2017年9月27日水曜日

損保ジャパン日本興亜美術館「生誕120年 東郷青児展」

損保ジャパン日本興亜美術館では「生誕120年 東郷青児展 抒情と美のひみつ」が開催されています。

今回の展覧会は、東郷青児の生誕120年を記念した特別回顧展。
鹿児島市立美術館はじめ国内の他の美術館の作品も数多く展示されていて、初期のキュビズム風の作品からシュールな作品、そしてお馴染みのすらりとした清楚な「青児美人」に至るまで、東郷青児が歩んできた道をたどることができる、とても素晴らしい展覧会です。

絵画だけでも約60点、それだけでなく「青児美人」が表紙を飾った雑誌などの資料も約40件展示されていて、年代順に青児がどのような活躍をしていたかがよくわかる構成になっています。
期間は11月12日(日)までです。

展覧会の詳細は損保ジャパン日本興亜美術館の公式HPをご覧ください。

http://www.sjnk-museum.org/


会場入り口には、最近の美術展ではすっかりお馴染みとなった撮影コーナーがあります。
こちらでぜひ記念撮影を。


さて、展覧会の様子は、先日(9月19日)に参加したブロガー内覧会に沿ってご紹介したいと思います。

※掲載した写真は、美術館の特別の許可をいただいて撮影したものです。


会場内は、損保ジャパン日本興亜美術館主任学芸員 中島啓子さんにご案内いただきました。

展覧会は4章構成になっています。
それでは第1章から。

第1章 内的生の燃焼 1915年~1928年

中島さん
「展覧会冒頭に展示したのは、1916年、弱冠19歳で二科展に初出品して二科賞を受賞した《パラソルさせる女》と、その前年の個展で発表した《コントラバスを弾く》です。
当時ヨーロッパで流行していたキュビズムや未来派を自分なりに解釈して、色と形で自分の感覚や感情を表現した作品です。」

右から《コントラバスを弾く》(損保ジャパン日本興亜美術館)、
《パラソルさせる女》(陽山美術館)、
《彼女のすべて》(鹿児島市立美術館)
一見すると何を書いているかわからない青児の作品は、当時の画壇に大きな衝撃を与え、「日本最初の前衛画家」と言われたそうです。

中島さん
「《パラソルさせる女》では海辺の女性を描いていますが、当時から官能的なものに惹かれていたのでしょう。」

1921年、24歳でフランスに渡った青児は、素直な描写の《ブローニュの森の風景》や、未来派のマリネッティと知り合い、未来派の雰囲気に合わせた《帽子をかむった男(歩く女)》を描いたりしました。

「青児は異なったスタイルを描き分ける器用さをもっていました。」と中島さん。


右 《ブローニュの森の風景》(鹿児島市立美術館)
左 《帽子をかむった男(歩く女)》(名古屋市美術館)

青児が渡仏した第一次世界大戦(1914~1918)後は、ヨーロッパの美術が古典回帰していた時代。青児も、当時交流のあったピカソの影響を受けて、ルーブル美術館に行ってラファエロやアングルなど歴史的絵画の研究をしました。そして、はっきりとして、近くで見ても筆の跡がわかるような輪郭線を描くようになり、自分のスタイルを確立したと確信した作品《サルタンバンク》を描きました。

中島さん
「自信をもって描いた《サルタンバンク》をピカソに『自分らしくなった。』と見せたところ、『ピカソらしくなったね。』と言われ大きなショックを受けたそうです。」
「サルタンバンクとは道化師のことで、その隣のピエロを描いた作品と同じく、エコール・ド・パリの画家たちは、旅芸人(ジプシー)たちの姿を不遇な芸術家の人生と重ね合わせて好んで描きました。」


右 《サルタンバンク》(東京国立近代美術館)
左 《ピエロ》(損保ジャパン日本興亜美術館)


