次は第6段落。
これほど我慢させられた国はなかっただろう。
その国の大佐たちはかつては同盟国として君によってじっと耐え忍ばれていたのだ。
枢軸国によって占領されたギリシャでは、ドイツ軍によるソ連侵攻の補給基地として食料や物資の過酷な調達が行われ、特に1941年から42年にかけての大飢饉の時には多数の餓死者が出るといった悲惨な状況であった。
こうした中、共産党主導の「民族解放戦線(EAM)」を中心として大衆による抵抗活動が行われ、1942年2月には「民族人民解放軍(ELAS)」が創設されて武装抵抗を行うようになった。
1944年9月にELASがギリシャ全土で一斉蜂起を行い、続く10月にはイギリス軍がギリシャに上陸して枢軸国を追い出したが、12月には共産主義勢力の拡大を怖れたイギリス軍がELASを攻撃し、これをきっかけにギリシャ全土でイギリスが支援する右派とELASを中心とする左派勢力との間での内戦が始まった。
第二次世界大戦は1945年に終結したが、内戦はその後も続き、左派勢力が国内から一掃され内戦が終結したのは1949年になってからであった。
1951年にはNATO(北大西洋条約機構)に正式加盟し、西側諸国の一員としてギリシャにもようやく平穏な日々が訪れたかのように見えた。復活した王政のもと、軍部に支えられた右派勢力による専制的な政治体制ではあったが、経済的にはめざましい発展を遂げていった。
しかし国民の民主化要求の動きが高まり、1963年に中道政権が樹立すると、右派勢力によるあからさまな選挙妨害が行われ、国中にきな臭い空気が漂ってきた。
そして次期総選挙で中道勢力の勝利が確実な状況になった1967年、ゲオルギオス・パパドプロス大佐ら中堅将校のクーデターにより軍事独裁政権が樹立され、ギリシャは再び暗黒の時代に突入した。
アメリカの支援によって軍事独裁政権は7年間続いた。
その間、政権に協力しない政治家たちは逮捕され、軍部内でも粛清が行われるといった恐怖政治が横行し、国民の民主化運動は抑圧された。
国民はNATO同盟国の国民として、パパドプロス大佐らによる支配をじっと耐え忍ばなくてはならなかったのだ。
こうした苦難の道を経てギリシャに民主的な政権が成立したのは、オイルショックによる経済の悪化などで軍事独裁政権が崩壊した1974年になってからであった。イタリアの侵攻から数えて33年、第二次世界大戦終了から数えて29年の長きにわたる道のりであった。
(次回に続く)