三国干渉の次の日独の接触は第一次世界大戦だ。
その前に第一次世界大戦に至った経緯と世界情勢についておさらいしてみる。
ドイツ皇帝・ヴィルヘルム2世の野望はとどまるところを知らなかった。
1898年には艦隊法が、1900年には第二次艦隊法が帝国議会で可決され、ドイツの大艦隊建設が始まった。その立役者は海軍大臣ティルピッツ。第一次世界大戦末期には無差別潜水艦作戦を遂行し中立国の非難を浴びて辞職しているが、戦後、帝政派政党の国家人民党の国会議員として復活している。
前回は対英関係の悪化について詳しく書かなかったが、英独間の対立は世界史の教科書によく出てくる3C政策と3B政策の衝突であった。英独の建艦競争は、両国間の緊張の高まりに応じて次第にエスカレートしていく。
イギリスはインドのカルカッタ(Calcutta 現コルカタ)、エジプトのカイロ(Cairo)、南アフリカのケープ(Cape Town)を結ぶ三角地帯を勢力下に収めようとした(3都市の頭文字をとって3C政策と呼ばれた)。イギリスは、1875年にスエズ運河を買収したが、カイロとケープタウンを結ぶ鉄道の建設は、1893年にドイツがフランスと組んで断念させた。
一方のドイツは、トルコから現在のイラクにつながる「バグダード鉄道」敷設権が1901年にトルコのスルタンから認可され、中東進出の足掛かりを得ることになった。ドイツの中東進出政策は、ベルリン(Berlin)、コンスタンティノープル(かつてのビザンティウム(Byzantium)、現在のイスタンブール)、バグダード(Bagdad)の頭文字をとって3B政策と呼ばれ、中東に利害関係をもつイギリス、ロシアと鋭く対立した。
世界各地で列強の利害が複雑に対立する中、イギリスは「光栄ある孤立」を放棄して、まず、東アジアにおけるロシアの南下策に対抗して1902年に日英同盟を締結した。次に、1904年に英仏協商、1907年に英露協商を結んだ。ここに露仏同盟と併せて英仏露の三国協商が成立し、独墺伊の三国同盟と激しく対峙することとなり、ヨーロッパの緊張感は一気に高まった。
1914年(大正3年)6月28日、オーストリア皇太子フランツ=フェルディナンド夫妻が暗殺されたサライェボ事件は、オーストリアとセルビア(と後ろ盾のロシア)だけの争いに止まらず、第一次世界大戦へと発展した。ドイツは8月1日にロシアに対して、8月3日にはフランスに対して宣戦布告、イギリスは8月4日にドイツに対して宣戦布告し、ヨーロッパの戦端が開かれた。
その3日後、イギリスは同盟国日本に対して、山東半島の膠州湾を根拠地とするドイツ艦隊攻撃の助力を求めてきた。不況と日露戦争の外債の圧力のあえいでいた日本にとって参戦の誘いはまさに「天佑」であった。それに山東半島を獲得できれば中国進出の足掛かりになる。
8月23日、日本はドイツに宣戦布告した。
10月31日、日本はイギリスと協力して青島要塞への攻撃を開始し、11月7日、ドイツ軍は降伏した。このとき日本海軍の水上機母艦(当時は「航空隊母艦」)「若宮丸」は、搭載した水上機により爆撃を行っている。軍艦が搭載した航空機を使って爆撃を行ったのは、史上初めてのことであった。
青島要塞の爆撃は映画になっている。東宝が1963年(昭和38年)に公開した「青島要塞爆撃命令」。史実をもとにしたフィクション映画であるが、そこは東宝の戦争映画や「ゴジラ」など怪獣映画の特撮を手がけた円谷英二が特技監督だけあって、空中戦や海戦の特撮シーンの迫力はさすが。水上機が弾薬を積んだ機関車を追いかけ爆破するクライマックスシーンは思わず身を乗り出してしまう。地上戦の実写のシーンも真に迫っている。
なお、このDVDは某家電量販店で購入したが、「邦画チ」でなく「邦画ア」のコーナーに入っていた。店員さんは「アオシマ」と読んだのだろう。その後しばらくして同じ店に行ったら、すぐに補充されていたが、やはり「邦画ア」のコーナーに入っていた。ご購入される方はご注意を。
余談になるが、青島の街並みは「恋の風景」という中国映画で見た。戦争とは全く関係ない映画だが、主人公の女性が旧市街地を歩くシーンがよく出てくる。旧市街地には昔の街並みが残っていていい雰囲気の街。ドイツ人が醸造技術を持ち込んで作ったので青島ビールはおいしいとドイツ人は自慢する。いつか行ってみたい街の一つ。
日本新聞博物館で開催されている写真展には、青島のドイツ兵の様子や、プロペラ戦闘機の写真が展示されていたので、青島攻撃当時の雰囲気を垣間見ることができるのでは。
日本海軍は太平洋、インド洋、さらには地中海にまで艦隊を派遣している。
10月には巡洋戦艦1隻、装甲巡洋艦1隻、駆逐艦2隻他からなる第1南遣支隊、戦艦1隻、巡洋艦2隻他からなる第2南遣支隊を太平洋に派遣してドイツ東洋艦隊を追撃し、10月中には赤道以北のドイツ領南洋諸島を占領した。
1917年(大正6年)2月には、南シナ海、インド洋方面の通商保護のため、巡洋艦4隻、駆逐艦4隻からなる第1特務艦隊を派遣した。カバーしたエリアは広く、紅海や南アフリカ海域まで作戦行動に従事した艦もあった。
同じ2月には、イギリスからの要請に応じて、ドイツの無制限潜水艦作戦に対抗して、連合国艦船の保護のため、巡洋艦1隻、駆逐艦8隻(のち駆逐艦4隻増派)からなる第2特務艦隊を派遣し、マルタ島を基地として連合国艦船の護衛に従事した。
しかし、当時の最新鋭巡洋戦艦「金剛」「榛名」「比叡」「霧島」のイギリスからの応援要請には、できたばかりの軍艦がすぐに沈んでは日本海軍にとって大きな打撃となってしまうので、訓練不十分を理由に丁重にお断わりしている。なお、「金剛」「榛名」「比叡」「霧島」の4隻は2度の改装ののち、高速戦艦として生まれ変わり、太平洋戦争で活躍している。
(次回に続く)