(前回からの続き)
日独交流150周年を書くきっかけとなった写真展「歴史と未来を紡いで」は7月31日で終わってしまうので、ここで展示されている写真のいくつかについてコメントしたい。
「第1次世界大戦」のコーナーにはヒンデンブルクが地図を指し示しながらヴィルヘルム2世に作戦を説明する「ヒンデンブルク元帥と皇帝ヴィルヘルム2世ら」という写真がある。
ヒンデンブルクは、開戦劈頭の1914年8月下旬、第8軍司令官としてドイツ東部国境のタンネンベルクでロシア軍を壊滅させ、一躍、国民的英雄になった。しかし、実際に指揮をとったのは写真のキャプションで「ら」と表現された参謀長のルーデンドルフであった。
1916年、ヒンデンブルクが参謀総長に任命されると、ルーデンドルフは参謀次長に就任し、事実上、ドイツの戦争指導にあたり、軍事独裁体制を確立した。ヒンデンブルクは単なる「お飾り」であった。
写真の撮影年は不明とのことであるが、直接、皇帝に作戦を説明するのは陸軍トップの参謀総長しか考えられないので、1916年以降に撮影されたものだろう。少し離れてヒンデンブルクが余計なことを言わないか心配しているように見えるルーデンドルフが印象的。
「お飾り」であったヒンデンブルクは戦後も国民的人気は衰えず、1925年、ワイマール共和国大統領に就任してしまう。1932年には、当時84歳の高齢であったがヒトラーが大統領になるのを阻止するため大統領選に立候補し、再選されたが、1933年1月にはついにヒトラー内閣の成立を許してしまう。ここにワイマール共和国は終焉を迎え、ナチスの支配が始まった。
もちろんヒトラーを首班に指名する権限をもっていたのは大統領であり彼の責任は免れないが、ナチスの台頭を前に、その力を過小評価し、党内対立や政党間の綱引きに明け暮れていた社会民主党、中央党、共産党をはじめとした他の政党の責任は大きい。政党間のごたごたの中、数の上では第1党であったとはいえ過半数に達していなかったナチス以外に組閣できる政党はなかったのだ。
「ドイツ兵捕虜収容所」のコーナーには日本が収容したドイツ軍捕虜は約4,700人との説明書きがあり、日本で初めてベートーベンの第9を全部演奏したのはドイツ人捕虜たちであったとも書かれている。四国88か所の第一番札所、霊山寺(りょうぜんじ)の前でオーケストラが演奏する場面もある。
オーケストラといえば、先日、6月下旬から7月1日まで日本で講演する予定だったドレスデン交響楽団の来日が中止になった、との報道があった。放射能汚染に対する不安から楽団員の合意がとれなかったとのことであったが、日独交流150周年の一環でもあり、廃墟から復興した経験のあるドレスデンだからこそ来日中止は残念。
(次回に続く)