一気に高まった。 
 1914年(大正3年)6月28日、オーストリア皇太子フランツ=フェルディナンド夫妻が暗殺されたサライェボ事件は、オーストリアとセルビア(と後ろ盾のロシア)だけの争いに止まらず、第一次世界大戦へと発展した。ドイツは8月1日にロシアに対して、8月3日にはフランスに対して宣戦布告、イギリスは8月4日にドイツに対して宣戦布告し、ヨーロッパの戦端が開かれた。
 その3日後、イギリスは同盟国日本に対して、山東半島の膠州湾を根拠地とするドイツ艦隊攻撃の助力を求めてきた。不況と日露戦争の外債の圧力のあえいでいた日本にとって参戦の誘いはまさに「天佑」であった。それに山東半島を獲得できれば中国進出の足掛かりになる。
 8月23日、日本はドイツに宣戦布告した。
 10月31日、日本はイギリスと協力して青島要塞への攻撃を開始し、11月7日、ドイツ軍は降伏した。このとき日本海軍の水上機母艦(当時は「航空隊母艦」)「若宮丸」は、搭載した水上機により爆撃を行っている。軍艦が搭載した航空機を使って爆撃を行ったのは、史上初めてのことであった。
 青島要塞の爆撃は映画になっている。東宝が1963年(昭和38年)に公開した「青島要塞爆撃命令」。史実をもとにしたフィクション映画であるが、そこは東宝の戦争映画や「ゴジラ」など怪獣映画の特撮を手がけた円谷英二が特技監督だけあって、空中戦や海戦の特撮シーンの迫力はさすが。水上機が弾薬を積んだ機関車を追いかけ爆破するクライマックスシーンは思わず身を乗り出してしまう。地上戦の実写のシーンも真に迫っている。
 なお、このDVDは某家電量販店で購入したが、「邦画チ」でなく「邦画ア」のコーナーに入っていた。店員さんは「アオシマ」と読んだのだろう。その後しばらくして同じ店に行ったら、すぐに補充されていたが、やはり「邦画ア」のコーナーに入っていた。ご購入される方はご注意を。
 余談になるが、青島の街並みは「恋の風景」という中国映画で見た。戦争とは全く関係ない映画だが、主人公の女性が旧市街地を歩くシーンがよく出てくる。旧市街地には昔の街並みが残っていていい雰囲気の街。ドイツ人が醸造技術を持ち込んで作ったので青島ビールはおいしいとドイツ人は自慢する。いつか行ってみたい街の一つ。

 日本新聞博物館で開催されている写真展には、青島のドイツ兵の様子や、プロペラ戦闘機の写真が展示されていたので、青島攻撃当時の雰囲気を垣間見ることができるのでは。

 日本海軍は太平洋、インド洋、さらには地中海にまで艦隊を派遣している。
 10月には巡洋戦艦1隻、装甲巡洋艦1隻、駆逐艦2隻他からなる第1南遣支隊、戦艦1隻、巡洋艦2隻他からなる第2南遣支隊を太平洋に派遣してドイツ東洋艦隊を追撃し、10月中には赤道以北のドイツ領南洋諸島を占領した。
 1917年(大正6年)2月には、南シナ海、インド洋方面の通商保護のため、巡洋艦4隻、駆逐艦4隻からなる第1特務艦隊を派遣した。カバーしたエリアは広く、紅海や南アフリカ海域まで作戦行動に従事した艦もあった。
 同じ2月には、イギリスからの要請に応じて、ドイツの無制限潜水艦作戦に対抗して、連合国艦船の保護のため、巡洋艦1隻、駆逐艦8隻(のち駆逐艦4隻増派)からなる第2特務艦隊を派遣し、マルタ島を基地として連合国艦船の護衛に従事した。
 しかし、当時の最新鋭巡洋戦艦「金剛」「榛名」「比叡」「霧島」のイギリスからの応援要請には、できたばかりの軍艦がすぐに沈んでは日本海軍にとって大きな打撃となってしまうので、訓練不十分を理由に丁重にお断わりしている。なお、「金剛」「榛名」「比叡」「霧島」の4隻は2度の改装ののち、高速戦艦として生まれ変わり、太平洋戦争で活躍している。
(次回に続く)

