先週の水曜日、3月13日に渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで開催されたルーベンス展『ブロガー・スペシャルナイト』に参加してきました。
これは、Bunkamuraザ・ミュージアム学芸員の宮澤政男さんと、TBSアナウンサーの小林悠さんのトークショーを取材してブログで紹介する人を対象としたもので、閉館後の7時30分から約1時間のトークでルーベンスや今回出展されている作品について解説をいただき、そのあと30分間、作品を鑑賞したり、許可されたゾーンでは写真撮影ができるというおいしい企画でした。
それだけに人気があり、先着50名とのことですぐに締め切られましたが、私は33番目で運よくすべり込むことができました。
そこで今回は「ドイツ・ゲーテ紀行」はお休みして、このときの様子をレポートしたいと思います。
とはいっても、ここはドイツに関するブログ。
ゲーテ先生には引き続きご登場いただきます。
トークショーの様子(背景は作品№16「復活のキリスト」)
展示室風景
(左は、作品№6「毛皮をまとった夫人像(ティツィアーノ作品の模写)」、左は作品№4「ロムルスとレムスの発見」)
(左から、作品№9「眠る二人の子供たち」、作品№20「天使からパンと水を受け取る預言者エリア」、作品№18「三美神」)
「ところで君に、デザートとして、いいものを見せてあげよう」とゲーテがエッカーマンに見せたのは、一枚のルーベンスの銅版画だった。
それは、羊の群れ、干草と馬車、馬、家路へ急ぐ農民といった、どこにでもあるような農村が描かれた風景画であった。しかし、ルーベンスの偉大さはこの絵のどこにあるのか。
前景の家路を急ぐ農民は手前からの光を受け、明るく照らし出されているが、それを際立たせるため、木立ちは後ろからの光を浴び、絵を見る人の方へ影を投げている。
まったく反対の方向からそれぞれ光が差すという現実にはありえない絵だ。
ここでゲーテは言う。
「一段と高い域に達した芸術家は、(略)ルーベンスがこの風景において『二重の光』を使っているように、虚構の世界へ足を踏み入れてもかまわないのだ」
(以上、エッカーマン著『ゲーテとの対話(下)』(岩波文庫)P135-P137 1827年4月18日の項より)
宮澤さんのお話によると、ルーベンスは当時の大スター。その版画はヨーロッパ中で大人気で、いくつかの国では独占的版権を持っていて、要はルーベンスの厳しいチェックをクリアしないと出版ができなかった、とのことで、このお話をおうかがいしたとき、「僕はルーベンスの版画をもっているんだよ」と得意げに版画を友人に見せるゲーテの表情が頭の中に浮かんでくるようだった。
ルーベンスは大スター。中年の域に達してもかっこいい。
展示会場に入ってまず目にするのが帽子を被ったルーベンスの自画像。
やはり宮澤さんから、版画だけでなく、肖像画も人気が高かった。ところで、この帽子、じつは髪の毛の薄いのを隠すためという説もある。実際、工房の作品として帽子を被っていない作品もあるので(作品№45 こちらは撮影不可)あとで見てください、とのお話があった。
そういわれてよく見るとこの肖像も額がかなり後退している。
ゲーテは、彼と同時代の画家たちによる版画を見て「ある種の迫力が欠けている」と嘆く。
それに対してエッカーマンは「樹木や、大地や、水や、岩や、雲などは、彼(ルーベンス)の力強い信念が形式の中にしみこんでいます」と返す。
(以上、エッカーマン著『ゲーテとの対話(中)』(岩波文庫)P237 1831年2月13日の項より)
宮澤さんは、ルーベンスは人物画家。特に後期の大きな作品だと、人物は自分で描いて、背景は風景の得意な工房の画家に描かせたりもした。それでも「ロムルスとレムス」のような若い頃の作品や、「ヘクトルを打ち倒すアキレス」(作品№21)は(人物も背景も)本人がかなり書いているし、小品(作品№26~30)はほとんど本人が書いているので、筆の勢いを感じ取ってください、と説明されていた。
本人の筆なのか、工房の画家の筆なのか、そして筆づかいの迫力が感じ取れるかどうか、これもルーベンスの作品を見るときの楽しみのひとつかもしれない。
さて、「二重の光」に戻るが、今回出展された作品の中に風景を描いた版画が2つ(作品№76「井戸のある風景」、作品№77「月明かりの風景」)あったので、よく目を凝らして見てみた。
もちろんゲーテの持っていた作品とは違うので、「二重の光」を感じ取ることはできなかったが、人物画家ルーベンスの風景画も幻想的な雰囲気が出ていて、個人的には気に入っている。
会場を出るとすぐにミュージアムショップがある。そこにルーベンスの風景画の版画が何枚か壁に掛けられていたので見ていたところ、係の女性から声をかけられた。
「ここにある作品はすべて17世紀に刷られた本物の版画です。よかったら1枚どうですか」
なんと縮小版のレプリカでなく、本物なのだ。
値段を見ると128,000円。クレジットも使えるし、買えない金額ではない。
心が動いた。でも買わなかった。
私は美術展で気に入った作品があると絵はがきを買うことがあるが、家でいろいろな絵を並べても、絵はがきと本物ではあまりに不釣り合いすぎる。
ならば絵はがきをと思い、絵はがきのコーナーを見渡したが残念ながら風景画の版画は見当たらなかった。
さて、Bunkamuraザ・ミュージアム「ルーベンス展」、いろんな視点から楽しむことができるのでお勧めです。
そして、本物の版画、少し高価なデザートですが、ご興味のある方はぜひ一度ご覧になってみてください。
最後になりますが素晴らしい企画ありがとうございました。
ベルリンの壁崩壊から20年以上が経過した2011年、ドイツでのできごとを東側の視点から紹介したいと思って始めたブログです。最近では美術展の紹介記事も多く書いています。これからも楽しい記事を載せたいと考えていますので、今後ともお付き合いください。
2013年3月17日日曜日
2013年3月4日月曜日
ドイツ・ゲーテ紀行(7)
