2012年3月26日月曜日

旧東ドイツ紀行(14)

11月15日(火) ベルリン

朝起きたらのどが腫れていて、少し熱っぽい。
それでも今日はベルリン最後の日。午後は列車に乗ってドレスデンに移動するだけなので、午前中はベルリン市内を歩き回ることにした。
6時過ぎには下のレストランに降りて、いつもの指定席でゆっくりと朝食。昨日取り忘れたチーズを多めにとり、おなかいっぱい食べてホテルを出た。

チェックアウトが昼の12時なので、ザックは部屋に置き、小さめのDパックを背負って外に出た。
昨日までは寒くても晴れていたが、今日はあいにくの曇り。このとおりテレビ塔も頭の部分がすっぽり霧に覆われている。


昨日が臨時休業だったので、今日こそは上まで登ろうと思っていたが、これでは上からは何も見えない。時間がたって気温が上がれば霧も晴れるかもしれない、と気を取り直し、まずはチェックポイントチャーリーまで歩くことにした。

(このあたりの位置関係は、2月19日のブログのベルリンの地図をご参照ください)

 宮殿広場から旧・国家評議会の建物の前を通り、シュプレー川を越えると、外務省(Auswärtiges Amt)。ここはかつて東ドイツを支配していたドイツ社会主義統一党(SED)本部の建物だった。
今ではガラス張りで中がよく見えるようになっていて、カフェなども入っているが、統一前はどうだったのだろうか。


次の写真は、フリードリッヒ通りに行く途中にあるジャンダルメンマルクト(Gendarmenmarkt) 。
手前がドイツドームで、奥がフランスドーム。

二つの教会の間には重厚な円柱のファザードをもつコンツェルトハウス・ベルリン。
前の広場にはクリスマスの市のテントがならんでいる。
第二次大戦で破壊される前のベルリンは、こういった趣のある建物がずらりと並んでいたのだろう。

フリードリッヒ通りに出てまっすぐ南下すると、チェックポイント・チャーリーが見えてきた。


 チェックポイント・チャーリーは、東西ベルリンの間に8つあった検問所のうち、唯一アメリカ軍が管理していた検問所。ここは外国人、東ベルリンの西ドイツ政府代表部の職員、東ドイツ政府の幹部だけが通ることを許された。
検問所近くに、統一前の様子がわかる写真が貼られていた。

今では観光客用に小さな小屋があり、星条旗と米軍兵士に扮した人が2人立っている。
左奥のベルリンの壁博物館(Mauermuseum)は時間がなかったのでまたの機会に。



最後にブランデンブルク門にお別れのあいさつ。

ブランデンブルク門は、約200年、ベルリンの、そしてドイツの歴史を見てきた。
1989年8月にここを訪れたときは門の向こう側にあったベルリンの壁が、同じ年の12月22日に撤去され、10万人もの人がここ集まり、祝福した。
それはドイツ統一への道のりの大きな一コマであった。

今は自由に行き来することができるが、一度は自分でも試してみようと思い、通り抜けてみた。
もちろんすんなり通ることができるが、22年間のことを思い出すと、なんだか不思議な感じ。
はるか遠方には戦勝記念塔(Siegessäule)が見える。
実物の写真はベルリン市のホームページをご覧ください。

http://www.berlin.de/orte/sehenswuerdigkeiten/siegessaeule/




この戦勝記念塔は、もともとブランデンブルク門の北にある帝国議事堂(現在の連邦議事堂)の前にあったが、1938年、ヒトラーによるベルリンの都市改造計画「世界首都ゲルマニア(Welthauptstadt Germania)」に基づき現在のティーアガルテンに移された。
「世界首都ゲルマニア」計画は、移設した戦勝記念塔からブランデンブルク門、ウンター・デン・リンデンを東西の軸とし、それと交差するように、巨大なキューポラをもった会議場を北端にして、新たに南北の軸をつくり、世界首都にふさわしい都市をつくるという壮大な計画であった。

(以下、ウンター・デン・リンデンにあるドイツ歴史博物館のホームページより)

戦勝記念塔
http://www.dhm.de/lemo/objekte/pict/ba008862/index.html

南北の軸の模型
http://www.dhm.de/lemo/objekte/pict/achse/index.html

以前このブログで紹介した「ヒトラー~最期の12日間~(Der  Untergang)」に、「世界首都ゲルマニア」の大きな模型を前に、ヒトラーが計画の設計者シュペアーに話しかける場面がある。
そこでヒトラーは、ソ連軍が目前に迫っているにもかかわらず、「ベルリンの改造は私の夢だった。今でもだ」と言っている。

劇場型政治の最たるナチスは、ベルリンの象徴であるブランデンブルク門を最大限に活用した。
1933年1月30日夜、ナチス政権の誕生を祝った突撃隊によるたいまつ行進に始まり、ことあるごとにブランデンブルグ門とウンター・デン・リンデンを行進した。

たいまつ行進の様子(同じくドイツ歴史博物館のホームページより)
http://www.dhm.de/lemo/html/nazi/innenpolitik/etablierung/index.html

1939年4月20日には、ヒトラーの50歳の誕生日を祝って、戦勝記念塔からウンター・デン・リンデンまで、沿道には10万人もの市民が集まり、リムジンに乗ったヒトラーがパレードを行った。
(パレードの様子の写真は見つかりませんでした)

それが今では観光客が訪れるベルリンの名所となっている。
門の前には、全身を銀色で塗りたくった兵士姿の男が立っていたり、熊のぬいぐるみを着た人が愛想を振りまいたりしている。
2日前にここに来たとき、銀色の兵士と一緒にいた軍服姿の男がDDRの国旗を持っていたので、「DDR国旗の写真をとりたい」と言ったら、銀色の兵士が「ダスビダーニャ」と答えたので、「ロシアから来たのか」と聞くと、「全世界からだ」と訳のわからないことを言う。いかにも怪しい。
写真を撮ってもいいと言うので、国旗にカメラを向けると、私も一緒に写らないとだめ、と言う。
どうせ写真1枚いくらでお金を取るのだろう。私も1ユーロぐらいは渡すつもりでいたが、これ以上の面倒がいやなので、黙ってその場を去った。結局、その日の午後に行ったシュタージ博物館にDDRの国旗があって、それを撮ったので、お金を渡してまで撮らなくてよかった。

それにしても人気のある観光地にはどこにも変なのがいるようだ。
これも平和な証拠か。でも、なんでロシア語で「さよなら(ダスビダーニャ)」と言ったのだろうか。

もう時間もあまりないので、名残惜しいがもう一度だけブランデンブルク門を眺め、しっかりと記憶にとどめてその場をあとにした。しばらくは振り返ればまだ見えただろうが、最後の印象をそのまま残したかったので振り返らずにウンター・デン・リンデンを急ぎ足で歩いてホテルに向かった。
(次回に続く)