2017年11月10日金曜日

山種美術館 特別展「没後60年記念 川合玉堂 -四季・人々・自然-」

山種美術館では特別展「没後60年記念 川合玉堂-四季・人々・自然ー」が開催されています。


日本の四季の移ろいや、懐かしい山里の風景、そしてそこに暮らす人たち。
川合玉堂の作品は、優しくて、温かくて、そして何となくホッさせてくれる、そういった魅力をもった存在でしたので、今回の展覧会もとても楽しみにしていました。
見終わっての感想は期待どおり。やはり心が温まって、なごんだ気分になります。
没後60年を記念して開催された「川合玉堂展」、玉堂の人柄にもふれることができるとても素晴らしい展覧会です。

会期は、前期が11月26日(日)まで、後期が11月28日(火)から12月24日(日)までです。
前期と後期で一部展示替えがあります。また、展示期間限定の作品もあります。

展覧会の詳細や関連イベント情報はこちらをご覧ください。
http://www.yamatane-museum.jp/

※掲載した写真は、山種美術館の許可を得て撮影したものです。

それでは先日参加した特別内覧会の進行に沿って展覧会の様子をご紹介したいと思います。

はじめに山種美術館の山﨑妙子館長からご挨拶がありました。

〇 前回の上村松園展には3万9千人近くの方にご来館いただきました。
〇 当館の創設者 山﨑種二初代館長は川合玉堂と特に親しくしていました。今回の展覧
 会は、日本の山河をこよなく愛し、そこに住む人たちを描いた玉堂の初期から晩年まで
 の画業を当館所蔵作品と他館の協力をいただいて振り返る企画です。
〇 今回の展覧会で写真撮影が可能な一点は川合玉堂の代表作《鵜飼》(作品番号30)です。



 「Cafe椿」では川合玉堂の作品にちなんだ和菓子を提供しています。


中央が「里の秋」、右上から時計回りに「冬の湖畔」「山に咲く花」「千寿」「東風」
どれも美味ですが、外側の白色と青色では想像できない胡麻風味こしあん
が中に入っている意外性で「冬の湖畔」が私のおすすめです。
(胡麻あんは大好物なのです)

 また、ショップでは、本展覧会の図録やオリジナルグッズを販売しています。
〇 次回の展覧会は来年13日(水)から始まる横山大観展。展覧会にちなんだ山下裕二氏の
 イベントを127日(土)に開催します。タイトルは「横山大観と対峙する」です。
  ご参加お待ちしております。

続いて明治学院大学教授で山種美術館顧問の山下裕二さんから展覧会の見どころをスライドでご紹介いただきました。

第1章 若き日の玉堂-修学の時代-

「今回の展覧会は、当館が所蔵する71点の玉堂作品のうち56点と、玉堂美術館、東京国立博物館、東京国立近代美術館他から作品をお借りして展示した、充実した内容の展覧会です。」


「《写生画巻》は写実を重んじる円山四条派に入門した玉堂の15~17歳の時の写生帳です。玉堂は十代の頃から確かな技術を身につけていました。」


川合玉堂《写生画巻》(玉堂美術館)

「猿やみみずくは毛描きを一本一本描いています。」
川合玉堂《写生画巻》(玉堂美術館)

(《写生画巻》は巻替えがあります。)
  
「《鵜飼》は円山応挙の《鵜飼図》の影響を受けた作品です。この作品を出品した第4回内国勧業博覧会展(明治28年開催 玉堂は22歳)で見た木挽町狩野派の流れを汲む橋本雅邦の作品に感動して、東京に出て橋本雅邦門下に入門しました。」


川合玉堂《鵜飼》明治28年(山種美術館)

「《夏雨五位鷺図》(明治32年)は雨の描き方に特長があります。斜めの線は薄墨だけでなくきらきら輝いているのでおそらく雲母(=きら)」を塗っているのではないでしょうか。」
(右斜め下から見上げると、きらきら輝いて見えます。)


川合玉堂《夏雨五位鷺図》(玉堂美術館)

「《赤壁》(明治44年頃)は金地に水墨画という、オーソドックスな手法で描かれています。」
(右隻には船の中で笛の音に聞き入る蘇軾、左隻には崖の上から悠然と同行者を見下ろす蘇軾が描かれています。とても味のある作品です。)

川合玉堂《赤壁》(青梅市立美術館)