平成24年9月6日(木)続き
途中、レストラン「Scharfes Ecke」をさがしたりしたので、ワイマール中央駅にはぎりぎりに到着した。
列車はまだホームに入っていなかったので、「良かった、間に合った」とほっとして列車の掲示板を見たら、なんと「15分遅れ」との表示(上の白抜きの部分)。
フランクフルト空港駅の時とは違って、今度は「接続の関係で15分遅れます」とのアナウンスがあった。
この日は雨は降っていなかったが、曇り空で気温もかなり下がっていた。
ホテル・エレファントはとても親切なホテルで、ベッドメイクのときに次の日の天候を書いたメモを置いてくれる。この日は、最高気温19℃、最低気温11℃、天気は晴時々曇。
朝だからおそらく最低気温近くだったと思うが、それでも半袖シャツで歩いている男の人もいたから驚きだ。
アイゼナハ駅には10時ちょうどに到着した。
駅前から出るバスは1時間に1本しかないので、とりあえず出発時間を確認しようとバス停に急いだら、ちょうどワルトブルク城行きのバスが停まっていた。
バスの時刻表を確認する間もなく、私がバスに乗り込んだとたんに出発したが、あとで時刻を確認したところ、10時ちょうど出発だった。バスが出たのは10時を過ぎていたので、列車が遅れていたのを知っていた運転手さんが気を利かして待っていてくれたのだろうか。
アイゼナハは小さな街なので、市の中心はすぐに通り過ぎ、周囲に森が広がり始めると、山の上の方にワルトブルク城が見えてきた。
それがこのシリーズの(2)でお見せした写真。
バスはくねくねした山道を登るとほどなくして終点に着いた。
バス停からさらに山の散策路を登っていくと、ようやくお城の姿が見えてきた。
チケット売り場でガイド付きの入場券(9ユーロ)を購入。チケットには10時50分からと印字されている。ここには日本語の案内パンフレットがあるのもうれしい。
時間になったので、30人ほどが一つのグループになってガイドの女性のあとについて一つひとつ部屋を回る。
これは「騎士の間」。重厚な中柱とレリーフが特徴的だ。
次は「エリザベートの暖炉のある間」。
天井や壁面を埋め尽くすモザイクがまばゆいばかりだ。
これらのモザイクは、13世紀はじめに14歳でチューリンゲンの領主と結婚し、禁欲的な生活と貧しい人や病人に献身的な働きをしたエリザベートの生涯を描いている。
次の部屋までの間には礼拝堂が。
こちらは「歌の間」。
中世にはここで詩人たちが集まり歌合戦が行われた。
ガイドの女性の後ろのタペストリーには、その時の様子が描かれている。
このガイドさんの発音はとてもクリアで、よく聞き取れた。
「歌合戦に負けた方は絞首刑になります」と説明したところで、私は思わず首に手を当て、「えっ」と言ってしまった。
そして最後に「祝宴の間」。
私たちのグループが入室したとき、広間の中に流れていた音楽のテープがちょうど終わるところで、30秒ほど実際のコンサートに居合わせたような雰囲気にひたることができた。
ガイド付きツアーはここで終わり。ルターの小部屋と付属の博物館は自由に見ることができる。
ここがルターの小部屋。
1521年、教皇庁から破門されたルターは、ここにかくまわれ、わずか10か月で新約聖書をドイツ語に訳した。
ルターが翻訳作業に没頭している間、悪魔が誘惑しに現れたので、ルターがインク壺を悪魔に投げつけ、インクのあとが壁に残っていたという言い伝えがあるので、入口の横にいた女性の係員にそれがどこなのか聞いてみた。
すると、女性は笑いながら、「あくまでも伝説ですけれど、右にある暖炉の横に柱があって、その左の板と言われています」と教えてくれた。
さらに「後世の人たちがルターにあやかろうとナイフでインクを削って記念に持って帰ってしまったので、あとからインクを壁に足したとも言われていますが」と聞くと、
「それも、あくまでも伝説ですけれどね。でも今では何も残っていません」と笑顔で答えてくれた。
ルターの小部屋の次は博物館。
ルターの功績を描いた絵画や歴代領主の集めた財宝が数多く展示されていたが、私のお気に入りは、若くてかわいらしい顔をした「竜を退治する聖ゲオルグ」。
日本の四天王像だと餓鬼を踏みつけているが、こちらも竜を踏みつけている。洋の東西を問わず同じ発想なのがおもしろい。
ワルトブルク城を出るともう12時を回っていたが、例によって朝食をたっぷり食べていたので、あまりおなかが空いていない。
そこで、街に戻るバスを待つ間、昨日のお昼に残したパンをベンチに座って食べることにした。飲み物はミネラルウォーター、デザートはホテルのウェルカムチョコレート。
お昼になってだいぶ暖かくなってきて、自然の中で木々のざわめきと小鳥のさえずりを聞きながら食べる昼食もまた格別。
(次回に続く)
途中、レストラン「Scharfes Ecke」をさがしたりしたので、ワイマール中央駅にはぎりぎりに到着した。
列車はまだホームに入っていなかったので、「良かった、間に合った」とほっとして列車の掲示板を見たら、なんと「15分遅れ」との表示(上の白抜きの部分)。
フランクフルト空港駅の時とは違って、今度は「接続の関係で15分遅れます」とのアナウンスがあった。
この日は雨は降っていなかったが、曇り空で気温もかなり下がっていた。
ホテル・エレファントはとても親切なホテルで、ベッドメイクのときに次の日の天候を書いたメモを置いてくれる。この日は、最高気温19℃、最低気温11℃、天気は晴時々曇。
朝だからおそらく最低気温近くだったと思うが、それでも半袖シャツで歩いている男の人もいたから驚きだ。
アイゼナハ駅には10時ちょうどに到着した。
駅前から出るバスは1時間に1本しかないので、とりあえず出発時間を確認しようとバス停に急いだら、ちょうどワルトブルク城行きのバスが停まっていた。
バスの時刻表を確認する間もなく、私がバスに乗り込んだとたんに出発したが、あとで時刻を確認したところ、10時ちょうど出発だった。バスが出たのは10時を過ぎていたので、列車が遅れていたのを知っていた運転手さんが気を利かして待っていてくれたのだろうか。
