(前回からの続き)
9月2日に発足した野田内閣は今のところ多くの国民に好感をもって受け入れられているようだ。
新聞社や通信社によって幅があるが、内閣支持率はおおむね50%台から60%台、と各社は報道している。このまま国民の期待に応えて少しは長持ちしてほしいと思うのだが・・・
新聞社や通信社によって幅があるが、内閣支持率はおおむね50%台から60%台、と各社は報道している。このまま国民の期待に応えて少しは長持ちしてほしいと思うのだが・・・
なにしろ、ドイツのメルケル首相が就任した2005年(平成17年)から現在まで日本の首相は野田総理で7人目。ドイツの通信社も「この5年間で6人目の首相」と皮肉っぽく報道している。
今回のシリーズ「日独交流150周年」を始めるきっかけとなった写真展「歴史と未来を紡いで」(7月31日に終了)にはドイツのメルケル首相と日本の4人の首相がそれぞれツーショットで写っている写真があった(安倍総理、福田総理、麻生総理、菅総理の4人。なぜか鳩山総理の写真はなかった。写真を撮る間もなかったのだろうか。ちなみに就任時の日本の首相は小泉総理)。
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今回のシリーズ「日独交流150周年」を始めるきっかけとなった写真展「歴史と未来を紡いで」(7月31日に終了)にはドイツのメルケル首相と日本の4人の首相がそれぞれツーショットで写っている写真があった(安倍総理、福田総理、麻生総理、菅総理の4人。なぜか鳩山総理の写真はなかった。写真を撮る間もなかったのだろうか。ちなみに就任時の日本の首相は小泉総理)。
メルケル首相は2009年(平成21年)に再任されているので任期は2013年(平成25年)まで。「メルケル首相と8人の日本の首相」という写真は想像したくない。
前回にも書いたが、毎年首相が交代していたら、日本の復興といった大事業や、ドイツを含めた外国との信頼関係を築くことはできない。
さて、話はいっきに現代まで来てしまったし、次の企画もあるので、第二次世界大戦中の日本とドイツの関係については簡単に触れるだけにとどめる。
前回にも書いたが、毎年首相が交代していたら、日本の復興といった大事業や、ドイツを含めた外国との信頼関係を築くことはできない。
さて、話はいっきに現代まで来てしまったし、次の企画もあるので、第二次世界大戦中の日本とドイツの関係については簡単に触れるだけにとどめる。
日米開戦から1ヶ月を経過した1942年(昭和17年)1月18日、日独伊軍事協定が締結された。
日本では、勢いのよかったドイツを見てドイツ不敗を信じ、日本軍がビルマ、インドと進みコーカサスあたりでドイツ軍と手を結ぼうといった威勢のいい話もあったが、その頃は、バトル・オブ・ブリテン(英本土航空戦)に敗れ、東部戦線ではモスクワを目前にソ連軍の反撃を受け、ドイツ軍の勢いにも翳りが見えてきたのでドイツ側は大風呂敷を広げる考えはなかった。
日本には、オーストラリア、ニュージーランドから天然資源や軍需物資が運ばれるインド洋ルートを潜水艦作戦を行って遮断することが期待された。20数年前の第一次世界大戦のときにはイギリスのために通商保護を行ったインド洋で、今度はドイツのために通商破壊を行うことになったとは、なんとも歴史の皮肉である。
当初は日本海軍も積極的に通商破壊作戦を行ったが、太平洋戦線での戦況の悪化により、インド洋にまで戦力を送り込めない状況になった。ドイツ側からの再三にわたる潜水艦派遣の要請に対しても十分に応えることができなかったので、ドイツからは日本海軍に対する不満や非難の声が聞こえてきた。
1943年(昭和18年)2月にはインド洋における潜水艦作戦を強化するため第8潜水戦隊を進出させた。戦力の増強により戦果は上がったが、1944年(昭和19年)には太平洋戦線の戦局がさらに悪化し、戦力はジリ貧状態になり、翌1945年(昭和20年)2月には第8潜水戦隊が解隊され、インド洋における日独の協力は終わりを告げた。
第一次世界大戦では、イギリスと同盟を結んでいた日本はドイツと戦火を交えた。第二次世界大戦では、日本はドイツと軍事同盟を結び、お互いが破滅の道を歩んだ。
歴史は、特定の先進国どうしが手を組んだり、対立することが大きな不幸を招くことを教えてくれる。ドイツとの関係も突出したものでなく、ほどほどぐらいがいいのかもしれない。
幸いにも冷戦は終結し、先進国が一堂に会し、共通の課題について議論するサミットの場もある。
サミットといえば、例の写真展に「泡盛を飲み干すシュレーダー首相」という2000年に開催された沖縄サミットの一コマを撮った写真があった。残念ながら泡盛の銘柄はわからないが、シュレーダー首相はおいしそうに飲んでいる。
沖縄サミットのとき、シュレーダー首相は宮古島にも訪れている。
