11月13日(日)続き ペルガモン博物館続き
ペルガモン博物館では、中東やイスラムの遺跡を見ることも今回の旅行の大きな楽しみの一つであった。以前、アラブ・イスラム圏にのめり込んでいた時期があって、訪れた国々での体験をもう一度思い出してみたいと思ったからだ。
写真はバビロンのイシュタル門。
展示室の仕切りの壁と入口を利用して見事に再現されている。青いタイルと、ヤギのような動物のレリーフを見ながら、15年ほど前のイラク旅行のことを思い出した。
当時のイラクは、1991年の湾岸戦争と、2003年のイラク戦争とのはざまで、イラク政府も観光振興に力を入れていて、一定人数以上の団体であれば観光での入国が認められていた。
しかし、バグダッド国際空港は国連の制裁で封鎖されていたため陸路でしか入国ができなかった。そこで私たち一行は、アエロフロートでモスクワからイランの首都イランのテヘランに向かい、バスでイラクに入国することとなった。
乗り継ぎ便の都合で、テヘランに着いたのが夜中の2時すぎ。市内のホテルで仮眠して、翌朝、テヘランの西のケルマンシャーまで国内便で飛び、ケルマンシャーからはバスでイラクとの国境まで向かった。それでも国境まではバスで4時間かかる距離だ。
さらに国境通過のときに思いのほか時間がかかったので、首都バグダッドにたどり着いたのは、やはり日付が変わった午前1時過ぎであった。
イシュタル門を見たのは、その翌日。長くてつらい移動だったからこそ、ようやくここまで来た、という喜びも大きかった。
バグダッドの南約100km、ユーフラテス川沿いにあるバビロンは、かつてのバビロニア王朝の首都。国家的な大事業として多くの建物が当時のままに再現される工事が続けられていた。高さ10mはあろうかという城壁や建物にはただただ圧倒されるばかり。
紀元前6世紀、バビロンを再興したネブカドネザルⅡ世が作ったとされるイシュタル門は、かつてバビロン市街の外周19kmを取り巻く城壁に8つ作られていた。さらにそれぞれの門からは行列の道という通りがのびていて、道の両側には壁が作られ、壁面にはライオンのレリーフがはめ込まれていた。
今では8つの門のうち一つが復元されていて、門から続く行列の道も再現されている。
ペルガモン博物館でもイシュタル門に続く通路の両側に行列の道が再現されている。写真は、行列の道とライオンのレリーフのアップ。
イシュタル門や行列の道を眺めながらしばしイラクでのできごとを思い出していた。
イラクは遺跡の大きさにも圧倒されたが、印象に残っているのは現地で暮らす普通の人たちだ。
移動の途中で立ち寄った食堂で鳥を焼いていたクルド人の青年は、「俺はボクサーだ。オリンピック出場が夢なんだ」と言って目を輝かせていた。
子どもたちは誰もが明るく、カメラを向けると、みんな集まってきて笑顔を振りまき、うれしそうに手を振っていた。
北部の街モスールのスーク(市場)で出会った若者たちは「俺は兵士(ムカーティラ)だ」と誇らしげに話しかけてきた。
たとえ片言でもこちらがアラビア語で話しかけると、もともと気さくな彼らはよけい親しげに話しかけてきた。
当時、イスラム圏に興味があり、語学教室に通ったりして「第2外国語」としてかなり真剣にアラビア語を勉強していた。イラク旅行の2年前、シリア・ヨルダンに行ったときにはあいさつ程度だったが、2年たって少しは会話がができるくらいになっていた。
おかげで現地ガイドのアリーさんとは特に仲良くなった。彼は英語も話し、ツアーの添乗員とは英語でやり取りをしていたが、私とはアラビア語まじりで話しをしてくれた。
そしてイラク滞在の最終日、なんとガイドの商売道具であるはずのアラビア語のガイドブックを私に譲ってくれた。これは今でも私の宝物の一つだ。
アラビア語は右から左に読む。左上の黄色い文字は、上に「イラク(アラビア語風に発音するとアル・イッラーク)」、その下に「旅行ガイド」と書いてある。
一枚めくるとサダム・フセイン大統領の写真。お札にもフセインの顔が描かれている。
リビアについてふれた時も書いたが、歴史は繰り返す。ここでも独裁者が国民に繁栄と破滅をもたらした。
私たち一行を歓迎してくれたアリーさん。
普段は陽気にふるまっていたが、湾岸戦争で多国籍軍に爆撃され、コンクリートの壁に大きな穴のあいた建物を前に「ここで罪のない市民が犠牲になったんだ」と言って急に泣き出したこともあった。
そして、イラクからイランに戻るとき、国境の緩衝地帯の前で、私たちがイラン側の検問所にたどり着くまで手を振ってくれていた。その時の姿は今でも忘れられない。
その後のイラクが悲惨な運命をたどったのは誰もが知っているとおり。
イラク戦争で主要な街は破壊され、新しい政権が発足した現在でも各地で爆弾テロにより多くの市民が犠牲になっている。
アリーさんはどうしているのだろうか。無事に生きのびているのだろうか。日本に帰ってからすぐアラビア語で手紙を書き、返事も来たが、今では郵便が到着するかどうかすらわからない。
行く先々で出会った人たちはどうしているだろうか。今となっては確かめる術はないが、無事を祈るばかりだ。
そんなことを考えながら、私はしばらくイシュタル門の前にたたずんでいた。
(次回に続く)