 

2011年7月22日金曜日

日独交流150周年(3)

(前回からの続き)
 1834年のドイツ関税同盟発足以来、プロイセン主導のもとに進められていたドイツ統一は、1870年7月19日に始まった普仏戦争でフランスを破り、南ドイツ諸邦をプロイセンの影響下に収めようやく完成することとなった。
 フランスのナポレオン3世は9月2日に早々と降伏し、プロイセンのパリ入城に先立つ1871年1月18日、ヴェルサイユ宮殿鏡の間で、プロイセン国王ヴィルヘルム1世のドイツ皇帝即位式が行われ、ここにドイツ帝国が成立した。プロイセン首相ビスマルクも同時にドイツ帝国宰相に就任し、以後、ドイツの内政外交において辣腕ぶりを発揮した。
 特に外交政策では普仏戦争後も敵対するフランスを孤立化させ、フランスとロシアを同時に敵に回す二正面戦争を回避するためロシアとの友好関係を築き、併せて、バルカン半島で利害対立するロシアとオーストリアの仲介役を果たすなど、巧みにヨーロッパにおけるドイツの安全保障の確立に努めた。
 (ビスマルクの安全保障外交の動き)
  1873年 独墺露三帝協約(君主制維持で一致)
      (三帝は、ドイツ・ヴィルヘルム1世、オーストリア・フランツ=ヨーゼフ1世、
       ロシア・アレクサンドル2世)
  1881年 独墺露三帝条約(3国のいずれかが3国以外の国と開戦した場合、他の
      2国は好意的中立を守る秘密条約、有効期間は3年)
  1882年 独墺伊三国同盟(フランス包囲網)
  1884年 独墺露三帝条約更新
  1887年 独露再保険条約(オーストリアとロシアが対立し、三帝条約が継続が不
       可能になった際の保険)
  
  また、領土的野心のないビスマルクであったが、ドイツ国内での世論に押され、やはりここでも列強との対立を避けながら巧みに海外植民地を獲得していった。ヨーロッパ列強のアフリカ分割に際しては、1881年 ドイツ領東アフリカ(現在のタンザニア)、1884年、南西アフリカ(現在のナミビア)、トーゴ、カメルーンを保護下に置き、南太平洋でも、同じく1884年にはニューギニア北東部(現在のパプアニューギニアの北半分)を保護領にして「カイザー=ヴィルヘルム=ラント」と命名し、その北の島嶼部(現在はパプアニューギニア領)を保護領としビスマルク諸島とした。
 (参考)外務省ホームページのパプアニューギニア紹介ページ
    ↓
  http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/png/index.html

 しかし、1888年にヴィルヘルム1世が没してからドイツの外交政策は一変する。跡を継いだヴィルヘルム1世の長子フリードリッヒ3世が在位99日で病没し、フリードリッヒ3世の長子ヴィルヘルム2世がわずか29歳でドイツ皇帝の座についた。
 野心家のヴィルヘルム2世にとってビスマルクはうっとおしい存在であり、皇帝と衝突したビスマルクは1890年辞任してしまった。ビスマルク外交の主眼はドイツの安全保障の確立であったのに対して、ヴィルヘルム2世の外交は、軍拡を進め、積極的に海外進出を図る「世界政策」であった。しかし、それは敵を増やし、ドイツを窮地に追いやることとなったと同時に、日本との対立の構図も浮かび上がらすこととなった。
 まずは1890年。ドイツはロシア側の求めに対し独露再保険条約の更新を拒否した。その後、ロシアはフランスに接近し、1892年、露仏軍事協約が締結された。恐れていた二正面戦争の危機が迫ってきたのだ。
 続いて1893年には積極的な植民地政策により対英関係も悪化した。
 すると今度は東アジア政策でロシアと同一歩調をとるようになった。1895年には、ロシア、フランスとともに、日清戦争で日本が獲得した遼東半島の領有に干渉し、清に返還させるという事件がおこった(「三国干渉」)。←ようやく「日独交流」が出てきた
 ヴィルヘルム2世は日本の軍事力の伸長を恐れていた。彼は「黄禍論」をとなえ、日清戦争に圧倒的勝利を収めた日本が中心となって黄色人種が政治的に結束する脅威を強調し、これに対抗すべき、と説いた。三国干渉は「黄禍論」に基づいた行動であった。
 遼東半島を清に返還した見返りとしてドイツは、1897年、山東半島の膠州湾を租借した。その前年には宣教師殺害事件を口実に、膠州湾の入り口にある青島(チンタオ)を占領している。
 さらに1898年には米西戦争に敗れたスペインからマリアナ、カロリン、パラオ諸島を買い取り、サモア諸島をアメリカと分割するに及び、ドイツは太平洋と東アジアに大きく勢力を伸ばしていった。
(次回に続く)

