2025年8月11日月曜日

戦争画「作戦記録画」を深読みして見えてきたものとは?

19世紀末から現代まで、⽇本や海外の美術作品を13,000点以上所蔵する東京国⽴近代美術館のコレクションの中でも異彩を放つのが、⽇中戦争からアジア太平洋戦争期に軍の委嘱で制作された戦争絵画「作戦記録画」。 
敗戦後はアメリカが接収し、1970年に「無期限貸与」という形で返還され、150点あまりを東京国⽴近代美術館が管理(所蔵)していますが、私たちも同館のコレクション展でその⽚鱗を⾒ることができます。
そこで、今回は少し変わった視点から作戦記録画を深読みしてみたいと思います。

又モ負ケタカ四艦隊


はじめに紹介するのが、中村研⼀《珊瑚海海戦》。

中村研一《珊瑚海海戦》東京国立近代美術館


「珊瑚海海戦」は、連合軍の航空基地ポートモレスビー占領を企図した⽇本海軍と、それを阻⽌しようとする⽶豪海軍艦隊の間で昭和17(1942)年5⽉7⽇から8⽇にかけて起こった海戦でした。
海戦というと⽇露戦争の⽇本海海戦のように敵艦隊を発⾒して戦艦同⼠が主砲を撃ち合うという戦いが思い浮かびますが、「珊瑚海海戦」は史上初の空⺟対空⺟の対決、つまり双⽅の艦載機搭乗員以外は敵艦隊を⾒ないという新しいタイプの海戦だったのです。 
(参加した空⺟は、⽇本側は機動部隊の「翔鶴」「瑞鶴」、攻略部隊の「祥鳳」、アメ リカ側は「レキシントン」「ヨークタウン」) 

「珊瑚海海戦」関連地図





 《珊瑚海海戦》で描かれているのは、⽇本海軍空母艦載機の攻撃を受け、断末魔の⽶空⺟「レキシントン」。 


中村研一《珊瑚海海戦》東京国立近代美術館(部分)


低い乾舷、艦⾸と⾶⾏甲板が密着したエンクローズド・バウ、背の⾼い艦橋とその後ろにある巨⼤な煙突。 巡洋戦艦から改装された巨⼤空⺟「レキシントン」の艦容をよく現わしていますが、 ここで「あれっ」と思われた⽅は、かなりの軍艦マニア。

そうです。
この海戦の直前に四連装機銃に装換されているはずの艦橋前には、装換前の15.5イン チ連装砲が描かれているのです。 

中村研一《珊瑚海海戦》東京国立近代美術館(部分)


それはなぜなのでしょうか?

おそらく、作者の中村研⼀は、海軍から提供された「レキシントン」の戦前の資料をもとに描いたのでしょう。

それは船体の塗装の⾊を⾒てもわかります。 珊瑚海海戦時には艦の側⾯はシーブルー(濃いブルー)、⾶⾏甲板はデッキブルー(さらに濃いブルー)で塗装されていたのですが、この作品では艦の側⾯が明るいグレー、⾶⾏甲板は⾚茶⾊系で塗装された戦前のバージョンなのです。

さて、この「珊瑚海海戦」ですが、⽇本海軍は「レキシントン」を撃沈したものの、攻略部隊を護衛していた軽空⺟「祥鳳」が撃沈され、攻略部隊は撤退、作戦は失敗に 終わります。

緒戦の⽶領ウェーク島攻略作戦の失敗に続き、南洋諸島を担当する第四艦隊はまたも作戦に失敗したので、海軍部内では「⼜モ負ケタカ四艦隊」と物笑いの種にされてしまい ました。

この作品は、昭和18(1943)年12⽉から翌年1⽉まで東京都美術館で開催され、その後全国を巡回した「第2回⼤東亜戦争美術展」に出品されましたが、来場した⽇本国⺠は日本軍の大勝利を信じ、まさか珊瑚海海戦が失敗した作戦だったとは夢にも思わなかったことでしょう。

⼤正から昭和にかけて活躍した洋画家・中村研⼀の作品は、東京・⼩⾦井市にある 「中村研⼀記念 ⼩⾦井市⽴はけの森美術館」で⾒ることができます。


五艦隊は来(コ)カンタイ


続いて藤⽥嗣治《アッツ島⽟砕》。


藤田嗣治《アッツ島玉砕》東京国立近代美術館

アッツ島は、アリューシャン列島の最⻄端に位置する⼩さな島で、キスカ島とともに昭和17(1942)年6⽉に⽇本軍が占領しました。

 アッツ島⽟砕関連地図


アメリカとしては、北⽅の⼩さな島々とはいえ「⽶国領」。
⽇本軍に占領されていては⾯⽩くないので、奪還するため執拗な空爆を繰り返していました。

それに対して、アッツ島とキスカ島の戦⼒増強のための輸送作戦を担ったのが北⽅海域を担当していた第五艦隊ですが、⽶軍の攻撃の前に思うように進まず、昭和18(1943)⽉3⽉27⽇に起こったアッツ島沖海戦でも、待ち受けていた⽶艦隊に輸送船団の⾏く⼿を阻まれてしまいました。