アイゼナハは小さな街なので、市の中心はすぐに通り過ぎ、周囲に森が広がり始めると、山の上の方にワルトブルク城が見えてきた。
それがこのシリーズの(2)でお見せした写真。
バスはくねくねした山道を登るとほどなくして終点に着いた。
バス停からさらに山の散策路を登っていくと、ようやくお城の姿が見えてきた。
チケット売り場でガイド付きの入場券(9ユーロ)を購入。チケットには10時50分からと印字されている。ここには日本語の案内パンフレットがあるのもうれしい。
時間になったので、30人ほどが一つのグループになってガイドの女性のあとについて一つひとつ部屋を回る。
これは「騎士の間」。重厚な中柱とレリーフが特徴的だ。
次は「エリザベートの暖炉のある間」。
天井や壁面を埋め尽くすモザイクがまばゆいばかりだ。
これらのモザイクは、13世紀はじめに14歳でチューリンゲンの領主と結婚し、禁欲的な生活と貧しい人や病人に献身的な働きをしたエリザベートの生涯を描いている。
次の部屋までの間には礼拝堂が。
こちらは「歌の間」。
中世にはここで詩人たちが集まり歌合戦が行われた。
ガイドの女性の後ろのタペストリーには、その時の様子が描かれている。
このガイドさんの発音はとてもクリアで、よく聞き取れた。
「歌合戦に負けた方は絞首刑になります」と説明したところで、私は思わず首に手を当て、「えっ」と言ってしまった。
そして最後に「祝宴の間」。
私たちのグループが入室したとき、広間の中に流れていた音楽のテープがちょうど終わるところで、30秒ほど実際のコンサートに居合わせたような雰囲気にひたることができた。
ガイド付きツアーはここで終わり。ルターの小部屋と付属の博物館は自由に見ることができる。
ここがルターの小部屋。
1521年、教皇庁から破門されたルターは、ここにかくまわれ、わずか10か月で新約聖書をドイツ語に訳した。
ルターが翻訳作業に没頭している間、悪魔が誘惑しに現れたので、ルターがインク壺を悪魔に投げつけ、インクのあとが壁に残っていたという言い伝えがあるので、入口の横にいた女性の係員にそれがどこなのか聞いてみた。
すると、女性は笑いながら、「あくまでも伝説ですけれど、右にある暖炉の横に柱があって、その左の板と言われています」と教えてくれた。
さらに「後世の人たちがルターにあやかろうとナイフでインクを削って記念に持って帰ってしまったので、あとからインクを壁に足したとも言われていますが」と聞くと、
「それも、あくまでも伝説ですけれどね。でも今では何も残っていません」と笑顔で答えてくれた。
ルターの小部屋の次は博物館。
ルターの功績を描いた絵画や歴代領主の集めた財宝が数多く展示されていたが、私のお気に入りは、若くてかわいらしい顔をした「竜を退治する聖ゲオルグ」。
日本の四天王像だと餓鬼を踏みつけているが、こちらも竜を踏みつけている。洋の東西を問わず同じ発想なのがおもしろい。
ワルトブルク城を出るともう12時を回っていたが、例によって朝食をたっぷり食べていたので、あまりおなかが空いていない。
そこで、街に戻るバスを待つ間、昨日のお昼に残したパンをベンチに座って食べることにした。飲み物はミネラルウォーター、デザートはホテルのウェルカムチョコレート。
お昼になってだいぶ暖かくなってきて、自然の中で木々のざわめきと小鳥のさえずりを聞きながら食べる昼食もまた格別。
(次回に続く)
2013年2月17日日曜日
ドイツ・ゲーテ紀行(6)
平成24年9月6日(木)
朝6時に起きてシャワーを浴びてほっと一息。
朝食は7時からなので、10分ほど前に階段で朝食会場に降りて行った。
これがホテルの女性従業員から最初に紹介された「アンナ・アマーリア」の中。
やはり高級レストランだけあって、こぎれいで落ち着いた雰囲気。
こういったところでゆったりと朝食がとれるなんて、なんという贅沢なことだろうか。
ちなみにレストランの名前は、ゲーテをワイマール公国に招聘したカール・アウグスト公の母親、アンナ・アマーリア太公妃からとられている。
野菜や果物をとり、テーブルに着くと、ベージュ色のベストを着た若いウェイトレスさんが近づいてきて、「おはようございます。卵はどう料理しますか」と声をかけてきた。
ベーコンエッグ、オムレツ、スクランブルエッグの3種類あるというので、
「3日間泊まるので、今日はベーコンエッグにします」
さて、このホテル・エレファント。
1547年に領主の館がここに建てられ、そこで旅館としての営業が始められたのが1696年。
以来、文化の中心地ワイマールにふさわしく、常連客のゲーテが地下の「エレファンテン・ケラー」でワインを飲み、ワグナー、トルストイ、アンデルセンをはじめとした著名な文化人がこの地を訪れホテル・エレファントに宿泊した。
しかし、この文化的な香りをすっかり消し去ったのがヒトラーであった。
ヒトラーは政権を握る1933年まで何回もこのホテルに泊まり、党本部として使った。
そして1937年には建設から400年近く経過してボロボロになっていたこのホテルを建て替え、その後はナチス幹部が頻繁に出入りすることになる。
下の写真は、ホテル・エレファントのホームページに出ていた写真と同じく、マルクト広場の反対側から撮ったもの。
手前には三叉の矛を持つネプチューン像。正面の白い建物がホテル・エレファント。建て替えのとき、東側(写真では建物の左の方)2軒の建物を壊し、ホテルの規模を拡張している。
第一次世界大戦後に誕生し、もっとも進んだ民主憲法をもった共和国の発祥の地であるワイマールを、政治的にその対極に位置するヒトラーは徹底的に否定しにかかった。
このマルクト広場では何度となくナチスが行進を行い、ワイマール郊外にあり、ゲーテが風光明媚とたたえ、天気のいい朝にはエッカーマンを誘い馬車で訪れワインを飲みながら朝食を食べたエッタースベルクの丘陵地帯には強制収容所を建設した。
アイゼナハに向かうIC2252はワイマール中央駅を9時ちょうどに出発する。
