2017年7月2日日曜日

山種美術館「特別展 没後50年記念 川端龍子 ー超ド級の日本画ー」

山種美術館で開催中の「特別展 没後50年記念 川端龍子 -超ド級の日本画ー」特別内覧会に参加してきました。

今回の展覧会のタイトルで特に目を引いたのが「超ド級の日本画」。

1906年12月、イギリス・ポーツマス海軍工廠で竣工した新型戦艦「ドレッドノート」の出現に驚愕した列強はその後、ドレッドノートに並ぶ「弩級」(当時の表現)、さらには「ドレッドノート」を超える「超弩級」戦艦の建造を競い合いました。

まさに川端龍子の作品は超ド級。
いかに大きな衝撃を当時の日本画壇に与えたか、展覧会を見て納得しました。
今回の特別展は、初期から晩年の作品まで、豪快な大作から四条派、琳派風の繊細な作品まで、龍子芸術のすごさ、素晴らしさ、幅の広さがよくわかる展覧会です。

それでは内覧会の進行に沿って展覧会の様子をご紹介します。

はじめに山種美術館の山﨑妙子館長からご挨拶がありました。

 ○ 今回の特別展では、没後50年を記念して大田区立龍子記念館、東京国立近代美術館
  ほかのご協力をいただいて、龍子の初期から晩年までの作品を展示しています。
 ○ 今回も写真撮影可能な作品があります。前期は《真珠》、後期は《八ッ橋》です。
 
川端龍子《真珠》1931年(山種美術館)
右隻左側の女性が手にする一粒の真珠は何を意味するのか?
謎めいたところに惹かれる作品です。

○ 「Cafe椿」では龍子の作品にちなんで、五種類の和菓子をご用意しています。

左上から時計回りに「涛々」、「夏の思い出」、「竹取」、
「東くだり」、そして中央が「花のすがた」。
私は《鳴門》をイメージした「涛々」をいただきました。
淡雪のふわふわ感が心地よくてとても美味でした。
○ 川端龍子展にちなんで開催される7月8日(土)の山下裕二先生の講演会はすでに定員に
 達しましたが、次回の企画展「上村松園」にちなんで9月9日(土)に開催される芥川賞受
 賞作家 朝吹真理子さんの講演会は受付中です。
  (詳細はこちらをご覧ください)
   http://www.yamatane-museum.jp/event/shoen2017.html

続いて、明治学院大学教授で山種美術館顧問の山下裕二さんから、スライドを使って展覧会の見どころを解説していただきました。

○ 展覧会のポスターには大きく「RYŪSHI」という文字を入れました。
  川端龍子(1885-1966)は、生前は横山大観、菱田春草、上村松園、鏑木清方らと並ん
 で著名な日本画家でしたが、没後は忘れ去られた存在で、名前に「子」がつくので女
 性だと思っている方もいるかもしれないので、今回の展覧会では、まずは川端龍子の名
 前を知ってもらおうと考えて、この文字を入れました。

○ 今回は大田区立龍子記念館から多くの作品をお借りしました。
  同館は龍子が亡くなる3年前に自分で建てた個人美術館で、11月3日から没後50年特別
  展を開催するので、ぜひこちらも見ていただきたい。

○ 龍子は小さいころから絵が上手でした。
  《狗子》は14歳の頃に学校の授業で描いた作品で、円山応挙や長沢芦雪の模写です。
  先生の評価が書かれていて、この作品は「上」ですが、評価が「中」の作品もありま
 す(笑)。

川端龍子《狗子》19世紀(明治時代)(右)、《四季之花》1899年(中央)、
機関車》1899年(左)、(いずれも大田区立龍子記念館)
《狗子》の右下の名前の上には赤く「上」と書かれていますが、
《機関車》の評価は「中」です。龍子は大の犬好きで、
画室内で飼い犬が遊んでいても注意しなかったそうです。

○ 龍子は、最初は洋画家を目指していました。
  《女神》は、壺を掲げる女性と背景の珊瑚から、青木繁《わだつみのいろこの宮》(ブ
 リヂストン美術館蔵)の影響がうかがえます。

