歩いているうちにだいぶ時間がたって、疲れてきたし、体も冷えてきたので、とりあえずホテルに戻ることにした。
朝食をたっぷり食べたのであまりおなかは空いていないが、暖かいお茶でも飲んで、ひと心地ついたらお昼でもとることにするか、などと考えつつウンター・デン・リンデンに出ると、今まで歩いていて気がつかなかった「ベルリン博物館」という看板が目に入った。
絵葉書や観光ガイドブックを売っているスーベニアショップに付属している小さな博物館のようだが、「ベルリンのすべて(Alles über Berlin)」という看板につられて入ることにした。
お出迎えは、もはやDDRの象徴となったトラバント。力強くベルリンの壁を破っている。
博物館は、年代順にたどることになっている。まず目を引いたのは、19世紀後半、華やかなりし頃のベルリン中心部のジオラマ。
手前は博物館島。右手は毎朝見ているベルリン大聖堂。その左手は、プロイセン、ドイツ帝国を支配したホーエンツォレルン家の王宮。
戦後は、東ドイツ政府が取り壊して人民議会が入る「共和国宮殿(Palast der Republik)」を建てた。
東ドイツ建国40周年のレセプションが行われ、ホーネッカーが妻マルゴットとともに得意げに入っていったのがここだ。
(昨年11月28日のブログをご参照ください)
東ドイツの共和国宮殿の写真は、ベルリン市のホームページに出ていたのでご参照ください。
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http://www.berlin.de/tourismus/insidertipps/1727324-2339440-palast-der-republik-untergegangen-in-rui.html
撤去作業中の様子はこちら。
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http://www.berlin.de/orte/sehenswuerdigkeiten/palast-der-republik/
これは現在の宮殿広場。この左手に共和国宮殿が立ち、この広場はマルクス・エンゲルス広場と呼ばれていた。奥の建物は旧東ドイツの国家評議会。現在は「ヨーロッパ経営技術学校」。
かつて栄華を極めたホーエンツォレルン家の宮殿も、絶大な権力をもっていた共産主義独裁政権の宮殿も今はあとかたもない。
すでに秋深く、「夏草や」ではないが、まさに「兵(つわもの)どもが夢の跡」。
宮殿広場の一角では発掘調査が行われている。
ドイツに行く前に見た新聞(平成23年8月14日付 朝日新聞)によると、王宮が復元されるそうだ。そのための調査だろうか。
ベルリン博物館には、市街地中心のジオラマとは別に、王宮だけの復元模型もあった。復元されるとこのような感じになるのだろう。内部には博物館や図書館、大学が入ることになるが、どのようなものを展示する博物館になるのか、今から楽しみだ。本格的な工事は2014年に始まり、2019年に完成する予定だが、そのころまたベルリンに来てみたいと思う。
ベルリンの歴史は、ドイツの繁栄と破滅の歴史そのものである。ナチスの悲劇を繰り返さないためにも、負の遺産も語られている。
戦後のベルリンは東西冷戦の最前線に置かれた。写真は、1953年のベルリンの労働者の暴動に対して出動したソ連の戦車と、それに投石して抗議する労働者(6月17日事件)。
博物館の一番奥のシアター・ルームでは、ベルリンの壁建設により東西の緊張が高まる中、1963年6月26日、西ベルリンを訪れたアメリカのケネディ大統領の演説の映像が流れていた。
演説の最後にケネディ大統領がドイツ語で「私はベルリン市民だ(Ich bin ein Berliner)」というセリフは、多くの西ベルリン市民を勇気づけた。
これもベルリン市のホームページ。
このテキストの下から2行目、"Alle freien Menschen"をクリックするとケネディの肉声を聞くことができる。
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http://www.berlin.de/rubrik/hauptstadt/geschichte/kennedyrede.html
(次回に続く)