ゆっくり食事をとり、食後のコーヒーを飲み終えたあと、部屋にザックを取りに行き、8時半にホテルを出た。
途中、レストラン「Scharfes Ecke」をさがしたが、女性従業員が×印をつけたあたりにはそれとおぼしきレストランは見あたらなかった。
これが女性従業員が渡してくれた地図。
真ん中の少し右寄りがホテル・エレファント。一番上がワイマール中央駅で、緑のラインマーカーがホテルから中央駅までの道順を示している。その女性従業員は、ホテルを出て右に曲がり少し行った角に×印をつけてくれた。
(次回に続く)
朝6時に起きてシャワーを浴びてほっと一息。
朝食は7時からなので、10分ほど前に階段で朝食会場に降りて行った。
これがホテルの女性従業員から最初に紹介された「アンナ・アマーリア」の中。
やはり高級レストランだけあって、こぎれいで落ち着いた雰囲気。
こういったところでゆったりと朝食がとれるなんて、なんという贅沢なことだろうか。
ちなみにレストランの名前は、ゲーテをワイマール公国に招聘したカール・アウグスト公の母親、アンナ・アマーリア太公妃からとられている。
野菜や果物をとり、テーブルに着くと、ベージュ色のベストを着た若いウェイトレスさんが近づいてきて、「おはようございます。卵はどう料理しますか」と声をかけてきた。
ベーコンエッグ、オムレツ、スクランブルエッグの3種類あるというので、
「3日間泊まるので、今日はベーコンエッグにします」
さて、このホテル・エレファント。
1547年に領主の館がここに建てられ、そこで旅館としての営業が始められたのが1696年。
以来、文化の中心地ワイマールにふさわしく、常連客のゲーテが地下の「エレファンテン・ケラー」でワインを飲み、ワグナー、トルストイ、アンデルセンをはじめとした著名な文化人がこの地を訪れホテル・エレファントに宿泊した。
しかし、この文化的な香りをすっかり消し去ったのがヒトラーであった。
ヒトラーは政権を握る1933年まで何回もこのホテルに泊まり、党本部として使った。
そして1937年には建設から400年近く経過してボロボロになっていたこのホテルを建て替え、その後はナチス幹部が頻繁に出入りすることになる。
下の写真は、ホテル・エレファントのホームページに出ていた写真と同じく、マルクト広場の反対側から撮ったもの。
手前には三叉の矛を持つネプチューン像。正面の白い建物がホテル・エレファント。建て替えのとき、東側(写真では建物の左の方)2軒の建物を壊し、ホテルの規模を拡張している。
第一次世界大戦後に誕生し、もっとも進んだ民主憲法をもった共和国の発祥の地であるワイマールを、政治的にその対極に位置するヒトラーは徹底的に否定しにかかった。
このマルクト広場では何度となくナチスが行進を行い、ワイマール郊外にあり、ゲーテが風光明媚とたたえ、天気のいい朝にはエッカーマンを誘い馬車で訪れワインを飲みながら朝食を食べたエッタースベルクの丘陵地帯には強制収容所を建設した。
アイゼナハに向かうIC2252はワイマール中央駅を9時ちょうどに出発する。
ゆっくり食事をとり、食後のコーヒーを飲み終えたあと、部屋にザックを取りに行き、8時半にホテルを出た。
途中、レストラン「Scharfes Ecke」をさがしたが、女性従業員が×印をつけたあたりにはそれとおぼしきレストランは見あたらなかった。
これが女性従業員が渡してくれた地図。
真ん中の少し右寄りがホテル・エレファント。一番上がワイマール中央駅で、緑のラインマーカーがホテルから中央駅までの道順を示している。その女性従業員は、ホテルを出て右に曲がり少し行った角に×印をつけてくれた。
(次回に続く)
2013年2月5日火曜日
ドイツ・ゲーテ紀行(5)
平成24年9月5日(水)続き
閉館時間の6時になったので、ゲーテ・ハウスをあとにして、マルクト広場の方に向かった。
ホテル・エレファントに戻り、フロントに顔を出すと、お昼に対応してくれた背が高く、金髪のロングヘアで、くりくりした目が印象的な女性従業員が笑顔で迎えてくれた。
「おかえりなさい。はい、部屋の鍵をどうぞ」
鍵を受け取り、お礼を言ってエレベーターの方に向かおうとすると、
「〇〇さん、夕食にお勧めのレストランがあります。Scharfes Eckeという名前です」
ふたたびレストラン攻勢だ。
「今日は行く店を決めているのですが、値段しだいでは明日行ってもいいので、場所を教えていただけますか」
というと、ワイマール市街の地図に×印をつけて渡してくれた。
「Scharfes Eckeというくらいですから、急な曲がり角にあるんでしょうね」
「ええそうです」
「では、明日の朝アイゼナハに行くので、ワイマール駅に行く途中で店の前のメニューを見てみます。予約するときは夕方戻ってきてから声をかけさせていただきます」
「わかりました」
ホテルの部屋は2階。ここは鍵までエレファント。ずしりと重い。
日本の旅行代理店で予約したとき、「シングルもツインも同じ料金ですがどうしますか」と聞かれたのでツインにしたが、やはり部屋は広い。
夕食は『地球の歩き方』に「ワイマール最古のレストラン」と書かれていた「ツム・シュバルツェン・ベーレン」に決めていた。雨はまた降ってきたし、ホテル・エレファントのすぐ隣なのでちょうどいいや、と思い中をのぞいたが、中年の夫婦や家族連れが多く、何となく一人では入りづらい気がしたので、しばらく店の前をうろうろしたが、結局入らなかった。
でもお店の雰囲気もよさそうだし、看板もおしゃれなので、今度来たときは思い切って入ってみようか。
お店の看板もその名のとおり「黒い熊」。
さて、それではどこへ行こうかと考えたが、足は自然とゲーテ・ハウスの方に向かっていった。
やっぱりゲーテの近くで食事をしたい、そのような思いがそうさせたのだろうか。
ゲーテ・ハウスの前まで行くと、向かいに地ビールの看板を掲げたレストランがあった。
チューリンゲンの郷土料理もあるし、日本でいえば大衆食堂みたいな感じで入りやすい雰囲気だったので、迷わずこの店に入った。