そして、⽶軍が上陸したのが、同年5⽉12⽇。
⼤本営は反攻作戦も検討しましたが、優勢な⽶軍の前にあきらめざるを得ず、アッツ島放棄、キスカ島撤収の⽅針を打ち出したのです。

《アッツ島⽟砕》では、5⽉29⽇に守備隊⻑・⼭崎保代⼤佐はじめ残存兵⼒150⼈で夜襲をかけた時と思われる総攻撃の様⼦が⾒事に描かれているのですが、太平洋戦争で初めて大本営発表された「⽟砕」という美名のもと、増援作戦が失敗に終わったという⽇本軍の失態や、援軍を信じていたアッツ島守備隊2500⼈の将兵たちが祖国から⾒離されたという事実が隠されていたことを考えるといたたまれない思いで⾒ざるをえない作品なのです。

藤田嗣治《アッツ島玉砕》(部分)東京国立近代美術館

⼀⽅、キスカ島の撤収作戦は同年7⽉に⾏われ、5200⼈の守備隊将兵たちの救出作戦が成功しました。
その時の様⼦を描いたのが、昭和40(1965)年の東宝映画「太平洋奇跡の作戦 キスカ」でした。

北海特有の濃霧を頼りに⾏われた救出作戦でしたが、⼀度は予想に反して霧が晴れたため艦隊はキスカ島⽬前にしながら、キスカ湾に突⼊することなく帰還。
救出の望みを絶たれたキスカ島守備隊の中では、「五艦隊ハ来(コ) カンタイ」と⾔う⾔葉がささやかれました。

 映画「キスカ」では、⼤本営や第五艦隊司令部から「なぜ突⼊しなかった。」と強い⾮難を浴びる中、泰然と構えて次の機会をうかがっていた第1⽔雷戦隊司令官 ⽊村昌福少将の役を⾒事に演じた三船敏郎の存在が光っていました(映画では「⼤村少将」)。


ジャワは天国、ビルマは地獄、死んでも帰れぬニューギニア


最後は戦闘シーンでない作品を紹介します。
こちらは、京都国⽴近代美術館に所蔵されている、戦前から戦後にかけて活躍した京都画壇の⽇本画家、⼭⼝華楊の「南⽅スケッチ」。

山口華楊「南方スケッチ」京都国立近代美術館

⽔上機や、それを整備する整備兵、⾶⾏服に⾝を固めた搭乗員の姿が描かれていますが、どことなく南国ののんびりとした雰囲気が漂っています。

山口華楊「南方スケッチ」京都国立近代美術館


山口華楊「南方スケッチ」京都国立近代美術館


それもそのはず。
⼭⼝華楊が海軍省の嘱託として派遣されたのは、悲劇のインパール作戦で多くの将兵が犠牲になったビルマでもなく、連合軍の追⾛で、飢えと疫病に苦しめられながら⻑距離の撤退⾏軍を強いられたニューギニアでもなく、開戦当初の占領作戦でオランダ 軍が降伏して以来、ほとんど戦闘らしい戦闘がなく、「天国」と⾔われたジャワだっ たからなのです。

それに現地の⽂化にも理解を⽰した占領軍司令官、今村均中将の⼈徳もあって、現地の⼈たちとの関係も良好で、⼭⼝華楊もその場で⽣活する⼈たちののびのとした姿 を描くことができたのです。

山口華楊「南方スケッチ」京都国立近代美術館

華楊はボロブドゥール遺跡も訪れています。 寺院の回廊に描かれたレリーフは、画家にとって格好の写⽣の題材だったことでしょう。

山口華楊「南方スケッチ」京都国立近代美術館

さらに、バリ島にも⾜を延ばして、⽣き⽣きとしたスケッチを残しています。

山口華楊「南方スケッチ」京都国立近代美術館


戦争はもちろん⼆度と起こしてはならないことです。
だからこそ、当時描かれた作品がどのような背景で描かれ、どのような意味合いを持つのか、これからも深読みしていきたいと考えています。

(この記事は2021年5月29日に「いまトピ~すごい好奇心のサイト~」に掲載されたもので、いまトピ編集部の許可を得てこのブログに転載したものです。転載にあたり若干の加筆修正を加えています。)