 

 
 

2011年7月15日金曜日

日独交流150周年(2)

(前回からの続き)
 江戸幕府がプロイセンと日普修好通商条約を締結したのは、年の暮れも押しせまった万延元年12月14日。西暦では1861年1月24日、今年はそれから150年目にあたる。 
 この条約は、安政年間に締結された米、蘭、露、英、仏との「安政五か国条約」と同様、日本に不利な不平等条約であった。
 幕末には悪いことがあるとすぐ改元してわかりづらいので、ここで西暦と元号の関係を整理する。なお、できごとは主に条約関連のものを記載した。日付は旧暦で表示した。 
 1858年 安政5年  6月19日 日米修好通商条約締結
              7月10日 日蘭修好通商条約締結、その後7月中に、ロシア、イギリス、
                    フランスと立て続けに修好条約を締結(以上、安政の五か国条約)
 1859年 安政6年  6月2日 神奈川(のち横浜に変更)、長崎、箱館で米、蘭、露、英、仏
                   と自由貿易を開始
                  (西暦では7月1日だが、私の住む横浜では毎年6月2日を開港記念日 
                   として祝っている。この日は横浜市立の小中学校は休みなので、子
                   どものときはうれしかった)
 1860年 安政7年  3月3日 桜田門外の変。大老 井伊直弼斬殺される。
                  (開港によりその後の繁栄の基礎を築いた井伊直弼は横浜の恩人。 
                   今ではみなとみらい地区を見下ろす丘にある公園に、港の方向を
                   眺める井伊直弼像が立ち、その公園は井伊掃部守(かもんのかみ)
                   にちなみ掃部山公園と呼ばれている) 
      万延元年  3月18日 江戸城本丸炎上により万延に改元 
 1861年         12月14日 日普修好通商条約締結
        万延2年
      文久元年  2月19日 辛酉革命説により文久に改元(この年の干支は辛酉)
 1862年  文久2年   8月21日 生麦事件
 1863年  文久3年
 1864年    文久4年
       元治元年  2月20日 甲子革命説により元治に改元(この年の干支は甲子)
 1865年  元治2年    
                 慶応元年   4月7日 前年に勃発した禁門の変と京都大火により慶応に改元         
 1866年 慶応2年   
 1867年 慶応3年   10月14日 大政奉還

日普修好通商条約が締結されたのが、万延元年。プロイセン公使館を探す手がかりとした地図は文久二・三年の横浜地図なので、条約締結から1~2年。最初は他にあったものが(場所は不明)、この地に移ってきた。海側がプロイセン、その後ろがオランダとなっている。
 しかし、横浜開港資料館で見た慶応年間の横浜地図によると同じ場所はフランス領事館とオランダ領事館が並列している。その地図にはプロイセン領事館の位置はどこにも示されていないが、2~3年でまた他の場所に移ったのだろうか。
 1871年の普仏戦争でフランスを破りドイツ統一を成し遂げたプロイセンが、その4~5年前、逆にフランスに追い出された(?)形になっている。
 横浜開港資料館は、関東大震災後に再建された旧英国領事館。今でも当時の状態で保存されている。プロイセン公使館や他の在外公館もこんな感じだったのかなと想像して写真を撮った。

(横浜開港資料館の公式サイト)
  ↓ 

 さて、横浜に繁栄をもたらした列強との条約、開港であったが、不平等条約であったため、明治政府に外交上の大きな問題を残すことととなった。
 それでも明治政府の懸命の交渉、日清・日露戦争の勝利による国際社会での地位の向上などにより、長い年月がたってようやく欧米列強との不平等条約は改善された。日独間の治外法権が廃止されたのは条約締結35年後の1896年(明治29年)、関税自主権が回復したのは、なんと50年後の1911年(明治44年)であった。
 しかし、日独関係はこのあたりから対立の構図が際立ってくることになる。
(次回に続く)