私以外に客が一組しか入っていなかったので多少不安になったが、まだ時間が早いのだろうと思い、とりあえずビールを注文した。
去年ドイツに行った時のブログで紹介したが、ドイツのレストランにはお通しや、枝豆や冷奴のようなクイック・メニューがないので料理が出るのを待ちながらビールをちびりちびり飲むのがドイツ流だ。
去年は11月で、かなり寒くて喉もあまり渇かなかったので、料理と一緒にビールを持ってきてもらって、ウェイトレスさんにけげんな顔をされたこともあったが、今回は日本よりは涼しかったとはいえ、それなりに暖かく、喉も適度に渇いてきたので、チューリンゲンの郷土料理を注文し、まずはビールを飲むことにした。
料理はたいてい一杯目のビールが飲み終わる頃に出てくる。
これがチューリンゲンの郷土料理。ビールはぬかりなく二杯目を注文していた。
真ん中がチューリンゲン独特の長細いソーセージ。ソーセージに塗りたくった黄色い物体はマスタード。そして奥がザウアークラウト(酢漬けキャベツ)、手前がマッシュポテトと、いたってシンプル。
ドイツ人にとってポテトは、日本人のごはんに相当するので、ソーセージ定食といったところだろうか。
ビール二杯と料理で12ユーロ50セント。チップ込みで14ユーロ払ったので、当時のレートで約1,400円ぐらい。
外に出て気がついたが、ここは「ピッツェリア・ラ・ペルラ」というイタリア料理の店だった。そういえばピザやパスタもメニューにあった。
ワイマールに限らないが、ドイツの街にはイタリア料理の店が多い。
おなかもいっぱになり、酔いも回ってきた。長旅の疲れも出てうつらうつらしてきたので勘定を済ませて、ホテルに戻ることにした。
ホテルのフロントに顔を出すと、先ほどの女性でなく、他の女性従業員だったが、こちらがルームナンバーを言う前に鍵を渡してくれた。どうやらこのホテルでは日本人の一人旅の観光客は有名になっているようだ。
部屋に入ったのはたしか8時前だったが、いつの間にかベッドの上で寝てしまい、目を覚ましてみると夜中の12時過ぎ。
起きあがって歯を磨き、寝巻き用のジャージに着替えてベッドにもぐり込んだ。
確かに羽田-フランクフルト直行便ができたので便利になったが、やはり朝到着は体に応える。飛行機の中で睡眠をとればいいのだが、最新鋭機B787-8は席がきつくてひざが痛くなってしまい、あまりよく眠れなかった。
アミューズメントも、CDを100枚も丸ごとダウンロードしているルフトハンザとは比べものにならない。
他の便にあるように洋楽やJ-pop、落語などのチャンネルが選べるようになっていて、洋楽好きの私としては聴きたいチャンネルが2つぐらいしかなかったので、同じ曲を何回も聴くことになった。
おかげでホール&オーツの「プライベート・アイズ」とエアロスミスの「ドリーム・オン」のメロディーは、飛行機を降りてからも頭の中を駆けめぐっていた。
とは言っても全日空にもいいところはある。全日空はルフトハンザと同じスターアライアンスに加盟しているので、フランクフルト空港では、日航が第二ターミナルに追いやられているのに、乗り換えのアクセスに便利な第一ターミナルに着く。
と、この時は自分なりにこう納得したが、最近のB787のトラブルのニュースなどを見ると、とにかく無事にドイツに行って日本に帰ってこれたのだからこれでよしとしなくては、と今では思う。
それに今は羽田-フランクフルトの直行便は機材変更で飛ぶ日が何日かに一度あるが、それ以外の日は欠航になっている。
今年またドイツに行くまでには毎日飛んで、行く日も帰る日も自由に選べるといいのではと思うのだがどうなっているだろうか。
(次回に続く)
閉館時間の6時になったので、ゲーテ・ハウスをあとにして、マルクト広場の方に向かった。
ホテル・エレファントに戻り、フロントに顔を出すと、お昼に対応してくれた背が高く、金髪のロングヘアで、くりくりした目が印象的な女性従業員が笑顔で迎えてくれた。
「おかえりなさい。はい、部屋の鍵をどうぞ」
鍵を受け取り、お礼を言ってエレベーターの方に向かおうとすると、
「〇〇さん、夕食にお勧めのレストランがあります。Scharfes Eckeという名前です」
ふたたびレストラン攻勢だ。
「今日は行く店を決めているのですが、値段しだいでは明日行ってもいいので、場所を教えていただけますか」
というと、ワイマール市街の地図に×印をつけて渡してくれた。
「Scharfes Eckeというくらいですから、急な曲がり角にあるんでしょうね」
「ええそうです」
「では、明日の朝アイゼナハに行くので、ワイマール駅に行く途中で店の前のメニューを見てみます。予約するときは夕方戻ってきてから声をかけさせていただきます」
「わかりました」
ホテルの部屋は2階。ここは鍵までエレファント。ずしりと重い。
日本の旅行代理店で予約したとき、「シングルもツインも同じ料金ですがどうしますか」と聞かれたのでツインにしたが、やはり部屋は広い。
夕食は『地球の歩き方』に「ワイマール最古のレストラン」と書かれていた「ツム・シュバルツェン・ベーレン」に決めていた。雨はまた降ってきたし、ホテル・エレファントのすぐ隣なのでちょうどいいや、と思い中をのぞいたが、中年の夫婦や家族連れが多く、何となく一人では入りづらい気がしたので、しばらく店の前をうろうろしたが、結局入らなかった。
でもお店の雰囲気もよさそうだし、看板もおしゃれなので、今度来たときは思い切って入ってみようか。
お店の看板もその名のとおり「黒い熊」。
さて、それではどこへ行こうかと考えたが、足は自然とゲーテ・ハウスの方に向かっていった。
やっぱりゲーテの近くで食事をしたい、そのような思いがそうさせたのだろうか。
ゲーテ・ハウスの前まで行くと、向かいに地ビールの看板を掲げたレストランがあった。
チューリンゲンの郷土料理もあるし、日本でいえば大衆食堂みたいな感じで入りやすい雰囲気だったので、迷わずこの店に入った。
私以外に客が一組しか入っていなかったので多少不安になったが、まだ時間が早いのだろうと思い、とりあえずビールを注文した。
