2012年7月24日火曜日

旧東ドイツ紀行(29)

11月28日(金)午後 ドレスデン
午後はドレスデンに戻ってきて旧市街地をふらりと散歩。
聖母教会の中に入ろうかどうか迷い、周囲をうろうろしていたが、中から楽器を鳴らしている音が聞こえたのにつられて中に入ることにした。
入口がよくわからなかったので、とりあえず空いていた扉から入ったが、中は暗く人の気配がしない。さらに前方に扉があり、そこが入口かと思い前に進もうとしたところ、教会の係員とおぼしき若い女性が近づいてきて、いきなり大きな声で「出ていけ!」と怒鳴り出した。
「チケットはどこで買うんですか」と聞いても、私が踏んでいたフロアマットを手にとってしまうしぐさを見せて「どけ!」と取りつく島がない。

旧東ドイツ時代であれば、こういった対応は当たり前だったのだろうが、まさかドイツ統一後にこんな対応をする人がいるなんて信じられなかった。ここにもまだ「東ドイツ式外国人歓迎法」が残っていたのだ。

仕方なく外に出たが、ドイツ旅行の最後がこれではあまりに寂しいので、せめて中に入れない理由だけでも教えてもらおうと思い、隣の入口に立っていた係員の若い男性に聞いてみると、
「今日はこれから夜のコンサートに向けた練習があるので、公開は3時半で終わってしまったのです」と丁寧に説明してくれた。そして「明日また来てくださいね」と付け加えた。
しかし、私は翌日早くドレスデンを発たなくてはならないので、
「明日は飛行機で日本に帰らなくてはならないのです。少しだけでも中を見させてもらえませんか」
と恐るおそるお願いしたところ、
快く「いいですよ」と笑顔で答えてくれた。
私はドアの外から遠慮がちに中をのぞいた。
ホールにはオーケストラのメンバーが座り、めいめいの楽器の調子を確認していた。
上を見上げると、円天井はどこまでも明るくきれいで、壁や窓に飾られた装飾品が日の光に輝いていた。
あまり長くいては申し訳ないので、
「どうもありがとうございました。」とお礼をいってその場を立ち去ることにした。
帰り際、
「私はドイツ統一前の1989年にここに来ました。その時はがれきのままでしたが、再建されたことはニュースで知りました。また、映画『ドレスデン』を見て、この教会の再建がドイツとイギリスの和解の象徴であることも知りました」
と言い、重ねてお礼を述べた。
その若い男性は「次回はもっとゆっくり見にきてくださいね」と言ったので、私も「是非そうします」と答えてその場をあとにした。
心の中で、「次回はちゃんと入場料をお支払します」と言いながら。


扉の手前に立っているモーニング姿の人が私を中に入れてくれた親切な男性。
それから、4月15日のブログで「煉瓦の色の違いを説明する案内板や、廃墟になった時の写真は周囲にない」と書いたが、この写真の右手下の黒く焦げた煉瓦が積まれたところに、空襲によって聖母教会の円天井が音を立てて崩れ落ちるときの様子を刻んだ文字板がかろうじて埋め込まれていた。



ドレスデンの空襲から遡ること180年あまり。七年戦争(1756-1763)でプロイセン軍の砲撃によって市街を破壊されたドレスデンの様子を聖母教会の円屋根の上から見渡したゲーテは、「もっとも悲しむべき光景」と言って嘆いている。
しかし、1945年2月のドレスデン空襲はその時以上に市街地を焼き尽くしてしまった。
聖母教会の円屋根も爆撃により破壊されたことを知ったら、ゲーテはどれだけ心を痛めたであろうか。

七年戦争が始まった時のザクセン王はアウグスト強王の息子のアウグスト2世。
4月24日のブログでふれたが、アウグスト2世も父と同様に芸術作品の収集に熱心で、今ではアルテ・マイスター絵画館の代名詞とも言えるラファエロの「システィナのマドンナ」は彼が蒐集したもの。
さらに、国外から作曲家や歌手を招へいし、ドレスデンでのイタリアオペラの確立にも力を注いだ。
こういったザクセンの文化・芸術の振興に重要な役割を果たしたのがハインリッヒ・フォン・ブリュール伯。彼は、アウグスト2世が即位した年に芸術作品収集の責任者に任命され、1738年には外務大臣、1746年には宰相に登りつめている。エルベ川沿いの「ブリュールのテラス」は彼の名にちなんだものだ。
しかし、芸術や文化に心血を注いだアウグスト2世ではあったが、外交や軍事にはあまり関心を払わなかった。
そのため、当時、フリードリヒ大王のもと富国強兵策をとり、ヨーロッパの列強にのし上がろうとしていたプロイセンの攻撃によって、ドレスデン市街の3分の1と旧市街の東地区のほとんどを焼き尽くされてしまった。

こうして歴史を振り返ってみると、アウグスト2世の姿は室町幕府第八代将軍、足利義政(1436-1490 在位1449-1473)とだぶって見えてくる。
足利義政といえば、戦乱をよそに風流の生活を送った、政治家としては無能な将軍ではあったが、一方で「東山文化」を創出し、連歌、漢詩、花道、築庭、茶の湯などを奨励し、その後の日本の文化・芸術に大きな影響を与えた人でもあった。
義政が始めた茶の湯はその後、茶道に発展し、義政が蒐集した南宋や元の水墨画は、雪舟や狩野派の始祖である狩野正信によって日本独自の絵画に展開していった。
また、室町時代には、「同朋衆」と呼ばれた芸能、茶事などに勤めた将軍の側近が文化・芸術を支えていた。この「同朋衆」であった能阿弥、子の芸阿弥、孫の相阿弥と、三代にわたって義政に仕えた「三阿弥」が、アウグスト2世にとってのフォン・ブリュール伯に相当すると言えるだろう。

文化・芸術は後世に残るが、戦(いくさ)は何も残さない。しかし、戦に強くなければ民(たみ)は守れない。そのバランスが大切なのだが、両立は難しいのだろうか。

さて、ドレスデン市内に戻るが、このあと、夕闇が迫る中、ツヴィンガー宮殿、君主の行列の壁画、レジデンツ城などを、「これが見納め」とばかりに名残を惜しみながら見て回った。
(次回に続く)