2011年7月12日火曜日

日独交流150周年(1)

 2011年は日独交流150周年。
 今日、横浜の日本新聞博物館で開催中の日独交流150周年記念写真展「歴史と未来を紡いで」を見に行ってきた。そこで、前回のブログでアナウンスした「ベルリンの壁崩壊の過程」は次のシリーズにして、これから何回かに分けて日独交流150周年について、思いついたことを書いてみたい。

 日本新聞博物館企画展のサイト
   ↓
  http://newspark.jp/newspark/floor/info.html

 写真展に出展されている作品は約130点。「産業・科学」「政治・外交」「スポーツ」などのジャンルに分かれていて、見やすくなっている。
 「産業・科学」のコーナーでは、東ドイツの国民車「トラバント」が3台、白い煙を排気筒から勢いよく吐き出しながら街の中を疾走している写真があった。排ガス規制のなかった東ドイツでは、有害物資は出し放題。街中を歩いているときの鼻にツンとくる臭いと胸が息苦しくなる感触を思い出した。
 撮影年月日を見ると、1989年11月24日とある。国境が開放され、ベルリンの壁が事実上崩壊したのが11月9日。すでに自由に通れるようになった検問所に向かっているところなのだろうか。気のせいか明るさと勢いを感じる。
 「ベルリンの壁」というコーナーもちゃんとある。東ベルリンの壁の向こうから見えるソ連の戦車2台が砲塔をこちらに向けて構えているのが不気味。ドイツ統一の日、ブランデンブルグ門に市民が集まり祝っている光景は映像でも何度も見た。
 日独交流150周年と言いつつ、興味の対象はやはりドイツ統一、東西ドイツに向いてしまう。
 しかし、今回のシリーズでは、特に「世界大戦」をキーワードに日独交流史を見ていきたい。
 日独両国は第1次世界大戦では戦火を交え、150年のちょうど真ん中にあたる75年目の1936年には日独防共協定が締結され、第2次世界大戦では枢軸国として連合国と戦った。写真展にも「第1次世界大戦」「ドイツ兵捕虜収容所」「政治・外交/戦前」というコーナーがあったので、それらの写真にも触れながらが話を進めてみる。
(次回に続く)


写真は、上が日本新聞博物館。
ついでに、文久二・三年の横浜地図を手がかりにプロイセン公使館の場所を確認しようとしたが、結局わからなかった。おそらくここではと思ったのが、旧生糸検査所、現在は、法務局や労働局など国の出先機関が入っている横浜第2合同庁舎。写真下は生糸検査所の趣を再現した入口。
場所はここです。
 ↓
http://publicmap.jp/print/20614404

2011年7月11日月曜日

二度と行けない国「東ドイツ」(7)

(前回からの続き)
 今まで訪れた海外の街の中で一番好きな街は、と聞かれると、「プラハとブハラ」と答えることにしている。もちろん他にも好きな街はたくさんあり、それぞれの良さがあるので、どれが一番かと言われると困ってしまうが、語呂の良さと思い入れの強さからか、あるとき人から聞かれて自然と口から出てしまったので、あながちはずれてはないだろう。
 プラハはそれほどまでに好きな街。プラハについて語っているといつまでたっても終わらないので、別の機会に登場いただくとして、ここは先を急ぐ。
 そう、今回のテーマは「東ドイツ式外国人歓迎法」だ。なぜ東ドイツの人は外国人観光客に冷たいのか。それはモスクワからの帰りの飛行機で偶然判明した。
 モスクワ発成田行きのアエロフロートはヨーロッパ各地から多くの日本人を乗せて飛んでくる。私が乗ったのは東ドイツから来た便で、隣には東ベルリンに1年間住んでいるという日本人女性が座っていた。
 私は、東ドイツでの体験を話した。するとその女性は、
「そうなんです。東ドイツの人は外国人に冷たいんです。私にもこんな経験がありました。朝、アパートの窓を開けて、たまたま向かいのアパートの東ドイツ人の女性が窓を開けていていました。目が合ったので挨拶しようとしたら、その女性はあわてて窓をバタンと閉めてしまいました」
「なんでそんな対応をするのですか」
「悲しいことですが、東ドイツは強い相互監視の社会なのです。西側と認識されている私たち日本人と何か話をしていたというだけで密告され、社会的地位を失ったりするんです。だから、西側の人間とは関わりをもちたくないのです。シェーネフェルト空港であなたに声をかけた中年の女性は、困っている外国人観光客を助けてあげたいという気持ちがよっぽど強かったのでしょう。それでも、『道を教えてあげているだけですよ』と周囲に強調したかったので、ドイツ語でなく外国人でもわかる英語で話しかけてきたのです」
「相互監視の社会、ですか」
 やっぱり二度と行きたくない、私はあらためてそう感じた。
 国家保安省(Ministerium für Staatssicherheit)、略して「シュタージ(Stasi)」という諜報組織があることを知り、詳しく調べるようになったのは、それから数年後のことであった。