川端龍子《女神》20世紀(明治時代)(大田区立龍子記念館)
 ○ 若くして結婚した龍子は、生活のため新聞や雑誌の挿絵を手がけました。
  ここでジャーナリズムの世界にかかわったことが、のちになってタイムリーなテーマ
 を取り上げるジャーナリズム感覚を身に着けるきっかけになったと言えます。
川端龍子《漫画東京日記》1911年(左下)(大田区立郷土博物館)、
川端龍子、鶴田吾郎の共作《大和めぐり》1915年(上)、
《スケッチ速習録》第1号1915年(右下)
(いずれも大田区立龍子記念館)
○ 龍子は洋画の勉強のために渡米しますが、早々に帰国して、その後は日本画家に転向
 しました。
  こちらが第8回再興院展に出品した《火生(かしょう)》です。
  発表当時、この作品は批評家たちから「会場芸術」と批判されましたが、龍子はこれ
 を逆手にとって、自分の作品を「会場芸術」と称して大作を次々と発表します。

川端龍子《火生》1921年(大田区立龍子記念館)
全身炎に包まれた体。ものすごい迫力!
○ 龍子は、昭和3年(1928年)に再興院展を脱退し、翌年、青龍社を立ち上げ、第一回青
 龍展を開催します。
  その時に出品されたのが《鳴門》です。
  青龍社は、再興院展に対抗して、ダイナミックさ、スケール感、スピード感をもった
 作品を目指していました。この作品では、日本画の絵の具の中ではもっとも高価な群青
 を6斤(約3.6Kg)も使って、鳴門の荒波を表現しています。  

川端龍子《鳴門》1929年(山種美術館)
海のうねる音が聞こえてきそうな迫力です。
○ 《草の実》は1931年の作品で、前年に発表した《草炎》(東京国立近代美術館)の評判
 が良く、もう一枚書いてほしいとの要望があって製作されたものです。
  この作品には、紺紙金字一切経(神護寺経) (12世紀(平安時代) ロンドンギャラリ
 ー)など紺紙金泥経の影響がうかがえます。
  独学で日本画を勉強してきた龍子ですが、この時期になると上手になってきました 
 (笑)。自信をもって線を描いています。また、何種類もの金やプラチナを使っていて、
 手前を濃く、奥を薄く描いて、奥行きがあるように見せています。
  酒井抱一《夏秋草図屏風》(東京国立博物館)の影響も見て取れます。

川端龍子《草の実》1931年(大田区立龍子記念館)

《草の実》の解説です。
紺紙金字一切経(神護寺経)の写真も掲示されています。
 ○ 龍子は、画風の振れ幅が大きく、多面性をもった画家で、それが龍子の魅力と言えま
 す。
  《黒潮》は、第2回個展に出品された作品で、すきっとした切れ味の鋭い作品に仕上が
 っています。

川端龍子《黒潮》1932年(山種美術館)
 ○ 《龍巻》は、第5回青龍展に出品された作品です。
  この作品は、下図の段階で天地を逆にしたもので、竜巻で舞い上がった海の生き物が
 天から降ってきています。

川端龍子《龍巻》1933年(大田区立龍子記念館)
1933年といえば日本が国際連盟を脱退し、ドイツではヒトラーが政権をとった年。
当時の不穏な空気が感じられる作品です。
 一方で、《鶴鼎図》のように円山四条派風のオーソドックスな作品も描いています。

川端龍子《鶴鼎図》1935年(山種美術館)
○ 龍子は、軍の嘱託画家として中国戦線に行っています。その時、龍子は偵察機に同
 乗して、その体験をもとに《香炉峰》を描きました。
  龍子は高所恐怖症だったようですが(笑)。

○ 描かれた戦闘機の機体が半透明で、背景の山が透けて見えています。こんな発想はど
 こから出てきたのでしょうか。やはり異色な画家です。
  パイロットはしっかり自分の顔を描いています(笑)。
  画面に広がりをもたせるため、機体をわざとはみ出させています。これは俵屋宗達
 《風神雷神図屏風》で雷神の太鼓が枠からはみ出ているのと同じ効果ですね。 

川端龍子《香炉峰》1939年(大田区立龍子記念館)
描かれているのは零戦の一代前の九六式艦上戦闘機。
縦2.4m、横7.2mの大作です。

○ 《爆弾散華》は第17回青龍展に出品された作品です。
  龍子の自宅は終戦の2日前に米軍の爆弾が落ちて大きな被害を受けました。そのときの
 菜園の野菜が吹き飛ぶ様子が描かれています。