宮古島はドイツとの縁が深い。1873年(明治6年)にドイツ商船が台風に遭い宮古島で座礁したところ、島民が台風のさなか船員を救助して、手厚い看護をした。それを船長がドイツ皇帝ヴィルヘルム1世(2世ではない)に報告したところ、皇帝は島民の博愛心を称えて軍艦を派遣し「博愛記念碑」を宮古島に建立した。
この史実にちなんで1993年(平成5年)、宮古島にリゾート施設「うえのドイツ文化村」がオープンした。
南国の島に忽然と出現するヨーロッパ風のお城。
違和感がないわけでもないが、島民ぐるみの日本とドイツの交流があったことを知ると、周囲の景色にもなじんでくるから不思議だ。
写真は2年前の1月に宮古島に行った時の写真。
記念碑は光が当たりすぎて字が判読しづらいが、なんとなくWilhelmという文字が読めるような気がする。
沖縄サミット後の琉球新報に、「宮古空港からうえのドイツ文化村までの県道に『シュレーダー通り』の愛称がつけられた」との報道があったが、私は標識などに気がつかなかった。沖縄のガイドブックにも記載されていない。
でもシュレーダーさん、心配しなくていいですよ。ちゃんとあなたの名前は沖縄に残っていますよ。
首里城を見学していたシュレーダー首相が同行していたガイドに尋ねた。
「この門は素晴らしい。なんていう名前の門なのか」
ガイドが答えた。
「守礼だ(シュレーダー)」
失礼しました。
日独交流150周年のシリーズは今回で終了です。次回は「ベルリンの壁崩壊」を私の体験を交えながらドキュメント形式でお伝えしたいと考えています。ご期待ください。
日本には、オーストラリア、ニュージーランドから天然資源や軍需物資が運ばれるインド洋ルートを潜水艦作戦を行って遮断することが期待された。20数年前の第一次世界大戦のときにはイギリスのために通商保護を行ったインド洋で、今度はドイツのために通商破壊を行うことになったとは、なんとも歴史の皮肉である。
当初は日本海軍も積極的に通商破壊作戦を行ったが、太平洋戦線での戦況の悪化により、インド洋にまで戦力を送り込めない状況になった。ドイツ側からの再三にわたる潜水艦派遣の要請に対しても十分に応えることができなかったので、ドイツからは日本海軍に対する不満や非難の声が聞こえてきた。
1943年(昭和18年)2月にはインド洋における潜水艦作戦を強化するため第8潜水戦隊を進出させた。戦力の増強により戦果は上がったが、1944年(昭和19年)には太平洋戦線の戦局がさらに悪化し、戦力はジリ貧状態になり、翌1945年(昭和20年)2月には第8潜水戦隊が解隊され、インド洋における日独の協力は終わりを告げた。
第一次世界大戦では、イギリスと同盟を結んでいた日本はドイツと戦火を交えた。第二次世界大戦では、日本はドイツと軍事同盟を結び、お互いが破滅の道を歩んだ。
歴史は、特定の先進国どうしが手を組んだり、対立することが大きな不幸を招くことを教えてくれる。ドイツとの関係も突出したものでなく、ほどほどぐらいがいいのかもしれない。
幸いにも冷戦は終結し、先進国が一堂に会し、共通の課題について議論するサミットの場もある。
サミットといえば、例の写真展に「泡盛を飲み干すシュレーダー首相」という2000年に開催された沖縄サミットの一コマを撮った写真があった。残念ながら泡盛の銘柄はわからないが、シュレーダー首相はおいしそうに飲んでいる。
沖縄サミットのとき、シュレーダー首相は宮古島にも訪れている。
宮古島はドイツとの縁が深い。1873年(明治6年)にドイツ商船が台風に遭い宮古島で座礁したところ、島民が台風のさなか船員を救助して、手厚い看護をした。それを船長がドイツ皇帝ヴィルヘルム1世(2世ではない)に報告したところ、皇帝は島民の博愛心を称えて軍艦を派遣し「博愛記念碑」を宮古島に建立した。
この史実にちなんで1993年(平成5年)、宮古島にリゾート施設「うえのドイツ文化村」がオープンした。
南国の島に忽然と出現するヨーロッパ風のお城。
違和感がないわけでもないが、島民ぐるみの日本とドイツの交流があったことを知ると、周囲の景色にもなじんでくるから不思議だ。
写真は2年前の1月に宮古島に行った時の写真。
記念碑は光が当たりすぎて字が判読しづらいが、なんとなくWilhelmという文字が読めるような気がする。
沖縄サミット後の琉球新報に、「宮古空港からうえのドイツ文化村までの県道に『シュレーダー通り』の愛称がつけられた」との報道があったが、私は標識などに気がつかなかった。沖縄のガイドブックにも記載されていない。
でもシュレーダーさん、心配しなくていいですよ。ちゃんとあなたの名前は沖縄に残っていますよ。
首里城を見学していたシュレーダー首相が同行していたガイドに尋ねた。
「この門は素晴らしい。なんていう名前の門なのか」
ガイドが答えた。
「守礼だ(シュレーダー)」
失礼しました。
日独交流150周年のシリーズは今回で終了です。次回は「ベルリンの壁崩壊」を私の体験を交えながらドキュメント形式でお伝えしたいと考えています。ご期待ください。