2012年10月12日金曜日

ギュンター・グラスの見たドイツ統一(5)

詩人ヘルダーリン(1770-1843)は、彼の偉大な先輩であるゲーテ(1749-1832)やシラー(1759-1805)が生前から名声を得ていたのと比べて、生きている間はほとんど無名のままで、後半生は精神を病んでいたためチュービンゲンのネッカー河畔にあるヘルダーリンの塔と言われた塔にこもり、そこでさびしくこの世を去った。
チュービンゲンは、彼が神学校に通っていた1788年から1793年まで5年間住んでいたなじみの街だ。
ヘルダーリンは、当時、大小300もの国に分立し、それぞれの国を諸侯が支配していた封建的なドイツの後進性を憂えていた。
おりしも彼のチュービンゲン滞在中に隣国フランスではフランス革命が勃発し(1789年)、1792年には共和制が宣言された。
その後は左右勢力の対立で政治的に不安定な状況が続いたが、1799年、ブリュメールのクーデターでナポレオンが台頭するという激動の時代であった。

こういった時代の流れを敏感に感じ取っていたヘルダーリンは、1799年、彼の唯一の小説「ヒューペリオン」を完成させた。
この書簡体の小説は、トルコに支配されていたギリシャを解放しようと立ちあがったギリシャ人の若者ヒューペリオンが主人公の物語だ。
ヒューペリオンは、当時、南下政策を進めトルコと衝突していたロシアに加担して独立を勝ち取ろうと考え、ロシア艦隊に志願したが、海戦で瀕死の重傷を負ってしまった。
その後、怪我も回復して退役したが、反トルコ的とみなされトルコ当局から命を狙われるようになったので、ドイツに逃れた。
そこでヒューペリオンは現状を打破しようとしないドイツ人の無気力さに失望してふたたびギリシャに戻る決意を固める、というところでこの小説は終わっている。

ヘルダーリンは、「ヒューペリオン」の完成と同じ年に「祖国のための死」という詩を発表し、「祖国のために犠牲になる」と決意表明している。

こうした情熱にかられた一連の作品を創作したヘルダーリンは両大戦時に再評価され、多くの兵士たちは背嚢に彼の詩集を背負って戦場に向かった。特にナチスの時代には、「ドイツ民族の詩人」としてもてはやされ、本格的なヘルダーリン研究が始められた。

一方でヘルダーリンは、理想的な世界として古代ギリシャへの憧れを強く持ち続けた詩人だった。
一度もかの地に足を踏み入れたわけではないのに、「ヒューペリオン」ではギリシャの海が、山が、空がまるで目の前で見ているかのように描写されている。
さらにギリシャへの思いを込めた「ギリシャ」「エーゲ海」といった詩もつくっている。

ヘルダーリンがあこがれ続けていたギリシャ。
その地をナチスの兵士たちはヘルダーリンの作品を携えて軍靴で踏みにじった。

しかし、ヘルダーリンは祖国ドイツのことは憂えたが、他国への侵略のためにわが身を捧げることを美化したわけではなかった。
そしてヒトラーも、強敵ソビエトと事を構える前に、ギリシャにかかずらわりたくなかった。

イタリア以外は誰も望まなかったギリシャ侵攻。
でも、枢軸国軍に踏みにじられたギリシャ。
結局、一番迷惑をこうむったのは、ドイツ、イタリア、ブルガリアによって分割・占領されたギリシャだった。

(次回に続く)