(前回からの続き)
ベルリンの壁が崩壊してから、東ドイツ独裁体制は音を立てて崩れ始めていった。
11月13日、すでに引退が発表されていたミールケ国家保安相が人民議会で演説を行った。
一貫して国家保安省の中でキャリアを積み、1957年から32年もの間、秘密警察の長として君臨し続けたミールケ。そのミールケの最初で最後の人民議会での演説はテレビでも放映されたが、彼の最後のことばに、多くの国民は冷ややかに笑いを浮かべ、頭を横に振るだけであった。
「私はみなさんのことをいとおしく思っています。今でもそう思っています。今でもみなさんのために全力を尽くすつもりです」
国民はミールケを頂点とするシュタージにどれだけ苦しめられていたことか。
シュタージ(Stasi)とは、国家保安省(Ministerium für Staatssicherheit)の略称。あるいは頭文字をとってMfS(エム・エフ・エス)とも言うが、こちらはどちらかというと公式的な呼称。
監視カメラ、手紙の開封、盗聴、尾行、逮捕、取調べ、あらゆる手を使って国民を監視し続けたシュタージ。
その活動の一端は2006年に公開された映画「善き人のためのソナタ(Das Leben der Andere)」でうかがい知ることができる。
主人公のヴィースラー大尉は、国家に忠誠を誓う有能なシュタージの捜査官だが、反体制的なグループを監視するうちに国家体制に疑問を抱きはじめ、彼らが逮捕されないよう手助けをするというストーリー。
正直言って、こんなに簡単に反体制派に共感するかな、という疑問を感じたのがこの映画の第一印象。本当は怖いはずのヴィースラー大尉が最後には「いい人」に写ってしまう。最後まで冷徹であった方がシュタージの凄さ、怖さが伝わったような気がする。
ただ、ぜいたくは言ってられない。シュタージのことを正面から扱った映画ができたこと自体、奇跡に近い。
ここでこの映画の中で紹介されたアネクドーテをひとつ。
朝、太陽が東から上がった。
太陽はホーネッカーにあいさつした。
「おはよう、エーリッヒ」
(以前にもふれたが、エーリッヒとはホーネッカーのファーストネーム)
昼になった。
太陽はあいさつした。
「こんにちは、エーリッヒ」
そして夕方になった。太陽は西に沈みかけているが、何も言わない。
なぜか?
西(=西ドイツ)に逃げれば、もうホーネッカーなんて関係ないからさ。
シュタージは、東ドイツ末期には9万人もの職員を抱え、全国に監視網を張りめぐらせていたが、それだけでなく、18万人とも20万人とも言われた協力者(Inoffizieller Mitarbeiter 略してIM)の存在がそれを補っていた。
IMとは、普段は普通に生活している一般市民だが、周囲の人たちの言動を逐一シュタージに報告する人たちのこと。密告者と言った方がしっくりくるかもしれない。
まさに東ドイツ監視社会の象徴とも言える。家族ぐるみで食事会を開いたり、友人どうしでお酒を飲んで騒いでいても、うかつに体制の悪口は言えない。誰がシュタージの協力者だかわからないからだ。
西側の人間と親しげに話すことも禁物だ。誰が見ているかわからない。
そこで出てくるのが「東ドイツ式外国人歓迎法」。(6月20日のブログをご参照ください)
余計なことにはかかわらない方がいい、ということになる。
ベルリンの壁が崩壊してもSEDが君臨している限り、民主化は進まない。
11月20日のライプツィヒの月曜デモには25万人の市民が参加した。
今までは「私たちは国民だ(Wir sind das Volk)」と言って、民主化を主張していたが、この日は違った。
市民たちは「私たちはひとつの国民だ(Wir sind ein Volk)」と主張し始めた。
その日の横断幕には、「再統一のための国民投票を」「ドイツ、一つの祖国」といったものもあった。市民の目標は、明らかに東ドイツの民主化からドイツ統一に移っていた。
国民受けの良かったモドロウはすでに11月8日に首相(※)に任命されていたが、いかに改革派政治家モドロウであっても、大きなうねりとなったドイツ統一の動きを食い止めることはできなかった。
12月6日にはクレンツが国家評議会議長を辞任し、翌年3月18日に行われた人民議会の選挙は、初めての自由選挙になったが、東ドイツ版「キリスト教民主同盟」が第一党となり、当時「民主社会党」と名称を変更していたSEDは大敗し、独裁体制は終わりを告げた。
ドイツ民主共和国憲法第6条第2項にこう書かれている。
「ドイツ民主共和国は、ソ連邦と恒久的に、かつ、取り消すことのできない同盟を取り結ぶ。ソ連邦との緊密かつ兄弟的な同盟は、ドイツ民主共和国人民に、社会主義および平和の道にそった一層の邁進を保証する」
ソビエト解体に先んじること1年、東ドイツはソ連邦との恒久的な同盟に基づき、歴史から姿を消した。どこまでも律儀な国であった。
(※)東ドイツには意思決定機関として国家評議会があり、その議長が国家元首。他に執行機関として閣僚会議があり、その議長は首相で、約10人の副首相、約30人の大臣から成る。国家評議会、閣僚会議ともその構成員は人民議会から選ばれる。
次回から先月行ってきた旧東ドイツ旅行記を少しずつ掲載します。ご期待ください。