第2章 恋とモダニズム  1928年~1930年代前半

昭和3(1928)年に帰国した青児は、その翌年の二科展にシュールな作品《超現実派の散歩》《窓》《ギターを持つ女》他の作品を出品しました。

中島さん
「画家としての寄る辺なき将来への不安を抱いていた青児は、デ・キリコのどことなく不思議で不安、それでいてノスタルジックなところに共鳴したのでしょう。」

右が《超現実派の散歩》(損保ジャパン日本興亜美術館)、
左は《サーカス(1)》(長島美術館)《サーカス》

右 《ギターを持つ女》(鹿児島市立美術館)
左 《窓》(損保ジャパン日本興亜美術館)


「30歳代の青児は、官能性と新しい技術へのあこがれがありました。その代表作が《手術室》です。手術室の冷たい雰囲気、そして看護婦の制服に対するフェティシュなところが感じられます。」
右 《手術室》(大分県立美術館)
左 《椅子》(鹿児島市立美術館)
青児はこの頃から書籍や雑誌の仕事を手がるようになりました。

中島さん
「婦人向けの雑誌の表紙の絵は、芸術家ならではの女性へのあこがれが感じられます。雑誌「若草」では、今まで記号的に処理していた女性の顔を、カラーでクローズアップして描いています。」

東郷青児装画『若草』(損保ジャパン日本興亜美術館)
(こちらは第3章の展示ケースに展示されています。) 
第3章 泰西名画と美人画 1930年代後半~1944年 

百貨店が全国展開を始めた1930年代には、フランスから帰国した藤田嗣治とともに、大衆の西洋文化へのあこがれに合致した百貨店の壁画を制作するようになります。
《山の幸》は、京都・丸物百貨店の六階大食堂の壁画で、現在は、藤田嗣治の《海の幸》とともに大坂のシェラトン都ホテル内に展示されているそうです。

中島さん
「青児は、藤田嗣治とフランスのロココ風の絵を描きました。《山の幸》は、背景はスイスの山の景色のようですが、女性はバナナを持っていたりしてアンバランスなところが興味深いですね。」


右 《山の幸》(シェラトン都ホテル大阪)
左 《海山の幸》
「この時期、青児は大衆に向けて絵を描くということを意識しています。その中で描かれるのは一人の女性の姿に限られてきます。」

「当時、都会には洋間を持つ『文化住宅』が出現して、洋間に飾る絵として青児の作品が好まれ、個展を開くと絵が売れるようになりました。」
右から 《微風》、《舞》、《紫》
(いずれも損保ジャパン日本興亜)

左 《星座の女》(ふくやま美術館)
右は第4章の《郷愁》(損保ジャパン日本興亜)

第4章 復興の華 1945年~1950年代

第二次世界大戦の空襲で自身の拠り所であったモダンな文化が破壊され、戦後の連合軍による占領の時代を経て1957年のサンフランシスコ対日講和条約の発効によって日本は主権を回復します。

《渇》は日本が独立して将来の不安をひしひしと感じていた頃の青児の作品です。
赤ん坊を抱くやせ細った母親が不安げに遠くを見つめているのが印象的です。

戦後の復興期には近代的なビルが建設され、青児には全国の百貨店やオフィスビルの壁面の絵の制作の依頼が入ってきます。
《平和と団結》は、京都の旧朝日会館の壁画の下絵です。


右 《渇》(損保ジャパン日本興亜美術館)
左 《平和と団結》(朝日新聞社)

中島さん
「この時期の青児の作品には憂いを秘めた女性が出てきます。《望郷》の物憂げな表情の女性はバルビゾン派が好んで描いた農夫です。背景にはギリシャ風の円柱が描かれていますが、絵の表面は現代的でなめらかです。この《望郷》は青児のすべてが詰まった作品と言えるのではないでしょうか。」(拍手)

右から 《バレリーナ》、《脱衣》、《望郷》
(いずれも 損保ジャパン日本興亜美術館)

右から 《婦人像》、《バイオレット》(損保ジャパン日本興亜)、
《裸婦》(高島屋史料館)
さて、「東郷青児展」はいかがでしたでしょうか。
この秋おすすめの展覧会です。