第2章 玉堂とめぐる日本の原風景-四季、人々、自然-
 大正から昭和へ

「玉堂は若いころから円山四条派の実物描写や狩野派の漢画的な手法を身につけていましたが、《紅白梅》(大正8年頃)のように琳派的な作品も描いています。」
「落款も大きな円形で琳派を意識していますが、尾形光琳の《紅白梅図屏風》(MOA美術館蔵)にはないシジュウカラが描かれているのが玉堂らしいところです。」

川合玉堂《紅白梅》(玉堂美術館)

「漢画的、狩野派的な絵を描いていた玉堂は、昭和に入ると優しい描き方、日本の自然によりそう描き方に変わってきました。玉堂は日本の自然に心を寄せていた優しい人でした。」

右から、川合玉堂《雨後》、《石楠花》、
《竹生嶋山》(いずれも山種美術館)

「《御濠之朝》(昭和16年)は半蔵門あたりの皇居のお堀の景色で、何とも優しい風景を描いています。御濠には小さな水鳥を描いています。」
(よく見ると水鳥まわりには泳いだときにできる波が描かれています。水鳥たちはかなりのスピードで泳いでいるように見えました。)

中央が、川合玉堂《御濠之朝》(玉堂美術館)、左が《渡所春暁》(山種美術館)、
右が《松間飛瀑》(山種美術館)
奥多摩時代

「玉堂は戦時中、奥多摩に疎開して、戦後もそのまま奥多摩に住んで、《水声雨声》(昭和26年頃)のような農村の風景を描きました。」


右から、川合玉堂《水声雨声》、《雨後山月》、《魚釣り》、
《高原入冬》(いずれも山種美術館)


第3章 素顔の玉堂

戦時下の玉堂

「玉堂には常に自然や庶民に心を寄せる姿勢が見られました。」
(《ラジオいま》(昭和14年頃)には「軍艦まあち」と書かれていますが、背景は緑の葉をつけた二本の枝。おだやかな自然の一風景が描かれています。)

川合玉堂《ラジオいま》(山種美術館)

親しき人々

「人物画はあまり描かなかった玉堂ですが、《花をいけて》(昭和4年)、《川合玉堂書簡》(昭和5年)のような、子思い、孫思いの絵を残しています。」
「《花をいけて》は次男・修二の妻・照子を描いたもので、《川合玉堂書簡》では、香港に赴任中の、長女・國子の夫・大倉堯信に宛てた書簡で、國子の子(玉堂の孫)を描いています。」
「《松上双鶴》は、山﨑種二氏の長女の結婚祝いに玉堂から贈られた作品です。」

中央が、川合玉堂《花をいけて》(玉堂美術館)、左が《松上双鶴》(山種美術館)、
右が《観世大士》(山種美術館)

《川合玉堂書簡》(1930年12月3日付大倉堯信宛)
「自画像をほとんど描いていない玉堂にとって、「今良寛」と呼ばれた歌人の清水比庵との合作《先生と私》は珍しく自画像を描いた作品です。」

川合玉堂(画)・清水比庵(賛)《先生と私》(清水固氏)

松竹梅

「《竹(東風)》(昭和30年)は、横山大観が《松》、川端龍子が《梅》を描いた第1回松竹梅展に出品された作品です。」

左が、川合玉堂 松竹梅のうち《竹(東風)》、右が松竹梅のうち《竹》(いずれも山種美術館)

身近なものへのまなざし

「《熊》(昭和21年)は、当時住んでいた奥多摩で近所に現れた熊が射殺されるという出来事があって、それがちょうど玉堂の誕生日だったので記念に描いたという作品です。」
「《氷上(スケート)》(昭和28年)は、日本フィギュアスケート界の草分け的存在だった稲田悦子が近くのスケート場に出場したときの様子を描いています。」  

右が川合玉堂《熊》(玉堂美術館)、左が《氷上(スケート)》(山種美術館)

「今回の展覧会は、玉堂の人柄、実力がよくわかるとても素晴らしい内容の展覧会です。」(拍手)