 ドレスデン中央駅の食堂で会った革ジャン君たちの話はしなかった。でも、なぜ彼らが外国人と親しく話をしたのか察しはつく。彼らは、社会主義体制の枠外にいるので自由に振る舞えるのだ。
 それにしても、こんな国にみんなよく我慢していられるな、と思ったが、実は、ハンガリーがオーストリアとの国境の鉄条網を撤去した5月から8月中旬までに、ハンガリー経由で約7000人の東ドイツ市民が西側に脱出して大きなニュースになっていた。日本に帰ってから初めて知ったが、すでに私の東ドイツ滞在中からベルリンの壁崩壊の過程は始まっていたのだ。
(「二度と行けない国『東ドイツ』」の項は終わりです)

(追記)
 「次の機会に」と先送りした宿題が次から次へと増えてしまった。ドレスデン中央駅を包む緊張、プラハ、シュタージ、ベルリンの壁崩壊の過程。関連する部分もあるが、少しづつ触れていくことにしたい。
 それから、冒頭の「ブハラ」は中央アジアのウズベキスタンにある中世の趣を残している街。プラハも、幸いにして二つの大戦で大きな被害を受けず、中世の面影がそのまま残っている。

2011年7月9日土曜日

二度と行けない国「東ドイツ」(6)

(前回からの続き)
 入国審査のあとは検札。赤ら顔で小太りの車掌がコンパートメントに顔を出した。まずチェコ人のおばさんの切符に目を通し、黙って返す。続いて私。財布から切符を出して車掌に渡す。すぐ返すのかと思ったら、なんと
「この切符ではプラハに行けない」と言い出す。
「そんなことはない。日本でちゃんとプラハまで注文したんだ」と言い返す。
すると車掌、
「この切符ではひとつ前の駅までしか行けない」
「プラハって書いてあるじゃないか」
「いや、これでは途中で降りてもらうしかない」
 しばらく押し問答がつづいたあと、車掌はあごをしゃくって、
「ちょっと来い」と言う。
 仕方なくついて行く。2両ほど歩いただろうか、車両の連結部で車掌が立ち止りこちらを振り向いた。
「おい、お前、西ドイツの50マルク札をもっているだろ」
 しまった、切符を出すとき、財布の中を見られたのだ。
「あれをよこせば許してやる」
 なんだ、この車掌はワイロがほしかったのか。
 50マルクといったら大金だ。当時のレートは1マルク80円ぐらいだったろうか。約4,000円だ。
ワイロを要求されることがわかっていたら、少額紙幣を用意していたのに、と思ったがもう遅い。持っている外貨はこれだけで、あとは日本円だ。
 あれこれ考えたが、いい知恵も浮かばず、この窮地から脱却するには50マルク札を渡すしかなかった。
 50マルクを受け取った車掌は、もういい、といったしぐさを見せて、私たちのコンパートメントとは反対の方向に歩いていった。
 コンパートメントにもどり、向かいに座っているおばさんに一部始終を話すと、おばさんは右手で自分の前を払うようなしぐさを見せ、「50マルク!」と言って天を仰いだ。