去年ドイツに行った時のブログで紹介したが、ドイツのレストランにはお通しや、枝豆や冷奴のようなクイック・メニューがないので料理が出るのを待ちながらビールをちびりちびり飲むのがドイツ流だ。
去年は11月で、かなり寒くて喉もあまり渇かなかったので、料理と一緒にビールを持ってきてもらって、ウェイトレスさんにけげんな顔をされたこともあったが、今回は日本よりは涼しかったとはいえ、それなりに暖かく、喉も適度に渇いてきたので、チューリンゲンの郷土料理を注文し、まずはビールを飲むことにした。
料理はたいてい一杯目のビールが飲み終わる頃に出てくる。
これがチューリンゲンの郷土料理。ビールはぬかりなく二杯目を注文していた。
真ん中がチューリンゲン独特の長細いソーセージ。ソーセージに塗りたくった黄色い物体はマスタード。そして奥がザウアークラウト(酢漬けキャベツ)、手前がマッシュポテトと、いたってシンプル。
ドイツ人にとってポテトは、日本人のごはんに相当するので、ソーセージ定食といったところだろうか。
ビール二杯と料理で12ユーロ50セント。チップ込みで14ユーロ払ったので、当時のレートで約1,400円ぐらい。
外に出て気がついたが、ここは「ピッツェリア・ラ・ペルラ」というイタリア料理の店だった。そういえばピザやパスタもメニューにあった。
ワイマールに限らないが、ドイツの街にはイタリア料理の店が多い。
おなかもいっぱになり、酔いも回ってきた。長旅の疲れも出てうつらうつらしてきたので勘定を済ませて、ホテルに戻ることにした。
ホテルのフロントに顔を出すと、先ほどの女性でなく、他の女性従業員だったが、こちらがルームナンバーを言う前に鍵を渡してくれた。どうやらこのホテルでは日本人の一人旅の観光客は有名になっているようだ。
部屋に入ったのはたしか8時前だったが、いつの間にかベッドの上で寝てしまい、目を覚ましてみると夜中の12時過ぎ。
起きあがって歯を磨き、寝巻き用のジャージに着替えてベッドにもぐり込んだ。
確かに羽田-フランクフルト直行便ができたので便利になったが、やはり朝到着は体に応える。飛行機の中で睡眠をとればいいのだが、最新鋭機B787-8は席がきつくてひざが痛くなってしまい、あまりよく眠れなかった。
アミューズメントも、CDを100枚も丸ごとダウンロードしているルフトハンザとは比べものにならない。
他の便にあるように洋楽やJ-pop、落語などのチャンネルが選べるようになっていて、洋楽好きの私としては聴きたいチャンネルが2つぐらいしかなかったので、同じ曲を何回も聴くことになった。
おかげでホール&オーツの「プライベート・アイズ」とエアロスミスの「ドリーム・オン」のメロディーは、飛行機を降りてからも頭の中を駆けめぐっていた。
とは言っても全日空にもいいところはある。全日空はルフトハンザと同じスターアライアンスに加盟しているので、フランクフルト空港では、日航が第二ターミナルに追いやられているのに、乗り換えのアクセスに便利な第一ターミナルに着く。
と、この時は自分なりにこう納得したが、最近のB787のトラブルのニュースなどを見ると、とにかく無事にドイツに行って日本に帰ってこれたのだからこれでよしとしなくては、と今では思う。
それに今は羽田-フランクフルトの直行便は機材変更で飛ぶ日が何日かに一度あるが、それ以外の日は欠航になっている。
今年またドイツに行くまでには毎日飛んで、行く日も帰る日も自由に選べるといいのではと思うのだがどうなっているだろうか。
2013年1月21日月曜日
ドイツ・ゲーテ紀行(4)
9月5日(水)続き
城博物館を出てからはマルクト広場を通らず、少し遠回りをしてゲーテ・ハウスに向かった。
1749年8月28日にフランクフルト市で生まれたゲーテ(1749-1832)は、1775年にワイマール公国の当主カール・アウグスト公に招かれワイマールに赴いた。
このゲーテハウスは、ゲーテが1782年にカール・アウグスト公から贈与され、亡くなるまでの50年間住んでいたところ。
外観だけでなく、それぞれの部屋も当時のまま保存されている。
かつては馬車用の出入口だった左側の大きな入口から入ると、左手にガラスの扉があり、そこから先は隣の建物で、内装は現代風のオフィスに改装されていて入場券売り場やミュージアムショップになっている。
入場券売り場の隣でオーディオガイドを借りた。ここではパスポートと交換するシステムになっている。
ドイツ語バージョンと英語バージョンがあったので、「ドイツ語で」とドイツ語で言ったのに、聴いてみたら英語だった。やはり外国人=英語と思ってしまうのだろうか。英語ではよくわからないのでその場ですぐにドイツ語に換えてもらった。
解説はわかりやすく、一つひとつの部屋をじっくり楽しみながら見ることができた。
これは内側から見た写真。右のガラスの扉が入口。
上の写真の左手に進むと中庭になっていて、泉がある。
そして階段で2階に上がっていくとゲーテが『ファウスト第2部』や『詩と真実』を書き、友人たちを招き夕食をとり、そしてエッカーマンとの対話を楽しんだ数々の部屋が見えてくる。
入口にはラテン語で「ようこそ」。
これは「黄色の間」または「大広間」。ここは食事の間でもある。
これは「青色の間」または「ユーノーの間」。左手がジュピターの配偶女神ユーノーの頭部模型。
これは書斎。晩年のゲーテは、主に午前中この部屋で創作活動をしていた。 エッカーマンと二人きりだとここでも食事をしていたようだ。
これは書斎の隣の書庫。書棚にはおびただしい量の蔵書が収まっている。
これはゲーテが最期の時を迎えた寝室。
寝室となりの従僕の部屋からみた裏庭。
ドイツから帰ってエッカーマンの『ゲーテとの対話』の続きを読んでいると、ゲーテハウスのそれぞれの部屋のことが頭に浮かんできて、「ああ、あの部屋に知人を招いて食事をしながら文学や芸術について議論をしているのだな」など想像しては楽しんでいる。
『ゲーテとの対話』を読んで楽しみがもう一つ増えた。
私はもともとビール党だが、ワイン党のゲーテがワインを飲みながら会話をする場面がよく出てくるので、それにつられて料理を食べながらワインを飲むのが楽しみになってきた。