続いて展示室内に移って山﨑館長のギャラリートークをおうかがいしました。

「今回の展覧会は玉堂の若いころから晩年までの作品を展示しています。」
「玉堂はとても人柄のいい方で、祖父(山﨑種二初代館長)がとても親しくしていました。そのご縁で71点の玉堂作品を当館が所蔵しています。」
「《鵜飼》(明治28年)は、愛知に生まれ岐阜で育った玉堂がわずか22歳の時に描いた作品で、構図は円山応挙の《鵜飼図》に倣っています。」
「《鵜飼》は第4回内国勧業博覧会で三等銅牌を受賞した作品です。玉堂はそこで橋本雅邦の作品と運命的な出会いをしました。その後、玉堂は雅邦のもとで絵を学びます。」
川合玉堂《鵜飼》明治28年(山種美術館) (再掲)

「《渓山秋趣》(明治39年)の構図は、橋本雅邦《白雲紅樹》(東京藝術大学蔵)の影響を受けています。」
「このころから玉堂は、漢画的な山水画から日本的な風景を描く風景画を描くようになってきました。」

川合玉堂《渓山秋趣》(山種美術館)

「《悠紀地方風俗屏風(小下絵)》は、昭和3年の昭和度御大礼に際して悠紀地方(滋賀県)を描いた屏風の下絵で、本物は現在、宮内庁三の丸尚蔵館が所蔵しています。大和絵の伝統にならって青い雲で場面を仕切っていますが、当時の風俗も描いていて、自転車に乗っている人が描かれています。」(左隻の右の橋の上に自転車に乗っている人がいます。)


川合玉堂《悠紀地方風俗屏風(小下絵)》(玉堂美術館)


「ケースの中は15~17歳の頃のスケッチで、当時、猿を飼っていて、一人で寝かすのがかわいそうで抱いて寝ていたそうです。こういったエピソードに玉堂のやさしい人柄をうかがうことができます。」


川合玉堂《写生画巻》(玉堂美術館) (再掲)

「滝は円山四条派で書き継がれてきた画題です。」

川合玉堂《瀑布》(玉堂美術館)


「玉堂は作品の中に点景人物、点景動物を描いています。そこには鴨や猿、農村で暮らす人たちや動物への愛着を感じとることができます。」
「愛知に生まれ岐阜で育った玉堂は鵜飼を繰り返し描いていました。《鵜飼》(昭和14年頃)は水面下に鮎が描かれています。かがり火は金泥です。」
(画面中央下方の川面の下に鮎が描かれています。)


川合玉堂《鵜飼》昭和14年頃(山種美術館)
(こちらが撮影可の《鵜飼》です。)

「《春風春水》(昭和15年)は、船頭が力を入れて縄を引いているところと、女の人たちが楽しそうに話している表情がよく描かれています。」

川合玉堂《春風春水》(山種美術館)


「奥多摩の御嶽山には戦前もスケッチに行っていましたが、戦時中に疎開して、戦後もそのまま奥多摩に住み続けました。食糧難だった戦時中には祖父が米2俵を自動車の後部座席に積んで玉堂に届けたという話を聞いています。」
「《加茂女(かもめ)十三首》(昭和17年)は、亡くなった竹内栖鳳の弔辞をささげるため京都を訪れた帰路に詠んだ13種の短歌を書いて画を添えたものです。玉堂が乗ったのは東京・神戸間を結ぶ「鷗(かもめ)号」でした。」 

川合玉堂《加茂女十三首》

「《早乙女》(昭和20年)は、田んぼを高いところから俯瞰した構図で、あぜ道のたらし込み表現は琳派の影響を感じさせます。戦争を感じさせないのどかな雰囲気の作品で、私の大好きな作品です。」 
「《渓雨紅樹》(昭和21年)には玉堂が好きだった水車が描かれています。」

左が川合玉堂《早乙女》、中央が《渓雨紅樹》、右が《渓村春靄》
(いずれも山種美術館)

 
「『千里往って千里還る』といわれる虎の絵は、戦地に子を送る親によく描いて渡したそうです。玉堂は戦争画を描きませんでしたが、荒々しい波を描いて、当時の不安な状況を表現した《荒海》(昭和19年)が唯一の戦争画といえるでしょうか。」

右が川合玉堂《虎》、左が《荒海》(いずれも山種美術館)

「作品一つ一つに玉堂の人柄がにじみ出ています。ぜひ多くの方にご覧になっていただきたいです。」(拍手)

山下さん、山﨑館長、どうもありがとうございました。
とても興味深いお話ばかりでしたが、全てを紹介することはできませんでしたので、ぜひ会場で玉堂の作品をご覧になっていただければと思います。

今回の展覧会を見て、あらためて玉堂作品の素晴らしさを実感しました。
おすすめの展覧会です。