 プラハにはどうにかたどり着くことができた。夕暮れの迫るホームを歩いていたら、人ごみの前の方に、ワイロ車掌が歩いているのが見えた。
 私たちは、
「ああやって小遣い稼ぎしているんだろうな」とか、
「今日は家族においしいものを買って帰るんだろうな」とか言って、うさを晴らすしかなかった。
 
 東ドイツの暗い街からきたせいか、プラハの街はオレンジ色の街灯があちこちに輝いて、明るく感じられた。レストランにも何の問題もなく入ることができ、夕食をとった。
 メニューは直径20㎝以上ある骨付き豚肉のかたまり。ナイフとフォークで格闘しながら食べた。もちろんチェコビールを飲みながら。
 実は、今回の旅行では8ミリビデオをもっていった。このブログを書くため押入れから久しぶりに出したが、故障して動かない。この料理も撮ったのだが、残念ながら見ることができない。ビデオで撮っていたので、写真は撮らなかった。
 その晩、豚肉の食べすぎか、床についた時、ものすごい胸焼けに襲われたが、おいしい料理をたらふく食べ、おいしいビールをたっぷり飲むことができた喜びにひたりながら眠りにつくことができた。
(次回に続く) 

2011年7月6日水曜日

二度と行けない国「東ドイツ」(5)

(前回からの続き)
 実は、「二度と行けない国『東ドイツ』」は、1983年に出版された『行ってみたい東ドイツ~DDRの魅力』(サイマル出版会)へのアンサーソングだ。行ってみたいけど、もう二度と行けない。
 その本の裏表紙には、
 「歴史的な首都ベルリン、バロック芸術の街ドレスデン、静寂が身を包むチューリンゲンの森、石畳にバッハが流れる商業の街ライプツィヒ。ポツダム、ワイマール、そして中世の繁栄を伝える港町ロストックなど・・・DDRにはさまざまな顔がある」
と高らかにうたわれている。東ドイツは見どころが多い。これはまぎれもない事実だ。
 本文でも、それぞれの街や森が紹介されていて、写真もふんだんに使われれているので、読んでいるだけで楽しい。旅のガイドブックとしては今でも十分に通用すると思う。
 DDRを訪問した日本の著名人の短い旅行記も掲載されている。もちろん、彼らは私たちのような「招かれざる個人旅行者」ではなく、東ドイツ政府に「招かれた来賓」として歓待されたので、レストランで食事ができなかったという体験はない。
 産業や文化についても良いことばかり書かれ、工業については「世界で最も工業化の進んだ国の一つ」と称えられている。実態があまりにひどかったのは、当時の西ドイツでさえ見抜けなかったことは第1回目のブログでも触れた。
 DDRトラベル情報にはインターホテルのことが出ていた。
 「外国人観光客の場合は、そのほとんどがインターホテルに宿泊している。日本人観光客が宿泊するホテルでは、日本人向けのサービスとして、浴用スリッパ、浴衣などが用意されている」とある。
 しかし、浴衣はなかったように記憶している。まあ、バロック芸術の街で浴衣もないと思うが。
 また、インターホテル・チェーンは、DDR国内に31のホテルをもつとのこと。やっぱり統一後は、チェーンごと西側の資本に買収されたのだろう。
 右の写真は『行ってみたい東ドイツ』の表紙。出版社も廃業して、本も絶版になっているが、図書館にはあると思うので、興味のある方はご一読を。

 さて、次の目的地はプラハ。親しく話をした若者にも出会えたが、東ドイツの人たちの冷たい対応にはほとほと疲れ、「もう二度と来たくないな」と思いつつ、私はドレスデンからプラハに向かう列車に乗った。
 繰り返しになるが、旧DDRには見どころが多い。列車は途中、「ザクセンのスイス(Sächsische Schweiz)」と呼ばれる渓谷地帯を縫うように通っていく。奇岩がそそり立つ山肌や、澄み切った川面を見ながら、同じコンパートメントで向かいに座ったチェコ人のおばさんと話をしているうちに沈んでいた気持ちも少しづつ和らいできた。