ついこの前はファミリーレストランでにんにくたっぷりのグリルチキンをつまみに1杯90円の赤ワインを2杯飲んでいい気分になったし、先週末は家の近くのサンクスにあった酸化防止剤無添加のワインを買い、手始めに赤ワインを「蒸し鶏のパスタサラダ」をつまみに飲んだら、これがけっこう口当たりがいいので、ついつい飲みすぎてしまった。
白ワインの方は冷蔵庫に入れて冷やしてある。つまみは歯ごたえシャキシャキのコールスローサラダがいいかな。
(次回に続く)
城博物館を出てからはマルクト広場を通らず、少し遠回りをしてゲーテ・ハウスに向かった。
1749年8月28日にフランクフルト市で生まれたゲーテ(1749-1832)は、1775年にワイマール公国の当主カール・アウグスト公に招かれワイマールに赴いた。
このゲーテハウスは、ゲーテが1782年にカール・アウグスト公から贈与され、亡くなるまでの50年間住んでいたところ。
外観だけでなく、それぞれの部屋も当時のまま保存されている。
かつては馬車用の出入口だった左側の大きな入口から入ると、左手にガラスの扉があり、そこから先は隣の建物で、内装は現代風のオフィスに改装されていて入場券売り場やミュージアムショップになっている。
入場券売り場の隣でオーディオガイドを借りた。ここではパスポートと交換するシステムになっている。
ドイツ語バージョンと英語バージョンがあったので、「ドイツ語で」とドイツ語で言ったのに、聴いてみたら英語だった。やはり外国人=英語と思ってしまうのだろうか。英語ではよくわからないのでその場ですぐにドイツ語に換えてもらった。
解説はわかりやすく、一つひとつの部屋をじっくり楽しみながら見ることができた。
これは内側から見た写真。右のガラスの扉が入口。
上の写真の左手に進むと中庭になっていて、泉がある。
そして階段で2階に上がっていくとゲーテが『ファウスト第2部』や『詩と真実』を書き、友人たちを招き夕食をとり、そしてエッカーマンとの対話を楽しんだ数々の部屋が見えてくる。
入口にはラテン語で「ようこそ」。
これは「黄色の間」または「大広間」。ここは食事の間でもある。
これは書斎。晩年のゲーテは、主に午前中この部屋で創作活動をしていた。 エッカーマンと二人きりだとここでも食事をしていたようだ。
これは書斎の隣の書庫。書棚にはおびただしい量の蔵書が収まっている。
これはゲーテが最期の時を迎えた寝室。
寝室となりの従僕の部屋からみた裏庭。
ドイツから帰ってエッカーマンの『ゲーテとの対話』の続きを読んでいると、ゲーテハウスのそれぞれの部屋のことが頭に浮かんできて、「ああ、あの部屋に知人を招いて食事をしながら文学や芸術について議論をしているのだな」など想像しては楽しんでいる。
『ゲーテとの対話』を読んで楽しみがもう一つ増えた。
私はもともとビール党だが、ワイン党のゲーテがワインを飲みながら会話をする場面がよく出てくるので、それにつられて料理を食べながらワインを飲むのが楽しみになってきた。
ついこの前はファミリーレストランでにんにくたっぷりのグリルチキンをつまみに1杯90円の赤ワインを2杯飲んでいい気分になったし、先週末は家の近くのサンクスにあった酸化防止剤無添加のワインを買い、手始めに赤ワインを「蒸し鶏のパスタサラダ」をつまみに飲んだら、これがけっこう口当たりがいいので、ついつい飲みすぎてしまった。
白ワインの方は冷蔵庫に入れて冷やしてある。つまみは歯ごたえシャキシャキのコールスローサラダがいいかな。
(次回に続く)
2013年1月10日木曜日
ドイツ・ゲーテ紀行(3)
あけましておめでとうございます。
ブログの更新が大変遅くなりましたが、今年もよろしくお願いいたします。
さっそくですが、前回からの続きを進めていきます。
平成24年9月5日(水)続き
ホテルの従業員の女性たちはとても親切だ。
ホテルを出ようとしたら、呼び止められて日本語を含め6か国語で表記された市内観光用の冊子を渡してくれた。全部で16ページある立派なもの。
これはワイマールの歴史を紹介しているページ。右下に日本語の説明が見える。
ホテルはマルクト広場に面していて、正面から出て左手には市庁舎が見え、広場にはその名のとおり、毎朝、市(いち)が立つ。
ホテルから外に出ると雨は上がっていた。
気温は13℃なので、セーターとジャケットを着てちょうどいいくらいの涼しさ。
雨上がりの石畳はしっとりしていて、いかにも古都らしい落ち着いた雰囲気を出している。
上の写真だとわかりにくいが、市庁舎の左手前にある黄色と茶色の物体はソーセージスタンドの看板がわりの大きなソーセージ。
これは横から見た写真。
さらにアップで見ると・・・(これは2日後に撮った写真なので晴れ間が少し見えている)
チューリンゲン風はパンが小さくてソーセージがパンの両端からはみ出ているのが特徴。
自分では食べなかったが、人が食べているのを見ていると、パンの部分を手に持ち、はみ出たソーセージの長さのバランスをとるように、両端にかわるがわるかぶりついていた。
市庁舎とは反対側の角から路地に入ると、すぐに領主の居城の塔が見えてくる。
塔の右側の建物をくぐると居城の正面に出る。
これは少し離れて撮った写真。
さらに居城の正面から入っていくと中庭に出る。
これがかつての領主の居城。今ではその一部が美術館になっていて、その名もずばり「城美術館(Schlossmuseum)」。
入口の上には特別展示を表すペナントが3枚かかっている。一番左にはルーカス・クラーナハ(1472-1553)の名前もある。
クラーナハはワイマールにもゆかりのある画家で、この美術館でもクラーナハの作品を多く収蔵している。彼の作品を見るのを楽しみにしていたが、特別展まで開催しているとは思わなかった。おかげでルターの若き日から晩年の肖像画や、テナントにあるザクセン選帝侯ヨハン・フリードリッヒⅠ世の妃「花嫁姿のジビュレ・フォン・クレーフェ(Sibylle von Cleve)」ほかの作品をじっくり鑑賞することができた。