川端龍子《爆弾散華》1945年(大田区立龍子記念館)
飛び散る金箔が戦争の悲惨さを物語っているように感じられます。

○ 時代をとらえるジャーナリストとしての視線も活かされています。
  《夢》は1950年に中尊寺金色堂に安置されている藤原四代のミイラの学術調査が行わ
 れた際、実際に現地に取材して描いたものです。

川端龍子《夢》1951年(大田区立龍子記念館)
○ 《松竹梅のうち「竹(物語)」》は、横山大観、川合玉堂、川端龍子の三巨匠が、3回
 開催された「松竹梅」展でそれぞれ描いた松竹梅のうち、第3回展で龍子が描いた作品で
 す。
  院展脱退以降、大観との間に確執があった龍子ですが、こういった交流もありまし 
 た。大観と龍子の関係はこれからの研究テーマではないでしょうか。

川端龍子《松竹梅のうち「竹(物語)」》1957年(山種美術館)
○ 龍子は仏教への関心の高さを示す作品も描いています。
 《十一面観音》は、龍子が自邸内に設けた持仏堂に安置していた本尊を描いた作品で
 す。

川端龍子《十一面観音》1958年(大田区立龍子記念館)
そして最後に山下さん。
「川端龍子は、作風の振れ幅が広く、多面的な側面をもった画家です。このスケール感の大きさをぜひ体感してください。」

7月16日(日)にはNHK「日曜美術館」で川端龍子展が紹介される、とのことです。

続いて会場では担当学芸員の南雲さんのギャラリートークをおうかがいしました。

第1章 龍子誕生 ー洋画、挿絵、そして日本画ー

○ 龍子は、旧制中学中退後、白馬会洋画研究所に入り洋画を学びました。
  古事記の海幸彦、山幸彦の神話を題材にした《女神》は20歳前後の習作で、《風景(平
 等院)》は激しい筆致の作品で、光を取り入れ明るい色彩で描いているところは外光派
 (戸外に出て外光のもとで制作した画家のグループ)の影響を受けている可能性もありま
 す。
 

川端龍子《風景(平等院)》1911年(大田区立龍子記念館)
○ 21歳で結婚した龍子は、生活のため国民新聞に勤務し、新聞の挿絵や「少女の友」の
 イラストなどを描いていました。
  国民新聞では、大相撲の取組を現場に行ってスケッチして、徹夜でそれを木版画
 にして、翌日の新聞の印刷に間に合わせるということもしていました。その仕事を通じ
 て龍子は相撲好きになりました。

第2章 青龍社とともに ー「会場芸術」と大衆ー

○ 昭和3年に脱退した再興院展への対抗意識が強かった龍子は、第一回青龍展を再興院展
 の会場の隣の会場で開催しました。
  第一回青龍展に出品された《鳴門》では金がふんだんに使われています。
  《爆弾散華》でも金箔が今までになかったような独特な使い方がされています。

川端龍子《鳴門》(部分)1929年(山種美術館)
下から見上げると金がキラキラ輝いているのがよくわかります。
第3章 龍子の素顔 -もう一つの本質ー

○ 《千里虎》は出征する息子のために描いた作品です。虎は一日のうちに千里を往復す
 ると言い伝えられていて、息子を思う父親の気持ちが表れている作品です。

川端龍子《千里虎》1937年(大田区立龍子記念館)
父親の願いはかなわず、息子さんは外地で帰らぬ人となりました。
見ていて胸がジーンとする作品でした。
そして最後に南雲さん。
「今回の展覧会は、川端龍子を知らない方にぜひ知ってもらいたいと考えて企画しました。大作だけでない龍子の魅力をぜひご覧になってください。」

(みなさんから大変興味深いお話をたくさんおうかがいしましたが、とても全部は紹介しきれないので、適宜編集しました。ご了承ください。)

展覧会のタイトルどおりまさに「超ド級」の日本画展。
前期は7月23日(日)まで、後期は7月25日(火)から8月20日(日)までです。
前期に行くか、ポスターにもなっている《金閣炎上》(1950年 東京国立近代美術館)が出る後期に行くか、それとも両方行くか悩ましいところですが、いずれにしても川端龍子のスケールの大きさが実感できる、またとない絶好の機会です。
お見逃しなく。

展覧会の詳細はこちらです。
 ↓
http://www.yamatane-museum.jp/

※掲載した写真は、山種美術館の特別の許可を得て撮影したものです。