2011年7月11日月曜日

二度と行けない国「東ドイツ」(7)

(前回からの続き)
 今まで訪れた海外の街の中で一番好きな街は、と聞かれると、「プラハとブハラ」と答えることにしている。もちろん他にも好きな街はたくさんあり、それぞれの良さがあるので、どれが一番かと言われると困ってしまうが、語呂の良さと思い入れの強さからか、あるとき人から聞かれて自然と口から出てしまったので、あながちはずれてはないだろう。
 プラハはそれほどまでに好きな街。プラハについて語っているといつまでたっても終わらないので、別の機会に登場いただくとして、ここは先を急ぐ。
 そう、今回のテーマは「東ドイツ式外国人歓迎法」だ。なぜ東ドイツの人は外国人観光客に冷たいのか。それはモスクワからの帰りの飛行機で偶然判明した。
 モスクワ発成田行きのアエロフロートはヨーロッパ各地から多くの日本人を乗せて飛んでくる。私が乗ったのは東ドイツから来た便で、隣には東ベルリンに1年間住んでいるという日本人女性が座っていた。
 私は、東ドイツでの体験を話した。するとその女性は、
「そうなんです。東ドイツの人は外国人に冷たいんです。私にもこんな経験がありました。朝、アパートの窓を開けて、たまたま向かいのアパートの東ドイツ人の女性が窓を開けていていました。目が合ったので挨拶しようとしたら、その女性はあわてて窓をバタンと閉めてしまいました」
「なんでそんな対応をするのですか」
「悲しいことですが、東ドイツは強い相互監視の社会なのです。西側と認識されている私たち日本人と何か話をしていたというだけで密告され、社会的地位を失ったりするんです。だから、西側の人間とは関わりをもちたくないのです。シェーネフェルト空港であなたに声をかけた中年の女性は、困っている外国人観光客を助けてあげたいという気持ちがよっぽど強かったのでしょう。それでも、『道を教えてあげているだけですよ』と周囲に強調したかったので、ドイツ語でなく外国人でもわかる英語で話しかけてきたのです」
「相互監視の社会、ですか」
 やっぱり二度と行きたくない、私はあらためてそう感じた。
 国家保安省(Ministerium für Staatssicherheit)、略して「シュタージ(Stasi)」という諜報組織があることを知り、詳しく調べるようになったのは、それから数年後のことであった。

 ドレスデン中央駅の食堂で会った革ジャン君たちの話はしなかった。でも、なぜ彼らが外国人と親しく話をしたのか察しはつく。彼らは、社会主義体制の枠外にいるので自由に振る舞えるのだ。
 それにしても、こんな国にみんなよく我慢していられるな、と思ったが、実は、ハンガリーがオーストリアとの国境の鉄条網を撤去した5月から8月中旬までに、ハンガリー経由で約7000人の東ドイツ市民が西側に脱出して大きなニュースになっていた。日本に帰ってから初めて知ったが、すでに私の東ドイツ滞在中からベルリンの壁崩壊の過程は始まっていたのだ。
(「二度と行けない国『東ドイツ』」の項は終わりです)

(追記)
 「次の機会に」と先送りした宿題が次から次へと増えてしまった。ドレスデン中央駅を包む緊張、プラハ、シュタージ、ベルリンの壁崩壊の過程。関連する部分もあるが、少しづつ触れていくことにしたい。
 それから、冒頭の「ブハラ」は中央アジアのウズベキスタンにある中世の趣を残している街。プラハも、幸いにして二つの大戦で大きな被害を受けず、中世の面影がそのまま残っている。