ところで次の日に気がついたのだが、ホテル・エレファントを出てすぐ右のマルクト広場に面した建物はクラーナハが1552年から亡くなった1553年まで住んでいたところだ。
新教国ザクセンの領主であった夫ヨハン・フリードリッヒⅠ世とともに、新教を抑圧しようとした神聖ローマ帝国皇帝 カール5世に闘いを挑み敗れたジビュレ・フォン・クレーフェ(1512-1554)も1554年にワイマールで波乱の人生を終えている。
この絵はジビュレが結婚した14歳のときに描かれたものであるが、すでにこの時から気丈な性格が表情によく表れている。
今年のNHK大河ドラマの主人公・八重は「幕末のジャンヌ・ダルク」と言われたようだが、こちらは敗れこそしたものの「ヨーロッパの北条政子」と言ってもいい風格である。
これは博物館のパンフレットに載っている写真。
城美術館にはチューリンゲン地方で活躍した地元の画家の作品も多く展示していて、その多くはチューリンゲンの自然を描いているものだ。
ちょうど地元の画家のコーナーを歩いていたとき、係の中年男性と目が合ったのであいさつをしたら、
「ぜひ見てもらいたい絵がある。こちらへどうぞ」
と案内されたので、あとをついて行くと、森の景色を描いた一枚の絵の前に立ち止まった。
「これはワイマール郊外、イルム川沿いの公園の秋の景色を描いたものです」
確かに木の葉が色づき、太陽の光に輝いている。
「秋のワイマールはこんなにきれなのです。ぜひ秋にもワイマールに来てください」
秋はドイツ語ではHerbst、つまり収穫の時期である10月が「秋」。
以前このブログで紹介した新しいワインも飲みたいし、いずれぜひ来てみたいと思っていたので、
「ええ必ず来ます」と答えた。
(次回に続く)
ブログの更新が大変遅くなりましたが、今年もよろしくお願いいたします。
さっそくですが、前回からの続きを進めていきます。
平成24年9月5日(水)続き
ホテルの従業員の女性たちはとても親切だ。
ホテルを出ようとしたら、呼び止められて日本語を含め6か国語で表記された市内観光用の冊子を渡してくれた。全部で16ページある立派なもの。
これはワイマールの歴史を紹介しているページ。右下に日本語の説明が見える。
こちらはワイマール市街の地図。これはドイツ語だけ。
ホテルはマルクト広場に面していて、正面から出て左手には市庁舎が見え、広場にはその名のとおり、毎朝、市(いち)が立つ。
ホテルから外に出ると雨は上がっていた。
気温は13℃なので、セーターとジャケットを着てちょうどいいくらいの涼しさ。
雨上がりの石畳はしっとりしていて、いかにも古都らしい落ち着いた雰囲気を出している。
上の写真だとわかりにくいが、市庁舎の左手前にある黄色と茶色の物体はソーセージスタンドの看板がわりの大きなソーセージ。
これは横から見た写真。
さらにアップで見ると・・・(これは2日後に撮った写真なので晴れ間が少し見えている)
チューリンゲン風はパンが小さくてソーセージがパンの両端からはみ出ているのが特徴。
自分では食べなかったが、人が食べているのを見ていると、パンの部分を手に持ち、はみ出たソーセージの長さのバランスをとるように、両端にかわるがわるかぶりついていた。
市庁舎とは反対側の角から路地に入ると、すぐに領主の居城の塔が見えてくる。
これは少し離れて撮った写真。
さらに居城の正面から入っていくと中庭に出る。
これがかつての領主の居城。今ではその一部が美術館になっていて、その名もずばり「城美術館(Schlossmuseum)」。
入口の上には特別展示を表すペナントが3枚かかっている。一番左にはルーカス・クラーナハ(1472-1553)の名前もある。
クラーナハはワイマールにもゆかりのある画家で、この美術館でもクラーナハの作品を多く収蔵している。彼の作品を見るのを楽しみにしていたが、特別展まで開催しているとは思わなかった。おかげでルターの若き日から晩年の肖像画や、テナントにあるザクセン選帝侯ヨハン・フリードリッヒⅠ世の妃「花嫁姿のジビュレ・フォン・クレーフェ(Sibylle von Cleve)」ほかの作品をじっくり鑑賞することができた。
ところで次の日に気がついたのだが、ホテル・エレファントを出てすぐ右のマルクト広場に面した建物はクラーナハが1552年から亡くなった1553年まで住んでいたところだ。
新教国ザクセンの領主であった夫ヨハン・フリードリッヒⅠ世とともに、新教を抑圧しようとした神聖ローマ帝国皇帝 カール5世に闘いを挑み敗れたジビュレ・フォン・クレーフェ(1512-1554)も1554年にワイマールで波乱の人生を終えている。
この絵はジビュレが結婚した14歳のときに描かれたものであるが、すでにこの時から気丈な性格が表情によく表れている。
今年のNHK大河ドラマの主人公・八重は「幕末のジャンヌ・ダルク」と言われたようだが、こちらは敗れこそしたものの「ヨーロッパの北条政子」と言ってもいい風格である。
これは博物館のパンフレットに載っている写真。
城美術館にはチューリンゲン地方で活躍した地元の画家の作品も多く展示していて、その多くはチューリンゲンの自然を描いているものだ。
ちょうど地元の画家のコーナーを歩いていたとき、係の中年男性と目が合ったのであいさつをしたら、
「ぜひ見てもらいたい絵がある。こちらへどうぞ」
と案内されたので、あとをついて行くと、森の景色を描いた一枚の絵の前に立ち止まった。
「これはワイマール郊外、イルム川沿いの公園の秋の景色を描いたものです」
確かに木の葉が色づき、太陽の光に輝いている。
「秋のワイマールはこんなにきれなのです。ぜひ秋にもワイマールに来てください」
秋はドイツ語ではHerbst、つまり収穫の時期である10月が「秋」。
以前このブログで紹介した新しいワインも飲みたいし、いずれぜひ来てみたいと思っていたので、
「ええ必ず来ます」と答えた。
(次回に続く)
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