(ザクセンのスイスについてはザクセン州のホームページをご参照ください)
  ↓
http://www.regionen.sachsen.de/1601.htm

 チェコ人のおばさんは東ドイツの知り合いのつてをたよって買い出しに行ってきたとのこと。座席の横には大きな包みがある。
 列車が走っているうちに出入国管理官がコンパートメントに回ってきて、入国手続きを行う。私たちは無事、チェコスロバキアに入国できた。黄金のプラハ、我が愛すべきフランツ・カフカの生まれ育ったプラハはあと少しだ。
 ところが、プラハに着く前にまた思いもかけぬトラブルに見舞われることになる。
(次回に続く)


(写真の説明)
 上は東ドイツのビザ。都市および農村の勤労者を表す穂の輪に囲まれた鎚とコンパスのエンブレムのスタンプが誇らしげに押されている。
 下は東ドイツの紙幣と硬貨。20マルク札の肖像はゲーテ。ゲーテの下には1マルク硬貨を表裏にして置いた。ここにも東ドイツのエンブレムが。それにしても1マルクは軽い。アルミニウムでできていてまるで1円玉のよう。軽いのは重さだけでなく、価値も軽かった。ドイツ統一にさきがけ1990年7月の東西ドイツの通貨同盟では公称の交換レートは1:1だったが、実際には1:5またはそれ以下だったと言われている。

2011年7月2日土曜日

二度と行けない国「東ドイツ」(4)

(前回からの続き)
 私たちはドレスデンの旧市街を中心に散歩していた。ちょうどブリュールのテラスあたりを歩いていたとき、若い女性の先生に連れられた幼稚園ぐらいの子どもたちの一群と出くわした。子どもだったら冷たい反応はしないだろうと思い、私は手を振ってみた。
 すると、十人ぐらいいた男の子や女の子は、全くの無表情でじーっとこちらを見つめている。
 「ああ、子どもたちまでも」
私はいたたまれなくなり、その場を離れた。
 さて、夕食。ドレスデン中央駅の中の食堂なら旅行者も相手にしているので入れるだろうと思い、中央駅に向かった。中央駅といっても、前回お見せした写真のように、旅行者の乗降はあるが、至って静かなたたずまい。それでも食堂はある。
 中に入ると、空いている席にどうぞ、という感じ。とりあえずは一安心。しかし、店の中を見渡すと、でかい図体で、長髪に革ジャン、髭はぼうぼうという若い連中が5~6人、飲み食いしながら大声で騒いでいる。
 一瞬、「これはまずいところに入ったな」と思ったが、だからといって出るわけにもいかず、ビールと料理を注文した。
 そのうちに、革ジャン軍団の一人が私たちの存在に気がつき話しかけてきた。目は座っていて、ろれつもまわらず、そうとう酔っぱらっているようだ。
 ところが、「どこから来たんだ。そうか、日本か」とか、「日本のどこに住んでいるんだ」とか親しげに話しかけてくる。
 私はうれしくなり、しばし会話を続けた。
 そのうちにビールと料理も出てきて、話しかけてきた革ジャン君も軍団にもどり、自分たちだけで盛り上がっていたので、静かに料理にありつくことができた。
 帰り際に、「帰るね」と革ジャン君に声をかけると、笑顔で「また来いよ」という声が返ってきた。わずかの間の会話であったが、こんな親しげに話をしたのは東ドイツでは初めだ。
 宿は駅から歩いてすぐの「インターホテル」。ホテルまでの短い距離を歩きながら、何だか救われたような気になった。
(写真は、上がホテルから見たドレスデン中央駅の全景。約40日後の10月5日、ここは東ドイツ崩壊の動きの中で大きな緊張に包まれることになる。この話はまたあらためて。そして、下が駅前広場から続く通りとインターホテル。ドイツの新しい観光ガイドブックを見たら「インターホテル」の名前は見当たらなかった。西の資本に買収されたのだろうか。)

(次回に続く)

(前回の補足)
 現在の聖母教会の写真は、ドレスデン市の観光案内の聖母教会のページで見ることができます。
   ↓

http://www.dresden.de/dtg/de/sightseeing/sehenswuerdigkeiten/historische_altstadt/frauenkirche.php

前回紹介したドレスデン市観光のトップページでは、一番左のドーム型の屋根をもった新しい建物が聖母教会です。